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カルテ29 それぞれの愛の形
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玲さんは、昨夜わたしが醜態を晒した挙句逃げるように帰ってしまった後あった事を話してくれた。
緒方君との間で交わされた会話を、ありのまま。
「緒方君が……そんな事を言ったの」
緒方君、どうして?
玲さんに、プロポーズをやり直せ、だなんて。緒方君がわたしとの関係をもう終わらせようと思ってのこと?
胸が張り裂けそうに痛くて、涙が出そうで俯いてしまった。膝の上に置いた手でスカートをギュッと握りしめる。
零れ落ちそうな涙を堪えるわたしに玲さんが静かに言った。
「僕は、菊乃を守りたかった」
わたしの頬に触れていた玲さんの手が、そっと離れた。
顔を上げると、ドキンとするくらいの優しい笑みが視線の先にあった。
玲さんの気持ちを、わたしは知らなかった。
玲さんは、ただわたしに大人しい奥さんになれと言ったわけではなかったの。
玲さんは、わたしを守ろうとしてくれていたの。
「菊乃、僕と一緒に生きてくれるか」
玲さんの芳香溢れる眼差しは媚薬だ。早くなる鼓動がわたしの思考を鈍らせる。
わたしはやっぱり、玲さんと一緒になった方がいいの?
わたしの幸せは、玲さんのところにあるの?
待って。
持っていかれそうになっていた心を寸でのところで引き戻した。
わたしは、どう生きたい?
そう考えた時に、玲さんから聞いた緒方君の言葉を思い出した。
『彼女は回遊魚ですよ』
わたしは自分自身の事をずっとそう思っていた。でも、緒方君に話したことはない。
つまり、緒方君はわたしの望む生き方の形を、知っていた。
認めてくれていた。
わたしの中に、緒方君の優しく囁く声が蘇る。
思い出すだけで、わたしの身体の芯を熱くしてする声が。
何かが弾ける音を聞いた。
――緒方君!
緒方君の気持ちがわたしに向いてなくてもいい。
わたしは緒方君への気持ちに嘘をついて生きてはいけない。
そして何より、回遊魚のわたしは守られて、穏やかに生きる道は選べないの。
わたしが、わたしでいる為に。
「玲さん、わたし――」
キッと視線を上げて開けた口を、玲さんの長い指が押さえた。
玲さん、クスリと笑った。
「菊乃、〝ごめんなさい〟は無しだ」
わたしは唇を押さえられたまま目を見開いた。
「分かっていたよ」
唇からそっと指を離した玲さんはフワリと微笑みかけてくれた。
「スッキリできた」
「え? すっきり?」
意味が分からなくて、すっとんきょうな声で聞き返してしまった。
玲さんは、ハハハと快活な声で笑ってわたしの頭をポンと軽く叩いた。
「あの男の言う通りだった、と思ったんだよ」
思わず、眉根を寄せて玲さんを見てしまう。
「あの男って、緒方君?」
「そう」と玲さん、湯呑を手にして冷めてしまったお茶を飲み干した。わたしを真っ直ぐに見据えて、口の端を少しだけ上げる笑みを浮かべて言った。
「最初に言っただろう。ヤツと賭けをしたって。菊乃がどういう結論を出すかを、賭けたんだよ」
玲さんは、わたしの眉間を人差し指で押さえた。
「すごい縦じわだ」
「やだもうっ!」
玲さんの手を振り払って自分で眉の間を伸ばした。
「わたしの気持ちは景品じゃないわよ」
「それもそうだな」
クックと笑った玲さんだったけれど、直ぐに真顔になり、緒方君との会話には続きがあったことを教えてくれ、内容を話してくれた。
「あの男と僕とは、愛し方の根本が違っていた。
対象は、翠川菊乃というたった一人の女性だというのに、その愛情の色も形も、まったく違うものだった」
わたしは、玲さんの言葉に聞き入っていた。
愛情の形は、人それぞれ。
どんな形の愛を捧げるのかも、望むのかも。
わたし自身はどんな愛情を望んでいたのだろう。
「恋敵であるはずの僕にもう一度アプローチする事を勧めたあの男が何を考えているのか分からなかった。だから聞いた」
「なにを?」
ドキドキしながら、わたしは答えを促した。緒方君の考えている事、わたしにも分からないもの。
玲さんは口の端を上げて意味深な笑みをくれた。
え、なに? と身構えると。
「〝君は僕にそんな事をさせて、菊乃を愛していないのか〟とね」
息を呑んだ。
それは、わたしが一番聞きたい答え!
