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カルテ23 喫茶にて
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奥様とは死別。
緒方君は、それだけを語るにとどまった。
改めて、今緒方君はフリーである、という事実がはっきりしたのだけれど、色々な事が引っかかる。
今は語りつくせない事情が込められていそうだった。
だからわたしもそれ以上の事を聞くことはしなかった。
緒方君はいつかきっと、ちゃんと話してくれる、わたしはそう信じてる。
少なくとも、緒方君は〝火遊び〟ができるような人じゃない。
いい加減な気持ちでわたしとの関係を持ったわけじゃないのだと思っている。
けれど、踏み込めなかった自分自身にじれったさを感じたのも事実。
緒方君の全てを知りたいって、思っていたくせに。
緒方君が話してくれるように促してみよう、って思ったくせに。
結局、怖気づいてしまった。
高校卒業を控えた冬に、当時の彼女と心中事件まで起こした緒方君。
その後の過去に、実は結婚したけれど奥様とは死別していた、という事実が加えられて、わたしの足元がぐらりと揺らいだ。
わたしは受け入れられるの?
そんな不安に呑み込まれてしまった。
緒方君の事を知りたいって思っている以上に、わたしと緒方君の間に横たわる空白の十八年間を埋めることに対する不安の方が大きくなって、完全に自信を失ってしまったのだ。
恵果さんを思い出し、今更ながら、彼女に対して敬服の念を持った。
彼女は、愛する人ならどんな状態であろうと受け止める自信があったから結婚した。
そして、離婚をしようと思うところまで追いつめられていたのに、彼の真実を知って踏みとどまろうとしている。
わたしは、上っ面でしか向き合っていなかったのかもしれない。
近藤さん夫婦にも。
緒方君にも。
緒方君、ごめんなさい、って言うのは、わたしだわ。
結婚歴のある事実をちゃんと告白してくれた緒方君に、わたしはあの時どんな反応をした?
あの瞬間、頭の中に一気に靄がかかってしまったようになった。
確か、「そうなの」と答えたきり、黙ってしまったように思う。
緒方君を失望させてしまったかもしれない。
でも、必死に何かを考えた。それは事実。いい加減な答えをしたくなかったから。
どんな人と結婚して、どんな結婚生活があって、何があって、今に至るの?
本当は、知りたいことは山ほどある。でも、聞けなかった。
緒方君の事を好きなのは変わらないのに。
ううん、もしかしたら、以前に増して、あなたを好きになっている。
どうしても、あなたを抱きしめてあげたい。でも、踏み出せないわたしがいる。
あの後緒方君とは、食事をしながら仕事のことや、最近あった事、そんな当たり障りのない話しをした。
別れ際、もう一度車の中でキスをした。お互いの中にこみ上げる愛しさを唇で伝えるキスだった。
ずっと一緒にいたい、離れたくない。
気持ちを、必死に抑え込んで「またね」と言い、わたしは車を降りた。
緒方君の抱えるすべてを知り、包み込む余裕が、まだないの。今のわたしはまだ、ただ緒方君を求めているに過ぎない気がして。
どうしたらいい?
どうしたら、緒方君を支えてあげられる女になれるんだろう。
こんな形で誰かを想って苦しむなんて、初めてだった。
*
間もなく正午を迎えようとしている事務所で、依頼案件の整理の為にパソコンのキーボードを叩いていたわたしは、ため息を吐いていた。
近藤さん夫婦の心のすれ違いが精神医学的見地から解明してくれた緒方君が、わたしに大事な過去の一片を告白してくれたあの日から、一週間が経っていた。
メールのやり取りは少しあったけれど、あれから会っていない。
というか、会えていない。
わたしに、会う度量がない。
どんな顔をして会っていいのか、分からない。
互いに、なんとなく距離が出来たような、そんな不安が生まれてしまったのかもしれない。
喧嘩別れしたのなら、勇気を出して何かしらのアクションを起こす手段は取れる。
若い頃のカレシカノジョの関係だったなら、お互い意地を張り合って一週間口を利かない期間はあっても、だんだん寂しくなって、どちらからともなく手を伸ばしあって、知らず知らずのうちにいつもの関係に戻ったり、という事もあり得る。
でも、わたしと緒方君は、年を重ねた分だけ思慮と遠慮が邪魔をする。
関係がまだ危うければ尚の事、互いにきっかけがないと踏み込めない。
どうしたらいいの、緒方君――。
キーボードを叩く手を止めて、二度目のため息を吐いたわたしは、パソコンの画面から視線を窓の外へ移した。
