胡蝶の舞姫

深智

文字の大きさ
32 / 50

三人の関係

しおりを挟む
 中野の鍋屋横丁は、近くまで地下鉄が延伸するなどの変化はあったが、万里子が来た四年前からあまり変わらず、夜は静かだった。

 時折酔っ払いの歌声が外から聞こえるのはご愛嬌。繁華街の喧騒に比べれば安らぐ夜の空気が流れていた。

 門司青果店の脇から二階に通じる階段を上って来る足音を聞き、万里子は急いで玄関に立った。

 徹也は、百合子の見舞いを終えた後、劇場に来た。仕事は、終演後まで及ぶ。踊り子達が帰った後も打ち合わせなどを行い、帰りはいつも万里子よりも遅い。

 今は稼ぎも増え、徹也も万里子もこの古い借間から出て家の一軒も買えるのだが、二人ともここの暮らしから離れる気は無かった。

 日中は店先に立つ登四郎の元気な声を聞き、夜は静かな中で倹しく簡単な夕食を取り、眠る。

 万里子と徹也は、共に過ごして来たこの時間が何よりも心安らぐ時間だった。

「おかえり。お疲れ様、テツさん。リリーさんは、どうだった」
「ああ、今日はマリーが来てくれたからか、いつもより顔色も良かったし、俺が帰る時に泣く事も無かった」
「リリーさん、泣くの……」

 徹也の上着を取りながら、万里子も泣きそうな顔をした。俯いてしまった万里子の頭をクシャッと撫でて徹也が言う。

「そりゃぁ、心細くなるし、当然俺達には分からないような不安もあるだろう。涙が溢れるのは当たり前の感情だ。マリーが気に病んでも仕方ないだろ。毎日顔を見に行くのが、今俺の出来る最大限だから、それをしている」

 万里子は優しい徹也の服をキュッと掴む。

「うん、あたしも、出来る限りリリーさんに会いに行く」
「そうだな、そうしてくれ」

 巽さんは?

 たった数字の短い言葉が出せない。

 入院した百合子の元に巽が行った様子は無かった。数日前、徹也がボソリと呟いていた。

『兄貴には、人が普通に持つ感情は、もう無いんだ。兄貴の目にはもう、誰も映っていない』

 目を閉じれば、激しい情事しか浮かばない。躰を熱くはしても、心を熱くする力は微塵も持っていないのだ。

 四年経った今も、躰以外、何の繋がりも出来ていない。

「マリー、今夜はショーもあったのに夕飯、作って待っていてくれたんだ」

 八畳の居間の中心部に据えられた円卓にはご飯の支度がされいた。万里子はフフと肩を竦める。

「今日ね、病院を出た後に出会った人に、佃煮を分けていただいたの」
「つくだに?」

 徹也は座りながら裏返る声を出した。思ってもみない角度からの、何にも結びつかないエピソードだったようだ。

「どうして、何があった」

 驚く徹也の顔を嬉しそうに万里子は見る。

「あのね、話すと長くなっちゃうのだけど」
「うん?」
「今日、ちょっと素行の良くない人達に絡まれて」

 表情を曇らせた徹也に万里子は慌てて手を振る。

「助けてもらったの、すごく強い女の人に」
「え」
「その人がね、別れ際に『これ、今買ってきたの。お裾分け』って」

 老舗佃煮屋の品だった。
 
 万里子を助けた彼女は紙に包装されている一つを渡しながら微笑んだ。

『あなたとの驚きのご縁、出会えたのは、大袈裟かもしれないけど、運命じゃないかしら。これはお近づきの印。佃煮というのは、少しもロマンチックじゃないけど、とっても美味しいものだから、許してね』

