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海へ1
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私は、この日を一生忘れない。
「わあぁあー、うみいぃいぃー! 凄い! 凄いよぉー――! ひゃあぁあー――!」
「みちるさーん、頼むから窓から顔を出すのだけはやめて。気になっておちおち運転してらんねー」
「だってだって……」
「みちるさんが言うことを聞かないなら今から東京に引き返します」
「やだぁ! すみません! ちゃんと座ってます!」
保の運転するスポーツカーの窓から身を乗り出さんばかりに顔を出していたみちるは、たしなめられしぶしぶ後部座席のシートに座り直した。
助手席に座る星児はハハハと明るく笑っていた。
車窓に拡がるのは、真っ青な夏の空と紺碧の海。興奮するみちるは再び窓から顔を出した。
潮風に髪をなびかせ、気持ち良さそうに目を細めたみちるを、星児と保の、サングラスの中の瞳はバックミラーに越しに優しく見つめていた。
†
一週間前。
「えっ、海ですか⁈」
「そう、海」
朝の陽光を浴びるダイニングでの朝食タイム、保は新聞を読みながら興奮気味のみちるに応えた。
大きく拡げた新聞に隠れる保の声もどことなくウキウキしているようだ。
実際に、どうにもニヤけてしまう顔を隠そうと、保は新聞を拡げたのだ。
見出しの大きな活字すらその意味を持たないただの文字の羅列に変わっている。一文字も頭に入って来ない浮かれた頭を深呼吸で落ち着かせ、顔を作った。
新聞を畳んだ保の視線の先には、目をキラキラと輝かせ、彼を見つめる愛しのキミ。
ああ、ホントに俺はバカだな。
心の中でため息をつきながらも、保はみちるに笑い掛けた。
「みちる、来週誕生日だろ? 俺も星児もその日に合わせて休むからさ、泊まりで海行こう」
パァッと明るくなったみちるの表情が一瞬曇った。おずおずと遠慮がちに口を開く。
「麗子さん、は?」
直ぐに明るい表情に戻っていたが、分かりやすいな、と保は内心で苦笑いする。
「姉貴は『来週は新しい公演が始まるからそれどころじゃないわよっ!』ってさ。怒鳴られた」
麗子の声色、口調を真似て説明する保にみちるは思わず笑った。
みちるの様子がおかしかったあの日に何があったのか詳しい事は聞いてないが、翌日、保は麗子からそれとなく探りを入れられた。
『みちるちゃん、何か変わった様子とかない? 大丈夫?』
何故、姉がそんな事を聞くのかと思ったが、勘の良い保は、星児を挟んで何かあったな、と推察した。
変わらず、みちると麗子は仲が良い。しかし、少しだけ以前と違う空気が流れているように、保は肌で感じ取っていた。
みちるの誕生日だ。姉貴には悪いけど、気兼ねせずに楽しませてやろう。
保は無言でみちるの頭をクシャッと撫でた。
あのキスシーンが意図的に見せられたモノである事など、みちるは知る由もなかったのだが、あれから、星児と一緒にいる時に見せる麗子の目が『取らないでね』と言っているように、みちるには感じられるようになっていた。
今回〝麗子さんは行かない〟という事実を確認した時、ほんの少しホッとしている自分が心の片隅にいると気付き、みちるは自己嫌悪に胸を痛めた。
麗子さん、ごめんなさい。
「姉貴は行けない事は気に留めてねーから気にしなくていいぞ。『みちるちゃんの誕生日プレゼントに水着買ってあげるぅ』とか言って騒いでたしな」
「保さん」
保は、みちるの微かな物憂げな表情も見逃さない。
「みちる。姉貴に気兼ねしなくていいんだよ」
保はさりげなく、囁くように言った。みちるは静かに胸に手を当て、深呼吸をする。
心が温かい。保さんはいつも、ムリをしなくていい、頑張りすぎなくていいんだよ、と優しく語り掛けてくれている。
「ありがとう」
ニコッと笑ったみちるに保も笑顔を返した。