デスクの右側が大きな窓になっており、ビル群の向こうに夏特有の入道雲が見えていた。
少し目を落とすと、隣の駐車場の車が強い日差しを反射して白く光っていた。
暑そう……。
デスクの上の時計を見るとそろそろランチタイムという時刻。
でも暑くて外に出るのは嫌だな、下にある喫茶で軽食にしようかな、と考えていた時、蓉子先生から声が掛かった。
「菊乃、近藤さんの件は一件落着?」
わたしは顔を上げた。
蓉子先生は書類を手にこちらを見ていた。
「はっきりとはまだなんですけど……離婚はしない方向で解決しそうです」
蓉子先生は、あら、と言う。
「ご本人達にとって幸せな形に落ち着くのならそれはそれで良かった、というべきなのだろうけど、成功報酬は入らないわよ」
ぎく、とわたしは肩を竦めた。
分かってはいたけれど、実際にここの所長サマでいらっしゃる蓉子先生から言われると、耳が痛い。
「すみません……」
身を縮めて申し訳ない気持ちで謝ると、蓉子先生はカラカラと笑った。
「別に謝ることじゃなくてよ。その代わり、うちは歩合制だから、あなたの儲けが少なくなるだけだから」
ああ、とわたしは頭を掻いた。
蓉子先生には敵わない。
奥でクスクスと笑っていたこのみさんが事務所の正面入口の方を見て、あら来客、と言った。
わたしもそちらを向くと、ガラス扉に映った人影が揺れた。
「噂をすれば、ね」
ドアがゆっくりと開き、中を伺うように男女の二人連れが入って来た。
恵果さんとご主人の蓮さんだった。
「近藤さん」
わたしが立ち上がると、ご主人は被っていたキャップを取り、恵果さんと一緒に頭を下げた。
事務所が入っているビルの一階は、昭和の香り漂うレトロな喫茶になっていた。
築五十年以上と言われているこのビルが出来た当初から営業しているという喫茶店は、ロマンスグレーの渋いマスターが一人で切り盛りしている。
ノスタルジックな雰囲気の中で美味しいコーヒーを飲めて落ち着けるお店だった。
「菊乃ちゃん、できたよウインナーコーヒー、三つね」
マスターがトレーに乗せたコーヒーをカウンターに乗せた。わたしはそれを取り、近藤さん夫婦の座る奥のテーブルに運んだ。
「先生は、ウエイトレスさんもなさっているんですか?」
慣れた手つきでテーブルにコーヒーを出すわたしを、恵果さんが目を丸くして見つめた。同じようにご主人の蓮さんも驚いた表情でわたしを見上げている。
トレーを抱いてソファーに座って苦笑いした。
「時と場合によって、わたしはここでウエイトレスさんになります」
マスターがカウンターの奥で笑っていた。向かいに座る恵果さんと蓮さんは首を傾げた。
ここは、わたしが今の事務所で働くようになって以来、食事に休憩に、とお世話になっている喫茶で、マスターは相談相手にもなってくれていた。
客商売をしているマスターは様々な出会いを通して、色んな人間模様を見てきた方。
まさに亀の甲より年の功。その時その時で、解決の糸口に繋がるヒントやアドバイス、注意をくれた。たまにお説教もあるのはご愛敬。
すっかり常連さんとなったわたしにマスターは次第に、お客さんというよりは主のような扱いをし始めて、自然、サービスを割愛するようになった。
気づけばここは、セルフ食堂のような場所になっていた。
逆の言い方をすれば、マスターはわたしが頼んだものは作ってはくれるけど運んできてはくれないので、自ら動くしかなくなった、という事なのだけど。
「常連さんはセルフみたいです、この喫茶」
わたしの言葉に恵果さんと蓮さんは、アハハと笑った。二人の笑顔にハッとした。
柔らかくて穏やかな、今の心の状態がとても良い事を物語る二人の笑顔はそっくりで、まるで鏡のように見えた。
本当に仲の良い夫婦が同じ表情で笑う姿を幾度か見たことがある。
二人が同時に笑う姿を見た時、ああこの二人はもう大丈夫なんだ、と確信した。
その後、二人の口からちゃんと、離婚は取りやめ、もう一度やり直す、という言葉を貰い、確信は現実となった。
「よかった、本当によかったです」
コーヒーのカップを持ったまま、二人の顔を見て心の底から安堵の言葉を漏らした。爽やかな気持ちが胸をすっきりとさせてくれる。
どんなに大きな成功報酬を貰える結果になっても、泥仕合の果ての心身ともに疲れ果てる結果となってしまってはこんな気持ちは味わえない。
ご夫婦共に幸福な形で事が集結する事は、後味の悪い結果になった時は違う。成功報酬なんて発生しなくても、心にそれ以上の収穫があるから。
心底満足した顔でコーヒーを飲むわたしの顔を見た恵果さんが言った。
「今回、翠川先生にお願いして本当によかったと思ってます」
え、と顔を上げると、恵果さんは肩をすくめてフフッと笑った。蓮さんも、そんな恵果さんを見て笑っている。
