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カルテ26 魔性の女?
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「菊乃、大丈夫か」
響きの良い低い声が芯に届いていた。でも、身体に力が入らなくて、朦朧とする意識が反応を阻んでる。
どうしよう。
眠くなって仕方ないの。
「ほら、しっかりしろ」
誰かに腰を抱かれたような気がしたけれど、抗う力もなくて、そのまま身体を預けてしまう。
「まあまあ菊乃、こんなに呑んで」
よーく聞き覚えのある朗らかな女性の声がしたと思ったら、しなやかな手に頬をぺちぺちと叩かれた。
「ほら菊乃、ここに座るんだ」
そう言われた直後、わたしの身体は座り心地のよいクッションに下ろされた。
そのまま背もたれにぐったりと身体を預けてしまう。
頭、ぐるぐる……。
見上げた天井から下がる豪奢なシャンデリアがライトに照らされてキラキラと光るのがぼやける視界の中に映っていた。
けれど、それもぐにゃっと曲がって見える。
ここは、ロビー?
呑み過ぎ……そうだ、わたし、呑み過ぎちゃったんだ。
あんな話、玲さんに聞かされて、お酒のペースのギアが上がった。
玲さんに、大丈夫か、と言われながら、止めるもの聞かずにジンフィズとか、最後はスコッチウイスキーをロックでがぶ呑み。
ちゃんぽんもいいところだ。
気づけばパーティーがお開きになって、玲さんに抱えられ、ここまで連れて来られた、ということか。
「ハイヤー、お呼びしましょうか」
「ううん、そこのエントランスで客待ちしているタクシーで充分よ」
虚ろになりながらも耳には玲さんと蓉子先生の会話が届いていた。
ああでも、と言いながらクスリと笑う玲さんの声。
「菊乃は僕が責任持ちましょうか。幸い、ここはホテルですから」
蓉子先生が、あら、と嬉しそうな声を上げた。
ちょ、ちょっと待って、玲さん?
酔いのせいでこんなになっているけれど、意識はまだなんとかここにあるから!
「ないから!」
勢いよく頭を持ち上げた瞬間、何かの衝撃があったかのような頭痛に襲われ、身体はまたソファの背もたれに逆戻りとなってしまった。
玲さんの声が、頭上から降ってきた。
「菊乃、無理しなくていい」
そっと頭を撫でられて、力が抜けた。
駄目だ、このままだと本当に……そう思った時だった。
「あ、来たわ! 緒方先生、こっちこっち」
え!?
アルコールの靄の中に溺れていた意識が一気に引き上げられた気がした。
緒方、先生!?
「間に合ってしまったわね」
蓉子先生、何を言っているの?
身を預けていたソファからのろのろと身を起こしたわたしの目に、ホテルのエレベーターホールからこちらに向かって走ってくる緒方君の姿が映った。
緒方君……。
ずっと、ずっと会いたかった緒方君が――、どうして!
「どうして彼がここに?」
玲さんが、蓉子先生に聞いていた。
「私が、彼の病院に直で電話したのよ。
彼の病院は遅くまで診療しているから。
法律事務所の名前と菊乃の名前を言ったら、直ぐに繋いでくれたわ」
蓉子先生、シレッと答えて。
「菊乃、食べられちゃうかもしれないわよって」
な、なんてことを!