「思い切り楽しもうな」
「うん!」
明るく頷いたみちるに、保がニッと笑った。
「みちるの水着姿、みてーしな」
その言葉に彼女は、きゃあ、と両手で顔を隠した。
†
「みちるー、まーた窓から身体半分くらい出てるぞー」
ハンドルを握る保がバックミラー越しにみちるを見て言う。
「だって、気持ちいーんだもんー」
窓に肘をかけ頬杖をつく星児がハハッと笑い「落ちんなよ」と言った。みちるは「だいじょうぶですよぉ」と潮風に煽られながら答えていた。
保の車は海岸沿いを縫うように続く道を快調に飛ばす。眼下に拡がる青の世界。みちるは胸一杯に潮の香りを吸い込んだ。
「みちるはさー」
「はーい?」
みちるは保に声を掛けられ、窓から出していた顔を引っ込めた。
「山梨だから、海はあんまり行ってなかった?」
「うん。両親いなくなった後も、ずっと海の無いとこいたからー」
「そうか……」
みちるの声のトーンが尻すぼみに陰り、少しばかり車内の空気が重くなりかけたが、みちる自身が明るい声を出した。
「保さんと星児さんは?」
ああ俺達は、と保が答えようとした時、黙っていた星児が口を開いた。
「俺達もな、小学3、4年くれーまでは山ん中育ち。でも両親いなくなった後は東京出て来るまで海に囲まれたちっせー島で育ったんだ」
それは、みちるが初めて星児の口から語られた二人の過去の断片だった。
星児さんも保さんも、お父さんお母さんがいないの?
そういえば、とみちるは思い返した。
一緒に暮らして四年目だが二人は家族の話は一切しなかった。
保には麗子という姉がいるが、それ以上の事は一切分からず、名字が違う事に関する理由も判然とはしていない。
星児に関しては全てが謎のままだった。
「そのうち、ゆっくりと話していくよ」
みちるの気持ちを汲んだように保が優しく話しかけた。
「みちるも少しずつ、話せる事から話してくれればいいからさ」
「うん」
過去の真実全てが明かされる時、どんな事態が待っているのかは、今はまだ、誰も想像したくはなかった。
†††
「わあぁあー、うみいぃいぃー! 凄い! 凄いよぉー――! ひゃあぁあー――!」
「みちるさーん、頼むから窓から顔を出すのだけはやめて。気になっておちおち運転してらんねー」
「だってだって……」
「みちるさんが言うことを聞かないなら今から東京に引き返します」
「やだぁ! すみません! ちゃんと座ってます!」
保の運転するスポーツカーの窓から身を乗り出さんばかりに顔を出していたみちるは、たしなめられしぶしぶ後部座席のシートに座り直した。
助手席に座る星児はハハハと明るく笑っていた。
車窓に拡がるのは、真っ青な夏の空と紺碧の海。興奮するみちるは再び窓から顔を出した。
潮風に髪をなびかせ、気持ち良さそうに目を細めたみちるを、星児と保の、サングラスの中の瞳はバックミラーに越しに優しく見つめていた。
†
一週間前。
「えっ、海ですか⁈」
「そう、海」
朝の陽光を浴びるダイニングでの朝食タイム、保は新聞を読みながら興奮気味のみちるに応えた。
大きく拡げた新聞に隠れる保の声もどことなくウキウキしているようだ。
実際に、どうにもニヤけてしまう顔を隠そうと、保は新聞を拡げたのだ。
見出しの大きな活字すらその意味を持たないただの文字の羅列に変わっている。一文字も頭に入って来ない浮かれた頭を深呼吸で落ち着かせ、顔を作った。
新聞を畳んだ保の視線の先には、目をキラキラと輝かせ、彼を見つめる愛しのキミ。
ああ、ホントに俺はバカだな。
心の中でため息をつきながらも、保はみちるに笑い掛けた。
「みちる、来週誕生日だろ? 俺も星児もその日に合わせて休むからさ、泊まりで海行こう」
パァッと明るくなったみちるの表情が一瞬曇った。おずおずと遠慮がちに口を開く。
「麗子さん、は?」
直ぐに明るい表情に戻っていたが、分かりやすいな、と保は内心で苦笑いする。
