舞姫【前編】

友秋

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奸計

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「貴方から誘ってくれるなんて、初めてだったわね」

 ベッドに横たわる婦人は、シャワールームから出て手早く服を身につける星児をウットリと眺めながら呟いた。星児は、最後にワイシャツを着、カフスボタンを留めていた。

「そうだな。誘われた場合は断らねーけどな」

 クククと喉の奥で笑い、前ボタンを留め終え、ネクタイを締める。星児の全ての仕草に見惚れる婦人は、ため息混じりに口を開く。

「貴方は、女である幸せを思い出させてくれる人ね」

 婦人は優雅に笑いながらシーツで豊かな胸元を隠して身を起こす。星児は涼しげな瞳を彼女に向け、静かな笑みを見せた。眩しそうに星児を見る婦人は続ける。

「貴方は女に夢を見せる天性のホストね。私は、貴方という人間に投資してるの」

 それはどうも、と、彼は視線を外し窓際のテーブルから取ったタバコを1本口にくわえた。ライターで火を点け、煙を吐き出した星児は彼女の方に向き直る。

「俺への投資。その言葉に甘えて申し訳ねぇけど、もう少しその立場を利用させて貰う」
「え……?」
「今回俺から誘ったのは、1つ目的がある」

 星児が言い終わった直後だった。ドンドン! と激しくドアが叩かれた。

「万里、てめぇ! ここにいるんだろ! 開けろ!」
「し、社長、今ボーイに開けさせますから! ドアが壊れます! 他の宿泊客もおりますから……!」

 ドアの向こうから聞こえる激しいやり取りにベッドの上の婦人の顔が青ざめた。

「ど、どうしてあの人にバレて?」

 星児が、計算通りだ、と不敵に笑った。蒼白の顔が、星児を見た時、ドアが開いた。

「てめえか!」

 すさまじい剣幕と形相で星児の前に現れたのは、背の高いスーツ姿の厳つい男だった。



 ホテルの客室のドアを蹴破る勢いで飛び込んできたのは、星児とたった今情事を交わした婦人、野村万里の夫。星児の、今日の本当の目的は、この男だった。

 野村史郎。ゼネコン大手、東海建設代表取締役社長。東海建設は健全な建設会社として世間に名が通っているが、その実は政界へのコネとリベートにまみれた健全とは程遠い黒い会社だった。

 星児は、この社長、野村を喰うつもりで導火線に火を点けた。賭けに出たのだ。

「お前、こんな事してタダで済むと思ってないだろう?」

 口角を上げて笑う星児が、野村の足元にB5サイズの封筒を投げてよこした。

「タダで済まねぇのは、そっちじゃねぇかな」

 野村は星児を睨み付けたまま足元の封筒を拾う。

「何だ、これは」
「まあ開けてみろや」

 怪訝な顔で封筒に入った書類に目を通した野村が顔色を変えた。星児は、タバコをくわえたまま窓の外を見、クックと笑い出した。

「あの有名な公共事業にもこんなからくりがあったんだな。ゼネコンの世界も汚ぇなぁ」

 中身は、公共事業の談合に関する機密資料だった。出どころは分からないが、週刊誌にでも持って行かれれば世間をひっくり返しかねない資料だった。

「お前、何処でこんなモノを。まさか万里か?」

 凄む野村に星児は一歩も怯む事はなく、それどころか、不敵な笑みが消えない。

「奥方が知り得るような情報じゃあねぇだろ。まぁ、俺はこんな人間だ。情報源が女である事は確かだけどな」
「この、ホスト崩れがっ」

 野村が悔しそうに歯噛みする。

「ああ、俺はホストだよ。でもな〝崩れ〟じゃねぇ。正真正銘、根っからのホストなんだよ」

 それは開き直りか、プライドか。蒼白な顔のまま、一言も発する事ができずにベッドで二人のやり取りを見つめる万里の激しい鼓動は治まる事はないが、星児の端麗な微笑には余裕の色すらにじんでいる。

