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芸妓 姫扇〜武編〜
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自宅書斎で皮張りのリクライニングチェアに深々と座る津田武は、フットレストに足を乗せ葉巻を吹かしていた。ゆらゆらとくゆる煙を見ながら昨夜の武明の言葉を反芻する。
『生憎ですが、僕は父さんの御期待には添えませんよ。彼女とはもうとっくに別れたのでね』
武明の瞳には、父に対するあからさまな拒絶と侮蔑の色が浮かんでいた。
〝それが親に対する態度か〟と憤怒の感情を覚えた武だったが、希薄な父子関係から鑑みて不毛な会話を重ねる事が億劫となり『そうか』とだけ答えた。
しかし、と武は葉巻をくわえ直す。
武明があれだけ熱を上げていた女。本当に別れたのか?
武の脳裏に閃光のようにフッと何かが浮かんで消えた。
武は立ち上がると飴色の艶が重厚な雰囲気を醸し出す総檜造りのデスクの方へ行った。一番下の引き出しを開け、表情を凍り付かせる。
無い。
武はくわえていた葉巻を外して机上のガラスの灰皿に置いた。引き出しをくまなく探す。
やはり無いな。
引き出しの奥底にしまい隠してあった筈の写真が無いのだ。ザワザワと胸騒ぎがした。
やはり、自分らしくない、つまらない感傷など捨てて処分すべきだった!
武の脳裏を疾風の如く様々な憶測が駆け巡る。
ほぼ自分自身にしか興味の無い由美子はこの部屋に入ってくる事はまず無い。
武明しかいない。
武は即座にデスクの上に置かれていた電話を手にし、内線ボタンを押した。通話先は、夕食後の片付けをする使用人がいる筈の食堂だ。
夕食は常に別の為、武明が同席していない事など気にも止めていなかったが、今になって武明が今晩帰っていない事を知った。
「今晩の武明の予定は誰か聞いていないのか」
武の問いに、食堂でざわつく気配がしたが、ヤエという使用人の声がした。
「武明様からは、今日は学校の帰りに御幸様のお宅にお寄りになる、と伺ってます」
御幸右京。〝彼等〟の過去を知る、唯一の男。
武明、〝それ〟を持って行って、御幸に何を聞くつもりだ。
受話器を置いた武は、ギリと奥歯を噛み締めた。目を閉じた武の耳に今でも残り蘇るのは、澄んだ美しい声だった。
†
『武さん、ごめんなさい、私やっぱり』
『舞花! 俺の気持ちを拒んでまで恵太を取るのか⁉︎ 恵太は君のーー』
武に掴まれた細い腕とは反対の手で、舞花はしなやかに武の口を遮った。
銀杏の葉が舞い散る公園。足下で、カサカサと鳴る枯葉の音は冬への足音。冷たい秋風が教えるのは季節の移ろいと。
武の、舞花の腰を抱く腕に力が籠った。
『私と恵太さんの関係が決して許されないものだなんて事、分かっている。でもね、だからと言って貴方の元に逃げ込んだりしてはいけないの。自分の気持ちを封じ込めて貴方と一緒になる訳にはいかないの!』
舞花の腕を掴んでいた武の手から力が抜けた。掴まれていた腕が解放された舞花は両手で彼の胸を軽く突き、うつ向き離れた。
『ごめんなさい……』
二人の間を吹き抜ける冷たい風よりも身を刺すような痛みを与えた言葉が、武の心を真っ黒に染める種化した。
恵太。お前は、俺の一生掛けても手にする事の出来ないものをいとも簡単に手にするんだな。
いいだろう。俺が全てを奪い去ってやるさ!
