この夏をキミと【完結】

友秋

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試験期間

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 日中降り続いた雨は夕刻には上がり、梅雨時期の空気の対流は、辺りが暗くなる頃には湿気を帯びた涼しい風と変わる。庭を吹き抜ける風が木を揺らし、葉擦れのさわさわという音がどこからともなく聞こえていた。

 期末試験が始まっていた。試験期間に入ると部活動は原則休みとなるが、大会を間近に控える野球部などは、自主トレという名目で短時間の練習が許されていた。

 しかし、それだけでは身体は訛る。篤は帰って来てからランニングをこなし、庭で素振りをしていた。そんな篤に母の奈緒はずっと文句を言っていた。

 篤は母の説教には無視を決め込み、中庭で素振りを続けていた。バットを振り続けていると汗が宙に舞う。その汗を拭うことなく無心に振っていた時。

「篤ー」

 自分を呼ぶ声に振り向いた篤の手元にキャッチャーミットが飛んできた。玄関からトレーニングシューズを履きながら、弟の誠が出てきた。手にはキャメル色のグローブ。

「ちょっと付き合ってよ」

 誠は、篤の返事も聞かず、右手にグローブをはめるとボールを左手に握り、そのミットに軽く投げ込む動作を繰り返した。

 中庭にある外灯が誠を照らし出した。その灯りの下、とうに篤を抜いた長身に、長兄の忍を少し幼くしたような顔立ちの弟の姿がはっきりと見て取れた。忍のミニサイズといった弟の姿に、先日の兄とのやり取りが思い出され、篤は目を細めた。

「なんだよ、お前はさっき帰ってきたばっかじゃねぇか。メシは?」

 篤はバットを近くのベンチに立て掛けると誠が投げてよこしたキャッチャーミットをはめ、拳でパンパンと叩く。

「まだ。でも僕のとこも試験で投げ込み不足が不安なんだ。篤、座ってよ」

 誠は壁際に張られたネットをグローブで指した。

 広い庭には、小学生の頃から野球に夢中だったこの家の二人の息子の為にと、マウンドからホームベースまでの距離を取り、ネットが張られた簡単な練習スペースが設えてあった。幼い頃は二人で練習する姿がよく見られたが、最近は家で練習することなどめっきり減り、ここは殆ど使われることもなくなっていた。

「いきなりかよ。肩は?」
「学校で少しは投げてきてるよ」

 ネットの前に行った篤は屈んでミットを構えた。それを見て、誠はプレーに見立てて書かれた白線部分に立った。

 久しぶりだ、誠の球受けるのは。セットポジションからの投球フォームに入る誠を篤は真っ直ぐ見据えた。ワクワクしている自分に気付いていた。

 誠はサウスポーだった。篤のチームにも左投手はいる。だが、レベルの高い左投手の球を受ける機会はなかなかない。いつも見ている貴史とは鏡になっている誠のセットポジションに多少の違和感を持ちつつも、その左手から放たれる球を待った。

 打者が立つ辺りでグッと伸びたストレートの球は、篤のミットに収まる時、パア……ンと小気味よい音を立てた。

 誠が通う、都内にある文武両道の名門私立高校は、今年の甲子園西東京代表大本命と言われていた。

「背番号十番貰ったらしいな。来年は確実にエースか」

 球を返しながら篤が言った。

「わかんないよ、そんなの」

 返球を受けながら誠は爽やかに笑った。テンポ良く投球フォームに入る誠を篤は複雑な想いで見つめた。

 球のキレも角度も貴史の方が上。ただ、誠はまだ二年生だ。その上左投手。彼のポジションがチーム内でどのくらいのものなのか、容易に想像ができた。

 神というのは、与えるものには二物も三物も与えるものなのだ。

 篤と誠は年子の兄弟だった為、幼い頃から常に比べられて育ってきた。そこに、できの良すぎる兄貴も加わる。

 よくグレずに育ったなと、篤自身、我ながら偉いと自らを褒めてみたりもしたが、それは、野球があったからなのだ。自らの指針となる、支柱となる、譲れないものがあったから、自身を鼓舞してここまで来られたのだ。

 その野球が、最近足元から揺らぎそうになることがあった。少し前にワクワクしていたはずの気持ちが不安へと変わる。

 ただ漠然と誠の球を受け、返球する、その繰り返しだけの状態になり始めていた時。

「篤、僕さ……」

 誠が不意に話しだした。

 篤が、え、と改めて誠を見た時、彼はセットポジションに入っていた。腕を振り上げた瞬間、誠は大きな声を張り上げた。

「今日、カナにフラれたー!」

 突拍子もない告白と共に放たれた球は、篤のミットをわずかにかすめ、後ろのネットに突き刺さった。勢いを失った球はそのまま地面に落ちコロコロと転がった。

「なんだよー。篤いつも、俺はパスボールとか絶対にしねぇ、とかって豪語してんじゃん。ちゃんと取ってよー」
「ば……、ばっかやろう! お前が突然変なこと言い出すからだろ!」

 篤は慌てて球を拾った。

 まったく予想もしていない言葉だった。突然、なぜ夏菜子の名が出てくるのか。バクバクと激しい鼓動を打つ心臓。一つ深呼吸をし、落ち着かせた。

 この弟はいきなり何を言い出すのか。篤は返答に困った。

「そんなこと、なにも俺に話すことじゃねーだろ」
「あー、なんかスッキリした。僕ご飯食べる」
「はぁ!?」

 グローブを右手から外し伸びをした誠は、返球しようと投げる体勢に入ったが固まってしまった篤にニコッと笑ってみせた。

「篤サンキュー」

 誠の表情は本当に、何かを吹っ切れたかのように、どこかスッキリとして見えた。

「カナにはさ、前からずっと好きなヤツがいるの知ってたんだけど、僕、しっかり玉砕して前進なまきゃ、と思ってさ。あ、カナの好きなヤツ、僕知ってるけど篤には教えてやんないからね」

 そう言い、ヘヘッと笑った誠は唖然とする篤を置き去りにして、サッサと家の中に入っていった。

「何言ってんだ、アイツ」

 篤はしばしその場に立ち尽くし、行き場の失った球を握り締めたまま呟いた。
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