舞姫【後編】

友秋

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『幸せです』

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 舞台は、桟敷席からの観覧となった。歌舞伎では馴染みの、緑と橙と黒の縦縞の幕がゆっくりと上がると、別世界が広がっていた。

 一流芸者達の優雅で壮麗な舞いの競演。みちるは瞬きも忘れ、その舞台に釘付けとなった。

 どうして……。

 遠い意識が覚えていた。この舞いの世界を、全身に通う血が記憶しているように。

 どうして、こんなに涙が出るんだろう。

 みちるは急いで取り出したハンカチで、溢れ落ちそうになった涙を拭った。みちるの姿を目の端に入れ、エミコは静かに舞台を見詰めていた。

 一部のトリに、祇園の芸舞妓が井上流の舞いを舞う。エミコは知らず知らずのうちに身を乗り出していた。

 あの日観た姫花がそこで舞っていた。そう見えた。そこに今、姫花がいるように。

 一度だけ、芸妓となった姫花の舞いを観た。

 祇園の女紅場学園という芸舞妓の学校で一年に一度行われる都をどりの舞台だった。お茶屋のおかあさんが、姫花に内緒で招待してくれたのだ。

『伺わせていただきますが、あの子には言わないでください』

 おかあさんにはそう伝えた。

 姫扇という芸妓の舞いは、それは見事な舞いだった。東京で日舞を習っていた時はちっとも上達しなかった娘が、ここで見事に花開かせた。

 舞台を観たあの日、涙が止まらなかった。

 いつか蟠りが解け、必ず会える日が来ると信じ、その日が来るまで待とうと決意した。だから、何も言わず、会わず、そっと祇園を後にした。

 なのに、〝生きている〟姫花を見たのは、それが最期となってしまった。



 第一部が終わり、第二部が始まる間までの休憩時間、お昼が振る舞われた。

 新橋の老舗料亭の豪勢な松花堂弁当に、蓋を開けたみちるはため息を漏らした。

「春らしくて素敵ね」

 エミコの柔らかな声に、ええ、とみちるは頷く。

「梅の花と……福寿草かしら」

 ああ、そっか、福寿草ね。幸せの花。思わずみちるの頬が緩んだ。

 ゆかりで色を付けた梅の花を型どったご飯と、焼魚に細かいそぼろ状の黄身がこんもりと上品に盛られていた。

 もう、春なんだね。

 目も舌も楽しませてくれる食は、心を解す。エミコとみちるは、今観た舞台の話に会話が弾んだ。まるで、本当の母娘のように自然に。

 日本舞踊など全く知らなかったみちるに、エミコは優しく話を進めた。

「そう、お座敷で初めてご覧になったの。今日はまた、ひと味違って楽しめましたでしょう。本当はこんなに贅沢に楽しめるのは滅多にないんですよ」
「そうなんですね」

 今もみちるの耳に目蓋に甦る、雅な世界。

 どうしてこんなに、懐かしい感じがしたのだろう。

「日舞をご覧になるのがとてもお好きとお見受けしました」

 弁当の蓋を閉めたエミコは出されたお茶を飲みながらニッコリ微笑んだ。

「はい。本当は全然分からないし、知らないんです。でも私の中の、何かが覚えていたみたいな不思議な温かい感触があって」

 みちるは言いながら、手を胸に当てて静かに目を閉じた。

 特に、第一部の最後に見た祇園の芸妓の舞いには胸を切なさに締め付けられるような、郷愁にも似た感覚を覚えていた。



 それは貴女の中に流れる〝血〟が覚えているからよ。だって貴女の母親の体に染み付いていた舞いだもの。

 エミコはその言葉は呑み込んだ。

 御幸の手紙に追記されていた言葉があった。

『貴女とその女性との関係、素性をお話しするかどうか。それは貴女の裁量にお委ねします』

 まだ時間はある。エミコは思う。

 話すとしても、今言うべきでは無い。気持ちを切り替え口を開いた。

「それはきっと、みちるさんの感性の波長とピタリと合ったからでしょう」

 エミコの言葉にみちるの表情が明るくなった。

「そう言っていただけると嬉しいです。言ってしまってから、変に思われてしまったらどうしよう……って」