羨望と嫉妬。そして――叶わぬ想い。武の中で燻り続けていた火種は、憎悪の炎へと変わる。
けれど嫉妬と憎悪の炎を鎮火するチャンスが一度だけあった。
彼女は、最後の砦となる筈だった。
『もっと早く、君に出会っていたら俺の人生は変わったものになっていたのかもしれない!』
抱き締めた彼女は、武の腕の中で優しく囁いていた。
『武はん、武はん。人生は短いようで長いもんどすえ。その気持ち次第でいくらでもやり直せるんとちゃいますやろか。武はんならきっと大丈夫どす。うちが応援しとりますから』
肌を全身に感じ互いを求め、何度も愛し合った。彼女が武に捧げた〝愛情〟に、一点の曇りも無かった事など分かっていた筈だったのに。
†
「姫扇どす。よろしゅうおたのもうします」
当時通産省の官僚だった武が姫花に初めて出会ったのは、大臣を始めとする閣僚数人と共に訪れた何度目かの祇園のお茶屋での事だった。
その日、初めて彼等の座敷に上がった芸妓の姫扇は、手を付き頭を下げ挨拶をした。顔を上げた彼女を見た時、武はハッとする。
落ち着いた藤紫の着物を身に纏う日本髪。白塗りの化粧を施したその下の素顔は、はっきりとは分からない筈だったが、相当な美人であることは伺えた。
彫りの深い、少し日本人離れした造作の顔に微かに青味掛かった瞳。この顔立ちに覚えがあった。
似ている、舞花に。
優美で柔らかな目元は、武の中で何時までも消える事のない女性を思い起こさせた。
「おにいさん、東京のお方どすか。うちも、出ぇは東京どす」
見事な舞いを披露した芸妓の姫扇は、大臣や閣僚達に引っ張りだこだったが、スルリと抜けて、一人隅で酒を呑む武の傍にやって来た。流れるような美しい仕草で酌をし姫扇は、武に微笑んだ。
「ああ、そうなのか。もしかして君は……」
姫扇は、え? と軽く首を傾げてみせた。
時に意味のない自然な仕草だったのだろう。しかし、大きく開く着物の襟元が、細い首をより細く見せ、艶かしく見せる。武は眩しそうに目を細め、視線を外すと盃をグイッと開けた。
「おにいさん?」
「いや、東京から出て来てここまでなるのも楽じゃなかったろうな、と思ってさ。俺は田舎から東京に出て苦労した人間だから」
「まぁ、そうどしたか。ほな、うちと少し似とりますなぁ」
優しく笑った姫扇の笑顔は舞花を彷彿とさせた。
何時だったか、舞花は、自分には同い年の腹違いの姉がいると話していた。恵太もそうだが、みな複雑な出自を抱えていた。
舞花は、姉にはもうずっと会っていないと言っていたが。まさか。
「もう少し、話しをしたいな、君と」
武は、サッと盃洗をした盃を姫扇に渡し、酒を進めた。姫扇は笑顔で「おおきに」と、注がれたそれに上品に口を添えた。
座敷の向こうでは、酒が回った官僚達と芸舞妓の野球拳が始まっていた。姫扇は優雅に微笑むと、襟元から出した赤い小さな名刺入れに入っていた花名刺を武に差し出した。
薄紅色の札のような芸舞妓の小さな名刺。大臣や閣僚には渡していたが、最若手だった武にはまだだったのだ。
「姫扇どす。よろしゅうおたの申します」
武は、はにかむ笑みを浮かべながら受け取り、姫扇もつられ白い手で口元を隠しながら笑っていた。
素顔の姫扇と会う関係となった武は、その容姿と本丸姫花という本名から、直ぐに彼女が舞花の姉と確信した。しかし、それを彼女に直接確かめる事はなかった。
姫花に〝舞花の変わり〟などと決して思わせたくはなかったから。決して、傷つけたくはなかったから。
姫扇は、武が出世の為に愛の無い結婚をした妻帯者である事を知っても、躰を預け、優しく言った。
「うちは、武はんが会うてくれはるだけでええんどす。うちは表に出る女ではありまへんえ。武はんが悔いのない人生を送らはる事、影でそっと応援させてもろたらそれでええんどす」
