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桜の季節に
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「みちるちゃん、エビです」
「キャハハッ、ありがとう保さん」
レーンに流れてきたボタンエビの皿を取った保はみちるの前に置いた。満面の笑顔で皿の上のエビを見つめるみちるに保は聞く。
「回転で、良かったのか?」
「うん! ココ美味しいよ、って前にお店のお客さんが話しててね」
頬張りながら、幸せそうな笑顔で答えるみちるに、保も顔がほころんでしまう。
「そんならいいけどさ。はい、お嬢さま、お茶です」
保は粉茶をテーブルに設置された給湯器のお湯で溶き、その湯呑みをみちるに恭しく渡す。
「じい、ありがとう」
「……〝じい〟はねーな」
苦笑いする保の皿にガリをのせてあげながら、みちるはアハハと笑った。
結局、アメ横の中にある回転寿司屋に来た。
せっかく日暮里駅に出たのだから銀座辺りにと思っていたのに、みちるは上野でいいと言った。
「保さん、ごちそーさまー」
「いえいえ、どういたしまして」
二人は夜の闇に包まれた上野公園をゆっくりと歩き出した。
さくら祭の提灯が消灯する時間になっており、月曜日という事もあり人は疎らだった。
葉桜になったソメイヨシノが、外灯と月の明かりに照らし出されていた。微妙な光の加減でピンク色の花が薄い紫色にも見える。
みちるはそんな花々を見ながらゆっくりと、保の二、三歩前を歩いていた。
「私の故郷はね、桃源郷の里だったんだよ」
みちるは呟くようにさりげなく話し始めた。保は黙って聞く。
半年ほど前から、みちるはポツリポツリと自分の過去を話すようになっていた。保はそんなみちるの話に慎重に耳を傾けてきた。
保も星児も既に知っていた、山梨が故郷であることも話に出て来たが、あの街に流れ着くに至った大事な肝に関しては、まだ語られてはいない。
待とう。それが、星児と保の一貫した考えだった。
「みちるの故郷は山梨だったもんな」
「うん。毎年三月には辺り一面桃色に包まれて、まるで空気まで染まるようになるんだよ。ホント、綺麗なの」
話ながら、みちるは足元の小石を小さく蹴った。
「そうか、みてみたいな」
いつか、一緒に行こうな。細い後ろ姿を見つめながら保は微かな願望を口にするのはやめ、呑み込んだ。振り向いたみちるは微笑み、また前を向いた。
「毎年、お父さんお母さんとみたんだよ。いつも必ず、来年も一緒にみられるよ、ってお父さんが言ってた。あの、年も……」
みちるの言葉が途切れた。
「みちる?」
みちるの歩みが止まる。うつ向いたままのみちるの横に、保は静かに寄り添った。
「あれから、もうみていない。ホントは、桜の季節は悲しい」
保は少し身体を屈め、みちるの顔をそっと覗き込んだ。唇を噛み締め、伏し目がちな瞳で必死に涙を堪えている。
「覚えてないの」
保はみちるの震える小さな声を聞いたこの瞬間、全てを悟った。
みちるには、消えている記憶がある。多分、過去を話さないのではなく、〝話せない〟のだ。
花冷えの夜風が吹き抜けた。公園の中の桜の道を歩く人はみな、小走りで通り過ぎる。保は上着を脱いで、みちるの肩に掛けた。
「ほら、帰ろう」
「……うん」
保はみちるの肩を抱く。
「みちるは、〝今〟をしっかりと生きればいいんだ」
保の柔らかな声に、見上げるみちるの表情が安堵の色に変わっていた。
「大丈夫。来年も、再来年も、その次の年も、一緒に見る」
「え……」
「みちるが、ちゃんとしっかり前を見て、一歩一歩着実に踏み締めて歩いて行けるようになるまで、俺は絶対にみちると一緒に桜を見るから」
「保さん」
ニコッと笑うみちるの笑顔に、保の胸がチクリと痛んだ。
本当は。
〝これからもずっと一緒に、一生だって一緒にみる〟
と言いたかった。
けれどそれは約束ではなく、〝嘘〟になってしまう。恐らく、叶えられね願望でしかなくなってしまう。
一緒にいられる保証など、ないのだから。
俺は、みちるとはずっと、誠実に向き合う関係でいたいから。
「ありがとう」
柔らかく微笑んだ。みちるが手を伸ばし、保の頬に触れた。
「みちる」
「保さんの言葉、嬉しい。保さんは嘘を言わないもん」
胸の痛みに、微かに顔をしかめた。
みちるはちゃんと分かっている。
「保さん、少し屈んでくれる?」
「え……?」
保が屈むとみちるは両手で顔を優しく挟んだ。そして、そっと保の頬に唇を寄せた。
そこは外灯があたらない小さな暗闇。足早に道行く人々は、気付く事なく通り過ぎる。柔らかく、甘い感触が、保の頬に伝わっていた。
長く長く感じた、幸せの時間。ゆっくりと唇を離したみちるは、保の耳に囁いた。
「大事な時間を過ごした証、ね」
保は、目を閉じた。
許されるものなら。許されるものなら?
