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躊躇い
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ダイニングテーブルの下に潜り込んだみちるは暫しうろつき、這い出してくると床に手を突く四つん這いのままリビングへ移動した。テレビラックの下まで覗き込む。
「あれー、何処行っちゃったんだろ」
探し物をするみちるは、誰もいない部屋の中で独り呟いた。フローリングの床にペタリと座り込み、首を傾げ思案する。
「この前保さんに見せて、サイドボードの上に置いて……」
うーん、とみちるは腕を組んだ。
ひと月程前に深夜の繁華街で助けてくれたニューハーフのおネエさんから貰った名刺を探していた。
ちゃんとお礼をしなければ、と、仕事の前に訪ねてみようと思い立ち、名刺の紛失に気付いたのだ。
小さなため息をついたみちるは辺りを見回す。
あとで保さんにも聞いてみよう。ちょっと知っていたみたいだし。でもとりあえず、もう一度探そう。
みちるは再びリビングの捜索を始めた。
†
繁華街の雑居ビル群は、まるでカラフルな積木を重ねたような飲食店の看板をくっ付けて立ち並ぶ。ネオンがまだ灯されない、夕暮れ時にはもう少し、といった時間帯だった。
「ごめんなさ~い、まだ準備中で……アラッ、セイジ!」
星児が店のドアを開けると、思い切り明るいハスキーボイスが出迎えた。
開店時間にはまだ早く、店にはスミ子しかおらず、いつもなら賑やかに始まっているショーのリハもまだ始まっていなかった。カウンターの中で今夜の営業の為の準備をしてたスミ子は、洋装に長いウェーブヘアを緩く一つに縛っていた。
軽く手を挙げて入って来た星児にスミ子が言う。
「どうしたの、こんな時間に」
聞きながら、呑む? とビールグラスを掲げて見せたスミ子に、ああ、と頷いた星児はカウンターの椅子に座った。
「スミ姐にちょっと聞きたい事があってさ」
「聞きたい事? 何かしら」
生ビールのサーバーのレバーを引き、細長いグラスに泡と黄金色の液体を絶妙な比率で注ぎながら聞き返したスミ子は、あ、と思い出したような声を上げた。
「あの日、ちゃんとエミーに会ったのよね?」
スミ子は星児の前にコースターを置くと、グラスの縁から泡が盛り上がる、まるで見本写真のように美しいグラスビールをその上に載せ、直ぐに「いただきます」と星児にウインクしてからもう一杯注ぐ。持ち上げたグラス同士カチンと合わせた。
互いに一口呑んだところで星児は煙草を取り出しながら徐に口を開いた。
「会ったよ。その事でちょっとな」
スミ子は星児が煙草ををくわえると、すかさずライターを構えてカウンター越しに火を点けてやる。星児が煙を吐き出すのを見てから自分も煙草をくわえて火を点けた。
「だいたいの予測はついてるわよ。アソコを売るつもりなんでしょ、あのコ」
〝あのコ〟。
あの誇り高き銀座の女王を〝あのコ〟呼ばわり出来るのはこの気高きニューハーフだけだろう、と星児は内心で笑いながら頷いた。
「その通りだ」
やっぱりね、スミ子は指先に煙草を挟み、腕を組んだまま空を睨んでいた。
「で、セイジに売り付けようと目論んでるのね」
「スゲー言い種だな。けどまあ、そんなとこだ」
星児は煙と共に笑い声を溢した。
「それでセイジはどうするの」
スミ子に聞かれ、星児はユラリと登る煙に目を細くする。
「検討中」
そうね、とスミ子は応える。
「速答できる申し出じゃあないわよね」
「そういう事。それよりよ」
星児は煙を勢い良く吐き出しながら煙草を灰皿で揉み消した。なぁに? という顔をしたスミ子に星児はゆっくりと背もたれに身を預け、言った。
「スミ姐も弘前帰るのか?」
スミ子は直ぐには答えなかった。沈黙の空間で行き交う視線の中に、互いの思いが交錯する。真意を探り合うように。
恐らく、狭間にいるのだろう。
親友をまた一人にはしたくない。
弘前に帰る決断に気持ちが傾きかけた時行き当たるのは、この店は星児から貰ったものだ。
スミ子が一番寂しかった時に支えたのは星児だった。
「俺に遠慮する事ないぜ」
先に沈黙を破ったのは星児だった。ニッと笑って冗談ぽく笑い飛ばした。スミ子の瞳の中にあった迷いの色を、星児は酌み取ったのだ。