武は、全てを姫花預け、姫花はそれを受け止める。
「武はん、人間は煩悩の塊とちゃいますか。それに伴う罪と咎は必ずあるのとちゃいますか。罪の意識は大事どす。それを忘れる事なく心に留めて、武はんが信じた道を生きとくれやす」
親友である男を嵌め貶めた罪悪感と、貪欲な出世欲との狭間で苦悩する武に姫花はいつも優しく語りかけてくれた。
「人生は短いようで長いもんどす。やり直せるもんとちゃいますやろか」
静かに紡いだ愛情は、小さな歪みから生じた誤解によって崩壊する。
その日の祇園のお茶屋での会席は、通産大臣である加藤力也と彼の地元であり地盤である長崎のとある町の市議会議員と通産省の官僚という顔ぶれだった。
同席した武はこの場で話される〝ある計画〟の中止を進言するつもりだったのだ。
それがもし、自分の出世への道を閉ざされたとしても、彼女がいてさえくれれば。
〝人生はやり直せる〟
彼女の言葉を信じたかったのだ。
その為にはこれ以上の罪を重ねる訳にはいかない!
この夜の座敷に上がった芸舞妓の中に姫扇はいなかった。
芸舞妓達の披露する艶やかな舞いが終わり、和やかな酒宴が始まった頃、一度席を外した武は廊下で二人の芸妓の会話を小耳に挟んだ。
「姫扇さん姐さんは、襟かえの支度全部請け負ってくれはったいい旦那はんが付いてまっしゃろ」
「だから、あそこのおかあさんのウケもええんどすなぁ」
決してお客に聞かれてはいけない内輪の話だった。
武の胸に小さな〝猜疑の種〟が落とされた瞬間だった。
「加藤先生、ちょっと宜しいですか」
武が大臣に切り出そうとした話は、その隣にいた一人の官僚によって腰を折られる。
「今夜は姫扇はどうした?」
「姫扇さん姉さんどしたら、昨夜海外から戻らはったあるお方からお声かからはってそちらへ」
妬み嫉みは、芸妓の間にもジワリと広がっていた。微かな、意地の悪い響きが滲んでいた。
大臣が、ほほぅと意味深長な笑みを浮かべる。
「海外から、ねぇ……」
芸妓からの酌を受けながら大臣は探るように言った。
「津田恵三氏の秘蔵っ子と評されとる御幸右京氏を津田商事が海外から呼び戻す、と専らの噂だったが」
芸妓は着物の袂を押さえながら燗を置き、たおやかに笑い答える。
「うちはそれにはお答えする事はできまへん」
芸妓は肯定とも否定とも取れない笑みを見せていた。
「津田商事といえば……」
誰かが思い出したように話し出した。
「恵三氏が後継者にするつもりだろうと目下噂されていた津田恵太君が先日見事に失脚しましたなぁ」
ハハハと冷たい笑いが起こる。
「正直者は出世できんよ」
誰かの言葉に座が静まる。沈黙を大臣の加藤が破った。
「なあ、津田家の婿殿。御幸右京氏が戻って来るとなると、少々やりずらくなるなぁ」
盃を持つ武は加藤の言葉に「そうですね……」と相槌を打ったが、その心中は穏やかではなかった。様々な憶測が駆け巡る。
御幸右京。
彼の事は知っていた。武が追い落とした恵太が兄のように慕っていた津田家の血を引く男だ。
恵太の失脚後、義父・恵三が赴任先の海外から呼び戻したのだ。
恵太がいなくなっても自分の津田家に於ける立ち位置など、何一つ変わらない事を武は思い知らされたのだ。
〝姫扇の襟かえを請け負った旦那〟
〝海外から戻ったばかりの姫扇の贔屓客〟
武は手探りでパーツを合わせてゆく。
舞妓が芸妓となる〝襟かえ〟は相当な費用がかかる。一人で請け負うなど、かなりの器量と財力のある者でないと無理だ。限られた者のみだ。
そして、大臣の座敷よりも優先された贔屓客。
全てが繋がる。
武の中に蒔かれた小さな猜疑の種が今、芽を出し葉を拡げた。
姫扇の旦那は、御幸右京だ。
確信と憎悪が実結ぶ。
