胡蝶の舞姫

友秋

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起点

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 徹也が引き戸を開けると、八畳ほどの控え部屋の中は汗の匂いと、ほんの今まで何をしていたかが分かる匂いが充満していた。

 部屋の真ん中で座卓に肘を突き煙草をふかす兄の巽と、その脇には座布団を布団にし、女が眠っていた。

 巽はボタンを胸元まで開けたワイシャツにだらしなくネクタイをかけていたが、女にはジャケットが申し訳程度に掛けてあるだけで、全裸である事は一目瞭然だった。露になっている白い脚が生々しかった。

 徹也はため息を吐き、万理子にちょっと待ってろと入り口に立たせ、中に入った。慣れた手付きで部屋の窓を開けていく。
 
「百合子、出番大丈夫なのか?」
「百合子は今夜は出さねぇ」

 最後の窓を少々乱暴に開け、徹也は巽に向き直った。

「百合子は踊り子だ。しかもたった一人で一晩何十人もの客を呼べるような踊り子なんだぞ。兄貴の勝手にしていい女じゃない」

 睨む徹也に巽は鼻で笑った。

「百合子は俺の女だ。俺の勝手にしていい女なんだよ。お前にとやかく言われる筋合いはない」

 煙草を咥え、脇に横たわる百合子の身体を弄る巽の側に行った徹也は屈む。手を払いの退け、百合子を抱え起こした。

「百合子、起きろ。出番までまだ時間あるんだろ。顔洗って、身支度しろ」

 ゆっくりと目を覚ました百合子の柔らかな肢体を抱き、徹也は複雑な想いを胸に抱える。

 白い肌と微かに紅潮させた頰。舞い姿だけで金を取れる女だ。でも自分にはそれ以上に。

 いや、考えるのはよそう。

「あら、テツ。戻ってたの」
「ああ」

 優しく応える徹也に、百合子は花が咲いたような笑みで応え、躰を起こした。巽のジャケットを羽織り立ち上がると、女神のように美しい肢体がより際立った。

「百合子、ショーが終わったらまた俺のところに来い」

 ジャケットの前を合わせ、百合子は黙って頷き、部屋から出て行こうとして、気付いた。

「テツ、可愛い女の子がいるわ」

 ああ、と徹也は入り口で立ち尽くしていた万里子の方へ顔を向けた。

「百合子には後でちゃんと会わせる。とりあえずショーの準備をしてくれ」
「はーい」

 百合子は万里子に優美な笑みと共に頭をひと撫でして「またね」と言い残し、跳ねるように走り去った。

 花びらが舞い散るのが見えたような気がした。万里子は妖精か何かを見たような気持ちで、廊下を走る百合子の後ろ姿を見送った。

「マリー、こっちへ」

 徹也に呼ばれ、万里子は部屋の中へ入り、ハッと息を呑んだ。

 中で待っていたのは、徹也とよく似た端正な顔立ちの男。だが、印象が全く違った。

 鋭利な光を宿した瞳が、目だけで人を殺せるような怖さを与える。冷たく光る双眸に捉えられて万里子は身体を固くした。深い漆黒の瞳は全てを映し出す鏡で、何もかもを見透かす魔力をも持っていそうだった。

「マリー?」

 顎を微かにあげて煙を吐き出す巽は流し目でマリーを一瞥した。マリーは微かに震え、徹也の陰に隠れた。

 富夫の遊郭で長く〝女を買う男たち〟を見てきたが、こんな男は初めてだった。

 美しい鬼。そう見えた。

 この人、怖い。

 肩を抱いた徹也の手から伝わる温もりが『大丈夫だ』と言っていた。

「ああ、今日富さんとこから連れてきた」

 巽は「知ってる」と煙草を灰皿に押し付け答えた。

「知ってる?」
「富さんから、随分前から打診は受けてた。顔は知らなかったけど。将来性は保証はする、とか言って笑ってたが、なるほどな」
「なんだよ、知らなかったのは俺だけか」
「ああ、お前は検討してくれなんて時間を掛けたらのらりくらり上手く逃げちまう。逃げられない方法で追い込んで即決させろって俺から富さんに言った」
「どうりで……」

 断る隙も検討する時間も与えられなかった訳だ。はあ、と肩を竦めた徹也だったが、隣で怯えるように伺う万里子に気付いた。

 そうだった、決めた以上はこの子をちゃんと大人にしてやらないといけない。

「兄貴も金造さんと同じか。話は着いてるんだな。この子がその、万里子だ。周防万里子っていうんだ」

 巽は見透かすような強い光を放つ目で、真っ直ぐに万里子を見ていた。あまりにも鋭い視線に万里子は怖くなり、視線を外した。

「マリー、って呼ばれてんのか」
「は、はいっ」

 不意に声をかけられたビクッと震え応えた万里子の両肩に巽の手が置かれた。

「大丈夫だ。俺の兄貴の巽だ」

 徹也にそっと前に出され、万里子は恐る恐る巽と向き合った。足の先から頭の上までじっくりと見、巽はフンと鼻で笑う。

「まだガキだな。そンなガキじゃ、どこにも出せない。徹也、お前が面倒みろ」

 突き放されたような言葉に万里子はホッとすると同時に、心に穴が開くような感覚を覚えた。

『あたしは、要らない子だったの?』

 幼い日の記憶が蘇る。暗い穴に落ちて行く。懸命に手を伸ばした自分は、なんと叫んでいただろう。フルフルと振った万里子の頭にそっと手が添えられた。

「万里子はまだ子供だから、ここにはまだ来なくていい、って意味」

 見上げると、徹也の優しい笑みがあった。万里子の強ばっていた心が解ける。

「テツさんは、優しい」

 少女の思いがけない言葉に徹也が一瞬目を見開いた。万里子の頭をクシャッと撫で、はにかみ笑いだけを返す。

「とりあえず、マリーは中野に連れて帰る」

 中野?