「いやぁね、遠慮なんてしてないわヨ!」
重くなりかけた空気を変えるかのようにスミ子はカラカラと笑った。星児はグラスに口を付けたままフッと微笑む。
「ここは、ずっとこのままの営業を守る。ちゃんと後を守っていけるネエ達がいるだろ。ああ、先に断っとくけど、別にスミ姐の変わりはいる、っていう意味じゃねーよ。東京にお里心が付いた時にいつでも帰って来られるもう一つの故郷になればいい。まぁ、スミ姐の決断しだいだけどな。俺は、どっちの道を選んでも何とも言わねーよ。スミ姐は、今まで散々苦労してきたんだ。
自分の幸せの為に生きればいい。人生の分岐点、俺には心中しても構わねーくらい大事なダチがいる。そんな人間の為に自分の人生を左右されるのも悪くはねーと思うしな」
心の底に少しずつ少しずつ降り積もっていた澱が今、清流で流れてゆくような感覚をスミ子は覚えていた。
グラスを置く星児が口角を上げた。
「セイジったら」
フフフと笑うスミ子は肩を竦めて煙草を消した。
「ありがとう、セイジ。前向きに検討出来るワ」
スミ子の言葉を聞き、星児は言った。
「いや、俺はスミ姐とエミコママに謝らなければなんねー事を抱えてるんだ」
そう。義理も絆も、帳消しにするかもしれない程の隠し事が。
「謝らなければならないコト?」
首を傾げたスミ子に星児はジャケットの内ポケットから一枚の名刺を出し、渡した。
「これ……」
渡された名刺を見てスミ子は目を丸くし、星児を見た。
名刺は、スミ子の名が印刷されたもの。店の名前と肩書きが書かれたシンプルな花柄が施されたものだった。
「どうしてこれをセイジが持ってるの?」
最近刷り直しした、この店が完全にスミ子の手に渡ってからのもので、この名刺になってからはまだ星児に渡してはいなかった。
「アタシ、まだこの名刺セイジにあげてないわよね」
この新しいデザインの名刺が何故、セイジの手に? スミ子は名刺を持ったまま星児に聞いた。星児はグイとビールを飲み干し答える。
「ああ、貰ってない」
「じゃあ誰かからもらった?」
名刺を新しくしてから配った人間は限られている。星児の手に渡したのは誰だろう。星児は、意を決したように、息を吐いた。
「それはスミ姐がある女にあげたもんだよ」
「女の人?」
星児がずっと彼女達に隠してきた真実を今、明かそうとしていた。が、その時。
「オハヨウゴザイマぁ~ス!」
「あらぁ! セイジさん!」
「ママ、抜け駆けぇ~!!」
ドアが開き元気よくおネエ達が出勤してきた。あっという間に星児は脇を固められた。
「アナタ達……タイミング悪すぎ」
スミ子がため息混じりに言った。星児は両腕に絡み付くおネエ達に苦笑する。
「いいよ、スミネエ。今話さなけりゃいけねぇ話じゃねーし。また来る」
星児は煙草をくわえ、ポケットから長財布を出しその中の札束を一掴みカウンターに置いた。
「まぁ、セイジ。そんな高いビール、うちには置いてなくてヨ」
笑うスミ子に星児も笑う。
「ネエさん達で美味いモンでも食ってくれ」
「きゃあ、セイジー!」
「でもぉ、もうかえっちゃうのぉ?」
騒ぎ、縋るおネエ達を尻目に星児は立ち上がった。スミ子は声をかけウインクした。
「またゆっくり来てよ。話はその時に」
「ああ」
名残惜しそうにするおネエ達に見送られ、星児は店を後にした。
「アタシ達もセイジさんと呑みたかったわね~」
ね~? と口々に言い合う彼女達を見ながらスミ子は、あら、と手の中の名刺を見た。
返しそびれてしまったワ。次に会った時にまたね。
スミ子は名刺をカウンターの端に置いた。
星児が店から外に出ると、辺りは既に薄闇に包まれ、来た時にはまだ灯されていなかったネオンが点き、色とりどりの電飾の街が完成していた。
光の中を歩き出した星児は小さく呟いた。
「情けねーな」
本当に覚悟が出来ていれば、あの時一気に言ってしまえた。しかし、変な間を置いたせいで、お邪魔が入った。
助かった、などと思って安堵している自分がいた。
失うものが、義理と絆だとしたら、致し方無い、と星児は思う。
彼女達に残されたたった一つのかけがえのない〝希望〟を、ずっと隠して素知らぬふりをしてきたのだから、と。
最も恐れているのは、同時に失うかもしれない、あまりにも大きな代償だ。
拡げた手の平から、みちるが羽ばたき飛び立ってしまうかもしれない。それが、その予感が心に影を落とす。