出自の卑しい人間など、所詮その程度のものなのだ。
武は、何かが崩れ去る音を聞いた。
「武君、せっかく私が津田家との養子縁組を用立ててあげたというのに、中々上手くはいかないようだな」
煙草の煙をくゆらせながら、加藤がねっとりとした口調で武に語り掛けた。
「そういえば、君、私に何か言い掛けたようだが?」
武は軽く視線を落としフッと笑い、持っていた盃を卓に置いた。顔を上げた彼は貪欲なまでの野心がみなぎる不敵な笑みを浮かべる。
「加藤先生、例の山の、あの計画、もう少し思い切ったやり方でいきましょう、と言いたかったんですよ。私の言うことなら何でも聞く忠犬のような組織がありますから」
ほぉ、と加藤が身を乗り出す。武は、それから、と口角を上げた。
「私の、津田家での地位を揺るぎないものにしてみせますので、そちらはご心配なく」
武は、加藤の言葉が暗に芸妓に現を抜かす自分への牽制である事など百も承知だった。
〝あんなもの〟は愚かなまやかしに過ぎなかったのだ!
†††
『お前の事など、最初から愛してなどいなかった。俺が愛していたのは、お前の妹の舞花だったんだよ』
確か、そんな言葉を彼女に投げつけた。〝確か〟というのは、その辺りの武の記憶があやふやなのだ。
『そうどしたか。武はんは、舞花のお知り合いどしたか』
青い顔で伏し目がちに震える声でそれだけ答えた姫花は涙を見せはしなかった。
武の捨てられなかった古い写真は、大学の文化祭に来た舞花を恵太と共に入っていた山岳部の部室に連れてゆき、三人で撮ったものだった。
恵太を通産省から追い出した後、まともに恵太の姿を直視出来なくなった。だから切り落としたのに、写真自体は棄てる事は出来なかったのだ。
姫花の写真は無い。姫花との間で紡いだ濃密な関係は、ほんの短い期間でしかなかったから。
武は握り締めた拳でデスクを叩き、フッと笑った。
濃密だなどと思っていたのは自分だけだ。姫花にしてみれば俺は、海外に行っていた御幸の変わりの、言わば腰掛け程度の男に過ぎなかったのだろう。
あの頃の自分の愚かさに涙が出るわ。
武はハハハと自嘲気味に笑う。
自分の全てを明かす等、愚か以外の何物でもない。だから、彼女を殺める事を決意したのだ。
殺める事で自分の中のどうにもならない感情を、鎮火したかったのかもしれない。
『武はん、武はんの前では姫扇やのうて姫花どす。姫花と呼んどくれやす』
初めて抱いた夜の、姫花の囁き。写真は残っていなくとも耳に残り消える事のない甘い声。
武の愛撫に応え、躍った白い躰の感触は今でも鮮明に思い出せる。
押し寄せる郷愁を振り払うように舌打ちし、デスクの奥に一枚だけ残っていた花名刺を取り出した。
グシャと握り締め灰皿に落とす。マッチを擦り点火するとゆっくりと灰皿に入れた。
丸まっていた紙に火が移り赤々と小さな炎が上がった。
あの時、彼女が泣きながらすがり付いてきたら何かが変わったのだろうか。
武は軽く目を閉じた。
いや、変わらないな。
一度、悪魔に魂を売った人間は、結局はそれを取り戻すような事など出来ない。
再び目を開けた武は音もなく灰になってゆく花名刺を睨み続けた。
そうだ、こうしてみんな消してしまえばいいのだ。
あの山の炎が自分の過去を全て消したように。
†††
『生憎ですが、僕は父さんの御期待には添えませんよ。彼女とはもうとっくに別れたのでね』
武明の瞳には、父に対するあからさまな拒絶と侮蔑の色が浮かんでいた。
〝それが親に対する態度か〟と憤怒の感情を覚えた武だったが、希薄な父子関係から鑑みて不毛な会話を重ねる事が億劫となり『そうか』とだけ答えた。
しかし、と武は葉巻をくわえ直す。
武明があれだけ熱を上げていた女。本当に別れたのか?
