舞姫【中編】

深智

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サトゥルヌス

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 サトゥルヌス

 ギリシャ神話に於ける農耕の神クロノス。

 欲望の為に父を殺し、彼もまたゼウスという息子に殺された。

 それは、逃れられぬ父と子の、宿命。




 
 繋がれた手が、加速する鼓動音を生む。武明の手は、冷たくしなやかだった。



 国立西洋美術館は、先週みちるが来た時よりも静かだった。

 平日の午前、という事もあり美術館らしい落ち着いた空間が拡がる。

「そっか、あの日僕との電話の後、観に来たんだね」

 1枚1枚の絵を丁寧に鑑賞しながら、武明は言った。

「うん、ごめんね。武明と観る約束だったのにね」

 みちるの言葉に武明はクスリと笑い、優しく答えた。

「いいんだよ。僕が誘ったものに、みちるが興味を持ってくれた証拠だからね」
「武明」

 あなたはいつも大きな心で私を受け止めてくれる。保さんのよう。

 スッと脳裏を掠めた保の姿に、みちるはフルフルと小さく頭を振った。
 
『みちる。自分が信じる唯一のものをしっかり見つめて生きるんだ』

 何の詮索もしなかった保だったが、静かにそう言った。

 あの言葉にはどんな意味があるのだろう。でも。とみちるは思う。

 武明と会う時は、武明だけを見つめよう。




 あの日涙し、美しい婦人に声をかけられた聖母子画の前でみちるは立ち止まった。絵の中の優しい瞳に再び惹き付けられる。

「みちる?」

 武明に呼ばれみちるは静かに口を開いた。

「あの日ね、この絵の前でとっても綺麗な女の人に声をかけられたの」
「この絵の前で?」

 武明が改めて、絵を見つめた。

「うん。恥ずかしいんだけど、この絵を観て私泣いてしまっていて」
「みちる」

 心配そうに瞳を覗き込んだ武明に、みちるの胸がキュンと鳴る。早まる鼓動を深呼吸で押さえ、みちるは小さく言った。

「私ね、お母さん、いないから」

 ああ、と武明は優しく労るようにみちるの頭を撫でた。

「みちるの事、これから少しずつ教えて」
「うん。武明の事もね」

 みちるの言葉には、武明は笑みを返しただけで直ぐに話を続けた。

「じゃあ、その婦人と鑑賞したんだ」
「うん。何も知らない私に色々と教えてくださって。着物を素敵に着こなした人だった」

 そう、とみちるは思い出す。

 普通のご婦人とは違う感じがした。

 みちるを静かに見つめていた武明は再び絵に視線を戻す。

「聖母子画は、随分と色んな画家が残しているけど、僕はこれが一番好きだな」

 繊細なブルーが基調になったその絵の中でしっかりと我が子を抱き、見つめる母の表情は、観る者をその絵の中に引き込んでゆく。

 慈しむ瞳と、母を絶対の存在として慕う子の目。

 改めて観るみちるは目を細めた。

「私も、この絵とても好き」

 母の笑顔に似てるから。

「この絵を描いた画家は、これ1枚しか残していない。それどころか、その名を後世に残していないんだよ」
「そうなの?」
「当時は見向きもされなかった無名画家の作品も、死後その価値を認められこうして名画として残った。そして後世に生きる者達の目を和ませてくれる。そんな絵の前で出会った婦人は何かの運命に導かれたのかもしれないね」

 絵からみちるに視線を移した武明は優しく笑った。みちるも笑う。

「武明は、ロマンチストね」
「よく言われる」

 言いながらクスクス笑った武明に、みちるも、そうなの? と笑った。




「この絵は怖くて、よく観なかったよ、武明」

 武明が立ち止まった一枚の絵の前で、みちるの表情が不安げに固まった。

「うん、確かに怖いんだけど、実はね、僕はこの絵が一番観たかったんだ」

 その絵とは、

〝我が子を喰らうサトゥルヌス〟

 というタイトルの、2枚の絵だった。

「この絵が?」

 絵の中では1人の男が赤子を喰らう。

 物腰の柔らかな武明からは想像もつかない、そんな絵だった。

「みちる、僕の隠し事をここで告白するよ」
「え?」

 フッと笑った武明を、みちるが小首を傾げて見上げる。

「実は僕もこの特別展示、今日が初めてじゃない。一般公開前に観たんだ。祖父がスポンサーだから招待されて」
「お祖父様が……」
「そう。それともう一つ。展示の企画段階でこの絵はどちらか1枚しか来ない筈だったんだけど、僕は恥を偲んで祖父の威光を利用して、主催者に我が侭を言って2枚並べて展示出来るようにして貰ったんだ。僕はどうしてもこの2枚を並べて鑑賞したかったから」
「武明……」

 みちるは、話を聞きながらその品格すら漂う彼の横顔を見上げる。

 鑑賞中、この美術館の館長がわざわざ武明の元を訪れ、恭しく挨拶する光景をみちるは目の当たりにした。

 あなたはやっぱり、住む世界の違う人。

 この恋の先に続く道が、決してなだらかな道ではない事が容易に想像でき、みちるの胸がチクリと痛んだ。

 でも、少しでも一緒にいたいから。今はただ、あなたを知りたいから。

「同じタイトルだから、並べて観たかったの?」

 絵を見つめたまま動かない、武明の鼻筋が通った端正な横顔を見上げるみちるは聞いた。

「端的に言ってしまえば、そうだね」

 武明は振り向きニッコリ笑った。

「みちるは、ギリシャ神話は知ってる?」
「え? あ、うん少しは……」

 以前、保がみちるに与えた本の中にギリシャ神話があった。

『面白いぜ。神々のやる事が、あまりにも世俗的で人間社会の縮図のようなんだ』

 人間社会の縮図。当時は、17、8で保の言葉の意味はよく分からなかったみちるだが、今ならあの世界の、愛欲の混沌がほんの少し分かる。

「サトゥルヌスは、ギリシャ神話のクロノス」
「あ、クロノスなら分かるわ」

 ゆっくりと話し始めた武明は、みちるの反応に微笑み頷く。

「じゃあ、クロノスがどんな悪行を働いた神様かは、分かるよね」
「……うん」

 ギリシャ神話に於ける農耕の神クロノスは、天界の玉座を手中に納めるが為に、父である天空神ウラノスを殺害し『我が子によりその玉座を奪われるであろう』という予言に怯え、生まれた我が子を次から次へと喰らう。そして、万能神となる息子ゼウスより討たれた。