「玲さん……」
急く気持ちは喉の奥を詰まらせて、言葉を引っ込めてしまう。瞬きも忘れて玲さんを凝視した。
玲さんはそんなわたしの頬を指ですっと撫でて顔に掛かっていた髪の毛を優しく払った。
フッと笑った玲さんの笑顔に、ドキッとする。
いけない。
玲さんに心が見透かされているような気がして恥ずかしくなったわたしはスッと目を逸らしてしまった。
「菊乃」
名を呼ばれて、わたしは上目遣いで玲さんを見た。真剣な目に見据えられて逸らせなくなった。
ゴクンと固唾を呑んだわたしは聞いた。
「緒方君は、何て答えたの」
玲さんは、何か思い出したようにフッと笑った。
「玲さん?」
小首を傾げたわたしに玲さんは、いや、と言い、言葉を継いだ。
「彼は、菊乃の事を巧い例えを使って表現したな、と思ったんだ」
「巧い例え?」
わたしを見つめて、ああ、と答えた玲さん、肩を竦めた。
「菊乃は、自ら率先して荒れる海に船を漕ぎ出して行く女だ、と言ってた」
思わず、ええーっ、と言ってしまう。玲さん、ハハハと笑った。
「彼の為にあらかじめ言っておくが、これはけなす意味じゃない。
そんな菊乃が好きなんだ、と言っていた。
菊乃がそうやって、どんなに荒れている海に出かけていっても救助に行く、もし海に投げ出されても絶対に引き揚げてみせる。
その覚悟はあるし、自信もある、と断言したよ。
正直、恐れ入った」
玲さんの笑みは最後には苦笑いに変わっていた。
何も答えられなかった。その場で崩れ落ちそうになる身体を支えだけで精いっぱいだった。
これが、緒方君の愛の形?
「あの男は、菊乃が選んだ男が、菊乃自身の選んだ幸せの形だろう、と言っていた」
わたしは、掠れる声を絞り出す。
「じゃあ、玲さんと緒方君が賭けたものって本当に……」
「そうだ、菊乃の〝愛〟だ。菊乃に選ばれなければ、潔く身を引く、そういう賭けをした」
そこで一旦言葉を切った玲さんは、僅かに自嘲の笑みを浮かべた。
「あの男は、頭のいい菊乃が自分にとっての最良の選択を間違う事は決してない筈だ、とぬかして不敵に笑っていた。
自信があったんだろう。
菊乃が自分を選ぶ、という自信がね」
いつだって穏やかで物腰柔らかな緒方君は、優しいだけの男性じゃない。
根底に秘めた意思の強さは、しっかりと芯の通った強さに繋がっているのかもしれない。
緒方君を想う胸が熱くなる。
苦しくなる。
切なくなる。
会いたくて会いたくてたまらない。
でも。
軽く目を閉じて深呼吸した。
今は、わたしと真正面から向き合って率直な想いを告白してくれた玲さんに誠実に応えなければいけない。
それが、今のわたしが尽くすべき礼だと思う。
顔を上げて玲さんの目を見、しっかりと視線を合わせた。
「玲さん、わたしはやっぱり、この仕事が好き。
これからも思い切り働くつもり。
玲さんの言う通り、やらなくてもいい事に首を突っ込んだりもすると思う。
わたしを頼ってくれる誰かの為に。
玲さんが止めてもわたしは止まらないと思う。
だから、もしも玲さんと一緒になったら、きっと、玲さんを困らせる。
わたしは、玲さんを幸せにできない」
ずっと静かに聞いてくれた玲さんは、フッと肩を竦めて微笑んだ。
「さすが、菊乃だ。
幸せに〝してもらう〟事を考えていない。
決して受け身にならない。
昔からそうだった。
必ず、能動なんだ」
ハッとした。
「そんな風に考えたことなかった……」
玲さんは大きな手でわたしの頭をくしゃっと撫でてそっと呟いた。
「強い女性を好きだった自分を忘れていた」
「え?」
「いや、なんでもない」
玲さんの手が、わたしの頬に触れた。
「悪かった」
「ええ?」
玲さんの口から唐突に飛び出した言葉の意味が解せなくて、裏返る声で聞き返してしまった。
玲さん、拳に握った手を口元に当ててクククと忍び笑いをする。
「なあに」
ちょっとむくれたわたしに玲さんは優しい笑みを見せた。
「いや、僕が今まで君に言ってきた厳しい言葉に、少し詫びなきゃいけない要素があったな、と思ってね」
厳しい言葉?