玲さんがハハハと笑い出した。
「それは面白い」
「でしょうーっ!」
玲さん、その面白い、Interestじゃないくて、funnyだったら怒るわよ。
そうこうしているうちにわたし達のところにやって来た緒方君に、蓉子先生が挨拶を始めた。
「すみません緒方先生、急にお呼び立てして」
「ああ、いえ……」
緒方君はそれに答えて……わたしを見た。
前にも、こんな状態になったわたし、見られた事があった。
あの時は仕事で嫌な事があって荒れて、今夜の原因は。
全部緒方君、あなただから。
恥ずかしくなってソファに顔を埋めてしまう。
顔、見せられない。
ふかふかのソファのクッションに顔を埋めたまま上げられないわたしに、蓉子先生がとんでもないことを言った。
「はい、菊乃。どっちの男にするか選びなさい」
蓉子先生は、悪魔か天使か。
どちらかと言えば、悪魔ね、このシチュエーションから考えて。
「翠川さん」
優しい声がわたしを包む。胸が、キュンと締まった。
「前にも、こんなことがあったね」
心が抱かれて包み込まれて、身体の芯が痺れそう。
込み上げるものが、涙に変わった。
久しぶりに会ったのにこんなシチュエーションなんて、酷すぎる。
でもやっぱり、思いがけず目の前に現れたあなたにわたしのドキドキが止まらなくて。
抱き付いたい。
きつく抱き締めて、触れて――、
けれど、わたしは動けなかった。
顔を埋めたまま上げることが出来なかった。
「ほら、菊乃。私はもう行っちゃうから。あなたはちゃんと決断して決めた殿方と――」
「待ってください、蓉子先生!」
この場を去ろうとした蓉子先生の言葉にわたしは素早く反応していた。
今まで動くこともままならなかったのに、ガバッと身を起こし、縋るように蓉子先生を見た。
「先生、お願い! わたしを置いて帰らないで! わたしを一緒に連れて帰って!」
この時わたしの目には、蓉子先生しか見えなかった。
玲さんも、緒方君も、見えなかった。
この時はなぜか、許せない、って気持ちが湧いてしまった。
あんな事、緒方君からちゃんと直接聞きたかったのに。
わたしに話した玲さんも。
話してくれなかった緒方君も。
そして何より、事実を受け入れられずに勝手に荒れたわたし自身が、何よりも許せなかった。
☆
クロークに預けていた荷物を受け取って来てくれた蓉子先生は、わたしを玄関前に停まっていたタクシー押し込んで、ちょっと待ってて、とホテルの中に戻って行った。
ドアが開けっ放しになっているタクシーから、煌々と照明が灯るきらびやかなホテルのロビーがよく見えた。
タクシーのシートに身を預けてぼんやりと眺めていると、中で蓉子先生が、玲さんと緒方君と、何かを話しているのが見えた。
蓉子先生の言葉に、玲さんも緒方君も何か笑っている。
蓉子先生は、話術が非常に巧みで、いつだって話す相手を納得させてしまう。
見ていると蓉子先生、あの艶っぽいドレス姿で二人に手を合わせて何かを謝っているような仕草をした。
何を二人にそんなに謝って? と思いながらも、蓉子先生相変わらず、あんな仕草も色っぽいな……なんて全然関係ないことを考えてしまった。
こんな格好をしても酔っぱらって醜態晒してしまうようなわたしは、お色気には程遠い。大人の女の筈なのに。
ロビーから視線を逸らして反対側に顔を向けた。
緒方君、また呆れてしまったかな。嫌われてしまったかもしれない。
そう考えた瞬間、ゾクッと震えが来た。
緒方君に嫌われるなんて、考えただけでゾッとする。
いや。そんなの。
やっぱり、緒方君のところに行きたい!
身を起こしてロビーの方を向いた時、話し終えてホテルから出てきた蓉子先生が「ごめん、お待たせ!」とタクシーの中に乗りこんできた。
隣に座った蓉子先生は、運転手さんに言った。
「すみません、運転手さんお待たせして。立川方面までお願いします。すぐそこのインターから入ってもらって構いませんから」
ああ、緒方君――、
思わず身を乗り出し、動き出したタクシーの中からホテルの方を窺ったわたしに蓉子先生は言った。
「今夜はもう諦めなさい。あの二人はこれから少しバーラウンジで呑んで行くって。ああ、でも緒方先生はお車でいらしたから、呑まないでしょうけど」
蓉子先生を見ると、先生は前を見つめたまま、クスッと笑った。
「どんな話しをするのかしらね」
玲さんと緒方君。
二人を思い浮かべてみる。いやだ、本当にどんな話しをするの?
