愛の言葉を添えて

友秋

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「明日、ミュンヘンに発つ⁈」

 大きな声を出してしまったくるみに、慌てた咲希はシーッと人差し指を口の前に立てた。

 恵比寿ガーデンプレイス内のカフェは夕刻に差し掛かり、大勢の客で賑わっていた。

 外回りの営業中だったくるみは咲希からの連絡を受け会社近くの恵比寿に戻って来た。

 恵比寿駅は、咲希と玲の住まいであるマンションからも近い。

 腰を抜かさんばかりに驚いたが、深呼吸して聞くべき項目を整理する。

 今朝の会議で、今後のスケジュール、特にイベント等に関しては、情勢に細心の注意を払いしっかり見極め判断を、というお達しがあったばかりだ。

 この不安定な時期に何を言い出すのかこの人は。

 コーヒーをひと口啜り、気持ちが落ち着いたところでゆっくりと口を開いた。

「ちょっと、待ってくださいよ。まず一つずつ聞いていきますからね」

 くるみの険しい表情に、咲希はコーヒーカップを持ちながらも神妙な面持ちになった。

「この事は、手塚さんは了承されたんですか」

 こんな突飛な行動を、あの手塚さんが許す筈がーー、

「玲君には事後承諾」

 ほらぁ、やっぱりーー!

「なんで話さないんですか!」

 またまた大きな声を出してしまい今度は自分で口を塞ぐ。

「どうしてこんな大事な事、相談も無く決めちゃうんですか」
「玲君、急遽今日から出張になってしまって。玲君の仕事、今大変なところで、そうでなくても普段から仕事の邪魔しないと決めてるから」

 いやいやいやいや。

 くるみはブンブンと首を振る。

 ツッコミどころがありすぎて、何処から崩したら良いか分からない。

 そもそも、重きを置くべき場所がズレている気がしてならない。

「あの、先ずですね。何故明日? 昨日お会いした時はそんな事一言もおっしゃってなかったじゃないですか」

 咲希は困惑の笑みを見せて肩を竦めた。

「さっきね、彼から電話があったの」

〝彼〟。

 くるみは苦い顔をした。当然、玲ではないと分かったからだ。

「今すぐにでもこっちに来て欲しいって」

 呆れて口が効けなくなった。

 ポカンとするくるみに咲希は眉を下げたまま続けた。

「分かってるから、ちゃんと。世間一般の考え方からしたらおかしな事だって。でもね、強いて言えば、焦りと不安かな。彼が『今を逃したらいつ出来るか分からない』って。今まであまり考えてなかった私もネットとかで一生懸命調べてみた。私達の〝命〟の源流が遮断される危機的状況にあるんだよね、今。遮断されてからじゃ遅いの。そうなる前に、出来る限りの事をしておきたい、って私達は決めたの」

 黙って聞いていたくるみは、湧き上がる感情を抑え込み、聞いた。

「それは、状況を見て延期という判断は出来ないんですか」

 本来の予定ならもう少し先の筈だった。それをこんな前倒ししようという事自体が異常なのだ。

 思っていたよりも厳しい口調になり、咲希は少し怯んだようだったが、毅然と首を振って返した。

「『ここを逃して出来る保証は無い』って話してた。私も実際そう思う」

 ひと息吐いて、咲希は続ける。

「私達に必要なのは、互いの息遣いを感じられる距離なの。一緒に作り上げるってそういう事なの。だから、今行くって決めたの」
「咲希さん」

 くるみは静かに口を開く。

「手塚さんの気持ちもちゃんと汲んでください」

 願わくば、と心中で呟く。

〝息遣いを感じられる距離〟という言葉は、手塚さんには言わないでくださいね。

 音楽という媒体を命の糧にしている人。

 これから起こる〝何か〟への焦りと不安に備えようとしているんだ。

 それは理解した。

「私ね……」

 咲希が、穏やかに柔らかに、微笑んだ。

「ミルテの中の一曲に、大事な、籠めたい想いがあるの。だから、今回は強行する」

 柔らかな笑みの中に一本通った強い芯。

 咲希さんは、愛情深い人なんだ。

 愛するものの形って、色々なものがある事を、くるみは漠然とだが咲希を通じて教えられている気がした。

「ちゃんと、玲君にも話します」
「そうしてください。心からお願いします」

 テーブルに手を突き頭を下げたくるみに咲希は慌てふためく。

「やだ、どうしてそんな頭下げちゃうの」

 慌てる咲希が愛らしく、くるみは思わず笑ってしまった。

 一緒に笑い合い、願う。

 どうか、悪い流れは断ち切られますように。
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