首を傾げたわたしに、玲さんはゆっくりと言葉を継いだ。
「〝君くらいの弁護士はいくらでもいる〟というようなことを以前言っただろう」
わたしは大きく頷いた。
「覚えてる、しっかりハッキリ覚えているわ」
肩を竦めて上目遣いに軽く玲さんを睨んで。
「だって、傷ついたもの、すごく」
ちょっぴり冗談めかして言ってフフと笑った。
わたし達は見つめ合って少しの間沈黙し、同時にプッと吹き出して、声を上げて笑った。
暫し笑い合って、玲さんが「すまなかった」と言った。
「今思えばあの時は僕も必死だったんだ」
「玲さんが、何にそんな必死になるの?」
玲さんは、軽く肩を竦めた。
「前に言っただろう、〝可愛さ余って憎さ百倍〟」
そうだ、玲さんの事務所にほとんど殴り込み状態の突撃訪問した時、玲さんそんな事を言っていた。
あの時の事を思い出すわたしに玲さんは穏やかに語り掛ける。
「君は、優し過ぎる。
この仕事は情で動いていい仕事じゃない。
君がこの仕事を続ければ深く傷付けられる事が待っている事も容易に想像できた。
だから何とかして一線から退かせたかった。
僕は、君を傷つける要因になりそうなものから遠ざけようと思った」
「玲さん……」
玲さんはわたしを真っ直ぐに見詰めて続ける。
「君は口で言って聞き入れるタイプではないからね。
あの裁判で僕は容赦なく君を負かした。
そうする事で君に現実を見せようと思った」
でも、と玲さん、含み笑い。
わたしは玲さんが次に何を言おうとしているのか想像出来て、ちょっと首を竦めた。
「それは君には逆効果だった」
やっぱり。
想像通りの言葉が返ってきてわたしは苦笑いしてしまった。
「そこからは、君も覚えている通り、僕自身、思う通りにならない君に腹も立てたし、あんな言葉も言った」
結果的に、玲さんのあのキツイ言葉はわたしに別れを決意させたのだけど、そこまでに至った経緯の裏に隠されていた玲さんの意図、葛藤を、今初めて知った。
今まで冷たく感じていた玲さんの切れ長の目の奥に、温もりが見えた気がした。
真っすぐに魅入られて、引き込まれそう。
フッと視線を切って、深く息を吐いた。
「……ありがとう、玲さん」
こんなわたしを愛してくれて。
その言葉は、詰まってしまって出てこなかった。
玲さんは、参ったな、と言い、髪をかき上げた。
「菊乃をここまで素直にさせた彼に完敗だ」
胸がズキンと痛んだ。めったに見せる事のない玲さんの〝隙〟。
この姿を、あの頃に見せてくれていたら、わたし達の関係はまた少し変わったものになっただろうか?
