胡蝶の舞姫

友秋

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凶兆

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「んふ、ん、あっ、」

 着物の中で足の間を弄る老人の指に、茜は堪らず顔を仰け反らせた。

 皆が帰ると直ぐ麟太郎は茜を抱き寄せ着物の中に手を入れてきた。

 着物の時は下着を着けない。陰部は直に弄られ侵攻を許してしまう。

「ぁ、あんっ」

 襟元から入ってきた手は乳房を揉む。既に勃っていた乳首に触れられ茜は躰を震わせた。

 静かになった座敷を淫な水音と茜の悩ましい喘ぎが満たしていた。

「茜、今日はもうこんなに濡らしてはしたないな」
「ん、ん」

 着物をはだけさせ、妖しい吐息を漏らす茜は目を閉じた。

 いつもより濡れているのは、あの男のせい。

 津田恵三。

 会がお開きになった後、誰にも気付かれぬよう小座敷に引き込んだ。

 首に腕を絡め、強引にキスをした。

『拒まないのね』

 恵三の唇に付いた自分の赤い口紅を指で拭い、茜は肩を竦めた。

『怒ってらっしゃらないの』

 フッと笑う妖艶な表情にじわりと濡れた。この痺れをどうしてくれるの。

 睨む茜の腰を恵三は抱く。

『茜さんが動く事くらい予想していた。今更怒りはしない』
『まあ』
『ただ、このままでは済まさない』

 一転してゾクリとするほど冷たい声になった。氷点下の風が吹いた気がした。

 腕が捕まれ、壁に身体が押し付けられた。見下ろす氷の微笑に茜の胸が迅る。

 クスリと笑った恵三は静かに信じられない言葉を放った。

『俺の妾になるか』



 着物の裾をを広げられ拡げた足の間が執拗に舐められ続けていた。

「あ、ああっ、ん、んっ、もっと」

 自分の躰はこんな老人にも溺れてしまう。

 いいえ、今夜は違う。あの男の感触が残っているからよ。

 恵三さんーー!

 膣を攻める指に悶える茜に麟太郎は薄く笑った。

「お前は本当に好き物じゃな。ワシは知っとるぞ」

 ハアハアと荒い息を漏らす茜は麟太郎を見た。白い眉の下のグレーがかった目が不気味に光っていた。

「恵三の恐ろしさは誰よりもワシが一番知っとる。周防など簡単に潰す能力を持った男じゃ。いずれ殺すつもりじゃ」

 殺す?

