舞姫【中編】

友秋

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初恋へ

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 この手をずっと握ってくれていた、あの優しくて強い手の中に、私はまた戻れる?



 目を覚ましたみちるの視界には太い梁が走る板張りの高い天井が広がっていた。

 朝、目を覚ませばそこには見慣れたクリーム色の天井が拡がると、2日目の朝を迎えても思ってしまう。

 隣に目を向けると。枕がのせられた畳んだ布団があった。

 ミキエさん、今朝も早いなぁ。

 みちるはゆっくりと起き上がった。

 東向の書院障子から柔らかな朝日が射し込む。その障子窓の傍に、ピンク色の小さなトランクが置かれていた。

 藤色の寝間着の胸元を合わせ直してノロノロと布団から出たみちるはトランクのところへ行き、ゆっくりと開ける。

 下着から洋服まで、綺麗に畳んで入れてあった。麗子が用意してくれた物だった。

 ここに来た明くる日の早朝、執事の近衛がみちるの部屋に届けてくれのだ。

『劇場の支配人様から昨夜遅く預かってまいりました』

 支配人、という事は。

『麗子さんが?』

 近衛は、優しく微笑み答えた。

『はい。夕べ、みちる様のお荷物を準備したので取りに来て頂けますか、とご連絡が入りまして。みちる様がお困りになられてはお可哀想だと仰られましてね』

 受け取った荷物の中には、薄いピンク色の便箋に書かれた手紙が入っていた。

 みちるちゃん、という呼びかけから始まり、優しい文字が並ぶ。
 
『みちるちゃん

今日、急に星児に言われて貴女をあんな風に送り出してしまって、ごめんなさいね。
あともう1つ。みちるちゃんのタンス、クローゼットを勝手にいじらせて貰ってごめんなさい。
必要そうなもの、入れておきました。

でもね、荷物は最低限の物しか入れてません。
それは、貴女が必ず直ぐに帰って来てくれると思ってるから。
星児も保も、もちろん私も。
待ってます。

麗子』


 麗子さん、ありがとう。

〝帰って来ると思ってるから〟という文を読んだ時、胸が熱くなった。

 私、あそこに帰ってもいいの? 私の帰る場所はある?

 だって私は星児さんに、〝売られて〟しまったんじゃないの?

 手紙を持ったみちるの手が震え、瞳からは涙がポロポロと溢れた。

 もう一方の手で押さえた口からは、嗚咽が漏れた。

 星児さん、保さん。

 私はもうどうしたらいいか分からないです。

 みちるは手の中の便箋を見ながら、昨日の朝の事を思い出していた。

その時、

「みちるさん、お目覚めになられましたか」

 障子の向こうの廊下から、家政婦のミキエの優しい声が聞こえた。

「あ、はい!」
「身支度がお済みになりましたら、食堂にいらしてくださいませ。今朝は右京坊っちゃまがみちるさんとご一緒にお朝食を取られたいとの事です」

 えっ!

「はい! 急いで参ります!」





 『ゆっくりと向き合いたい』と言ってはいたものの、御幸は非常に多忙なようだった。

 昨日の朝はみちるが目覚める前に出掛けており、夜も彼女の就寝前には戻らなかった。

 随分遅くに戻られた筈なのに、もう起きてらっしゃる。

 みちるは慌てて着替えを済ませ、ミキエの隣に畳んだ布団を置いた。

『君が暗闇を恐れ1人で寝つく事が出来ない事は、剣崎から聞いている。ここにいる間はミキエさんに一緒の部屋で寝てもらうようお願いしてあるから、安心なさい』

 ここに来た日の夕食時、御幸はみちるにそう言った。

 星児さん、私の事をちゃんと話していたんだ。

 小さく痛む胸を抱え、みちるは立ち上がり、障子を開け廊下へ出た。




 みちるが20畳程の洋室となっているダイニングに入ると柔らかな冬の朝日が溢れていた。

 薄焼きトーストがスタンドに5枚程差され、数種類のジャム、と言ったイングリッシュブレックファーストの趣き深い食事が広いテーブルの上に並んでいた。

 御幸は東側の椅子に座り新聞を読んでいた。

「みちるさん、右京坊っちゃまのお向かいにお座りくださいね。今、お飲み物ご用意しますから」
「あの、私お手伝いします」
「気にしなくて良い。座りなさい」

 キッチンに入って行ったミキエの後を追おうとしたみちるに、御幸が新聞を畳ながら声を掛ける。振り向いたみちるは、慌てふためく。

「あ、おはようございます。え、と」

 緊張の為上擦る声で挨拶をしたみちるに、御幸が柔らかな笑みをみせた。

 ワイシャツにネクタイにベスト。仕立ての良さは、一目でわかる。ネクタイの柄もベストの色も、見事なセンスだ。

 キュ……ッとみちるの胸が鳴った。

「右京でいい」

 え、名前で?

 微笑む右京にみちるは身を固くしながら小さく言う。

「右京、さん、おは、ようございま、す」
「はい。おはよう、みちる」

 辿々しいみちるの挨拶に応えるのは、色香を湛える甘やかな、低く響く声。

 御幸の声はみちるの身体の、心の深淵に眠る何かを呼び覚ますようだった。



 茶葉から丁寧にいれた、ティーカップの中の琥珀色の液体が朝日に光っていた。

 湯気が運ぶ香りを思い切り吸い込んだみちるは、幸せそうな笑顔を見せた。

 いい香り。

「素敵な笑顔を見せてくれる」

 ティーソーサーとカップを持つ御幸がクスリと笑った。品の良い笑みにみちるはドキッとする。

「すみません、私お行儀とか分からなくて」

 肩を竦め恥ずかしそうに身を小さくすると御幸は優しく語りかけた。

「みちるは、〝お行儀〟なんて気にしなくて良いよ。私は、君のありのままの姿を知る為に剣崎から預かったのだからね。それに、そんな幸せそうな笑顔を朝見せて貰えると、こちらも良い一日を過ごせそうな気持ちになる」

  胸にじんわりと染みるその言葉と声は、あまりにも自然に、心を柔らかく包み込む。

「私の、笑顔が?」

 優しく頷く御幸を見て、みちるは喉の奥に微かな痛みを覚えた。

 今、何か言葉を発したら心が崩れ、涙声にになりそうだった。

 心に引っかかったもう一つの言葉がある。

 星児さんから〝預かった〟? 私に帰る場所はあるの?



