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カルテ5 膝枕
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「う、気持ち悪い」
急激に胸やけのような感触に襲われて、わたしは目を覚ました。
「ちょっと待った。今吐くのは勘弁」
薄暗い中、わたしの耳に男の人の声とガサガサというビニールが擦れる音。
「いいよ、ここに吐いて」
その言葉と同時に口元にビニールが当てられて、訳が分からなかったけど抑えきれず、わたしは少しだけ吐いてしまった。
「もういい? 大丈夫?」
優しい手が、背中をさすってくれていた。
動こうとしたら頭に、ガンッという衝撃。
「ダメ、気持ち悪い」
「いいよ、無理しないでゆっくり休んで」
指先まで優しく染み渡るような、心地良く響く柔らかな低い声。
あれ、とわたしの脳内の醒めた部分が、朦朧とする意識にガツンと事実を突きつけようとしてる。
でも、いや、待って。
これはきっとまだ夢。
そう信じさせて。
わたしの脳内で、ものすごい闘争が繰り広げられ始めた。
実はもう、覚醒間近。
でも今ここで反応するには事実を整理しないと無理。
起きられない。
わたしは今現在、どんな状況下にいるのか掴まなければ話しは進まない。
鈍り切った脳内機能をとりあえず再起動する。
まず、どこかのソファに横になっていることは、分かった。
どこ? と考えていたけれど、ちょっと待って、と思考起動再停止。
わたし、どこに頭乗せてるの?
ドキドキと急激に鼓動が早くなる。
この、頭に感じているのは、人の足、だよね?
〝そうね、大腿部かしら?〟なんて冷静に判断した意識下の自分を突き飛ばした。
膝枕よ、これ!
わたし、膝枕してもらってるじゃないの!
焦る自分一色になった脳内は完全にパニックを起こしていた。
誰、これは誰? なんて愚問。
たった今聞いた声で判断は付いている。
緒方君だ! 緒方君!
ひ、膝枕なんて遼太にだって、したことはあってもしてもらったことは、ない。
どうしよう!
パニックが引き起こした覚醒。
けれど、こんな、酔って吐く女の介抱させて、どうやって、どんな顔して起きたらいいの?
薄目を開けて確認したわたしの視界に映ったのは、緒方君の膝。
どうやら、緒方君には背を向けているらしい。
これ幸いと、わたしはギュッと目を閉じた。
ああ、このまま消えてしまえたらいいのに。
そう思った時、クスクスという笑い声が降ってきた。
「いいよ、そんなに焦らなくて。
気にしなくていい。
翠川さんが少し楽になるまで付き合うからさ」
優しい声。
緒方君は、わたしが目を覚ましていたことに気付いていた。
それでも、わたしがこの状況に気付いて気持ちが落ち着くまで待ってくれようとしてるの?
顔が見られない。
本当は直ぐにでも飛び起きて、ごめんね! って言いたいのに動くのも憚られる。
どんな顔を緒方君に見せたらいいか、分からない。
緒方君の膝の上で、わたしは背を向けたまま身を固くした。
「吐き気は治まった?」
気遣う言葉に、わたしは小さく頷いた。
「よかった。
でももう少し、こうしていた方がいいよ」
声があまりにも柔らかくて優しくて、やさぐれ気味のわたしの心に染みて涙が出そうになった。
でも、ギュッと目を閉じ、涙は堪える。
それにしても、ここはどこだろう。
そう思った時、緒方君が静かに話し出す。
「ここは僕が働いてるクリニック。
この前、翠川さんが来たクリニックの待合室だよ」
わたしはそっと目を開けて、周囲を確認した。
照明は落としていて薄暗かったけど見覚えのある場所だった。
そうだ、ここ……。
急激な覚醒を見たはずだったのに、緒方君の包み込むような優しさに安心してしまったのか、わたしの頭の中はまだどこか薄ぼんやりとしていた。
疑問はどんどん湧いてくるのに。
わたしがどうしてこんなところにいるの?
一緒にいたはずの千尋は?