「世の中はな、表向き男が回しているように見えるけどよ、女の心を掴めねぇヤツはダメなんだよ。男ってのは結局女に翻弄され続ける生き物なんだよ」

 その気迫、オーラは、彼が例えどんな人物であろうとも恐れない事を物語る。

「お前は、何を言いたいんだ?」

 固唾を呑んだ野村は、ふた周りほども年が下の若い男に完全に喰われ始めている事に気付き、それを隠すように凄味を含む静かな声で聞く。互いに牽制し合うような空気の中、タバコを消した星児が上目遣いで口を開いた。

「女に、自分が女である事を忘れさせてしまうような男は最低だ、と言いてぇんだよ。それが例え自分の女房でもな」

 予想だにしなかった意表を突く星児の言葉に、野村も、ベッドの中で身体を固くする万里も息を呑んだ。

「だから結局、アンタはこうして俺に足元を掬われた。俺達が悪ぃ訳じゃねぇ。隙を作ったアンタが悪ぃんだ」

 どんなに曲がった鋼でも、強引に真っ直ぐにするように、対峙する者を黙らせる筋を通す。それが星児のやり方だった。

 空気が凍り付くような沈黙の後、ハッハッハと野村が笑い出した。

「ワハハハハ! 負けたよ」

 突然笑いだした野村は、天井を仰ぎ手で顔を覆った。

「ただのホスト風情が、と思っていたら大した男だよ。お前、剣崎星児だろう。名前と顔は知っていたぞ」

 星児が一瞬目を見開いたのを野村は見逃さなかった。フッと笑う。

「お前、仁和の会長のお気に入りだろ」

 星児が、ああそっちか、という顔をする。野村は喉の奥をククッと鳴らした。

「ヤクザの凌ぎ場に殴り込みに行ってイカサマ暴いて大暴れしたらしいな。会長がとんでもねぇ若僧を見つけたとか言って大喜びしていた。仁和の会長のお気に入りとして裏じゃちょっとした有名人だ。が……まさかこんな形で会うとはな」

 さしもの星児も失笑する。

「悪い事は出来ねぇな」
「どの口が言ってやがる」

 呆れ半分の野村は一息吐いて聞く。

「俺から何を引き出そうとしてるんだ? まさか万里をくれ、とかじゃないだろ」

 星児はハハと乾いた笑いを漏らした。

「それはない」

 肩を竦め続ける。

「スリリングもデンジャラスも身震いする程好きだけどよ、何のメリットもねぇ、互いの破滅を招くような愛に溺れたデンジャラスには興味はねぇ」
「とんでもない男だな」

 野村は苦笑いし、万里子はため息をついた。
 
「俺はアンタに今すぐにでも金をくれ、とかそんな要求をしたい訳じゃねぇんだ。長いスパンで要求したいモンがあるんだよ。今のままじゃ、俺はどうしてもこれ以上は上にいけねーんだよ。どうしてもデカイ後ろ楯が欲しいんだよ。それでアンタに狙いを定めたんだ」