一瞬生まれた迷いにわたしは小さく頭を振った。
ない、きっと。
わたしは、わたしを泳がせてくれる人を選ぶから。
水槽に放されるような生き方はしたくないから。
玲さんと再び見つめ合って、わたしは微笑んだ。
「玲さんに出会えたから、今のわたしがいるんだから」
緒方君との間で交わされた会話を、ありのまま。
「緒方君が……そんな事を言ったの」
緒方君、どうして?
玲さんに、プロポーズをやり直せ、だなんて。緒方君がわたしとの関係をもう終わらせようと思ってのこと?
胸が張り裂けそうに痛くて、涙が出そうで俯いてしまった。膝の上に置いた手でスカートをギュッと握りしめる。
零れ落ちそうな涙を堪えるわたしに玲さんが静かに言った。
「僕は、菊乃を守りたかった」
わたしの頬に触れていた玲さんの手が、そっと離れた。
顔を上げると、ドキンとするくらいの優しい笑みが視線の先にあった。
玲さんの気持ちを、わたしは知らなかった。
玲さんは、ただわたしに大人しい奥さんになれと言ったわけではなかったの。
玲さんは、わたしを守ろうとしてくれていたの。
「菊乃、僕と一緒に生きてくれるか」
玲さんの芳香溢れる眼差しは媚薬だ。早くなる鼓動がわたしの思考を鈍らせる。
わたしはやっぱり、玲さんと一緒になった方がいいの?
わたしの幸せは、玲さんのところにあるの?
待って。
持っていかれそうになっていた心を寸でのところで引き戻した。
わたしは、どう生きたい?
そう考えた時に、玲さんから聞いた緒方君の言葉を思い出した。
『彼女は回遊魚ですよ』
わたしは自分自身の事をずっとそう思っていた。でも、緒方君に話したことはない。
つまり、緒方君はわたしの望む生き方の形を、知っていた。
認めてくれていた。
わたしの中に、緒方君の優しく囁く声が蘇る。
思い出すだけで、わたしの身体の芯を熱くしてする声が。
何かが弾ける音を聞いた。
――緒方君!
緒方君の気持ちがわたしに向いてなくてもいい。
わたしは緒方君への気持ちに嘘をついて生きてはいけない。
そして何より、回遊魚のわたしは守られて、穏やかに生きる道は選べないの。
わたしが、わたしでいる為に。
「玲さん、わたし――」
キッと視線を上げて開けた口を、玲さんの長い指が押さえた。
玲さん、クスリと笑った。
「菊乃、〝ごめんなさい〟は無しだ」
わたしは唇を押さえられたまま目を見開いた。
「分かっていたよ」
唇からそっと指を離した玲さんはフワリと微笑みかけてくれた。
「スッキリできた」
「え? すっきり?」
意味が分からなくて、すっとんきょうな声で聞き返してしまった。
玲さんは、ハハハと快活な声で笑ってわたしの頭をポンと軽く叩いた。
「あの男の言う通りだった、と思ったんだよ」
思わず、眉根を寄せて玲さんを見てしまう。
「あの男って、緒方君?」
「そう」と玲さん、湯呑を手にして冷めてしまったお茶を飲み干した。わたしを真っ直ぐに見据えて、口の端を少しだけ上げる笑みを浮かべて言った。
「最初に言っただろう。ヤツと賭けをしたって。菊乃がどういう結論を出すかを、賭けたんだよ」
玲さんは、わたしの眉間を人差し指で押さえた。
「すごい縦じわだ」
「やだもうっ!」
玲さんの手を振り払って自分で眉の間を伸ばした。
「わたしの気持ちは景品じゃないわよ」
「それもそうだな」
クックと笑った玲さんだったけれど、直ぐに真顔になり、緒方君との会話には続きがあったことを教えてくれ、内容を話してくれた。
「あの男と僕とは、愛し方の根本が違っていた。
対象は、翠川菊乃というたった一人の女性だというのに、その愛情の色も形も、まったく違うものだった」
わたしは、玲さんの言葉に聞き入っていた。
愛情の形は、人それぞれ。
どんな形の愛を捧げるのかも、望むのかも。
わたし自身はどんな愛情を望んでいたのだろう。
「恋敵であるはずの僕にもう一度アプローチする事を勧めたあの男が何を考えているのか分からなかった。だから聞いた」
「なにを?」
ドキドキしながら、わたしは答えを促した。緒方君の考えている事、わたしにも分からないもの。
玲さんは口の端を上げて意味深な笑みをくれた。
え、なに? と身構えると。
「〝君は僕にそんな事をさせて、菊乃を愛していないのか〟とね」
息を呑んだ。
それは、わたしが一番聞きたい答え!