わたしのそんな気持ちをそっと抱くように緒方君は話しを続けた。
「今夜ね、僕も駅前で少し呑んでたんだ。
そろそろ帰ろうかな、と思って外に出たら、呑み潰れちゃった女の人とそれを介抱する友人、という二人連れがいてね。
傍を通りかかったから何気なく見たら――」
緒方君、クスクス。
ああやだ、そんな。
思わず両手で顔を覆った。
もう本当に最悪だ。
どん底に突き落とされたような気持ちで顔も見せられないわたしの頭を緒方君がそっと撫でた。
髪に触れる手が、すごく優しくてドキッとした。
緒方君……。
「高校時代の翠川さんからはちょっと考えられない姿に驚かされた」
両手で顔を覆ったままのわたしに、緒方君はそっと言った。
「色々あるお年頃だよね。
いいんだよ、呑みたい時は呑んで、泣きたい時は思いきり泣いて。
それが出来る人は心が健全なんだ」
わたしの心にフワッと柔らかな風が舞い込む。
駄目だ、泣いてしまう。
今のわたしにそんなに優しくしないでよ。
心が抱き締められたみたいで込み上げてくる感情は、忘れていた何か。
新しい、感情を生まれさせようとする何か。
いけない。
わたしが〝それ〟を無意識に摘み取ろうとした時。
「あ、でも友達に迷惑を掛けるのはあまりよろしくないかな」
芽吹きそうだった〝なにか〟は、今の一言が一陣の風となって浚っていった。
わたしの視界が一気開けて見えた現実は。
「あ、ちひろっ!」
顔を覆っていた手を外して身体の向きを変えると、緒方君と目が合った。
非常口誘導灯がうっすらと明るさをくれる待合室フロア。
緒方君のアーモンド形の綺麗な目が、妖しく映ってドキッとした。
起き上がれば、よかったのに。
わたしはそのまま見入ってしまう。
緒方君、フワッと笑った。
「近江さんは、明日の夜にはフライトがあるから今夜、立川駅前から出る成田行き高速バスの最終に乗らなきゃいけないかったみたいだね」
そうだったの?
千尋ったら、何も言わないでわたしに付き合ってくれてたの?
申し訳なさに胸が締め付けられた。
緒方君はそんなわたしにそっと笑いかけた。
「あまり弱音を吐かない翠川さんが心配でたまらなかったみたいだけど、友人に仕事を休ませたら翠川さんは、ますます落ち込む。
そう思って、僕が責任持って、落ち着くまで面倒みて、家に帰すよって近江さんに言ったんだ」
ああ……、とわたしは思わず手で目元を覆い隠した。
みんな、優し過ぎ。
こんなわたしに、二人とも優し過ぎる。
ますます自己嫌悪に陥ってしまう。
泣きそうになるわたしの額に、少しだけひんやりとした大きな手の感触。
緒方君の、手。
ドキン、と胸は跳ねたのに、触れられたそこからすっと強張りかけた心が解される。
もう少し、こうしていて。
そんな風に思ってしまった。
わたしは胸の中に湧いた、自身でも分からない感情をごまかす為に、聞いた。
「どうして千尋は、高校卒業以来久しぶりに会った緒方君にこんなお荷物押し付けたの?」
一瞬沈黙があって、アハハという緒方君の笑い声。
わたしは視界を遮っていた自分の手をそっと外して緒方君を見た。
すると、ドキッとするような優しい瞳とぶつかった。
その目は、反則かもしれない。
見つめられると、動けなくなる。
緒方君、「実はね」と話し始めた。
「2年くらい前に、近江さんがCAとして搭乗していた飛行機に、偶然二回くらい乗り合わせたんだ」
そう言えば、そんな話しを千尋から聞いたことがあった。
『今回のフライトで、誰に会ったと思うー?
緒方君よ、緒方君!