 目を丸くした野村が、フハハハハと高笑いする。

「やっぱりまだガキだな。駆け引きの大事な争点をそんなストレートに相手に言ってしまったら全て台無しだ」

 初めて悔しそうな顔をした星児に満足そうな笑みを見せた野村は「しかしな」と直ぐに真顔になった。

「剣崎、か」

 フッと笑った野村は、スラックスのポケットに手を突っ込み星児を真正面から品定めするように見てから、口を開いた。

「仁和の会長が気に入るわけだ。いいだろう。俺もお前を気に入ったよ。俺は、剣崎星児という人間に投資してやるよ」

 星児は、どうも、と軽く頭を下げる。

「その不敵な笑いが堪らないな。這い上がってみせろ」





『これに何時でも連絡していいぞ』

 名刺の裏に携帯電話の番号を書き、野村は星児に渡した。そして万里に「今日は早く家に帰る」と言い残し部屋を出て行った。




「これ、主人の野村のプライベートの携帯番号よ」

 パウダールームから出、ハイソなマダムの装いになった万里子が優雅な手付きでその名刺を見ていた。

「あの人は、本当はそんな簡単に落ちるような人じゃないのに」

 星児の駆け引き、策謀の一部始終を見てしまった万里は複雑な想いを抱える。

 言ってしまえば、私は利用されたんだわ。

 しかしそこには、冷えきっていた筈の夫婦の関係を見直し、お互いを見つめ直すきっかけを自然な形で作れるような気遣いがさりげなく無く織り交ぜてあった。


「落とせる自信があったから野村を選んだんだよ。悪かったな利用しちまって」

 タバコをくわえた星児は詫びの言葉を小さく言った。

 窓の外を向いており、表情は見えなかったが、万里は彼の性格上、それが最大限の謝罪の感情表現である事は分かっていた。

「いいのよ」

 名刺をそっとテーブルに戻した。

「野村は」

 静かに話し始めた星児の言葉に、万里は黙って耳を傾ける。

「懐深い男で、真っ向から対峙した者は認めてくれる、そう信じていたからこの賭けに出た」

 一度タバコの煙を吐き出し、星児は続ける。

「俺は、連れ合いがいるような女と寝る時、絶対に足が付くようなヘマはしねぇ。今回は、わざとここに野村が乗り込むような仕掛けをさせてもらった」

 万里は目を閉じ、知り合った当時の星児を思い出す。

 その瞳、光、言葉。全てが群を抜いていた。この男になら投資しても構わない。一目でそう思ったのだ。

「それにしても」
「え?」

 星児がいたずらっぽい笑みを彼女に見せていた。
 
「やっぱり夫婦っていうのは感性が似るんだな。同じ言葉を使った」
「同じ言葉?」
「〝投資〟」

 ああ、と万里はため息を吐き、恥ずかしそうに肩を竦めた。

「いやだわ、もう」

 今更夫に対してときめいたりはしないけれど、今一度、夫婦として生きる道を模索しよう。

『女は男の愛撫にはちゃんと応えてくれるぜ』

 あの言葉に野村は豪快に笑った。彼のあんな快活に笑う姿を久しぶりに見た。

 万里は想う。

 貴方は本当に不思議な人ね。

 星児の出ていったドアを、万里は暫く眺めていた。


†††

 星児はホテルの地下駐車場で愛車に乗ると、野村の名刺を改めて見た。

 星児が女を介して体当たり出来そうな大物は他にもいた。野村以上の男も幾人か。

 しかし今回、星児に『野村が狙い目だ』というアドバイスを保がくれた。

 保の大学の同期生にはいわゆるエリートが幾人もいる。学生時代から交友関係が広い保の人脈は蜘蛛の巣の如くだ。

 あまり口にはしないが、下手すると星児以上かもしれなかった。

 星児が接触出来そうな大物数人をピックアップし、保が微に入り細に入り入念に下調べをした。

 その結果。

 星児が万里に話した野村を評価した言葉は保の受け売りだったのだ。

『そうだな、東海建設の野村だな。あそこの本社に友人が何人かいるんだ。そこから聞き出した。野村はワンマンのようだが、男気があって器がデカく、社員には人気がある。正々堂々と差し向かえば道が開ける可能性は大だ』

 人生、大きな賭けは必要だ。だが、勝算のない賭けはただの大博打に過ぎない。

 身を滅ぼしてしまっては、元も子もないのだ。勿論、勝算のある賭けにだってハッタリやカマをかけるテクニックは必要だが。

 綿密な調査による裏付けがあれば、その手法の幅が広がる。だから、星児には保が必要だった。

 星児に託された調査を滞りなく完遂した保は必ず最後にニッと笑い、言う。

『星児なら出来るだろ』

 全てを失ったあの日から手を携え、互いの足りない部分を補いながら生きてきた。

 調べ上げた資料を星児に渡しながら保は言った。

『野村を取り込むことができれば、そこを足掛かりに先に進める。お前が這い上がっていく可能性が見えてくるんだよ。焦らず一歩ずつ行こうぜ』

 星児は名刺入れに野村の名刺をしまい、胸ポケットに入れる。

 保。ここから先はよりお前が必要になってくるな。

 星児は前を見据えたままエンジンキーを回した。
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