この夏をキミと【完結】

友秋

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再出発

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 残暑の和らぎが少し感じられる日曜の朝。風と空気が真夏とは違う事を、玄関前で大きく伸びをした篤は感じた。

「よし!」

 ブルーのスポーツウエアを着た篤は軽くストレッチをした後、ゆっくりと走り出した。

 屋敷の門から道路に出ると、日の光を浴びて青く輝く緑の海のような茶畑が目の前に広がった。

 日曜の早朝の為、県道を走る車も少なく、空気が澄んでいた。風を切って走って行くと、バス停が見えて来た。そこに、リュックを肩に掛け、参考書を読みながらバスを待つ貴史の姿があった。

「たかし!」

 篤に呼ばれて驚いた貴史が顔を上げた。

「篤!」

 駆け寄る篤を見る爽やかな笑顔が〝嬉しい色〟一色に染まっていた。

「なんだ、日曜もこんな朝早くから予備校か」
「そうだよ」と答える顔も、朝にぴったりな爽やか笑顔だ。

 最後の試合が終わってからというもの、貴史は夏休み中ずっと予備校通いだった。お陰で、篤と貴史はあれからゆっくり話しもできていなかった。

「新宿だっけ?」

 貴史は頷き、肩を竦めた。

「うちの親、試合負けるのを手ぐすね引いて待っててさ。終わったその日に夏期講習のパンフレットバーンと僕の前に並べて。問答無用、有無を言わさず、ってやつだね」
「大変だな、お前んとこも」

 ため息を吐く貴史に篤も同情の言葉を掛けた。

 貴史の父は弁護士だった。本当は、中学受験をする筈のお坊ちゃんだった。それを貴史は、篤といたいから、とは言えなかった為、どうしても野球をやりたい、と両親に訴えて地元の中学に行かせてもらい、そこを卒業する時今度は正直に、篤と同じ高校で大事な時期を過ごしたいんだ! と、大学はちゃんと行くから、と必死に時間を掛けて両親を説得して、現在に至っていた。

「夏休み、まあ楽しい事が目白押しで僕は落ち込んでいる暇もなかったよ」

 皮肉った言い方があまり貴史らしくなく、篤は思わず吹き出した。

「良かった、笑った」

 え、と顔を上げた篤が貴史を見上げると、視線の先に貴史のニコニコ顔があった。

「篤、気づいていなかった? あまり笑ってなかったよ、ずっと」

 そうだっけ、と首をかしげる篤に貴史はいたずらっぽく笑った。

「笑っても、目が死んだ魚みたいだった」
「なんだよ、それ」

 二人が笑っていると、向こうから貴史の乗るバスがやって来た。

 バスが、二人のいる停留所のところに来るまでに少しの時間があった。その間に貴史は篤に言った。

「篤、あの時ランナーを貯めたのは、僕だからね。篤だけが悪いんじゃない、それだけはちゃんと分かって欲しい。みんな、ちゃんと分かってるんだから。寛太も、ゴンも、ジュンも、みんな」
「貴史……」

 言葉を詰まらせる篤に、貴史は続ける。

「みんな、篤の笑顔を待っているんだからね」

 貴史が話し終わるのと、バスが目の前に停まってドアが開くのがほぼ同時だった。

「貴史!」

 篤が何かを言おうとした時にはもう、貴史は軽い身のこなしでバスに乗り込んでいた。篤の言葉を待たず、貴史は
「じゃあ、また明日学校で!」と手を振り、奥へと入って行ってしまった。

 ドアが閉まり、走り出したバスを、篤は見えなくなるまで見送った。胸には、貴史が置いていった言葉が心地よい温もりとなって残っている。

 ありがとな、貴史。

 篤は再び走り出した。



 県道から小道に入り、茶畑を横切って一キロほど上り坂を走り抜けると懐かしい学び舎が見えて来た。篤たちが通った小学校だった。そのまま真っすぐ走って行くと、グラウンドが見えてくる。少年野球チームが練習を始めていた。

