舞姫【中編】

友秋

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交差点

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 人生が一本の線ならば、出会いは交わる点。

 それは呼び合う魂か。それとも。




 ショーが終わった劇場の楽屋前の廊下。半裸状態で煙草を吸いながら寛いでいた踊り子達の中から、きゃあっ、と悲鳴が上がった。

 踊り子達の中に老爺が飛び込んだのだ。

 ストローハットをかぶったニコニコ顔の小柄な老爺は、踊り子達に背後から抱き付き胸を揉んだり、やりたい放題だ。

「やだぁっ、金造ちゃんっ」
「きゃははっ」

 老爺の戯れに慣れた様子の踊り子達は嫌がる様子も無く甲高い色声を上げてはしゃぐ。老爺はご機嫌で調子に乗る。

「リリーちゃん、ちょっと太ったと思っとったが、間違いないっ、この胸は」
「きゃあっ」

 小柄の老爺は一人の踊り子に抱き付くと豊満な胸に顔を埋めた。

「金造ちゃんっ、調子に乗ると麗子さんに言い付けるわよ~」
「いいんじゃっ、麗子はパイ擦りパイ揉みは一日一回許してくれとるっ」
「もぉ~」

 この世界のご愛敬、ご挨拶だ。

 藤間金造。年齢不祥だが、この劇場のぬしとも言われる管理人だ。

 星児がここを買い取るずっと以前から変わらず管理人として勤めている老人は、紳士なのか、ただのエロじじいか。

 踊り子達の間ではそんな事は大した事ではなかった。ただ、信頼の置ける相談相手である事に間違いはなかった。

「ララちゃん、あの男とはちゃんと別れたか」
「うん、金造ちゃんの言う通りだった。別れたわ」
「よしよ~し」
「きゃあぁっ」
「うぐっ?」

 飛び付こうとした老爺の襟首が掴まれた。

「あ、セイジ~」
「星児さん~」

 さっきとは明らかに違う黄色い声が上がった。

「エロじじい。今夜の戯れはそこまでだ」
「なんじゃ~、つまらん~」

 星児に掴み上げられ踊り子達の輪から引き摺り出された金造は心底面白くなさそうにボヤく。

「調子に乗ってると売り飛ばすぞ」
「こんな老爺、どこにも売れんわ。それにか弱い老人を粗末に扱うとバチが当たるぞい」
「一日中パイ揉みだパイ擦りだやってる老人のどこがか弱いんだ」