二人を包む空気に、ああ夫婦っていいな、って一瞬思ってしまった。
恵果さんはコーヒーカップを手に取って、その中を見つめて静かに話し始めた。
「普通は、離婚を依頼された弁護士さんなら、それしか考えないですよね。
それが仕事ですから。
でも先生はそうじゃなかった。
私達にとっての最良の形を懸命に考えてくれた。
実際に離婚裁判まで経験している叔母に翠川先生のお話しをしたら、そんな弁護士さんいないわよって言ってました。
きっとその先生は、自分の事より、相手の事を考えられる人なのよ、って」
一旦言葉を切った恵果さんはニッコリと笑った。
「素敵な弁護士さんに出会えて、わたしはラッキーでした」
胸が熱くなって、言葉が出てこない。
わたしは必死にやってきただけ。
「そんな……」と言ったきり、言葉を詰まらせてしまった。
お礼を言わなければいけないのはわたしの方。今回は、この恵果さんから学ばせてもらうことがあったから。
何か言わなきゃ、と思っていたわたしが口を開こうとした時、蓮さんが笑いながらとんでもない事を口にした。
「さすが、あの手塚先生が惚れ込んでいる女性だな、と思いました」
えええ!? 思わずカップを落としそうになって、慌てて持ち直した。
「え、な、ど」
なんで、どうして、と言うつもりだったけれど舌がもつれて言葉にならず、咄嗟に口からこぼれた声は意味を成さないものだった。
慌てるわたしを見て、蓮さんと恵果さんは顔を見合わせてクスリと笑った。
二人を見た瞬間、わたしは悟った。
わたしと玲さんの事情を、知ってる。
改めて、なんでどうして、という気持ちが沸々と湧くいてくる。まさか、玲さん自身が話したとか?
脳内で言うべき言葉が撹拌して暴れてる。
恐らく今は、何か言おうとしても順序立て通りに出てこない。支離滅裂になる。
落ち着け、菊乃。いや、軽くめまいもする。
こめかみに手を当てて、ゆっくりと口を開いた。
「えっと、何からどう聞いたらいいのな」
言いながら頭の中を整理した。
自分に話しが振られると思わなかったから、軽くパニックになっている。プライベートの事を突っ込まれるのは、苦手なの。
引きつりそうな顔で精いっぱいの笑顔を作って聞く。
「もしかして、わたしと玲さん、いえ手塚先生の関係も、ご存じだったりしますか?」
二人を見ていると、蓮さんが首を竦めて頷いた。
わたしが玲さんの婚約者であった事を知られていた。
なんてこと。
思わず頭を抱えた。
蓮さんはそんなわたしに遠慮がちに話し始めた。
「実は、手塚先生と僕の父が、顧客と弁護士以上の仲なんです。
父と手塚先生は、プライベートでよく一緒に食事をしたりゴルフや旅行に行くような仲なんです。
ご存知ありませんでしたか?」
かつての婚約者は、それはそれは交友関係の広い人だった。
彼はわたしに色んな人を紹介してくれた。
その中に、もしかしたら蓮さんのお父上もいらしたのかもしれない。
けれど、一回会っただけの方は、仕事に直結してでもいない限り、とても覚えてはいられなかった。
「すみません、存じてませんでした……」
思わず可笑しな言葉使いをしてうなだれたわたしに、かえって蓮さんが恐縮する。
「いえ、いいんですよ、それは気にしないでください。
それより、父が翠川先生を覚えていたんです」
ハッとした、というより、ドキッとした。
とんでもないところで繋がっていた。
目を見開くわたしに、蓮さんと恵果さんが顔を見合わせて頷く。
そして、蓮さんがゆっくりと話しを始めた。
「実は、僕は今日、ここに来る前に手塚先生にご挨拶してきたんです。
そこで初めて分かったことなんですが――」
緒方君は、それだけを語るにとどまった。
改めて、今緒方君はフリーである、という事実がはっきりしたのだけれど、色々な事が引っかかる。
今は語りつくせない事情が込められていそうだった。
だからわたしもそれ以上の事を聞くことはしなかった。
緒方君はいつかきっと、ちゃんと話してくれる、わたしはそう信じてる。
少なくとも、緒方君は〝火遊び〟ができるような人じゃない。
いい加減な気持ちでわたしとの関係を持ったわけじゃないのだと思っている。
けれど、踏み込めなかった自分自身にじれったさを感じたのも事実。
緒方君の全てを知りたいって、思っていたくせに。
緒方君が話してくれるように促してみよう、って思ったくせに。
結局、怖気づいてしまった。
高校卒業を控えた冬に、当時の彼女と心中事件まで起こした緒方君。
その後の過去に、実は結婚したけれど奥様とは死別していた、という事実が加えられて、わたしの足元がぐらりと揺らいだ。
わたしは受け入れられるの?