 肩を竦めて笑った上品な小紋姿の彼女は、チャーミングだった。新橋の芸者だと言っていた。

 驚きのご縁と言っていたが、とんでもないご縁もあったものだ。

「それで、その女性は、このロザリオと同じものを持っていて、マリーと同じ混血児だった、という事か」

 万里子の大切なロザリオは座卓の上で高貴な光を放っていた。

「実は、このロザリオに彫られた名前の人、あたしのお父さんなの」

 ふうん……、と応えた徹也だったが直ぐに「ええっ、今なんて」と聞き返した。徹也の反応に万里子は仰け反る。

「この、ナオヤ、っていう……、Sは、やっぱり周防のSだったのか」
「やっぱり?」

 腰を浮かせていた徹也はハッと我に返ったように座り直した。

「あ、いや、これを見せてもらった時、Sは、万里子の苗字のイニシャルだろ、だから真っ先にそうかな、って」

 万里子は、ああそうか、と納得した。徹也は、万里子が入れた茶を飲み一息吐いた。

「それで、万里子は、お父さんのこれを持って、東京に?」

 東京に。

 暗く重い雲が脳内を覆う。

 覚えてないのだ。あの当時の事を。

 恐怖が記憶を掻き消したのだ。

『マリー、ごめん。僕はもう君を守ってあげられない。これを持って、逃げてくれ。今は、これしかしてあげられない!』

 父の言葉だけ覚えている。

 あれがどこで、どんな状況だったのか。思い出せない。

 思い出したくない。

 頭を抱えて震え出した万里子の身体を徹也の腕が優しく包んだ。

「マリー、いいんだ。怖い記憶なんて思い出す必要はない。俺がずっと傍にいる。マリーは、今一人じゃない。俺がずっと守る」

 万里子の目から涙が溢れる。

 優しい人。

 そうだ、父もそうだった。

 優しい父。物心ついた時から傍にいたのは父だけだった。母の記憶はない。

 ただ、父が本当の父だったのかは、定かではない。村の人が話していた事を聞いたから。

『周防さんは、聖職者さんだからねぇ。孤児を拾って育てとる』

 あれは、どういう意味だったのか。

 父はどんな人だったのか。

 髪を撫でる優しい手に、「大丈夫だ」と囁く甘い声が万里子を温かく包む。

 ああ、この感触は父じゃない。

「テツさん」

 万里子は顔を上げて徹也を見た。徹也の柔らかな丸みを帯びた二重の目から送られる眼差しはいつも安らぎをくれる。

 ずっと、こうして抱いていて欲しい。ううん、もっと触れていたい。

 四年間共に暮らしてきたのに、二人の間にはまだ何も無かった。本当は自分は、と万里子は手を伸ばす。

 徹也の大きな手が万里子の手を取り、握った。

 唇を重ね、長いキスをする。

「テツさん、あたしを、テツさんのものにしてください」

 端正な徹也の顔が悲しげに歪んだ。

「ずっと、そうしたいって思っていた」

 涙が溢れて止まらない。ずっと傍にいながら、何かに怯えて、何かに遠慮して。

「あたし達、どうしてもっと早くこうしなかったのかな」
「俺が、不甲斐なかったんだ」

 万里子は首を振る。

 ずっと一緒にいる。だから、身も心も一つになりたい。これは自然の感情だったんだ。

「マリー」

 全てを剥ぎ取り、肌と肌が触れ合って。

「テツさん、もっと、もっと触れて」

 徹也のクスリと笑う声がお腹の辺りで吐息に変わり、万里子はくすぐったさに震えた。

 唇が這って伝って。

「ふ、あ、あ」

 乳房に触れる手も、足を抱く手も、全部優しい。

 細身だが、均整の取れた身体に抱き締められる度に痺れそうになる。

 気持ちいい。

「マリー、いい?」

 徹也の声に震えながら頷く。

「んんっ、ん」

 仰け反る万里子を優しく抱いて、徹也は囁く。

「愛してる」

 伸ばした腕を首に絡めて抱き締めて、何度も何度も頷いた。

 愛してる、って感情を初めて知った。

 温かくてフワフワして、幸福な。

 これが、愛なんだ、きっと。

 幾度もキスをして溢れる感情を行き来させ、抱き締め合った。


 徹也の腕の中で、胸に頰を密着させる。規則正しい鼓動を聞きながら目を閉じた時だった。

「マリー、これは大事な事だから、聞いて欲しい」
「?」

 艶やかな髪を撫でながら柔らかな声が厳かに言った。

「大事なロザリオ、まだ巽に見せてないよな。巽は、ロザリオの存在自体知らないよな」

 万里子は頷いた。

 富夫が別れ際にそっと耳打ちした事があった。

『あの宝物、テツ以外の人間に見せてはいけないよ』

 言葉の真意が見えてきた気がする。徹也も今、同じ事を言おうとしている。

「あれは絶対に、巽に見せたらいけない。ましてや、巽の手に渡るような事は絶対にあっちゃいけない。気を付けような」

 自分達のこれからの人生が、それで左右される事になる。二人は、そんな気がしてならなかった。 
しおりを挟む
感想 7

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

好きな人に『その気持ちが迷惑だ』と言われたので、姿を消します【完結済み】

皇 翼
恋愛
「正直、貴女のその気持ちは迷惑なのですよ……この場だから言いますが、既に想い人が居るんです。諦めて頂けませんか?」 「っ――――!!」 「賢い貴女の事だ。地位も身分も財力も何もかもが貴女にとっては高嶺の花だと元々分かっていたのでしょう?そんな感情を持っているだけ時間が無駄だと思いませんか?」 クロエの気持ちなどお構いなしに、言葉は続けられる。既に想い人がいる。気持ちが迷惑。諦めろ。時間の無駄。彼は止まらず話し続ける。彼が口を開く度に、まるで弾丸のように心を抉っていった。 ****** ・執筆時間空けてしまった間に途中過程が気に食わなくなったので、設定などを少し変えて改稿しています。

愛しているなら拘束してほしい

守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。

貴妃エレーナ

無味無臭(不定期更新)
恋愛
「君は、私のことを恨んでいるか?」 後宮で暮らして数十年の月日が流れたある日のこと。国王ローレンスから突然そう聞かれた貴妃エレーナは戸惑ったように答えた。 「急に、どうされたのですか?」 「…分かるだろう、はぐらかさないでくれ。」 「恨んでなどいませんよ。あれは遠い昔のことですから。」 そう言われて、私は今まで蓋をしていた記憶を辿った。 どうやら彼は、若かりし頃に私とあの人の仲を引き裂いてしまったことを今も悔やんでいるらしい。 けれど、もう安心してほしい。 私は既に、今世ではあの人と縁がなかったんだと諦めている。 だから… 「陛下…!大変です、内乱が…」 え…? ーーーーーーーーーーーーー ここは、どこ? さっきまで内乱が… 「エレーナ?」 陛下…? でも若いわ。 バッと自分の顔を触る。 するとそこにはハリもあってモチモチとした、まるで若い頃の私の肌があった。 懐かしい空間と若い肌…まさか私、昔の時代に戻ったの?!

ちょっと大人な物語はこちらです

神崎 未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な短編物語集です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

恋愛の醍醐味

凛子
恋愛
最近の恋人の言動に嫌気がさしていた萌々香は、誕生日を忘れられたことで、ついに別れを決断。 あることがきっかけで、完璧な理想の恋人に出会うことが出来た萌々香は、幸せな日々が永遠に続くと思っていたのだが……

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...