 思い出したように、急にもじもじと恥ずかしそうにうつ向いたみちるに、エミコは「まあ」と優美な笑みを見せた。

 心から愛しい。抱き締めてあげたい程に。今なら素直に――。

 何故、ちゃんと愛情を注ぐ事が出来なかったのだろう。本当に大事なものは、失ってしまってから気付くのだ。

「貴女は……」

 え……? と顔を上げたみちるにエミコは言う。

「お父様とお母様に、大事に育てられたのでしょうね」

 何故そんな言葉が口を突いて出たのか、エミコ自身も分からなかった。ただ、目の前にいるこの娘が、あまりにも素直で、無垢に見えたから。

 思いがけない言葉に一瞬驚いたように目を丸くしたみちるだったが、直ぐに笑顔で答えた。

「私がまだ小学生の時に二人とも亡くなりましたけど、沢山愛して貰いました。亡くなってから大変な時もあったけど、今なら分かります」

 そう、と言ったきり、声を詰まらせたエミコだったが、押し潰されてしまいそうな胸の痛みを押さえて次の言葉を絞り出す。

「ごめんなさいね、辛い話をさせてしまって」

 みちるは、すまなそうな表情を見せたエミコに明るく言った。

「とんでもないです! 私、少しも寂しくないです。お父さんとお母さんがくれた沢山愛してくれたから、一杯思い出と愛情をくれたから今の私があるんです。だから、全身で人を愛する事が出来るんです。大切なものを、大切と思える心を持てたんだと思います」

 大切なもの。

 エミコは、ハッとした。

 この子にはもう、これまで歩んできた人生がある。生活が、ある。そして何より、大切なものがあるのだ。そこに介入する権利は自分には、無いのだ――。



 第二部は、より華やかな舞台となり、観客を喜ばせるものだった。第一部の時とは違い、楽しそうに明るく観覧するみちるに、エミコはコッソリ囁いた。

「実はね、わたくし、芸者でしたの。随分と若い頃ですけど」
「ええ!」

 大袈裟なくらい驚いてみせたみちるに、エミコはフフフと笑って肩を竦めてみせた。

「これは、今はもうわたくしのたった一人の親友しか知らない事なのよ。店のホステス達も知らないの。みちるさんだけにお教えしました」
「じゃあ、私とエミコさんと、その親友さんだけの秘密、ですね?」

 みちるもそっと楽しそうに囁いた。エミコはにっこりと微笑んだ。

 かけがえのない幸せな時。そんな時間はあっという間に過ぎ行く。

 みちるは、終演し幕が下りた舞台を眺めながら名残惜しそうに席を立った。エミコは話し掛ける。

「みちるさん、この後は?」
「あ、私は、お迎えがあるんです。その、知り合いが」

 携帯電話を手に、ちょっと照れくささも滲ませみちるの言い方に、エミコは、あら、と思う。

「大切な方、ね?」

 頬を僅かに染めたみちるにエミコは優しく微笑んだ。



 ロビーに出ると、玄関口に立っていたスーツをビシッと着こなす背の高い青年がこちらに軽く手を挙げた。みちるが応えるように小さく手を振る。

「お迎えは彼かしら?」
「はい……」

 エミコは離れていてもしっかりと通じ合う雰囲気を瞬時に察知していた。

「あの、エミコさんはこの後は? 良かったらお送りしたいのですが」
「わたくしは、今日出演した芸妓さんの中にどうしてもお会いしたいお方がおりますの。楽屋に寄ってから帰りますわ。お気持だけ、ありがたくお受けしますわね」

 エミコは、すぅ、と深呼吸して一区切りし、静かに続けた。

「みちるさん、一つお聞きしてもよろしいかしら」
 
 エミコの問いは、簡単なひと言だった。

「みちるさんは、今幸せでいらっしゃるのかしら」

 みちるは、改めて奈美絵を見た。

 何故そんな事を聞くの? と瞳が一瞬戸惑う色を見せたが、エミコの表情が真摯なものだった為、直ぐにニコッと笑い、答えた。

「幸せです」

 即答だった。迷いは一切なく、短く簡潔に。だからこそそこに素直で真剣な感情が込められている事が真っ直ぐに伝わった。

 エミコは柔らかに微笑み、言う。

「実は、私の亡くなった娘の記憶がみちるさんくらいの年で止まっているの。だから、娘を思い出してつい聞いてしまったの。突然変な事を聞いてしまって、お気に障ったらごめんなさいね」
「そんな、気になんて……」