武の脳裏に閃光のようにフッと何かが浮かんで消えた。
武は立ち上がると飴色の艶が重厚な雰囲気を醸し出す総檜造りのデスクの方へ行った。一番下の引き出しを開け、表情を凍り付かせる。
無い。
武はくわえていた葉巻を外して机上のガラスの灰皿に置いた。引き出しをくまなく探す。
やはり無いな。
引き出しの奥底にしまい隠してあった筈の写真が無いのだ。ザワザワと胸騒ぎがした。
やはり、自分らしくない、つまらない感傷など捨てて処分すべきだった!
武の脳裏を疾風の如く様々な憶測が駆け巡る。
ほぼ自分自身にしか興味の無い由美子はこの部屋に入ってくる事はまず無い。
武明しかいない。
武は即座にデスクの上に置かれていた電話を手にし、内線ボタンを押した。通話先は、夕食後の片付けをする使用人がいる筈の食堂だ。
夕食は常に別の為、武明が同席していない事など気にも止めていなかったが、今になって武明が今晩帰っていない事を知った。
「今晩の武明の予定は誰か聞いていないのか」
武の問いに、食堂でざわつく気配がしたが、ヤエという使用人の声がした。
「武明様からは、今日は学校の帰りに御幸様のお宅にお寄りになる、と伺ってます」
御幸右京。〝彼等〟の過去を知る、唯一の男。
武明、〝それ〟を持って行って、御幸に何を聞くつもりだ。
受話器を置いた武は、ギリと奥歯を噛み締めた。目を閉じた武の耳に今でも残り蘇るのは、澄んだ美しい声だった。
†
『武さん、ごめんなさい、私やっぱり』
『舞花! 俺の気持ちを拒んでまで恵太を取るのか⁉︎ 恵太は君のーー』
武に掴まれた細い腕とは反対の手で、舞花はしなやかに武の口を遮った。
銀杏の葉が舞い散る公園。足下で、カサカサと鳴る枯葉の音は冬への足音。冷たい秋風が教えるのは季節の移ろいと。
武の、舞花の腰を抱く腕に力が籠った。
『私と恵太さんの関係が決して許されないものだなんて事、分かっている。でもね、だからと言って貴方の元に逃げ込んだりしてはいけないの。自分の気持ちを封じ込めて貴方と一緒になる訳にはいかないの!』
舞花の腕を掴んでいた武の手から力が抜けた。掴まれていた腕が解放された舞花は両手で彼の胸を軽く突き、うつ向き離れた。
『ごめんなさい……』
二人の間を吹き抜ける冷たい風よりも身を刺すような痛みを与えた言葉が、武の心を真っ黒に染める種化した。
恵太。お前は、俺の一生掛けても手にする事の出来ないものをいとも簡単に手にするんだな。
いいだろう。俺が全てを奪い去ってやるさ!