「俺は、最低だな」
星児はスラックスのポケットに手を突っ込み、夜の街へと歩き出した。
「あれー、何処行っちゃったんだろ」
探し物をするみちるは、誰もいない部屋の中で独り呟いた。フローリングの床にペタリと座り込み、首を傾げ思案する。
「この前保さんに見せて、サイドボードの上に置いて……」
うーん、とみちるは腕を組んだ。
ひと月程前に深夜の繁華街で助けてくれたニューハーフのおネエさんから貰った名刺を探していた。
ちゃんとお礼をしなければ、と、仕事の前に訪ねてみようと思い立ち、名刺の紛失に気付いたのだ。
小さなため息をついたみちるは辺りを見回す。
あとで保さんにも聞いてみよう。ちょっと知っていたみたいだし。でもとりあえず、もう一度探そう。
みちるは再びリビングの捜索を始めた。
†
繁華街の雑居ビル群は、まるでカラフルな積木を重ねたような飲食店の看板をくっ付けて立ち並ぶ。ネオンがまだ灯されない、夕暮れ時にはもう少し、といった時間帯だった。
「ごめんなさ~い、まだ準備中で……アラッ、セイジ!」
星児が店のドアを開けると、思い切り明るいハスキーボイスが出迎えた。
開店時間にはまだ早く、店にはスミ子しかおらず、いつもなら賑やかに始まっているショーのリハもまだ始まっていなかった。カウンターの中で今夜の営業の為の準備をしてたスミ子は、洋装に長いウェーブヘアを緩く一つに縛っていた。
軽く手を挙げて入って来た星児にスミ子が言う。
「どうしたの、こんな時間に」
聞きながら、呑む? とビールグラスを掲げて見せたスミ子に、ああ、と頷いた星児はカウンターの椅子に座った。
「スミ姐にちょっと聞きたい事があってさ」
「聞きたい事? 何かしら」
生ビールのサーバーのレバーを引き、細長いグラスに泡と黄金色の液体を絶妙な比率で注ぎながら聞き返したスミ子は、あ、と思い出したような声を上げた。
「あの日、ちゃんとエミーに会ったのよね?」
スミ子は星児の前にコースターを置くと、グラスの縁から泡が盛り上がる、まるで見本写真のように美しいグラスビールをその上に載せ、直ぐに「いただきます」と星児にウインクしてからもう一杯注ぐ。持ち上げたグラス同士カチンと合わせた。
互いに一口呑んだところで星児は煙草を取り出しながら徐に口を開いた。
「会ったよ。その事でちょっとな」
スミ子は星児が煙草ををくわえると、すかさずライターを構えてカウンター越しに火を点けてやる。星児が煙を吐き出すのを見てから自分も煙草をくわえて火を点けた。
「だいたいの予測はついてるわよ。アソコを売るつもりなんでしょ、あのコ」
〝あのコ〟。
あの誇り高き銀座の女王を〝あのコ〟呼ばわり出来るのはこの気高きニューハーフだけだろう、と星児は内心で笑いながら頷いた。
「その通りだ」
やっぱりね、スミ子は指先に煙草を挟み、腕を組んだまま空を睨んでいた。
「で、セイジに売り付けようと目論んでるのね」
「スゲー言い種だな。けどまあ、そんなとこだ」
星児は煙と共に笑い声を溢した。
「それでセイジはどうするの」
スミ子に聞かれ、星児はユラリと登る煙に目を細くする。
「検討中」
そうね、とスミ子は応える。
「速答できる申し出じゃあないわよね」
「そういう事。それよりよ」
星児は煙を勢い良く吐き出しながら煙草を灰皿で揉み消した。なぁに? という顔をしたスミ子に星児はゆっくりと背もたれに身を預け、言った。
「スミ姐も弘前帰るのか?」
スミ子は直ぐには答えなかった。沈黙の空間で行き交う視線の中に、互いの思いが交錯する。真意を探り合うように。
恐らく、狭間にいるのだろう。
親友をまた一人にはしたくない。
弘前に帰る決断に気持ちが傾きかけた時行き当たるのは、この店は星児から貰ったものだ。
スミ子が一番寂しかった時に支えたのは星児だった。
「俺に遠慮する事ないぜ」
先に沈黙を破ったのは星児だった。ニッと笑って冗談ぽく笑い飛ばした。スミ子の瞳の中にあった迷いの色を、星児は酌み取ったのだ。
「いやぁね、遠慮なんてしてないわヨ!」
重くなりかけた空気を変えるかのようにスミ子はカラカラと笑った。星児はグラスに口を付けたままフッと微笑む。