「今夜も帰りが遅くなる。だから今、少しでもみちるの話を聞かせて貰いたい」

 食事を始めた時、御幸はみちるを真っ直ぐに見つめて静かにそう言った。
 
「私の話を?」

 手作りと思われるアプリコットのジャムをトーストにのせていたみちるは、首を小さく傾げた。

「そう。まず、剣崎に拾われる前、特に、あの街に来る前の話を聞かせて欲しい」

 ハッと顔を上げたみちるの目には、明らかに悲壮感が漂っていた。しかし御幸の目はその瞳をしっかり捉えて離さない。

「いいかな。聞いて欲しい。みちるにはもしかすると辛い、触れたくない過去かもしれない。でも、そこからいつまでも逃げている訳にはいかないのだよ」

 一旦言葉を切った御幸は、視線を外し窓の外に目をやり、徐に話し始めた。

「私の話を先に少ししよう。私の勘に間違いがなければ、みちるのその、一番辛かった過去に繋がる話を」

 みちるの手が、表情が、固まった。

†††

 昼下がり、ミキエが奥の一番広い座敷で着物を衣桁から外し、畳み始めていた。みちるは傍で正座をし、姿勢を正し眺める。

 着物はあの日みちるが着せて貰ったものだ。この座敷は、着付けをした場所。

「私、着物の事は分からないけれど、それはとても素敵な着物でうっとりします」

 みちるが言うとミキエは畳む手を休める事なく静かに話し始めた。

「このお着物は京友禅という、とても高価なものなのですよ。これは、右京坊っちゃまが愛されたたった1人の大切な女性の形見なのです」

 たった1人の大切な女性。

 その言葉はみちるの心に深く切り込んだ。恐る恐る聞く。

「そんな大事なお着物を私が着てしまったんですか?」

 畳み終えた薄紅色の着物を、ミキエはたとう紙で包みながらみちるに微笑みかけた。

「お着物は、仕舞われたままではその輝きを放つ事は出来ません。だから右京坊っちゃまは、みちるさんに着ていただきたかったのでしょう」
「恐縮してしまいます」

 肩を竦めたみちるを見て、ミキエはフフフと笑い、金糸の艶やかな帯も丁寧に紙を挟みながら畳む。傍にあった小物に目をやり、みちるに言った。

「それではみちるさんには、そこの帯締めと帯留めをこのお箱に入れていただきましょう」

 みちるがミキエに指された先を見るとそこには、華やかな糸で組まれた帯締めと、彫金の、翼を拡げた鳩の帯留めがあった。

 翡翠の台が付いている。

 翼だ。

 着ていた時には気付かなかった。

 美しい帯留めに思わず見惚れるみちるに、ミキエが静かに言った。

「このお着物の一式は右京坊っちゃまが、みちるさんに差し上げます、とおっしゃっておられました。きちんと桐のお箱に入れておきましょうね」


†††

 南側の縁側から見る広い日本庭園。見事な枝を張る梅の木で、小さな花がほころび始めていた。
 
「もう少し経てば椿も咲く。牡丹の花もみちるに見せてやりたかったが」

 そんなに長くはここにいないだろう、という言葉が先に隠れているようだった。

 日曜日。御幸は朝から着物姿だった。

 開け放たれた縁側で足を下ろして座るみちるの傍で、袂に手を入れて腕を組み立つ。

「梅の香りが微かにして、他にも小さなお花がチラホラ見えます。今でもとても楽しませていただいてますよ」

 御幸を見上げ、みちるは楽しそうに笑った。みちるの笑顔に御幸は愛しそうに目を細める。

 庭に下りようと、みちるが立ち上がった時だった。

 縁側から見える門扉が開き、赤いスポーツカーが入って来た。
 
「あれ、誰かみえましたね?」

 御幸が、ああ……と言う。

「あれは、私の従妹の息子です」

 従妹の息子さん。

「前はここには滅多に来なかったのだが、最近になってイギリスに留学をしようと決めたらしく、よく顔を出すようになってね」

 御幸が、やれやれ、という雰囲気で答えた時、ミキエの大きな声が玄関から聞こえた。

「右京坊っちゃまー! 武明様がお見えですー!」

 みちるはビクリと反応した。

 たけあき?

 聞き覚えのある名前だった。

 廊下の向こう、玄関から、ミキエに「おはようございます」と挨拶を交わし、明るく会話する声がこちらに近付いて来る。そして。

「右京おじさん、おはようございます。玄関に見慣れない女性の靴がありましたけど、どなたがお見えで」

 現れた明るい声の青年がそこで言葉を失った。みちるも彼を見て息を呑む。

「あ、」
「あなたは……」

 ほぼ同時に二人は声を発していた。

 彼等を見た御幸は、おや、という表情を覗かせる。

「お知り合いでしたか?」

 にこやかに微笑みながら静かに言う御幸に、武明の声が多少高くなった。

「おじさん、彼女とはどのようなご関係なのですか?」



 
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