「玲さん……」
急く気持ちは喉の奥を詰まらせて、言葉を引っ込めてしまう。瞬きも忘れて玲さんを凝視した。
玲さんはそんなわたしの頬を指ですっと撫でて顔に掛かっていた髪の毛を優しく払った。
フッと笑った玲さんの笑顔に、ドキッとする。
いけない。
玲さんに心が見透かされているような気がして恥ずかしくなったわたしはスッと目を逸らしてしまった。
「菊乃」
名を呼ばれて、わたしは上目遣いで玲さんを見た。真剣な目に見据えられて逸らせなくなった。
ゴクンと固唾を呑んだわたしは聞いた。
「緒方君は、何て答えたの」
玲さんは、何か思い出したようにフッと笑った。
「玲さん?」
小首を傾げたわたしに玲さんは、いや、と言い、言葉を継いだ。
「彼は、菊乃の事を巧い例えを使って表現したな、と思ったんだ」
「巧い例え?」
わたしを見つめて、ああ、と答えた玲さん、肩を竦めた。
「菊乃は、自ら率先して荒れる海に船を漕ぎ出して行く女だ、と言ってた」
思わず、ええーっ、と言ってしまう。玲さん、ハハハと笑った。
「彼の為にあらかじめ言っておくが、これはけなす意味じゃない。
そんな菊乃が好きなんだ、と言っていた。
菊乃がそうやって、どんなに荒れている海に出かけていっても救助に行く、もし海に投げ出されても絶対に引き揚げてみせる。
その覚悟はあるし、自信もある、と断言したよ。
正直、恐れ入った」
玲さんの笑みは最後には苦笑いに変わっていた。
何も答えられなかった。その場で崩れ落ちそうになる身体を支えだけで精いっぱいだった。
これが、緒方君の愛の形?
「あの男は、菊乃が選んだ男が、菊乃自身の選んだ幸せの形だろう、と言っていた」
わたしは、掠れる声を絞り出す。
「じゃあ、玲さんと緒方君が賭けたものって本当に……」
「そうだ、菊乃の〝愛〟だ。菊乃に選ばれなければ、潔く身を引く、そういう賭けをした」
そこで一旦言葉を切った玲さんは、僅かに自嘲の笑みを浮かべた。
「あの男は、頭のいい菊乃が自分にとっての最良の選択を間違う事は決してない筈だ、とぬかして不敵に笑っていた。
自信があったんだろう。
菊乃が自分を選ぶ、という自信がね」
いつだって穏やかで物腰柔らかな緒方君は、優しいだけの男性じゃない。
根底に秘めた意思の強さは、しっかりと芯の通った強さに繋がっているのかもしれない。
緒方君を想う胸が熱くなる。
苦しくなる。
切なくなる。
会いたくて会いたくてたまらない。
でも。
軽く目を閉じて深呼吸した。
今は、わたしと真正面から向き合って率直な想いを告白してくれた玲さんに誠実に応えなければいけない。
それが、今のわたしが尽くすべき礼だと思う。
顔を上げて玲さんの目を見、しっかりと視線を合わせた。
「玲さん、わたしはやっぱり、この仕事が好き。
これからも思い切り働くつもり。
玲さんの言う通り、やらなくてもいい事に首を突っ込んだりもすると思う。
わたしを頼ってくれる誰かの為に。
玲さんが止めてもわたしは止まらないと思う。
だから、もしも玲さんと一緒になったら、きっと、玲さんを困らせる。
わたしは、玲さんを幸せにできない」
ずっと静かに聞いてくれた玲さんは、フッと肩を竦めて微笑んだ。
「さすが、菊乃だ。
幸せに〝してもらう〟事を考えていない。
決して受け身にならない。
昔からそうだった。
必ず、能動なんだ」
ハッとした。
「そんな風に考えたことなかった……」
玲さんは大きな手でわたしの頭をくしゃっと撫でてそっと呟いた。
「強い女性を好きだった自分を忘れていた」
「え?」
「いや、なんでもない」
玲さんの手が、わたしの頬に触れた。
「悪かった」
「ええ?」
玲さんの口から唐突に飛び出した言葉の意味が解せなくて、裏返る声で聞き返してしまった。
玲さん、拳に握った手を口元に当ててクククと忍び笑いをする。
「なあに」
ちょっとむくれたわたしに玲さんは優しい笑みを見せた。
「いや、僕が今まで君に言ってきた厳しい言葉に、少し詫びなきゃいけない要素があったな、と思ってね」
厳しい言葉?