「ここは、ずっとこのままの営業を守る。ちゃんと後を守っていけるネエ達がいるだろ。ああ、先に断っとくけど、別にスミ姐の変わりはいる、っていう意味じゃねーよ。東京にお里心が付いた時にいつでも帰って来られるもう一つの故郷になればいい。まぁ、スミ姐の決断しだいだけどな。俺は、どっちの道を選んでも何とも言わねーよ。スミ姐は、今まで散々苦労してきたんだ。
自分の幸せの為に生きればいい。人生の分岐点、俺には心中しても構わねーくらい大事なダチがいる。そんな人間の為に自分の人生を左右されるのも悪くはねーと思うしな」
心の底に少しずつ少しずつ降り積もっていた澱が今、清流で流れてゆくような感覚をスミ子は覚えていた。
グラスを置く星児が口角を上げた。
「セイジったら」
フフフと笑うスミ子は肩を竦めて煙草を消した。
「ありがとう、セイジ。前向きに検討出来るワ」
スミ子の言葉を聞き、星児は言った。
「いや、俺はスミ姐とエミコママに謝らなければなんねー事を抱えてるんだ」
そう。義理も絆も、帳消しにするかもしれない程の隠し事が。
「謝らなければならないコト?」
首を傾げたスミ子に星児はジャケットの内ポケットから一枚の名刺を出し、渡した。
「これ……」
渡された名刺を見てスミ子は目を丸くし、星児を見た。
名刺は、スミ子の名が印刷されたもの。店の名前と肩書きが書かれたシンプルな花柄が施されたものだった。
「どうしてこれをセイジが持ってるの?」
最近刷り直しした、この店が完全にスミ子の手に渡ってからのもので、この名刺になってからはまだ星児に渡してはいなかった。
「アタシ、まだこの名刺セイジにあげてないわよね」
この新しいデザインの名刺が何故、セイジの手に? スミ子は名刺を持ったまま星児に聞いた。星児はグイとビールを飲み干し答える。
「ああ、貰ってない」
「じゃあ誰かからもらった?」
名刺を新しくしてから配った人間は限られている。星児の手に渡したのは誰だろう。星児は、意を決したように、息を吐いた。
「それはスミ姐がある女にあげたもんだよ」
「女の人?」
星児がずっと彼女達に隠してきた真実を今、明かそうとしていた。が、その時。
「オハヨウゴザイマぁ~ス!」
「あらぁ! セイジさん!」
「ママ、抜け駆けぇ~!!」
ドアが開き元気よくおネエ達が出勤してきた。あっという間に星児は脇を固められた。
「アナタ達……タイミング悪すぎ」
スミ子がため息混じりに言った。星児は両腕に絡み付くおネエ達に苦笑する。
「いいよ、スミネエ。今話さなけりゃいけねぇ話じゃねーし。また来る」
星児は煙草をくわえ、ポケットから長財布を出しその中の札束を一掴みカウンターに置いた。
「まぁ、セイジ。そんな高いビール、うちには置いてなくてヨ」
笑うスミ子に星児も笑う。
「ネエさん達で美味いモンでも食ってくれ」
「きゃあ、セイジー!」
「でもぉ、もうかえっちゃうのぉ?」
騒ぎ、縋るおネエ達を尻目に星児は立ち上がった。スミ子は声をかけウインクした。
「またゆっくり来てよ。話はその時に」
「ああ」
名残惜しそうにするおネエ達に見送られ、星児は店を後にした。
「アタシ達もセイジさんと呑みたかったわね~」
ね~? と口々に言い合う彼女達を見ながらスミ子は、あら、と手の中の名刺を見た。
返しそびれてしまったワ。次に会った時にまたね。
スミ子は名刺をカウンターの端に置いた。
星児が店から外に出ると、辺りは既に薄闇に包まれ、来た時にはまだ灯されていなかったネオンが点き、色とりどりの電飾の街が完成していた。
光の中を歩き出した星児は小さく呟いた。
「情けねーな」
本当に覚悟が出来ていれば、あの時一気に言ってしまえた。しかし、変な間を置いたせいで、お邪魔が入った。
助かった、などと思って安堵している自分がいた。
失うものが、義理と絆だとしたら、致し方無い、と星児は思う。
彼女達に残されたたった一つのかけがえのない〝希望〟を、ずっと隠して素知らぬふりをしてきたのだから、と。
最も恐れているのは、同時に失うかもしれない、あまりにも大きな代償だ。
拡げた手の平から、みちるが羽ばたき飛び立ってしまうかもしれない。それが、その予感が心に影を落とす。
「俺は、最低だな」
星児はスラックスのポケットに手を突っ込み、夜の街へと歩き出した。
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