イケメンドクター沢山一緒だったわー』
千尋のその時の様子を思い出して苦笑い。
恐らく、学会か何かで、どこかに行った時ね。
「高校以来会ってもいない同級生だったら、恐らく近江さんもこうして僕に任せたりはしなかったんじゃないかな」
緒方君の視線がすっと外れ、声がくぐもった。わたしはハッとする。
そうだ、緒方君は――。
「僕は、みんなと卒業できなかったからね」
そうだった。
緒方君は、わたし達同級生と一緒に卒業できなかったんだ。
高校3年の暮れに起こしてしまった一つの騒動がきっかけで、緒方君は退学したんだった。
うっすらとしか覚えていなかった過去の記憶が、少しずつわたしの脳裏に拡がり始めた。
緒方君は確か、あの時付き合っていた彼女と――、
不意に、胸がズキンと痛んだ。
そうよ、緒方君はどうして医者に?
どうして、精神科を専門にすることにしたの?
下から見上げる緒方君の綺麗な顔にできた陰影が、少し悲しく見えて、心が苦しくなった。
ごめんね緒方君、わたしは、何もしてあげられない。
「ありがと、もう、大丈夫だよ」
わたしはそう言ってそっと起き上がった。
すると、緒方君の顔が今見せた憂いの表情から変わってフワリと柔らかくなる。
「良かった。
でもさすがに、女の人が前後不覚になるくらい呑むのは、気を付けないと駄目だね」
わたしは緒方君の隣に座って首を竦めた。
そんなわたしを見て、緒方君はクスッと笑った。
「僕だから良かったものの」
わたしは、一瞬キョトンとして。
「あっ、やだ!」
思わず手で顔と身体を確かめてしまった。
それを見て緒方君はアハハと笑った。
「残念ながら、何もしてないよ。
菊乃に何かしたらただじゃおかない、って近江さんに釘刺されたし」
「やだもう、千尋は」
そう言いながら、わたしは明るく笑う緒方君をちらりと見た。
ボタンは二つ外したワイシャツに、センスが光るネクタイは少し緩めてる。
仕事終わりで疲れているだろうに、こんな酔い潰れた女に付き合ってくれて。
同い年だけど、本当に落ち着いていて、真のジェントルマン。
わたしは、そっと深呼吸をした。
緒方君は心療内科医。
きっと、誰にでも優しいの。
この人が持つ、深くて大きくて、包み込むような優しさは、向き合う全ての人に与えるもの。
だめよ、菊乃。
傾いたら。
急激に胸やけのような感触に襲われて、わたしは目を覚ました。
「ちょっと待った。今吐くのは勘弁」
薄暗い中、わたしの耳に男の人の声とガサガサというビニールが擦れる音。
「いいよ、ここに吐いて」
その言葉と同時に口元にビニールが当てられて、訳が分からなかったけど抑えきれず、わたしは少しだけ吐いてしまった。
「もういい? 大丈夫?」
優しい手が、背中をさすってくれていた。
動こうとしたら頭に、ガンッという衝撃。
「ダメ、気持ち悪い」
「いいよ、無理しないでゆっくり休んで」
指先まで優しく染み渡るような、心地良く響く柔らかな低い声。
あれ、とわたしの脳内の醒めた部分が、朦朧とする意識にガツンと事実を突きつけようとしてる。
でも、いや、待って。
これはきっとまだ夢。
そう信じさせて。
わたしの脳内で、ものすごい闘争が繰り広げられ始めた。
実はもう、覚醒間近。
でも今ここで反応するには事実を整理しないと無理。
起きられない。
わたしは今現在、どんな状況下にいるのか掴まなければ話しは進まない。
鈍り切った脳内機能をとりあえず再起動する。
まず、どこかのソファに横になっていることは、分かった。
どこ? と考えていたけれど、ちょっと待って、と思考起動再停止。
わたし、どこに頭乗せてるの?
ドキドキと急激に鼓動が早くなる。
この、頭に感じているのは、人の足、だよね?
〝そうね、大腿部かしら?〟なんて冷静に判断した意識下の自分を突き飛ばした。
膝枕よ、これ!
わたし、膝枕してもらってるじゃないの!
焦る自分一色になった脳内は完全にパニックを起こしていた。
誰、これは誰? なんて愚問。
たった今聞いた声で判断は付いている。
緒方君だ! 緒方君!
ひ、膝枕なんて遼太にだって、したことはあってもしてもらったことは、ない。
どうしよう!