蓉子先生は黙り込むわたしに視線を向けた。
「弁護士にとって、精神科医というのはビジネスパートナーとしてとても有効なのよ。いい話しが出来ると思うけど」
ああ、そっち……。この肩透かしをくらった感覚は何。……わたしの、ばか。
蓉子先生は目を細くした。あ、笑ってるわね。
見透かされた感がとても恥ずかしくて視線を逸らして窓の外を見た。眠らぬ街の煌々と灯る光が車窓に流れて映り込む。
「菊乃」
改めて名を呼ばれて再び視線を蓉子先生に戻した。
車窓から差し込む、流れゆく街の灯りに照らし出された蓉子先生の姿は妖艶そのもの。まともに見てしまって同じ女なのにドキッとした。
気恥ずかしくなって、視線を外そうとした時、蓉子先生はフフッと笑ってわたしの顔を両手で挟んだ。視線が逃れられず蓉子先生の瞳に捕まえられてしまった。
蓉子先生のまるで宝石オニキスのような瞳を見て、何故かドキドキしていると。
「魔性の女ね」
「誰が?」
間髪入れずに問い返してしまった。
だって、意味が分からない。いきなり何を言うの、蓉子先生? この状況ではどう見たって魔性の女は蓉子先生でしょう。
何が言いたいの? と言いたい気持ちをありありと顔に出して見つめ返していると、蓉子先生、肩を震わせて笑い出した。
もうっ、なに?
「蓉子先生?」
蓉子先生は笑いを堪えながら、まあまあ、と両手を軽く振った。
「魔性の女はあなたの事よ」
「わたし?」
蓉子先生は、アハハと笑ってシートに身体を預けた。ちょっと上目遣いにわたしを見てとんでもない事を言った。
「あんなハイスペックな男二人も手玉に取って」
てだま!?
目を丸くしたわたしに蓉子先生、我慢できないといった様子で〝くの字〟になって笑い出した。
納得出来ない! 反論しますよ。
「手玉になんて取れるわけないでしょう? だって、玲さんとはもうとっくに終わっているのだし、緒方君の気持ちだって、わたしはまだ……」
「アンタはホントにおバカさんね」
蓉子先生の静かな声が遮った。
「お勉強は出来た優等生かもしれないけれど、中身はさっぱりだわ。鈍すぎる。不器用すぎる。もう少し、器用にバランスよく生きないとダメよ」
「先生……」
蓉子先生、フフッと笑った。
「ああ、貴女は仕事もそんな調子だったわね」
ズキッと来た。蓉子先生の言葉があまりにも当たっていて、これ以上の反論なんて出来なかった。
そう、わたし、不器用だったんだ。遼太の事だってそう。
もうわたしのところになんて戻ってくる筈のない遼太をずっとずっと追いかけて、色んなものを落としてきたのかもしれない。
そう考えた時、玲さんが今夜言った言葉を思い出した。
『君の心を完全に僕のものにする事は出来なかったからね』
ああ、わたし、玲さんも傷つけていたんだ。
思わず両手で顔を覆ったわたしの肩を蓉子先生がそっと抱いた。
「悪気のない分だけ、ちょっとタチが悪いかもしれないけれど、いいじゃない。これを機会にちゃんと考えなさい」
顔を上げると、蓉子先生が優しい笑みを浮かべてわたしを見ていた。
「今夜、手塚先生が何故あんなにべろべろに酔ったあなたを見捨てたりせず一緒にいたのだと思う?
どうして緒方先生は、わざわざ車を飛ばしてあんなところまで来てくれたのだと思う?
いくら鈍ちんの貴女でも、少し考えたら分かるでしょう?
頭だけは悪くない筈なんだから」
「蓉子先生は、いつも一言余計なんですっ!」
わたしはちょっぴり声を荒げてしまったけれど、蓉子先生はどこ吹く風で、アハハと笑っていた。
「もう……」
肩を竦めて息を吐くと、急に頭がクラッと来た。
興奮してちょっと頭に血を送り過ぎたのと、車の揺れのせいで、酔いをぶり返してしまったみたい。目を閉じてシートにもたれかかった。
「あの二人は、本当に何を話すのかしらね」
蓉子先生が、さっきとは違う静かな声で話し始めていた。でも、わたしの意識はすでに遠のき始めていて、蓉子先生の言葉は子守歌のようで、内容までは把握できなかった。
ただわたしは、酔いから姿を変えた睡魔に持っていかれた意識で辛うじてあの、玲さんから聞いたショッキングな事実を思い返していた。
緒方君の、過去。
サナトリウム。
奥さん。
既にスリープ状態に片足を突っ込んでいた脳内回路は、キーワードとなる単語だけをわたしに認識させた。
苦しい。痛い。
胸を覆う切ない想いをやり過ごした。
カーラジオの音がさり気ない音量で流れる車内で、わたしは思考を止めて、眠りに落ちて行った。
今はもう、何も考えない。
響きの良い低い声が芯に届いていた。でも、身体に力が入らなくて、朦朧とする意識が反応を阻んでる。
どうしよう。
眠くなって仕方ないの。
「ほら、しっかりしろ」
誰かに腰を抱かれたような気がしたけれど、抗う力もなくて、そのまま身体を預けてしまう。
「まあまあ菊乃、こんなに呑んで」
よーく聞き覚えのある朗らかな女性の声がしたと思ったら、しなやかな手に頬をぺちぺちと叩かれた。
「ほら菊乃、ここに座るんだ」
そう言われた直後、わたしの身体は座り心地のよいクッションに下ろされた。
そのまま背もたれにぐったりと身体を預けてしまう。
頭、ぐるぐる……。
見上げた天井から下がる豪奢なシャンデリアがライトに照らされてキラキラと光るのがぼやける視界の中に映っていた。
けれど、それもぐにゃっと曲がって見える。
ここは、ロビー?