保は、心の中で首を振った。
頬に触れていたみちるの優しい手をそっと握る。
「じゃあ、俺も大事な証、な」
静かに囁いた保はみちるの頬にキスをした。
細い躰を抱き締めたい。けれど、それは出来ない。
木々の葉が、サワサワと風に鳴る。保の、手の中にあるみちるの手が少し冷たかった。
「さぁ、帰ろう」
「うん」
手を繋ぎ、再び二人は歩き出した。
「キャハハッ、ありがとう保さん」
レーンに流れてきたボタンエビの皿を取った保はみちるの前に置いた。満面の笑顔で皿の上のエビを見つめるみちるに保は聞く。
「回転で、良かったのか?」
「うん! ココ美味しいよ、って前にお店のお客さんが話しててね」
頬張りながら、幸せそうな笑顔で答えるみちるに、保も顔がほころんでしまう。
「そんならいいけどさ。はい、お嬢さま、お茶です」
保は粉茶をテーブルに設置された給湯器のお湯で溶き、その湯呑みをみちるに恭しく渡す。
「じい、ありがとう」
「……〝じい〟はねーな」
苦笑いする保の皿にガリをのせてあげながら、みちるはアハハと笑った。
結局、アメ横の中にある回転寿司屋に来た。
せっかく日暮里駅に出たのだから銀座辺りにと思っていたのに、みちるは上野でいいと言った。
「保さん、ごちそーさまー」
「いえいえ、どういたしまして」
二人は夜の闇に包まれた上野公園をゆっくりと歩き出した。
さくら祭の提灯が消灯する時間になっており、月曜日という事もあり人は疎らだった。
葉桜になったソメイヨシノが、外灯と月の明かりに照らし出されていた。微妙な光の加減でピンク色の花が薄い紫色にも見える。
みちるはそんな花々を見ながらゆっくりと、保の二、三歩前を歩いていた。
「私の故郷はね、桃源郷の里だったんだよ」
みちるは呟くようにさりげなく話し始めた。保は黙って聞く。
半年ほど前から、みちるはポツリポツリと自分の過去を話すようになっていた。保はそんなみちるの話に慎重に耳を傾けてきた。
保も星児も既に知っていた、山梨が故郷であることも話に出て来たが、あの街に流れ着くに至った大事な肝に関しては、まだ語られてはいない。
待とう。それが、星児と保の一貫した考えだった。
「みちるの故郷は山梨だったもんな」
「うん。毎年三月には辺り一面桃色に包まれて、まるで空気まで染まるようになるんだよ。ホント、綺麗なの」
話ながら、みちるは足元の小石を小さく蹴った。
「そうか、みてみたいな」
いつか、一緒に行こうな。細い後ろ姿を見つめながら保は微かな願望を口にするのはやめ、呑み込んだ。振り向いたみちるは微笑み、また前を向いた。
「毎年、お父さんお母さんとみたんだよ。いつも必ず、来年も一緒にみられるよ、ってお父さんが言ってた。あの、年も……」
みちるの言葉が途切れた。
「みちる?」
みちるの歩みが止まる。うつ向いたままのみちるの横に、保は静かに寄り添った。
「あれから、もうみていない。ホントは、桜の季節は悲しい」
保は少し身体を屈め、みちるの顔をそっと覗き込んだ。唇を噛み締め、伏し目がちな瞳で必死に涙を堪えている。
「覚えてないの」
保はみちるの震える小さな声を聞いたこの瞬間、全てを悟った。
みちるには、消えている記憶がある。多分、過去を話さないのではなく、〝話せない〟のだ。
花冷えの夜風が吹き抜けた。公園の中の桜の道を歩く人はみな、小走りで通り過ぎる。保は上着を脱いで、みちるの肩に掛けた。
「ほら、帰ろう」
「……うん」
保はみちるの肩を抱く。
「みちるは、〝今〟をしっかりと生きればいいんだ」
保の柔らかな声に、見上げるみちるの表情が安堵の色に変わっていた。
「大丈夫。来年も、再来年も、その次の年も、一緒に見る」
「え……」
「みちるが、ちゃんとしっかり前を見て、一歩一歩着実に踏み締めて歩いて行けるようになるまで、俺は絶対にみちると一緒に桜を見るから」
「保さん」
ニコッと笑うみちるの笑顔に、保の胸がチクリと痛んだ。
本当は。
〝これからもずっと一緒に、一生だって一緒にみる〟
と言いたかった。
けれどそれは約束ではなく、〝嘘〟になってしまう。恐らく、叶えられね願望でしかなくなってしまう。
一緒にいられる保証など、ないのだから。
俺は、みちるとはずっと、誠実に向き合う関係でいたいから。
「ありがとう」
柔らかく微笑んだ。みちるが手を伸ばし、保の頬に触れた。
「みちる」
「保さんの言葉、嬉しい。保さんは嘘を言わないもん」
胸の痛みに、微かに顔をしかめた。
みちるはちゃんと分かっている。
「保さん、少し屈んでくれる?」
「え……?」
保が屈むとみちるは両手で顔を優しく挟んだ。そして、そっと保の頬に唇を寄せた。
そこは外灯があたらない小さな暗闇。足早に道行く人々は、気付く事なく通り過ぎる。柔らかく、甘い感触が、保の頬に伝わっていた。
長く長く感じた、幸せの時間。ゆっくりと唇を離したみちるは、保の耳に囁いた。
「大事な時間を過ごした証、ね」
保は、目を閉じた。
許されるものなら。許されるものなら?
保は、心の中で首を振った。
頬に触れていたみちるの優しい手をそっと握る。
「じゃあ、俺も大事な証、な」
静かに囁いた保はみちるの頬にキスをした。
細い躰を抱き締めたい。けれど、それは出来ない。
木々の葉が、サワサワと風に鳴る。保の、手の中にあるみちるの手が少し冷たかった。
「さぁ、帰ろう」
「うん」
手を繋ぎ、再び二人は歩き出した。
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