そんな不安に呑み込まれてしまった。
緒方君の事を知りたいって思っている以上に、わたしと緒方君の間に横たわる空白の十八年間を埋めることに対する不安の方が大きくなって、完全に自信を失ってしまったのだ。
恵果さんを思い出し、今更ながら、彼女に対して敬服の念を持った。
彼女は、愛する人ならどんな状態であろうと受け止める自信があったから結婚した。
そして、離婚をしようと思うところまで追いつめられていたのに、彼の真実を知って踏みとどまろうとしている。
わたしは、上っ面でしか向き合っていなかったのかもしれない。
近藤さん夫婦にも。
緒方君にも。
緒方君、ごめんなさい、って言うのは、わたしだわ。
結婚歴のある事実をちゃんと告白してくれた緒方君に、わたしはあの時どんな反応をした?
あの瞬間、頭の中に一気に靄がかかってしまったようになった。
確か、「そうなの」と答えたきり、黙ってしまったように思う。
緒方君を失望させてしまったかもしれない。
でも、必死に何かを考えた。それは事実。いい加減な答えをしたくなかったから。
どんな人と結婚して、どんな結婚生活があって、何があって、今に至るの?
本当は、知りたいことは山ほどある。でも、聞けなかった。
緒方君の事を好きなのは変わらないのに。
ううん、もしかしたら、以前に増して、あなたを好きになっている。
どうしても、あなたを抱きしめてあげたい。でも、踏み出せないわたしがいる。
あの後緒方君とは、食事をしながら仕事のことや、最近あった事、そんな当たり障りのない話しをした。
別れ際、もう一度車の中でキスをした。お互いの中にこみ上げる愛しさを唇で伝えるキスだった。
ずっと一緒にいたい、離れたくない。
気持ちを、必死に抑え込んで「またね」と言い、わたしは車を降りた。
緒方君の抱えるすべてを知り、包み込む余裕が、まだないの。今のわたしはまだ、ただ緒方君を求めているに過ぎない気がして。
どうしたらいい?
どうしたら、緒方君を支えてあげられる女になれるんだろう。
こんな形で誰かを想って苦しむなんて、初めてだった。
*
間もなく正午を迎えようとしている事務所で、依頼案件の整理の為にパソコンのキーボードを叩いていたわたしは、ため息を吐いていた。
近藤さん夫婦の心のすれ違いが精神医学的見地から解明してくれた緒方君が、わたしに大事な過去の一片を告白してくれたあの日から、一週間が経っていた。
メールのやり取りは少しあったけれど、あれから会っていない。
というか、会えていない。
わたしに、会う度量がない。
どんな顔をして会っていいのか、分からない。
互いに、なんとなく距離が出来たような、そんな不安が生まれてしまったのかもしれない。
喧嘩別れしたのなら、勇気を出して何かしらのアクションを起こす手段は取れる。
若い頃のカレシカノジョの関係だったなら、お互い意地を張り合って一週間口を利かない期間はあっても、だんだん寂しくなって、どちらからともなく手を伸ばしあって、知らず知らずのうちにいつもの関係に戻ったり、という事もあり得る。
でも、わたしと緒方君は、年を重ねた分だけ思慮と遠慮が邪魔をする。
関係がまだ危うければ尚の事、互いにきっかけがないと踏み込めない。
どうしたらいいの、緒方君――。
キーボードを叩く手を止めて、二度目のため息を吐いたわたしは、パソコンの画面から視線を窓の外へ移した。
デスクの右側が大きな窓になっており、ビル群の向こうに夏特有の入道雲が見えていた。
少し目を落とすと、隣の駐車場の車が強い日差しを反射して白く光っていた。
暑そう……。
デスクの上の時計を見るとそろそろランチタイムという時刻。
でも暑くて外に出るのは嫌だな、下にある喫茶で軽食にしようかな、と考えていた時、蓉子先生から声が掛かった。
「菊乃、近藤さんの件は一件落着?」
わたしは顔を上げた。
蓉子先生は書類を手にこちらを見ていた。
「はっきりとはまだなんですけど……離婚はしない方向で解決しそうです」