 茜は感情を押し込め表情を動かさずに麟太郎を見ていた。

「茜、お前は賢い女じゃろ」

 暗に、言い含めているのだろう。お前のすべき行動を考えろ、と。

 わたくしのすべき事はもう決まっている。



 信濃町駅に入っていくオレンジ色の列車が見えていた。ここは人の波が永遠に途切れない街だ。大学病院の特別個室は外界と遮断されたような空間だった。

「大変な事があったようだな」

 ベッドのリクライニングを起こし座る蛭間元輔はいつもと変わらぬ尊大な態度で恵三を見ていた。

 仕掛けた張本人が白々しい。

 恵三は内心で吐き捨てながらにっこりと微笑んだ。

「ええ、蛭間さんの思惑通りになった、といったところでしょうか」
「思惑? 俺が何かしたかな」
「ご冗談を」

 恵三はハハハと乾いた笑いを漏らした。

 父が自分を嫌っているのは知っていた。いつかは来るだろう、と覚悟もしていた。しかし、予想より遥かに早くその日が来た。準備はしていたが間に合わなかった。

 自身の力のみで成し遂げられると思っていたが、想定外の外圧が複数当てられれば流石の恵三も対処の仕様がなかった。

 いや、完全に抜かったのだ。外圧の想定をしていなかった自分の、完全なる油断だった。

 外圧とは、恵三を周防家から追い出す目的で為された遠回しな攻撃だ。

 一つは茜だ。動機は明らかに嫉妬と当て付けだ。恐らく、寝物語として父に話て聞かせたのだろう。恵三が直也を貶めようとしている、とでも。

 若き後妻は老父の全幅の信頼を得ている。その気にさせるのは容易かっただろう。

 二つ目は、今目の前で、事が思惑通りに進み嬉しそうに顔を綻ばせている妖怪だ。

 目的を果たす為なら手段を選ばない男は、恵三を自らの手中に落とし込む為、外堀を埋めた。

 最近、信頼していた部下達の中に妙な動きが出てきていた。随分と周りくどいやり方をしたものだ。恵三に関する怪文書は社内ではなく本家に行くとは。

 分かり易すぎだ。証拠は無いが、確証はある。公にはなっていないが蛭間の息が掛かった人間がどこに潜り込んでいるかくらい認識している。

 結局、既に包囲されていたのか。しかし、その二つくらいならどうにか対処出来た。留めの一撃は全く予測出来なかった。

 愛する女に、まさかあんな形で。図らずも、直也をあんな形で動かしてしまうとは。あれだけはどうする事も出来なかった。

 グッと拳を握った恵三に蛭間は勝ち誇ったような顔を向けた。

「さあ、決めろ、恵三。忘れてはいないだろう。お前は周防を潰す為だけに生きて来たんだろう」

 恵三は窓の外を見た。

 冬木立の見える街。枯れたように見える木々もこれから春を迎え芽吹く準備をしている。自分もずっと、機会を伺って来た。

 母の恨み言は今も耳に残って消えない。

『恵三さん、あなたは、あの家の誰よりも能力が高い。あの家で頂点に立なさい。あの家の者達を、見返してやるの』

 母は愛した男に看取られもせず寂しく亡くなった。とっくに捨てられていた。

 自分は直也の代わりに戦地にやられ、生死の境を何度も行き来した。

 これが怨まずにいられるか。

 愛した女から貰った幸福に溺れ、自分の本性を忘れかけていた。気持ちは緩み、不覚にも付け入る隙を与えてしまったのだ。

 恵三は頭を奥歯を噛み締め昼間に頭を下げた。

「娘さんと結婚させていただきます」

 ハッハッハ! という蛭間の高笑いが恵三の頭の中にガンガンと響く。

 俺は、〝真の守るべきもの〟を持ってはいけない人間だった。

 頭を下げたまま恵三は固く目を閉じた。

 絵美子、すまないーー!




 花菱では、これから座敷に出て行く一本芸者たちが準備に追われていた。

 化粧の終わった者から着付師に着付けをお願いする。襟を深く抜く裾引きの着物。芸者特有の着付けは専門の男性着付師が担う。

 蝶花の着付けをする端正な顔立ちに長身痩躯の青年着付師を、スミ子は絵美子の支度を手伝いながら興味深げに観察していた。

「いつ見ても凄いワ。アタシ、髪結いになってエミーの着付けをするのが夢だったけど、無理かしら」

 白粉を叩いていた絵美子はクスッと笑った。

「普通の着物と違って芸者の裾引きも帯も重い上に、着崩れしないようしっかり締めてもらわないといけないからね。男の仕事と思ってたけど、銀ちゃんなら出来るかも」
「アラー、アタシ、か弱いわよ。多分、エミーより弱いワ」
「アハハ」

 笑い合っていると、蝶花に「こら、手がお留守」と窘められ、二人は肩を竦めた。

「蝶花姐さん、終わりました」
「ありがと、斎藤君。いいわ、柳結びもバッチリよ」

 姿見を見返る姿勢で帯を見、蝶花は着付師の青年に満足気な笑みを向けた。

「もうすっかり一人前ね。どこに行っても恥ずかしくないわよ」
「痛み入ります」

 若い着付師は人懐こい顔で笑う。

「いい男ネ」

 スミ子がそっと耳打ちすると絵美子は微笑む。

「斎藤君ね。最近見習いを卒業したばかりなんだけど、腕が良いの。それにあの容姿。姐さん達に人気者。ね、斎藤くん?」

 絵美子に微笑みかけられ純朴な好青年は恥ずかしそうに手を振った。

「いや、僕はそんな」

 フフッと笑った絵美子に斎藤和史は頬を染めた。

「じゃあ、次は私。お願いします」

 立ち上がった絵美子の襦袢姿は色っぽい。匂い立つような首筋は誰もがドキリとするだろう。

「はい、ではこちらへ」

 頭を下げて着付けを始めた和史青年の微かに頬を染めた真剣な横顔に、スミ子は、あら、と気付く。

 これは惚れてる、確実に。

 同い年と聞いた。短い言葉を交わしながら着付けを進めていく二人の姿はしっくりきていた。芸者と着付師の信頼関係が築かれつつあるのが見て取れる。

 この先、長くこんな関係のままいくのかしら。

 二人を見つめるスミ子の胸が切なさで微かに痛んだ。



 支度が終わった華やかな芸者達が花菱の玄関から出て行く。

「さあ、今夜もしっかりね!」
「はーい」

 千代が見送りに立つ中で、絵美子は一番最後に草履を履き、裾を持ち、立った。

「では、お母さん、行ってまいります」
「はい。今夜もお客さん達を喜ばせる舞いを舞っておいで」

 「はい」と応え一歩踏み出した時だった。

「あっ、とっ」
「危ない!」

 躓くようにつんのめった絵美子の腕を、間一髪で飛び出した斎藤が掴んだ。転ぶのは免れ、絵美子は顔を上げる。

「あ、ありがとう」
「いえ!」

 斎藤は頬を赤くして慌てて手を離した。

 微笑ましい光景だけど、とスミ子が玄関に下りて絵美子の足元を確認した。

「鼻緒が」
「え?」
「鼻緒が切れてる」

 おろしたての草履の鼻緒が切れていた。

「恵三さんに買ってもらったばかりの草履……」

 千代と斎藤は別のを探しに中へ入って行ったが、絵美子は鼻緒の切れた草履を見つめ固まっていた。

 切れるなんて。どうしてこんなに不安になるのだろう。




 
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