 みちるは恐縮し、小さく首を振った。

「みちるさんが幸せでらっしゃるなら良かった」

 エミコが見せた笑顔は、心からの安堵にも、何処か寂しげにも見えた。

「またいつか、何処かでご一緒できたら嬉しいですわね」

 別れの挨拶を口にしたエミコは優雅に流れるような会釈をする。みちるは名残惜しそうな、悲しそうな顔をした。

「あの、お会いしたいと思った時にご連絡してもいいですか?」

 どうしてもここでこのまま別れたくはなかったのだ。エミコは美しい顔に嬉しそうな笑みを浮かべた。

「その名刺のお店に連絡くだされば」

 暫くは銀座におりますけど。心で呟いていた。

 もう、会わない方が良いでしょう。



 何度も振り向きながら歩いて来たみちるの肩を抱いた保は、顔を覗き込みながら心配そうに声を掛けた。

「みちる、泣きそうな顔してる」

 みちるは目をギュッと閉じふるふると首を振った。保が視線を上げると、みちるが今一緒にいた婦人と目が合った。

 婦人はみちるが保の元に来るまで優しく見守るように、立ち去る事なくそこにいた。

 たおやかな佇まいの婦人は優雅に微笑み会釈する。保がそれに呼応して頭を下げると彼女はすっとその場を去って行った。

 保は、自分に向けられた婦人の柔らかな笑みの中の、真っ直ぐな光を宿す瞳に何か強い想いを感じ取っていた。

 何か訴えていたみたいだった。切実な何かを。

 クラブ胡蝶のエミコママは有名だが、その容姿を知るのは店に行く者のみだ。保はエミコを知らなかった。



「みちる、御幸さんの手紙に書かれていた女性に会えたんだな」
「うん……」

 演舞場を出て車が停めてある駐車場まで歩くみちるは保の優しい腕に肩を抱かれ、小さく頷いた。
 
「やっぱり泣きそうな顔に見えるな」

 柔らかくしっとりとみちるの胸に染み渡る保の声に、みちるの目から涙が溢れた。

「み、みちる?」

 驚いた保はスラックスのポケットからハンカチを出してみちるの涙を優しく拭った。ハンカチを受け取りながらみちるは涙声で言う。

「分かんない、分かんないけど。胸が痛いの、苦しいの……」
「みちる」

 思い出したの。

 エミコといる間に感じていた揺りかごの中にいるような温もりは、みちるの遠い記憶の中に眠る、無償の愛に包まれていた頃の感覚だった。

 エミコと別れ、歩き出した時に気付いた。

 さよならをした瞬間感じた痛みは身体の一部を持っていかれるような感覚だった。

 あの、父と母の遺体を目にしたあの瞬間感じたものに似ていた。
 
 どうしてエミコにそんな感情を抱いたのか分からないみちるは戸惑い、涙を溢した。

 もしかしたら……ううん。お父さんもお母さんも、身寄りは無い、って言ってた。それに、もしそうだとしたら、エミコさんだって何かを言ってくれる筈でしょう?

 ぐるぐると思考は巡る。みちるは肩を抱く保に身体を預けた。

「ごめんね、保さん」

 保は静かに首を振り、変わらず優しくみちるの肩を抱いたままゆっくりと歩く。

 聞きたい事は沢山あった。けれども今は、聞かない。聞くのは一つだけ。

「いい時間を、過ごせたか?」

 みちるが小さく頷いた。

「それなら良かった」

 保はみちるの頭をそっと抱え込み、その髪の毛にキスをした。

「みちるに寂しい想いは絶対にさせないから」




 
 終演後の舞台裏は、一日限りの壮麗な宴、美の競演、夢の後の片付けに追われる喧騒に包まれていた。

 一番奥の、祇園の芸舞妓の楽屋に、一人の芸妓と抱き合い涙するエミコの姿があった。
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