羨望と嫉妬。そして――叶わぬ想い。武の中で燻り続けていた火種は、憎悪の炎へと変わる。
けれど嫉妬と憎悪の炎を鎮火するチャンスが一度だけあった。
彼女は、最後の砦となる筈だった。
『もっと早く、君に出会っていたら俺の人生は変わったものになっていたのかもしれない!』
抱き締めた彼女は、武の腕の中で優しく囁いていた。
『武はん、武はん。人生は短いようで長いもんどすえ。その気持ち次第でいくらでもやり直せるんとちゃいますやろか。武はんならきっと大丈夫どす。うちが応援しとりますから』
肌を全身に感じ互いを求め、何度も愛し合った。彼女が武に捧げた〝愛情〟に、一点の曇りも無かった事など分かっていた筈だったのに。
†
「姫扇どす。よろしゅうおたのもうします」
当時通産省の官僚だった武が姫花に初めて出会ったのは、大臣を始めとする閣僚数人と共に訪れた何度目かの祇園のお茶屋での事だった。
その日、初めて彼等の座敷に上がった芸妓の姫扇は、手を付き頭を下げ挨拶をした。顔を上げた彼女を見た時、武はハッとする。
落ち着いた藤紫の着物を身に纏う日本髪。白塗りの化粧を施したその下の素顔は、はっきりとは分からない筈だったが、相当な美人であることは伺えた。
彫りの深い、少し日本人離れした造作の顔に微かに青味掛かった瞳。この顔立ちに覚えがあった。
似ている、舞花に。
優美で柔らかな目元は、武の中で何時までも消える事のない女性を思い起こさせた。
「おにいさん、東京のお方どすか。うちも、出ぇは東京どす」
見事な舞いを披露した芸妓の姫扇は、大臣や閣僚達に引っ張りだこだったが、スルリと抜けて、一人隅で酒を呑む武の傍にやって来た。流れるような美しい仕草で酌をし姫扇は、武に微笑んだ。
「ああ、そうなのか。もしかして君は……」
姫扇は、え? と軽く首を傾げてみせた。
時に意味のない自然な仕草だったのだろう。しかし、大きく開く着物の襟元が、細い首をより細く見せ、艶かしく見せる。武は眩しそうに目を細め、視線を外すと盃をグイッと開けた。
「おにいさん?」
「いや、東京から出て来てここまでなるのも楽じゃなかったろうな、と思ってさ。俺は田舎から東京に出て苦労した人間だから」
「まぁ、そうどしたか。ほな、うちと少し似とりますなぁ」
優しく笑った姫扇の笑顔は舞花を彷彿とさせた。
何時だったか、舞花は、自分には同い年の腹違いの姉がいると話していた。恵太もそうだが、みな複雑な出自を抱えていた。
舞花は、姉にはもうずっと会っていないと言っていたが。まさか。
「もう少し、話しをしたいな、君と」
武は、サッと盃洗をした盃を姫扇に渡し、酒を進めた。姫扇は笑顔で「おおきに」と、注がれたそれに上品に口を添えた。
座敷の向こうでは、酒が回った官僚達と芸舞妓の野球拳が始まっていた。姫扇は優雅に微笑むと、襟元から出した赤い小さな名刺入れに入っていた花名刺を武に差し出した。
薄紅色の札のような芸舞妓の小さな名刺。大臣や閣僚には渡していたが、最若手だった武にはまだだったのだ。
「姫扇どす。よろしゅうおたの申します」
武は、はにかむ笑みを浮かべながら受け取り、姫扇もつられ白い手で口元を隠しながら笑っていた。
素顔の姫扇と会う関係となった武は、その容姿と本丸姫花という本名から、直ぐに彼女が舞花の姉と確信した。しかし、それを彼女に直接確かめる事はなかった。
姫花に〝舞花の変わり〟などと決して思わせたくはなかったから。決して、傷つけたくはなかったから。
姫扇は、武が出世の為に愛の無い結婚をした妻帯者である事を知っても、躰を預け、優しく言った。
「うちは、武はんが会うてくれはるだけでええんどす。うちは表に出る女ではありまへんえ。武はんが悔いのない人生を送らはる事、影でそっと応援させてもろたらそれでええんどす」
武は、全てを姫花預け、姫花はそれを受け止める。
「武はん、人間は煩悩の塊とちゃいますか。それに伴う罪と咎は必ずあるのとちゃいますか。罪の意識は大事どす。それを忘れる事なく心に留めて、武はんが信じた道を生きとくれやす」
親友である男を嵌め貶めた罪悪感と、貪欲な出世欲との狭間で苦悩する武に姫花はいつも優しく語りかけてくれた。
「人生は短いようで長いもんどす。やり直せるもんとちゃいますやろか」
静かに紡いだ愛情は、小さな歪みから生じた誤解によって崩壊する。
その日の祇園のお茶屋での会席は、通産大臣である加藤力也と彼の地元であり地盤である長崎のとある町の市議会議員と通産省の官僚という顔ぶれだった。
同席した武はこの場で話される〝ある計画〟の中止を進言するつもりだったのだ。
それがもし、自分の出世への道を閉ざされたとしても、彼女がいてさえくれれば。
〝人生はやり直せる〟
彼女の言葉を信じたかったのだ。
その為にはこれ以上の罪を重ねる訳にはいかない!