呑み過ぎ……そうだ、わたし、呑み過ぎちゃったんだ。
あんな話、玲さんに聞かされて、お酒のペースのギアが上がった。
玲さんに、大丈夫か、と言われながら、止めるもの聞かずにジンフィズとか、最後はスコッチウイスキーをロックでがぶ呑み。
ちゃんぽんもいいところだ。
気づけばパーティーがお開きになって、玲さんに抱えられ、ここまで連れて来られた、ということか。
「ハイヤー、お呼びしましょうか」
「ううん、そこのエントランスで客待ちしているタクシーで充分よ」
虚ろになりながらも耳には玲さんと蓉子先生の会話が届いていた。
ああでも、と言いながらクスリと笑う玲さんの声。
「菊乃は僕が責任持ちましょうか。幸い、ここはホテルですから」
蓉子先生が、あら、と嬉しそうな声を上げた。
ちょ、ちょっと待って、玲さん?
酔いのせいでこんなになっているけれど、意識はまだなんとかここにあるから!
「ないから!」
勢いよく頭を持ち上げた瞬間、何かの衝撃があったかのような頭痛に襲われ、身体はまたソファの背もたれに逆戻りとなってしまった。
玲さんの声が、頭上から降ってきた。
「菊乃、無理しなくていい」
そっと頭を撫でられて、力が抜けた。
駄目だ、このままだと本当に……そう思った時だった。
「あ、来たわ! 緒方先生、こっちこっち」
え!?
アルコールの靄の中に溺れていた意識が一気に引き上げられた気がした。
緒方、先生!?
「間に合ってしまったわね」
蓉子先生、何を言っているの?
身を預けていたソファからのろのろと身を起こしたわたしの目に、ホテルのエレベーターホールからこちらに向かって走ってくる緒方君の姿が映った。
緒方君……。
ずっと、ずっと会いたかった緒方君が――、どうして!
「どうして彼がここに?」
玲さんが、蓉子先生に聞いていた。
「私が、彼の病院に直で電話したのよ。
彼の病院は遅くまで診療しているから。
法律事務所の名前と菊乃の名前を言ったら、直ぐに繋いでくれたわ」
蓉子先生、シレッと答えて。
「菊乃、食べられちゃうかもしれないわよって」
な、なんてことを!