蓉子先生は、あら、と言う。
「ご本人達にとって幸せな形に落ち着くのならそれはそれで良かった、というべきなのだろうけど、成功報酬は入らないわよ」
ぎく、とわたしは肩を竦めた。
分かってはいたけれど、実際にここの所長サマでいらっしゃる蓉子先生から言われると、耳が痛い。
「すみません……」
身を縮めて申し訳ない気持ちで謝ると、蓉子先生はカラカラと笑った。
「別に謝ることじゃなくてよ。その代わり、うちは歩合制だから、あなたの儲けが少なくなるだけだから」
ああ、とわたしは頭を掻いた。
蓉子先生には敵わない。
奥でクスクスと笑っていたこのみさんが事務所の正面入口の方を見て、あら来客、と言った。
わたしもそちらを向くと、ガラス扉に映った人影が揺れた。
「噂をすれば、ね」
ドアがゆっくりと開き、中を伺うように男女の二人連れが入って来た。
恵果さんとご主人の蓮さんだった。
「近藤さん」
わたしが立ち上がると、ご主人は被っていたキャップを取り、恵果さんと一緒に頭を下げた。
事務所が入っているビルの一階は、昭和の香り漂うレトロな喫茶になっていた。
築五十年以上と言われているこのビルが出来た当初から営業しているという喫茶店は、ロマンスグレーの渋いマスターが一人で切り盛りしている。
ノスタルジックな雰囲気の中で美味しいコーヒーを飲めて落ち着けるお店だった。
「菊乃ちゃん、できたよウインナーコーヒー、三つね」
マスターがトレーに乗せたコーヒーをカウンターに乗せた。わたしはそれを取り、近藤さん夫婦の座る奥のテーブルに運んだ。
「先生は、ウエイトレスさんもなさっているんですか?」
慣れた手つきでテーブルにコーヒーを出すわたしを、恵果さんが目を丸くして見つめた。同じようにご主人の蓮さんも驚いた表情でわたしを見上げている。
トレーを抱いてソファーに座って苦笑いした。
「時と場合によって、わたしはここでウエイトレスさんになります」
マスターがカウンターの奥で笑っていた。向かいに座る恵果さんと蓮さんは首を傾げた。
ここは、わたしが今の事務所で働くようになって以来、食事に休憩に、とお世話になっている喫茶で、マスターは相談相手にもなってくれていた。
客商売をしているマスターは様々な出会いを通して、色んな人間模様を見てきた方。
まさに亀の甲より年の功。その時その時で、解決の糸口に繋がるヒントやアドバイス、注意をくれた。たまにお説教もあるのはご愛敬。
すっかり常連さんとなったわたしにマスターは次第に、お客さんというよりは主のような扱いをし始めて、自然、サービスを割愛するようになった。
気づけばここは、セルフ食堂のような場所になっていた。
逆の言い方をすれば、マスターはわたしが頼んだものは作ってはくれるけど運んできてはくれないので、自ら動くしかなくなった、という事なのだけど。
「常連さんはセルフみたいです、この喫茶」
わたしの言葉に恵果さんと蓮さんは、アハハと笑った。二人の笑顔にハッとした。
柔らかくて穏やかな、今の心の状態がとても良い事を物語る二人の笑顔はそっくりで、まるで鏡のように見えた。
本当に仲の良い夫婦が同じ表情で笑う姿を幾度か見たことがある。
二人が同時に笑う姿を見た時、ああこの二人はもう大丈夫なんだ、と確信した。
その後、二人の口からちゃんと、離婚は取りやめ、もう一度やり直す、という言葉を貰い、確信は現実となった。
「よかった、本当によかったです」
コーヒーのカップを持ったまま、二人の顔を見て心の底から安堵の言葉を漏らした。爽やかな気持ちが胸をすっきりとさせてくれる。
どんなに大きな成功報酬を貰える結果になっても、泥仕合の果ての心身ともに疲れ果てる結果となってしまってはこんな気持ちは味わえない。
ご夫婦共に幸福な形で事が集結する事は、後味の悪い結果になった時は違う。成功報酬なんて発生しなくても、心にそれ以上の収穫があるから。