 足を止めた篤がグラウンドを覗くと、よく見覚えのあるユニフォームの子供たちがグラウンドに散らばっている。篤や貴史、そして夏菜子が入っていた少年野球チームだった。

 懐かしいな、と篤はグラウンドの脇まで行き、子供たちの様子を見ていた。しばらくして、篤に気付いたチームの監督が声を掛けてきた。

「おお、篤――! 一緒にやらんかー?」

 監督とは言っても、篤が幼い頃からよく知る近所のおじさん、というよりもうおじいさんだ。しわくちゃの顔をうれしそうにほころばせて篤に手を振っていた。

 ちょっと考えた篤は「やります!」とグランドに駆けて行き、子供たちのキャッチボールの輪に入って行った。

 持っていなかった道具は、借りた。コーチがボールを渡してくれた。軟式の白球を手に、篤は感触を確かめた。

 そうだ、ここからだ。ここから俺の野球が始まったんだ。篤は胸の鼓動が何か、再生のような、新しい鼓動に感じられた。

 篤が球をギュッと握りしめた時だった。

「こんにちは」

 篤の元に駆け寄って来たユニフォーム姿の少年が二人、帽子を外して挨拶をした。彼らの顔を見て、篤は「あっ」と声を上げた。

 少年二人は、篤が中学に入った頃野球を教えてあげた近所の子たちだった。

「もう、六年か」
「はい」

 少年たちは、はにかんだ笑顔を見せて答えた。

「そうか、野球、続けてくれていたんだな、俺はうれしいぞ!」

 篤は二人の少年の頭を交互に力強く撫でて笑った。彼らも、嬉しそうに声を上げて笑った。

 球を持つ、握る、投げる。そこから教えた子供らがこうしてずっと野球を続けてくれていたことが、篤には何よりも嬉しいことだった。

 子供たちはよく走り、よく投げ、よく落とし、よく笑った。低学年の子に至っては、喧嘩もした。理由を聞けば実に他愛ないものであっても、彼らにしてみたら真剣なのだ。しかし、練習を再開したら、あっけらかんとすぐに忘れる。

 久しぶりに、野球は楽しい、と思えた篤に、新しい感情が芽生えていた。

 やっぱり、辞めたくはない。続けたい。続ける道が、続けられる可能性があるのなら、ほんの一パーセントでも、その可能性を信じたい。

 あの試合の後、北田とは友達になった。北田から、話し掛けてきたのだ。

『お前とは、どこかでもう一度勝負がしたい』

 進路はほぼプロ、と決まっている北田との再戦の可能性など、今の時点ではほぼゼロに近い。しかしあの時北田が言ってくれた言葉が、少し意味を持ち始めていた。

 自分の可能性を信じるってことだ。

 連絡先の交換もした北田からは頻繁に、進路はどうするんだ、というメールが来る。心配してくれているらしい。どうやら、根は気のいいお節介なヤツらしかった。



「今日はどうもありがとうございました」

 練習が終わって片づけが終わると篤はチームの監督の元に行き、頭を下げた。監督は、いやいや、と笑った。

「こっちこそ、今日はコーチも足りなかったから助かったよ。子供らもそんなに懐いて……」

 篤の周りに群がる子供たちはべったりくっついて離れない。ハハハ……と苦笑いする篤に監督は言う。

「篤、時々は立ち止まったっていいんだぞ。焦らずな」

 しわくちゃな顔が優しく笑っていた。篤の胸に、温かなものが浸み入るように監督の言葉が入ってきた。篤は「はい」とだけ答えて頷いていた。

 よくは分からないが今日、立ち止まったままトンネルの中にいた自分の前に、光が差した気がした。出口のまぶしい光が見えた気がした。

 俺は、野球がしたいんだ! それが分かったんだ。篤はずっと、そっと陰から背中を押してくれていた人がいた事を思い出す。

 そうだ、今夜は、親父に相談してみよう。親父なら、俺の野球を分かってくれる――!


 
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