 踊り子達の間からキャハハッと笑い声が上がった。

「明日もあるんだろ、みんな早く上がれよ」
「はーい」

 星児の一言に踊り子達は素直に楽屋に戻って行った。

「んじゃ、ワシもおいとまーー」
「待て」
「ぐぇ」

 そそくさと離れようとした金造を星児は再び捕まえた。

「お前、ワシをいくつと思っとる。死ぬぞ」
「幾つかは知らねーけど、金造じいは多分こんくらいじゃ死なねーよ」

 星児は近くにあったベンチに腰を下ろし、金造にも座るよう促した。

 空気が変わる。

 普段はアレだが、戦争を潜り抜け、この街でしたたかに生き残ってきた金造の洞察は鋭い。

「今夜は何の話を聞きたいんじゃ」

 少し前と打って変わった低く重い声に星児は応える。

「あの〝男〟の事は分かったか」

 ああその事か、という反応を見せた金造は煙草を懐から出してゆっくりとした仕草で咥え、マッチで火を点けた。

「何回か顔を見てやっと思い出したよ。あの男の事は二丁目のネェちゃん達が一番知っとる。要注意人物じゃ。天使の顔をした悪魔だと言うヤツもおったぞ」



 JR上野駅の公園口は、乗降客が絶え間無く人の波を作っていた。

 改札口前の雑踏に紛れ誰かを探す様子を見せていたみちるは、バッグの中でポケットベルが鳴っている事に気付いた。

 取り出したみちるは番号を確認し、公衆電話へ走った。

 外した受話器を顔と肩の間に挟み、財布からテレホンカードを出して電話機に入れた。武明の携帯電話の番号を押す。

 携帯電話に掛けたらカード、足りないかも。

 財布からもう一枚カードを出しながら武明が出るのを待つ。

 ガチャ、という音が鳴り、武明が出た。みちるは予備のカードも電話機の中に差し込んだ。

「もしもし、武明さん? もしかして、来れなくなっちゃったの?」

 不安そうに言うみちるに電話の向こうの武明はすまなそうに理由を話す。

「ごめん、今日は大学のゼミの教授に会う約束が急に入ってしまったんだ。本当にごめん。でも今週中には必ず行こう」
「うん」

 みちるが心底悲しそうに返事をすると、武明の声もよりトーンダウンしてしまう。

「今度は絶対に約束守るから、ホントにごめんね」
「うん、大丈夫だよ。気に、しないでね……」


†††

 予備のカード、いらなかった。

 二枚のテレホンカードをピンク色の財布にしまったみちるは僅かに肩を落とした。

 私やっぱり、からかわれちゃってるのかな。

 胸中を舞う微細な何か。

 武明さん、前にあんな事言ってくれたけど、私の事なんてやっぱり本気じゃないのかもしれない。

 公園口前の横断歩道を歩き出したみちるの視界が微かに曇り、手の平でそっと目元を拭った。

 私みたいな子は、普通の恋は出来ないのかな。

 国立西洋美術館の前には期間限定特別展示の大きな看板が出ていた。

 みちるは数日前、武明に休みの予定を伝えた時、美術館に誘われていた。

『私、絵とか分からないよ?』
『分からなくていいんだよ。でも、嫌いではないよね?』
『うん、綺麗なものを観るのは好きだよ』

 武明は、じゃあ決まり! と明るく言った。

 初めての、デートらしいお出かけ、と浮き足立っていたみちるの心がすっかり消沈してしまった。

 武明さん、すごくいいよ、って言ってた、コレ。一人だけど入ってみようかな。



 特別展示は海外の有名な美術館のコレクションを集めた企画展だった。国内展示は数十年ぶりとあって展示スペースは人で溢れていた。

 ところどころに、絵の知識はなくとも知る絵画があったが、みちるにとっては初めての美術館だ。

 やっぱり、武明さんと来たかったな。

 一人で回る寂しさを胸に、流れるような人の波に沿って絵を観ていたみちるの足が、止まった。

 聖母子像だった。

 あ、お母さん。

 絵を見たみちるが真っ先に抱いた印象だった。

 画家の名など分からない。ただ、母が心の底から我が子を慈しむ優しい表情に胸がキュンと鳴った。

 切なさが込み上げ、ポロリと涙が溢れた。

 お母さん、私の話を、聞いて。私ね、今凄く苦しくて。
 
「この絵がお好きなの?」

 不意に声をかけられたみちるが慌て涙を拭い振り向くと、涼やかな青磁色の着物を着た、たおやかな女性が立っていた。

 手には、白い日傘に小さなバッグ。みちると目が合った彼女は優雅に微笑んだ。

 綺麗な、人。

「あの、えと、この絵の女性に母を、思い出して――」

 みちるはその婦人の優雅な美しさに圧倒され、どぎまぎと答えた。

「まぁ、お母様を」

 優しい笑みを浮かべた婦人はしなやかに歩み寄り、みちるの横に立った。フワリといい香りがみちるの鼻先を掠めた。

 だれだろ? どうして私に話しかけて?

「貴女のお母様はとても優しく微笑みかけてくださるのね」

 絵を眺めたまま静かに言う婦人の言葉に、みちるは小さく答えた。

「はい。とっても優しい母でした。でも、私が小学生の時に亡くなったんです。だからーー」
「思い出したのね」

 先を酌み、包むように優しく言った婦人は続ける。

「わたくしは、この絵を観ると、母親だった自分の気持ちを思い出すの」
「母親、だった?」

 絵を見つめていた彼女の、彫りの深い美しい横顔が、みちるには寂しく曇ったような気がした。

「わたくしは貴女と反対ですわね。娘を、亡くしてますの」

 あ、だから寂しそうなお顔を。

「わたくしは、母だった時、娘にこんな優しい笑みを見せてあげていたかしらと思わずにいられないの」

 どんな言葉をかけてよいのか分からず泣きそうになるみちるに、婦人は柔らかに微笑んだ。
 
「ごめんなさい、そんな悲しそうなお顔をなさらないで」

 柔らかな笑顔がみちる心をそっと包み込む。

「良かったら、この先ご一緒していただけませんか? 一人では寂しかったものですから」

 まるでしなやかな両手で全てを抱き込むような優しい声だ。

「はい、私で良ければぜひ」

 本当なら、隣にいるだけで緊張してしまいそうになるくらい美しい婦人だ。しかし、みちるは彼女に何処か懐かしい感覚を覚え、心が解れてゆくのを感じていた。



「私、本当に何も知らなくて。たくさん教えていただいてありがとうございます」

 美術館を出たところでみちるは婦人に頭を下げた。

 婦人は博識だった。

 しかしそれは決して押し付けがましい感なく、観る絵にまつわる話をさりげなくみちるに語ってくれたのだ。
 
「いいのよ。絵を観る時に知識など本当はいらないのですから。素直な心で鑑賞するのが一番だと思いますわ。余計な知識は、時には喜びと感動の邪魔をするものです」

 微笑んだ彼女は日傘を広げ、差した。

「美術館は一人でゆっくり鑑賞したい時もあるけれど、今日は誰かとご一緒したい気分でしたの。とても楽しい時間を過ごせましたわ。お嬢さん、本当にどうもありがとう」

 夏の強い日差しが日傘に遮られ、婦人の笑顔に優しい影が出来ていた。

 ここでお別れ、という寂しさにみちるの胸に何とも言えない想いが込み上げる。

「あ、とんでもないです。こちらこそ」

 婦人は小首を傾げ、別れ際みちるに言った。

「ご縁がありましたら、また何処かでお会い出来ますわ、きっと」

 軽く会釈をした彼女の、着物に日傘を差す気品溢れる後ろ姿を、みちるは見えなくなるまで見送った。

 私も、そう思います。

†††
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