「姉貴は『来週は新しい公演が始まるからそれどころじゃないわよっ!』ってさ。怒鳴られた」
麗子の声色、口調を真似て説明する保にみちるは思わず笑った。
みちるの様子がおかしかったあの日に何があったのか詳しい事は聞いてないが、翌日、保は麗子からそれとなく探りを入れられた。
『みちるちゃん、何か変わった様子とかない? 大丈夫?』
何故、姉がそんな事を聞くのかと思ったが、勘の良い保は、星児を挟んで何かあったな、と推察した。
変わらず、みちると麗子は仲が良い。しかし、少しだけ以前と違う空気が流れているように、保は肌で感じ取っていた。
みちるの誕生日だ。姉貴には悪いけど、気兼ねせずに楽しませてやろう。
保は無言でみちるの頭をクシャッと撫でた。
あのキスシーンが意図的に見せられたモノである事など、みちるは知る由もなかったのだが、あれから、星児と一緒にいる時に見せる麗子の目が『取らないでね』と言っているように、みちるには感じられるようになっていた。
今回〝麗子さんは行かない〟という事実を確認した時、ほんの少しホッとしている自分が心の片隅にいると気付き、みちるは自己嫌悪に胸を痛めた。
麗子さん、ごめんなさい。
「姉貴は行けない事は気に留めてねーから気にしなくていいぞ。『みちるちゃんの誕生日プレゼントに水着買ってあげるぅ』とか言って騒いでたしな」
「保さん」
保は、みちるの微かな物憂げな表情も見逃さない。
「みちる。姉貴に気兼ねしなくていいんだよ」
保はさりげなく、囁くように言った。みちるは静かに胸に手を当て、深呼吸をする。
心が温かい。保さんはいつも、ムリをしなくていい、頑張りすぎなくていいんだよ、と優しく語り掛けてくれている。
「ありがとう」
ニコッと笑ったみちるに保も笑顔を返した。
「思い切り楽しもうな」
「うん!」
明るく頷いたみちるに、保がニッと笑った。
「みちるの水着姿、みてーしな」
その言葉に彼女は、きゃあ、と両手で顔を隠した。
†
「みちるー、まーた窓から身体半分くらい出てるぞー」
ハンドルを握る保がバックミラー越しにみちるを見て言う。
「だって、気持ちいーんだもんー」
窓に肘をかけ頬杖をつく星児がハハッと笑い「落ちんなよ」と言った。みちるは「だいじょうぶですよぉ」と潮風に煽られながら答えていた。
保の車は海岸沿いを縫うように続く道を快調に飛ばす。眼下に拡がる青の世界。みちるは胸一杯に潮の香りを吸い込んだ。
「みちるはさー」
「はーい?」
みちるは保に声を掛けられ、窓から出していた顔を引っ込めた。
「山梨だから、海はあんまり行ってなかった?」
「うん。両親いなくなった後も、ずっと海の無いとこいたからー」
「そうか……」
みちるの声のトーンが尻すぼみに陰り、少しばかり車内の空気が重くなりかけたが、みちる自身が明るい声を出した。
「保さんと星児さんは?」
ああ俺達は、と保が答えようとした時、黙っていた星児が口を開いた。
「俺達もな、小学3、4年くれーまでは山ん中育ち。でも両親いなくなった後は東京出て来るまで海に囲まれたちっせー島で育ったんだ」
それは、みちるが初めて星児の口から語られた二人の過去の断片だった。
星児さんも保さんも、お父さんお母さんがいないの?
そういえば、とみちるは思い返した。
一緒に暮らして四年目だが二人は家族の話は一切しなかった。
保には麗子という姉がいるが、それ以上の事は一切分からず、名字が違う事に関する理由も判然とはしていない。
星児に関しては全てが謎のままだった。
「そのうち、ゆっくりと話していくよ」
みちるの気持ちを汲んだように保が優しく話しかけた。
「みちるも少しずつ、話せる事から話してくれればいいからさ」
「うん」
過去の真実全てが明かされる時、どんな事態が待っているのかは、今はまだ、誰も想像したくはなかった。
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