パニックが引き起こした覚醒。
けれど、こんな、酔って吐く女の介抱させて、どうやって、どんな顔して起きたらいいの?
薄目を開けて確認したわたしの視界に映ったのは、緒方君の膝。
どうやら、緒方君には背を向けているらしい。
これ幸いと、わたしはギュッと目を閉じた。
ああ、このまま消えてしまえたらいいのに。
そう思った時、クスクスという笑い声が降ってきた。
「いいよ、そんなに焦らなくて。
気にしなくていい。
翠川さんが少し楽になるまで付き合うからさ」
優しい声。
緒方君は、わたしが目を覚ましていたことに気付いていた。
それでも、わたしがこの状況に気付いて気持ちが落ち着くまで待ってくれようとしてるの?
顔が見られない。
本当は直ぐにでも飛び起きて、ごめんね! って言いたいのに動くのも憚られる。
どんな顔を緒方君に見せたらいいか、分からない。
緒方君の膝の上で、わたしは背を向けたまま身を固くした。
「吐き気は治まった?」
気遣う言葉に、わたしは小さく頷いた。
「よかった。
でももう少し、こうしていた方がいいよ」
声があまりにも柔らかくて優しくて、やさぐれ気味のわたしの心に染みて涙が出そうになった。
でも、ギュッと目を閉じ、涙は堪える。
それにしても、ここはどこだろう。
そう思った時、緒方君が静かに話し出す。
「ここは僕が働いてるクリニック。
この前、翠川さんが来たクリニックの待合室だよ」
わたしはそっと目を開けて、周囲を確認した。
照明は落としていて薄暗かったけど見覚えのある場所だった。
そうだ、ここ……。
急激な覚醒を見たはずだったのに、緒方君の包み込むような優しさに安心してしまったのか、わたしの頭の中はまだどこか薄ぼんやりとしていた。
疑問はどんどん湧いてくるのに。
わたしがどうしてこんなところにいるの?
一緒にいたはずの千尋は?
わたしのそんな気持ちをそっと抱くように緒方君は話しを続けた。
「今夜ね、僕も駅前で少し呑んでたんだ。
そろそろ帰ろうかな、と思って外に出たら、呑み潰れちゃった女の人とそれを介抱する友人、という二人連れがいてね。
傍を通りかかったから何気なく見たら――」
緒方君、クスクス。
ああやだ、そんな。
思わず両手で顔を覆った。
もう本当に最悪だ。
どん底に突き落とされたような気持ちで顔も見せられないわたしの頭を緒方君がそっと撫でた。
髪に触れる手が、すごく優しくてドキッとした。
緒方君……。
「高校時代の翠川さんからはちょっと考えられない姿に驚かされた」
両手で顔を覆ったままのわたしに、緒方君はそっと言った。
「色々あるお年頃だよね。
いいんだよ、呑みたい時は呑んで、泣きたい時は思いきり泣いて。
それが出来る人は心が健全なんだ」
わたしの心にフワッと柔らかな風が舞い込む。
駄目だ、泣いてしまう。
今のわたしにそんなに優しくしないでよ。
心が抱き締められたみたいで込み上げてくる感情は、忘れていた何か。
新しい、感情を生まれさせようとする何か。
いけない。
わたしが〝それ〟を無意識に摘み取ろうとした時。
「あ、でも友達に迷惑を掛けるのはあまりよろしくないかな」
芽吹きそうだった〝なにか〟は、今の一言が一陣の風となって浚っていった。
わたしの視界が一気開けて見えた現実は。
「あ、ちひろっ!」
顔を覆っていた手を外して身体の向きを変えると、緒方君と目が合った。
非常口誘導灯がうっすらと明るさをくれる待合室フロア。
緒方君のアーモンド形の綺麗な目が、妖しく映ってドキッとした。
起き上がれば、よかったのに。
わたしはそのまま見入ってしまう。
緒方君、フワッと笑った。
「近江さんは、明日の夜にはフライトがあるから今夜、立川駅前から出る成田行き高速バスの最終に乗らなきゃいけないかったみたいだね」
そうだったの?
千尋ったら、何も言わないでわたしに付き合ってくれてたの?