この夜の座敷に上がった芸舞妓の中に姫扇はいなかった。
芸舞妓達の披露する艶やかな舞いが終わり、和やかな酒宴が始まった頃、一度席を外した武は廊下で二人の芸妓の会話を小耳に挟んだ。
「姫扇さん姐さんは、襟かえの支度全部請け負ってくれはったいい旦那はんが付いてまっしゃろ」
「だから、あそこのおかあさんのウケもええんどすなぁ」
決してお客に聞かれてはいけない内輪の話だった。
武の胸に小さな〝猜疑の種〟が落とされた瞬間だった。
「加藤先生、ちょっと宜しいですか」
武が大臣に切り出そうとした話は、その隣にいた一人の官僚によって腰を折られる。
「今夜は姫扇はどうした?」
「姫扇さん姉さんどしたら、昨夜海外から戻らはったあるお方からお声かからはってそちらへ」
妬み嫉みは、芸妓の間にもジワリと広がっていた。微かな、意地の悪い響きが滲んでいた。
大臣が、ほほぅと意味深長な笑みを浮かべる。
「海外から、ねぇ……」
芸妓からの酌を受けながら大臣は探るように言った。
「津田恵三氏の秘蔵っ子と評されとる御幸右京氏を津田商事が海外から呼び戻す、と専らの噂だったが」
芸妓は着物の袂を押さえながら燗を置き、たおやかに笑い答える。
「うちはそれにはお答えする事はできまへん」
芸妓は肯定とも否定とも取れない笑みを見せていた。
「津田商事といえば……」
誰かが思い出したように話し出した。
「恵三氏が後継者にするつもりだろうと目下噂されていた津田恵太君が先日見事に失脚しましたなぁ」
ハハハと冷たい笑いが起こる。
「正直者は出世できんよ」
誰かの言葉に座が静まる。沈黙を大臣の加藤が破った。
「なあ、津田家の婿殿。御幸右京氏が戻って来るとなると、少々やりずらくなるなぁ」
盃を持つ武は加藤の言葉に「そうですね……」と相槌を打ったが、その心中は穏やかではなかった。様々な憶測が駆け巡る。
御幸右京。
彼の事は知っていた。武が追い落とした恵太が兄のように慕っていた津田家の血を引く男だ。
恵太の失脚後、義父・恵三が赴任先の海外から呼び戻したのだ。
恵太がいなくなっても自分の津田家に於ける立ち位置など、何一つ変わらない事を武は思い知らされたのだ。
〝姫扇の襟かえを請け負った旦那〟
〝海外から戻ったばかりの姫扇の贔屓客〟
武は手探りでパーツを合わせてゆく。
舞妓が芸妓となる〝襟かえ〟は相当な費用がかかる。一人で請け負うなど、かなりの器量と財力のある者でないと無理だ。限られた者のみだ。
そして、大臣の座敷よりも優先された贔屓客。
全てが繋がる。
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姫扇の旦那は、御幸右京だ。
確信と憎悪が実結ぶ。
出自の卑しい人間など、所詮その程度のものなのだ。
武は、何かが崩れ去る音を聞いた。
「武君、せっかく私が津田家との養子縁組を用立ててあげたというのに、中々上手くはいかないようだな」
煙草の煙をくゆらせながら、加藤がねっとりとした口調で武に語り掛けた。
「そういえば、君、私に何か言い掛けたようだが?」
