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カルテ31 もう一人のキーパーソン2

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 どうして、大牧先生がここにいるの?

 どうして、緒方君の事と分かったの?

 そして何より、先生は、何を、何処まで知っているの?

「翠川は、何処まで知っているんだ?」

 わたしの中にあった疑問が、先生によって逆に聞かれた。

 意表を突かれ「えっ?」と先生を見た。

 瞬きも忘れて目を見開くわたしに、先生は肩を竦めて小さく息を吐いた。

「〝わたしが聞きたい〟って顔だな」

 もろに心を読まれパッと視線を逸らせた。

 自分のミュールの足先を見つめたまま、黙り込んでしまう。

 何をどう聞いていいのか、話していいのか、分からなくなってしまった。

 抱えきれないくらいの真実が、今目の前に大挙して押し寄せている。

「緒方のヤツ、やっとこの絵を手放す事ができたんだ。大事な人の為、と言っていたな。アイツの大事な人、というのが翠川だったんだな」

 ハッと顔を上げた。

 風景画を見つめ、目を細める先生の横顔がとても優しく見えた。

「この企画展示は銀座の大牧画廊という画廊の主催なんだ」

 大牧?

「もしかして……」
「私の父は画商なんだよ」

 ああ、それで――。

 ここに先生がいる理由は分かってきたけれど、残る疑問はまだ山ほどある、そう思っていると。

「父は緒方にずっと前から、この風景画を譲ってくれ、と言っていたんだ。私も、もう忘れろ、その為にはまずこの絵を手放せ、と話していた」

 先生の言葉は、一気に核心を突く踏み込んだものに思えた。

 でも。

〝忘れろ〟

〝忘れる為には、この絵を手放せ〟

 先生の〝忘れる〟という言葉がすごく引っかかった。

 それは、違う気がするの。

 緒方君の持つ、緒方君である為のアイデンティティ。

 わたしは、緒方君にどうあって欲しいと思っているのだろう。

「先生、緒方君は……」

 わたしを見て頷いた大牧先生は、緒方君の事をぽつりぽつりと語り始めた。

 緒方君はこの絵を描いた女性と高校時代にお付き合いをし、心中騒動を起こした。

 ずっと、そう思われていたけれど、それは間違いだった事が先生の口から語られた。

 わたしの推察通り、緒方君の奥さんというのは、この女性だった。

「真琴は私の姉の子で、つまり姪っ子だったんだ。
その親戚筋、つまり姉の夫方に有名な画家がいたんだが、とにかく家庭が複雑でな。
あの子が高校3年の時に周りで沙汰が起きて、緒方はそこに巻き込まれたんだ。
いや、巻き込まれた、というより体当たりで突っ込んできた、と言った方が正しいかな。
真琴を助けたい一心で命がけでな。
それが、事件になって週刊誌やらの記者達の格好の餌食になってしまった。
で、面白おかしく書き立てられていつの間にか若く幼い二人の男女の心中事件に仕立て上げられてしまった」
「そう、だったんですか……」

 心中事件は、作られたものだった。

 けれど、高校生だった緒方君が彼女の為に命を賭したという事実に間違いはなく。

 先生の言葉は時折歯切れが悪くなる。

 大牧先生は、周りをちょっとハラハラさせるくらい歯に衣着せぬ物言いで有名だったのに。

 それだけ、言葉を選ばなければ話せないことなのかもしれない。

 事件の後、あらぬ方向へと騒ぎが大きくなってしまい、緒方君も彼女も学校を退学した。

 当時の緒方君とその彼女の苦悩を想う胸が、張り裂けそうな痛みで悲鳴を上げる寸前だった。

 どんなことがあっても離れなかった二人の想い。

 奥歯を噛みしめる喉の奥が、ツン、と痛んだ。

 不安と焦燥に潰されそう。

 緒方君の過去を知る人先生の言葉は、一言一言がわたしには重い。

「アイツが、この子と結婚する、と言った時に私は反対した。
〝お前は情に縛られているだけだ〟ってな」
「情に、……縛られる?」

〝愛〟と〝情〟の狭間に、深い愛情があるんじゃないの?

 大牧先生は、眉根を寄せて黙ってしまったわたしに、フッと笑いかけ、打って変わって明るい声で言った。

「翠川、今日お前が来たのは何かのお導きかもしれないぞ」

 え? 突然、なにを言い出すの?

 わたしは、ほんの一瞬で、重かった空気をガラッと変えてしまった先生に訝し気な視線を向けてしまう。

 先生はそんなのはお構いなしに、ニッと笑い、言う。

「この風景画だけ他の作品とは違って、今日からの展示だったんだよ。
今日はこれから、この作品の寄贈者が来ることになっている」

 先生は、わたしを見ていない。

 視線はわたしの肩越しを通過している。

 後ろに、誰か?

 まさか。

 先生が、優しい笑みを見せた。

「過去の全てを聞くのは、本人からの方がいいだろう」
「先生……?」
「でも、これだけは言える。
緒方はやっと〝情〟ではない本物の〝愛情〟を見つけたんだ。
お前たちはどちらも、自分の幸せよりもまず相手の幸せを、と考える人間なんだよな。
そんな人間は、自分も幸せになりたい、と思って動かないと大事なものを掴みそこねるぞ」

 わたしは恐る恐る、ゆっくりと、振り返った。

 そこにいたのは、スラリと背の高い、ほんの少しだけ憂いを含んだ雰囲気を纏う美青年。

「翠川さん……どうしてここに?」

 恋しくて、愛しくて、すぐにでも抱きしめたいくらいに求めてやまない人。

 切れ長の目が丸くなるくらいの驚きを隠せない表情でわたしを見つめていた。

「緒方君……」

 その声も、その瞳も、何もかもが、わたしには媚薬となる。

 緒方君、会いたかった。会いたくて会いたくて、たまらなかった。

 でも、わたしの胸は今、不安に圧し潰されそうなの。

 今のわたしは、どうしたらいいのか、分からないの。

「お前たちはそろそろ、互いに自分が幸せになる道を考えてもいい頃じゃないのか」

 先生の言葉が、立ち尽くすわたしを優しく包み込んだ。

「緒方、真琴はお前が幸せになる事を願っているんだよ」

 緒方君ははにかむような笑顔を見せた。

「真琴が、お前たち二人をここに引き合わせたんだよ、きっと」



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