申し訳なさに胸が締め付けられた。
緒方君はそんなわたしにそっと笑いかけた。
「あまり弱音を吐かない翠川さんが心配でたまらなかったみたいだけど、友人に仕事を休ませたら翠川さんは、ますます落ち込む。
そう思って、僕が責任持って、落ち着くまで面倒みて、家に帰すよって近江さんに言ったんだ」
ああ……、とわたしは思わず手で目元を覆い隠した。
みんな、優し過ぎ。
こんなわたしに、二人とも優し過ぎる。
ますます自己嫌悪に陥ってしまう。
泣きそうになるわたしの額に、少しだけひんやりとした大きな手の感触。
緒方君の、手。
ドキン、と胸は跳ねたのに、触れられたそこからすっと強張りかけた心が解される。
もう少し、こうしていて。
そんな風に思ってしまった。
わたしは胸の中に湧いた、自身でも分からない感情をごまかす為に、聞いた。
「どうして千尋は、高校卒業以来久しぶりに会った緒方君にこんなお荷物押し付けたの?」
一瞬沈黙があって、アハハという緒方君の笑い声。
わたしは視界を遮っていた自分の手をそっと外して緒方君を見た。
すると、ドキッとするような優しい瞳とぶつかった。
その目は、反則かもしれない。
見つめられると、動けなくなる。
緒方君、「実はね」と話し始めた。
「2年くらい前に、近江さんがCAとして搭乗していた飛行機に、偶然二回くらい乗り合わせたんだ」
そう言えば、そんな話しを千尋から聞いたことがあった。
『今回のフライトで、誰に会ったと思うー?
緒方君よ、緒方君!
イケメンドクター沢山一緒だったわー』
千尋のその時の様子を思い出して苦笑い。
恐らく、学会か何かで、どこかに行った時ね。
「高校以来会ってもいない同級生だったら、恐らく近江さんもこうして僕に任せたりはしなかったんじゃないかな」
緒方君の視線がすっと外れ、声がくぐもった。わたしはハッとする。
そうだ、緒方君は――。
「僕は、みんなと卒業できなかったからね」
そうだった。
緒方君は、わたし達同級生と一緒に卒業できなかったんだ。
高校3年の暮れに起こしてしまった一つの騒動がきっかけで、緒方君は退学したんだった。
うっすらとしか覚えていなかった過去の記憶が、少しずつわたしの脳裏に拡がり始めた。
緒方君は確か、あの時付き合っていた彼女と――、
不意に、胸がズキンと痛んだ。
そうよ、緒方君はどうして医者に?
どうして、精神科を専門にすることにしたの?
下から見上げる緒方君の綺麗な顔にできた陰影が、少し悲しく見えて、心が苦しくなった。
ごめんね緒方君、わたしは、何もしてあげられない。
「ありがと、もう、大丈夫だよ」
わたしはそう言ってそっと起き上がった。
すると、緒方君の顔が今見せた憂いの表情から変わってフワリと柔らかくなる。
「良かった。
でもさすがに、女の人が前後不覚になるくらい呑むのは、気を付けないと駄目だね」
わたしは緒方君の隣に座って首を竦めた。
そんなわたしを見て、緒方君はクスッと笑った。
「僕だから良かったものの」
わたしは、一瞬キョトンとして。
「あっ、やだ!」
思わず手で顔と身体を確かめてしまった。
それを見て緒方君はアハハと笑った。
「残念ながら、何もしてないよ。
菊乃に何かしたらただじゃおかない、って近江さんに釘刺されたし」
「やだもう、千尋は」
そう言いながら、わたしは明るく笑う緒方君をちらりと見た。
ボタンは二つ外したワイシャツに、センスが光るネクタイは少し緩めてる。
仕事終わりで疲れているだろうに、こんな酔い潰れた女に付き合ってくれて。
同い年だけど、本当に落ち着いていて、真のジェントルマン。
わたしは、そっと深呼吸をした。
緒方君は心療内科医。
きっと、誰にでも優しいの。
この人が持つ、深くて大きくて、包み込むような優しさは、向き合う全ての人に与えるもの。
だめよ、菊乃。
傾いたら。
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