武は軽く視線を落としフッと笑い、持っていた盃を卓に置いた。顔を上げた彼は貪欲なまでの野心がみなぎる不敵な笑みを浮かべる。
「加藤先生、例の山の、あの計画、もう少し思い切ったやり方でいきましょう、と言いたかったんですよ。私の言うことなら何でも聞く忠犬のような組織がありますから」
ほぉ、と加藤が身を乗り出す。武は、それから、と口角を上げた。
「私の、津田家での地位を揺るぎないものにしてみせますので、そちらはご心配なく」
武は、加藤の言葉が暗に芸妓に現を抜かす自分への牽制である事など百も承知だった。
〝あんなもの〟は愚かなまやかしに過ぎなかったのだ!
†††
『お前の事など、最初から愛してなどいなかった。俺が愛していたのは、お前の妹の舞花だったんだよ』
確か、そんな言葉を彼女に投げつけた。〝確か〟というのは、その辺りの武の記憶があやふやなのだ。
『そうどしたか。武はんは、舞花のお知り合いどしたか』
青い顔で伏し目がちに震える声でそれだけ答えた姫花は涙を見せはしなかった。
武の捨てられなかった古い写真は、大学の文化祭に来た舞花を恵太と共に入っていた山岳部の部室に連れてゆき、三人で撮ったものだった。
恵太を通産省から追い出した後、まともに恵太の姿を直視出来なくなった。だから切り落としたのに、写真自体は棄てる事は出来なかったのだ。
姫花の写真は無い。姫花との間で紡いだ濃密な関係は、ほんの短い期間でしかなかったから。
武は握り締めた拳でデスクを叩き、フッと笑った。
濃密だなどと思っていたのは自分だけだ。姫花にしてみれば俺は、海外に行っていた御幸の変わりの、言わば腰掛け程度の男に過ぎなかったのだろう。
あの頃の自分の愚かさに涙が出るわ。
武はハハハと自嘲気味に笑う。
自分の全てを明かす等、愚か以外の何物でもない。だから、彼女を殺める事を決意したのだ。
殺める事で自分の中のどうにもならない感情を、鎮火したかったのかもしれない。
『武はん、武はんの前では姫扇やのうて姫花どす。姫花と呼んどくれやす』
初めて抱いた夜の、姫花の囁き。写真は残っていなくとも耳に残り消える事のない甘い声。
武の愛撫に応え、躍った白い躰の感触は今でも鮮明に思い出せる。
押し寄せる郷愁を振り払うように舌打ちし、デスクの奥に一枚だけ残っていた花名刺を取り出した。
グシャと握り締め灰皿に落とす。マッチを擦り点火するとゆっくりと灰皿に入れた。
丸まっていた紙に火が移り赤々と小さな炎が上がった。
あの時、彼女が泣きながらすがり付いてきたら何かが変わったのだろうか。
武は軽く目を閉じた。
いや、変わらないな。
一度、悪魔に魂を売った人間は、結局はそれを取り戻すような事など出来ない。
再び目を開けた武は音もなく灰になってゆく花名刺を睨み続けた。
そうだ、こうしてみんな消してしまえばいいのだ。
あの山の炎が自分の過去を全て消したように。
†††
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