「彼の諸行が悪行かどうかは様々な見解があるけどね、どちらにしても、哀れな神様に変わりはない」
「哀れな神様」

 2人は暫くその2枚の絵を見比べた。

 どちらも赤子を喰らう男の絵だ。しかし、一方の男にはまだ、神としての威厳が残るのに。

「こっちの絵からは狂気しか感じない」

 武明は小さく呟いた。

「うん、とても怖い」

 絵の中の男は、ギョロリと目を剥く不気味な表情でこちら凝視する。赤子の身体を口にくわえたまま。

「中学生の時スペインのマドリッドの美術館で初めてこの絵を観たんだ。その時は、サトゥルヌスは罪の意識に怯えているのかな、と思った。けれど、大人になって、そうじゃないかもしれない、って思うようになったんだ」
「武明?」

 微かにくぐもる武明の声に、みちるは不安げに声をかけた。武明は小さなため息をつき、みちるを見る。

「一緒にこの絵を観ればみちるに自分の家の話を少しでもスムーズに話せるかな、って思ったんだ」
「武明さんのお家の話?」
「そう」

 武明は、みちるに小さな笑みを見せ、小さく呟く。

「僕はさ、この絵の男の目がどうしても脳裏から離れなくてね」

 一瞬、微かな影をみちるは武明に見た気がした。

 再び絵の中の男に目を向けた武明は静かに語り出す。

「この絵の中のサトゥルヌスは自分の犯した罪の重さに震え戦いているんじゃない。玉座を追われる恐怖に怯えているんだと大人になってみて少し分かった気がしてね」
「玉座を追われる恐怖?」

 みちるの確かめるような問いかけに、武明は優しく笑いかけた。

「うちの一族は、玉座、いわゆる祖父のポストを狙う大人達の血生臭い駆け引きの巣窟だからね。この目にそっくりな目を小さな頃、身近で見てきた気がして」

 そこまで話した武明は、言葉を切り目を閉じた。

「武明」
「ごめん、暗い気持ちにしちゃったね」

 武明は、肩を竦めて優しく微笑んだ。みちるは困惑顔をしてみせる。

「私は武明の中にある想いがもっと知りたいよ? だから、謝らないで」

 武明は愛し気な眼差しをみちるに向けた。

「ありがとう。また少しずつ話すよ。みちるも聞かせて?」

 武明は、静寂の中で囁く。みちるは、うん、と頷いていた。

 武明は少し冷たく、長いしなやかな指を、みちるの指と絡める。

「みちる、今日は?」
「えと、あのね、2時に楽屋入り」
「じゃあ、一緒にお昼を食べて、劇場まで送るよ」
「うん!」

 いつもの明るい武明に、みちるの表情が緩んだ。

 繋がれた手から微弱な電流が流れ、心は快感に震える。



 大事な核心部分を聞けなかった。そんな気持ちを残しながら、みちるは絡め握る手の感触を確かめ、武明は、話せなかった自らの記憶を胸にしまった





 その夜は、関東地方は一晩中豪雨が続ていた。

 10歳だった武明は、真夜中激しい雷雨の音に目が覚めた。

 広い屋敷だが、家族は勿論使用人も寝静まる家の中で何処かの部屋のドアが開く音を、武明は聞いた気がした。

 そっと部屋を出てみた武明は、階下から激しい雨の音に混じる誰かの話し声を聞く。

 階段を数段下りた武明が恐る恐る下を覗くと、コードレスフォンで話す父の背中が見えた。

 廊下の足元灯がぼんやりとその姿を映し出していた。

 何を話してるのだろう。

 武明の胸はドキドキと早まる鼓動と言い知れない不安と恐怖に染まる。

 どうしてこんなに怖いんだろう。お父さんなのに。

 普段から親しみのない父ではあったが、この夜の彼の背中はまるで、暗い闇に巣食うーー。

 息子の武明に見られているとも知らない父は、背中を震わせククククと笑い出した。

 誰と話してるんだろう。

 武明は、途切れ途切れに聞こえる父の話に耳を澄ました。


「……手筈通り、その車ごと湖に沈めとけ……雨が全部洗い流してくれるだろう……」

 お父さん? 何の話をしてるの?

 貼り付く恐怖。そこにいるのは、父ではない。

 背中が動いたのを見た武明は、壁に張り付き息を殺した。

 暗闇からそっと目だけで父を確認した時、その背中が振り返った。



 Saturnus――サトゥルヌス。

 英字読みは

 Saturn――サターン。



 武明は思う。

 綴りも発音も違うのに〝ある言葉〟と、被るのは自分だけだろうか、と。

 絵を観て蘇ったあの夜の記憶だった。

 そうだ。あの夜振り返り、見えた父の目は、このサトゥルヌスの目だったのだ。


 〝ある言葉〟とはSatan。悪魔――。

 父はもしかしたら悪魔の化身かもしれない。

 では、自分は?



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