心底満足した顔でコーヒーを飲むわたしの顔を見た恵果さんが言った。
「今回、翠川先生にお願いして本当によかったと思ってます」
え、と顔を上げると、恵果さんは肩をすくめてフフッと笑った。蓮さんも、そんな恵果さんを見て笑っている。
二人を包む空気に、ああ夫婦っていいな、って一瞬思ってしまった。
恵果さんはコーヒーカップを手に取って、その中を見つめて静かに話し始めた。
「普通は、離婚を依頼された弁護士さんなら、それしか考えないですよね。
それが仕事ですから。
でも先生はそうじゃなかった。
私達にとっての最良の形を懸命に考えてくれた。
実際に離婚裁判まで経験している叔母に翠川先生のお話しをしたら、そんな弁護士さんいないわよって言ってました。
きっとその先生は、自分の事より、相手の事を考えられる人なのよ、って」
一旦言葉を切った恵果さんはニッコリと笑った。
「素敵な弁護士さんに出会えて、わたしはラッキーでした」
胸が熱くなって、言葉が出てこない。
わたしは必死にやってきただけ。
「そんな……」と言ったきり、言葉を詰まらせてしまった。
お礼を言わなければいけないのはわたしの方。今回は、この恵果さんから学ばせてもらうことがあったから。
何か言わなきゃ、と思っていたわたしが口を開こうとした時、蓮さんが笑いながらとんでもない事を口にした。
「さすが、あの手塚先生が惚れ込んでいる女性だな、と思いました」
えええ!? 思わずカップを落としそうになって、慌てて持ち直した。
「え、な、ど」
なんで、どうして、と言うつもりだったけれど舌がもつれて言葉にならず、咄嗟に口からこぼれた声は意味を成さないものだった。
慌てるわたしを見て、蓮さんと恵果さんは顔を見合わせてクスリと笑った。
二人を見た瞬間、わたしは悟った。
わたしと玲さんの事情を、知ってる。
改めて、なんでどうして、という気持ちが沸々と湧くいてくる。まさか、玲さん自身が話したとか?
脳内で言うべき言葉が撹拌して暴れてる。
恐らく今は、何か言おうとしても順序立て通りに出てこない。支離滅裂になる。
落ち着け、菊乃。いや、軽くめまいもする。
こめかみに手を当てて、ゆっくりと口を開いた。
「えっと、何からどう聞いたらいいのな」
言いながら頭の中を整理した。
自分に話しが振られると思わなかったから、軽くパニックになっている。プライベートの事を突っ込まれるのは、苦手なの。
引きつりそうな顔で精いっぱいの笑顔を作って聞く。
「もしかして、わたしと玲さん、いえ手塚先生の関係も、ご存じだったりしますか?」
二人を見ていると、蓮さんが首を竦めて頷いた。
わたしが玲さんの婚約者であった事を知られていた。
なんてこと。
思わず頭を抱えた。
蓮さんはそんなわたしに遠慮がちに話し始めた。
「実は、手塚先生と僕の父が、顧客と弁護士以上の仲なんです。
父と手塚先生は、プライベートでよく一緒に食事をしたりゴルフや旅行に行くような仲なんです。
ご存知ありませんでしたか?」
かつての婚約者は、それはそれは交友関係の広い人だった。
彼はわたしに色んな人を紹介してくれた。
その中に、もしかしたら蓮さんのお父上もいらしたのかもしれない。
けれど、一回会っただけの方は、仕事に直結してでもいない限り、とても覚えてはいられなかった。
「すみません、存じてませんでした……」
思わず可笑しな言葉使いをしてうなだれたわたしに、かえって蓮さんが恐縮する。
「いえ、いいんですよ、それは気にしないでください。
それより、父が翠川先生を覚えていたんです」
ハッとした、というより、ドキッとした。
とんでもないところで繋がっていた。
目を見開くわたしに、蓮さんと恵果さんが顔を見合わせて頷く。
そして、蓮さんがゆっくりと話しを始めた。
「実は、僕は今日、ここに来る前に手塚先生にご挨拶してきたんです。
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