首を傾げたわたしに、玲さんはゆっくりと言葉を継いだ。
「〝君くらいの弁護士はいくらでもいる〟というようなことを以前言っただろう」
わたしは大きく頷いた。
「覚えてる、しっかりハッキリ覚えているわ」
肩を竦めて上目遣いに軽く玲さんを睨んで。
「だって、傷ついたもの、すごく」
ちょっぴり冗談めかして言ってフフと笑った。
わたし達は見つめ合って少しの間沈黙し、同時にプッと吹き出して、声を上げて笑った。
暫し笑い合って、玲さんが「すまなかった」と言った。
「今思えばあの時は僕も必死だったんだ」
「玲さんが、何にそんな必死になるの?」
玲さんは、軽く肩を竦めた。
「前に言っただろう、〝可愛さ余って憎さ百倍〟」
そうだ、玲さんの事務所にほとんど殴り込み状態の突撃訪問した時、玲さんそんな事を言っていた。
あの時の事を思い出すわたしに玲さんは穏やかに語り掛ける。
「君は、優し過ぎる。
この仕事は情で動いていい仕事じゃない。
君がこの仕事を続ければ深く傷付けられる事が待っている事も容易に想像できた。
だから何とかして一線から退かせたかった。
僕は、君を傷つける要因になりそうなものから遠ざけようと思った」
「玲さん……」
玲さんはわたしを真っ直ぐに見詰めて続ける。
「君は口で言って聞き入れるタイプではないからね。
あの裁判で僕は容赦なく君を負かした。
そうする事で君に現実を見せようと思った」
でも、と玲さん、含み笑い。
わたしは玲さんが次に何を言おうとしているのか想像出来て、ちょっと首を竦めた。
「それは君には逆効果だった」
やっぱり。
想像通りの言葉が返ってきてわたしは苦笑いしてしまった。
「そこからは、君も覚えている通り、僕自身、思う通りにならない君に腹も立てたし、あんな言葉も言った」
結果的に、玲さんのあのキツイ言葉はわたしに別れを決意させたのだけど、そこまでに至った経緯の裏に隠されていた玲さんの意図、葛藤を、今初めて知った。
今まで冷たく感じていた玲さんの切れ長の目の奥に、温もりが見えた気がした。
真っすぐに魅入られて、引き込まれそう。
フッと視線を切って、深く息を吐いた。
「……ありがとう、玲さん」
こんなわたしを愛してくれて。
その言葉は、詰まってしまって出てこなかった。
玲さんは、参ったな、と言い、髪をかき上げた。
「菊乃をここまで素直にさせた彼に完敗だ」
胸がズキンと痛んだ。めったに見せる事のない玲さんの〝隙〟。
この姿を、あの頃に見せてくれていたら、わたし達の関係はまた少し変わったものになっただろうか?
一瞬生まれた迷いにわたしは小さく頭を振った。
ない、きっと。
わたしは、わたしを泳がせてくれる人を選ぶから。
水槽に放されるような生き方はしたくないから。
玲さんと再び見つめ合って、わたしは微笑んだ。
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