玲さんがハハハと笑い出した。
「それは面白い」
「でしょうーっ!」
玲さん、その面白い、Interestじゃないくて、funnyだったら怒るわよ。
そうこうしているうちにわたし達のところにやって来た緒方君に、蓉子先生が挨拶を始めた。
「すみません緒方先生、急にお呼び立てして」
「ああ、いえ……」
緒方君はそれに答えて……わたしを見た。
前にも、こんな状態になったわたし、見られた事があった。
あの時は仕事で嫌な事があって荒れて、今夜の原因は。
全部緒方君、あなただから。
恥ずかしくなってソファに顔を埋めてしまう。
顔、見せられない。
ふかふかのソファのクッションに顔を埋めたまま上げられないわたしに、蓉子先生がとんでもないことを言った。
「はい、菊乃。どっちの男にするか選びなさい」
蓉子先生は、悪魔か天使か。
どちらかと言えば、悪魔ね、このシチュエーションから考えて。
「翠川さん」
優しい声がわたしを包む。胸が、キュンと締まった。
「前にも、こんなことがあったね」
心が抱かれて包み込まれて、身体の芯が痺れそう。
込み上げるものが、涙に変わった。
久しぶりに会ったのにこんなシチュエーションなんて、酷すぎる。
でもやっぱり、思いがけず目の前に現れたあなたにわたしのドキドキが止まらなくて。
抱き付いたい。
きつく抱き締めて、触れて――、
けれど、わたしは動けなかった。
顔を埋めたまま上げることが出来なかった。
「ほら、菊乃。私はもう行っちゃうから。あなたはちゃんと決断して決めた殿方と――」
「待ってください、蓉子先生!」
この場を去ろうとした蓉子先生の言葉にわたしは素早く反応していた。
今まで動くこともままならなかったのに、ガバッと身を起こし、縋るように蓉子先生を見た。
「先生、お願い! わたしを置いて帰らないで! わたしを一緒に連れて帰って!」
この時わたしの目には、蓉子先生しか見えなかった。
玲さんも、緒方君も、見えなかった。
この時はなぜか、許せない、って気持ちが湧いてしまった。
あんな事、緒方君からちゃんと直接聞きたかったのに。
わたしに話した玲さんも。
話してくれなかった緒方君も。
そして何より、事実を受け入れられずに勝手に荒れたわたし自身が、何よりも許せなかった。
☆
クロークに預けていた荷物を受け取って来てくれた蓉子先生は、わたしを玄関前に停まっていたタクシー押し込んで、ちょっと待ってて、とホテルの中に戻って行った。
ドアが開けっ放しになっているタクシーから、煌々と照明が灯るきらびやかなホテルのロビーがよく見えた。
タクシーのシートに身を預けてぼんやりと眺めていると、中で蓉子先生が、玲さんと緒方君と、何かを話しているのが見えた。
蓉子先生の言葉に、玲さんも緒方君も何か笑っている。
蓉子先生は、話術が非常に巧みで、いつだって話す相手を納得させてしまう。
見ていると蓉子先生、あの艶っぽいドレス姿で二人に手を合わせて何かを謝っているような仕草をした。
何を二人にそんなに謝って? と思いながらも、蓉子先生相変わらず、あんな仕草も色っぽいな……なんて全然関係ないことを考えてしまった。
こんな格好をしても酔っぱらって醜態晒してしまうようなわたしは、お色気には程遠い。大人の女の筈なのに。
ロビーから視線を逸らして反対側に顔を向けた。
緒方君、また呆れてしまったかな。嫌われてしまったかもしれない。
そう考えた瞬間、ゾクッと震えが来た。
緒方君に嫌われるなんて、考えただけでゾッとする。
いや。そんなの。
やっぱり、緒方君のところに行きたい!
身を起こしてロビーの方を向いた時、話し終えてホテルから出てきた蓉子先生が「ごめん、お待たせ!」とタクシーの中に乗りこんできた。
隣に座った蓉子先生は、運転手さんに言った。
「すみません、運転手さんお待たせして。立川方面までお願いします。すぐそこのインターから入ってもらって構いませんから」
ああ、緒方君――、
思わず身を乗り出し、動き出したタクシーの中からホテルの方を窺ったわたしに蓉子先生は言った。
「今夜はもう諦めなさい。あの二人はこれから少しバーラウンジで呑んで行くって。ああ、でも緒方先生はお車でいらしたから、呑まないでしょうけど」
蓉子先生を見ると、先生は前を見つめたまま、クスッと笑った。
「どんな話しをするのかしらね」
玲さんと緒方君。
二人を思い浮かべてみる。いやだ、本当にどんな話しをするの?
