胡蝶の舞姫

友秋

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波乱の芽

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 ショーが始まる前の楽屋の喧騒は、慣れてしまうと気にならない。

 着替えも化粧も終わり、出番を待つだけとなっていた万里子は鏡前に座り、踊り子達の甲高いお喋りを背に受け物思いに耽っていた。

 手の中の名刺を眺める万里子の意識はつい数時間前に飛んでいた。

『何かあったら、ここに連絡するといい。きっと力になれる』

 彼は何故、そんな事を? 何かあったらって?

 病院で出会った紳士は余計な事は一切話さず万里子に名刺を渡した。

『この会社は辞めてしまうが、ここに連絡をくれれば俺に繋がる』

 紳士は名刺の隅っこに住所を書き入れた。

『あの?』

 戸惑う万里子に紳士は上質な笑みを向け、スマートに立ち去った。

 名刺の名前を見、息を呑んだ。津田恵三と書かれていた。初めて出来た親友、中丸絵美子の口から聞いた名前だった。

 若い女性が親しく互いの近況を語り合えば、当然恋愛の話しが出る。心から慕い、愛する男の話をそれぞれする中で相手の名前を教え合った。

 万里子は徹也の名を、絵美子は。

『津田恵三さんっていうの』

 聞けば、芸者としての独り立ちの全てを担うほどの財力がある男だとか。

 絵美子は好きだ。けれど、交流を重ねれば重ねるほど、自分との違いを知らしめられた。

 いつも綺麗な着物姿で現れる絵美子。最初は素直に『エミーは素敵』とだけ感じていたが最近少しずつ心が擦られるようになってきた。

 私達は同じ、日系アメリカ人の血を引く孤児の混血児なのに。何故こんなに違うの。

 万里子は手の中の名刺を改めて見つめた。

 チラリと見えたワイシャツの袖口は、高価そうな石付きのカフスボタンで止められていた。靴は光るほどに磨かれ、一部の隙も無い、非の打ちどころの無い完璧な紳士だった。

 あの人が、エミーの男。結婚する、と言っていた。

 万里子は名刺をギュッと握り潰した。

 あたしは、愛する男を間もなく失うかもしれないというのに。エミーは、あの人と結婚するの?

 心が穏やかではいられない。〝不公平〟の三文字が頭の中に貼り付いて消えない。

 握り締めた拳をテーブルに乗せ、ギュッと目を閉じた。

 胸が痛い。苦しい。醜い感情、消えて。消えて消えて!

 深呼吸をし、気持ちを懸命に鎮める。少し冷静になった頭で名刺に書かれていた会社の名前を思い出していた。

 結婚するという事は、ただの芸者と旦那の関係では無い。素性は明らかな筈だ。勤め先など当然知っているだろう。

 エミー。一つだけ聞きたいことがあるの。

 名刺には〝周防商事〟と書かれていた。絵美子との会話の中に周防の名は一度も出なかった。

 よくある名前ではない。偶然にも同じだったとして、会話の中に一度は出ても良かったのでは無いだろうか。あえて避けていたように思えてくる。

 父はあんな田舎にいたけれど、村人は皆父の事情は知っていた。万里子自身は村人の立ち話から漏れ聞いた。

『奇特な人だ。本当なら東京の大財閥の御曹司なのにね』
『聞けば、長男だそうだよ』

 津田恵三は父に似た容姿だった。苗字は違うけれど、父と何か関係のある人なのかもしれない。だとしたら。

 絵美子に対し万里子の心は疑心暗鬼になってくる。

 エミー、今度会ったら、聞かせて。

「マリー、お客さんだって」

 不意に呼ばれ万里子はびくっと顔を上げた。楽屋の入り口に立っていた踊り子が手招きしていた。

「金造ちゃんが呼んでる」



 事務所に入って、万里子は固まった。慌ててガウンの前を合わせ、後退りした。

「マリー……」

 その人は、名を呼ぶだけで言葉は継げなかった。

 端正でも柔らかな印象が濃い優しい顔は、少しだけ歳を取ったようだが昔と変わっていなかった。違うのは、服装だ。

 万里子の知る父はは質素なズボンに擦り切れたシャツのみだった。今目の前にいるのは、高級そうな背広をセンスよく着た紳士だ。小汚いストリップ劇場の事務所には明らかに場違いだった。

「お父さん、どうして、こんなところに」

 万里子の父、周防直也が事務所の応接セットのソファに座っていた。

 どういう感情の表情だろう。困惑だろうか、戸惑いだろうか。直也は、目を逸らしたりはせず真っ直ぐに万里子を見ていた。万里子の方が先に視線を落としてしまう。

 何故、こんな所で再会しなければいけないのか。万里子の中に生まれた感情は再会の感動ではなかった。

 自分は今、清い人間である父が最も悲しむ姿でここにいる。

 お父さん、そんな目であたしを見ないで。

 立ち尽くし動かない万里子の肩を金造がそっと叩いた。

「今夜は巽は外回りの仕事でここに戻ってこないから安心しなさい。僕は席を外すから、ゆっくり話しをするといいよ。香盤は変更してもらうように言っておくよ」

 金造が出て行き、事務所は時計の音のみの空間となった。

「お父さん、ごめんなさーー、」
「マリー!」

 言い終わらないうちに、抱き締められていた。

「生きていてくれてよかった!」

 父の腕に抱かれ、昔と変わらない優しい声を聞いた。

「お父さん……」
「いいんだ、マリー。君が頑張って生き抜いてくれた事が、僕にはそれだけで」

 父が泣いていた。嗚咽で言葉を詰まらせていた。

 生きていてくれただけで。

 お父さん!

 万里子は直也の体に腕をまわししがみつき、声を上げて泣き出した。

「ごめんな、ごめんなマリー」

 直也の手が何度も何度も頭を撫でた。

 ああ、この手だ。昔から変わらない。容姿のせいでいじめられ、泣いて帰るといつも父が抱き締めて頭を撫でてくれた。

 マリーに神の御加護がありますように。

 父の温かな響きを持った声は神聖な力があった。母はいなかったけれど、その分父が愛してくれた。

 大好きだった父。自分を捨てたのは止むを得ない事情だった知っている。あの時はああするしかなかった。だけど、父は自分との繋がりを切らぬようロザリオを持たせてくれたのだ。いつか会えると信じて。生きて、生き抜いてくれると信じたから。

 本当は会いたくて堪らなかった。こうして抱き締められ、今の悲しい状況を話してしまいたくなる。聞いて欲しい。甘えたい。

 けれど。

 頭にもたげるのはやはり場所だ。父がいて良い場所では無い。何故こんな所に来てしまったの。

「マリー」

 呼ばれ顔を上げると、柔らかな中に微かな悲しみの色が挿した瞳があった。万里子の胸がドキリと鳴る。

 直感で分かってしまった。やはり父は悲しんでいる?

「お父さん、どうしてここが分かったの」

 率直な疑問だった。直也はふっと悲しそうに笑った。

「実は、先月、マリーの友人に会ったんだよ」

 万里子の中に電撃が走ったような衝撃があった。

 まさか、エミー!?

 目を見開く万里子に直也は続ける。

「その彼女がマリーの事を教えてくれたんだ。マリーと同じ混血の女性だった。真っ直ぐな強い女性だったよ。マリーにあんな心強い友人が出来ていて僕は嬉しかったよ」

 絵美子だと確信した万里子は、中に説明の出来ない感情が湧き上がるのを感じていた。

 何も知らないくせに。

 エミー、あなたは、何も知らないくせにーー!
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