 首を傾げる万里子に巽は変わらず冷たい視線を送っていたが、部屋の隅の、踊り子達の衣装が掛けてあったハンガーを見、何か思い出したように口を開いた。

「踊り子達に服をカンパさせる」
「え」
「洋服、持ってないんだろ、お前。これからは着物じゃなくて洋服を着ろ。それに、混血児だからだろうな、ガキの割に背が高い。小柄な踊り子のを貰えばいい。ちょっと待ってろ」

 巽はワイシャツのボタンを首の下まで閉めて立ち上がり、部屋から出て行った。

 優しいのか冷たいのか分からない。危険なのか、安全なのかも。身に付けた〝勘〟が作動しない。

 万里子は、自らの運命を信じるしかない、と肚をくくった。

 巽が出て行き、部屋の空気が緩んだ。

「マリー。心配するな、大丈夫だ」

 万里子と目線を合わせた徹也は、心配事を汲んだように優しく語り始めた。

「兄貴はあんなだけど、決して悪いようにはしない。いや、俺がさせない。必ず、マリーを大人にしてやるから」

 頭に乗せられた手から伝わる温もりは優しい。富夫の屋敷を出た時、運命は決まっていたのかもしれない。

 真っ直ぐに見つめる万里子に、徹也はほんの僅かな影を見せた。

「ただ、真っ当な、普通の女の人生は、保証してやれないけど」

 万里子は小さく首を振った。

 この街に流れ着いたあの時から。ううん、もっと前。真っ暗な奈落の底に落ちた時から、自分の生き方は決まっていた。

 生きる為なら。生きたいから。覚悟は決まっている。

 徹也の、僅かに茶を帯びた黒い瞳に曇りはない。優しい色を帯びていた。

「俺達と、生きるか」

 二人の男が危険ではないとはっきりしたわけではない。けれど。

「生きたい」

 想いは声になっていた。今の、無力な自分が生きる為にはこの道を選ぶ他ない。

 富夫が、言ってくれた言葉があった。

『目の前の道を信じてごらん』

  恩人の言葉を胸に抱き、目を閉じて深呼吸し万里子はゆっくりと目を開けて徹也を見据えた。

「わたしは生きたい。だから、テツさんに、巽さんに、付いていく」

 答えたと同時に、頭がくしゃっと撫でられた。くすぐったいような痺れるような感覚に万里子は心を震わせた。

「もらってきたぞ。」

 振り返ると、風呂敷包みを抱えた巽が咥え煙草で立っていた。

「住み込みの奴らが直ぐに集めてくれた。気前いいんだ。主に百合子だけどな」

 ドン、と目の前に置かれた包みを開けると、愛らしい百合の花が刺繍されたブラウスが入っていた。

「百合子は、元はお嬢様なんだ」
「今夜は中野に帰る」

 呟くように言った徹也の声は、巽の声に掻き消された。

 この街にはそれぞれの過去が、埋もれている。

「じゃ、服も貰った事だし、帰るか、マリー」
「どこに?」
「俺達の家に」


 万里子が顔を上げると徹也の笑みがあった。巽の顔は見えないが、ジャケットを着、帰り仕度を始めていた。

 万里子と巽と哲也。三人の三角点の起点は、今、この瞬間。





「寂しくなったか」

 暗闇広がる庭を、縁側から眺めるスーツ姿の紳士が聞いた。

「寂しいに決まってるさ。三年もの間、可愛い可愛いって面倒見てきたからね」

 紳士は庭を見つめたままハハハと笑った。柔らかな低い声に呼応するように草がサワサワと風に鳴る。

「仕方ないね。僕は残念ながら母親にはなれないし、ここに置いておくよりは未来のある場所に行かせないと。それにしても、まさかの縁があったもんだ」

 紳士の笑みが消える。富夫は小さく息を吐いた。

「四年前の秋、あの子達をここ連れて来たアンタが何者なのか今更聞かないけど、凄い子達だったね。アンタ、見る目がある」
「この〝目〟でここまで生きてきたからな」
「なるほどね……」

 戦争に翻弄されながら、自らの力で生き抜いてきた男。

 マリーはあの戦争で運命を変えられてしまったのだろう。

 庭の草木の葉擦れの音だけが聞こえる沈黙が暫し続き、座敷に吹き込んだ夜風に富夫は目を細めた。

「こんな僕にも親心ってもんがあってね。アンタが何を企んでいるのかは知らないけれど、マリーはこれ以上不幸にしないでおくれね」

 紳士はゆっくりと立ち上がる。

「彼女〝達〟の持つ運命の力というものを信じるだけだ。縁と運に導かれて行き着く先は決まる。彼女自身の力というヤツを信じてやるのだな」

 富夫は眉を寄せた。

「散々手を加えて最後にそれか。僕は結局、無力なんだね」

 悲しげに呟いた富夫は、庭の上に浮かぶ月に祈った。

 マリー、君は僕の大事な娘。愛しているよ。

 自分の目の前に続く道を信じて歩いていくんだよ。












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