蓉子先生は黙り込むわたしに視線を向けた。
「弁護士にとって、精神科医というのはビジネスパートナーとしてとても有効なのよ。いい話しが出来ると思うけど」
ああ、そっち……。この肩透かしをくらった感覚は何。……わたしの、ばか。
蓉子先生は目を細くした。あ、笑ってるわね。
見透かされた感がとても恥ずかしくて視線を逸らして窓の外を見た。眠らぬ街の煌々と灯る光が車窓に流れて映り込む。
「菊乃」
改めて名を呼ばれて再び視線を蓉子先生に戻した。
車窓から差し込む、流れゆく街の灯りに照らし出された蓉子先生の姿は妖艶そのもの。まともに見てしまって同じ女なのにドキッとした。
気恥ずかしくなって、視線を外そうとした時、蓉子先生はフフッと笑ってわたしの顔を両手で挟んだ。視線が逃れられず蓉子先生の瞳に捕まえられてしまった。
蓉子先生のまるで宝石オニキスのような瞳を見て、何故かドキドキしていると。
「魔性の女ね」
「誰が?」
間髪入れずに問い返してしまった。
だって、意味が分からない。いきなり何を言うの、蓉子先生? この状況ではどう見たって魔性の女は蓉子先生でしょう。
何が言いたいの? と言いたい気持ちをありありと顔に出して見つめ返していると、蓉子先生、肩を震わせて笑い出した。
もうっ、なに?
「蓉子先生?」
蓉子先生は笑いを堪えながら、まあまあ、と両手を軽く振った。
「魔性の女はあなたの事よ」
「わたし?」
蓉子先生は、アハハと笑ってシートに身体を預けた。ちょっと上目遣いにわたしを見てとんでもない事を言った。
「あんなハイスペックな男二人も手玉に取って」
てだま!?
目を丸くしたわたしに蓉子先生、我慢できないといった様子で〝くの字〟になって笑い出した。
納得出来ない! 反論しますよ。
「手玉になんて取れるわけないでしょう? だって、玲さんとはもうとっくに終わっているのだし、緒方君の気持ちだって、わたしはまだ……」
「アンタはホントにおバカさんね」
蓉子先生の静かな声が遮った。
「お勉強は出来た優等生かもしれないけれど、中身はさっぱりだわ。鈍すぎる。不器用すぎる。もう少し、器用にバランスよく生きないとダメよ」
「先生……」
蓉子先生、フフッと笑った。
「ああ、貴女は仕事もそんな調子だったわね」
ズキッと来た。蓉子先生の言葉があまりにも当たっていて、これ以上の反論なんて出来なかった。
そう、わたし、不器用だったんだ。遼太の事だってそう。
もうわたしのところになんて戻ってくる筈のない遼太をずっとずっと追いかけて、色んなものを落としてきたのかもしれない。
そう考えた時、玲さんが今夜言った言葉を思い出した。
『君の心を完全に僕のものにする事は出来なかったからね』
ああ、わたし、玲さんも傷つけていたんだ。
思わず両手で顔を覆ったわたしの肩を蓉子先生がそっと抱いた。
「悪気のない分だけ、ちょっとタチが悪いかもしれないけれど、いいじゃない。これを機会にちゃんと考えなさい」
顔を上げると、蓉子先生が優しい笑みを浮かべてわたしを見ていた。
「今夜、手塚先生が何故あんなにべろべろに酔ったあなたを見捨てたりせず一緒にいたのだと思う?
どうして緒方先生は、わざわざ車を飛ばしてあんなところまで来てくれたのだと思う?
いくら鈍ちんの貴女でも、少し考えたら分かるでしょう?
頭だけは悪くない筈なんだから」
「蓉子先生は、いつも一言余計なんですっ!」
わたしはちょっぴり声を荒げてしまったけれど、蓉子先生はどこ吹く風で、アハハと笑っていた。
「もう……」
肩を竦めて息を吐くと、急に頭がクラッと来た。
興奮してちょっと頭に血を送り過ぎたのと、車の揺れのせいで、酔いをぶり返してしまったみたい。目を閉じてシートにもたれかかった。
「あの二人は、本当に何を話すのかしらね」
蓉子先生が、さっきとは違う静かな声で話し始めていた。でも、わたしの意識はすでに遠のき始めていて、蓉子先生の言葉は子守歌のようで、内容までは把握できなかった。
ただわたしは、酔いから姿を変えた睡魔に持っていかれた意識で辛うじてあの、玲さんから聞いたショッキングな事実を思い返していた。
緒方君の、過去。
サナトリウム。
奥さん。
既にスリープ状態に片足を突っ込んでいた脳内回路は、キーワードとなる単語だけをわたしに認識させた。
苦しい。痛い。
胸を覆う切ない想いをやり過ごした。
カーラジオの音がさり気ない音量で流れる車内で、わたしは思考を止めて、眠りに落ちて行った。
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