舞姫【後編】

友秋

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幸せの意味

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 私の〝幸せ〟とは、どんな?



 高層ビル街を縫うように走る首都高。緩やかな傾斜とカーブの先には合流地点があり短い渋滞が出来ていた。

 120キロ前後で運転して来た星児は速度を落とし、煙草を取り出しくわえるとライターで火を付けた。カーラジオからのパーソナリティのトークの声だけが聞こえる。

 星児は、チラリと助手席に目をやった。みちるがシートに深く身体をもたせかけ、ぼんやりと窓の外を見ていた。

「寝ててもいいぞ」

 ここ数日、あまり眠れていないようだったみちるを、星児は気遣う。ハッと星児を見たみちるは、柔らかに微笑んだ。

「眠くないよ」

 小春日和の陽射しに映える笑顔に星児は眩しそうに目を細めた。

「そうか」

 再び沈黙が訪れそうな空気をみちるが静かに震わせた。

「ねぇ、星児さん」 
「ん?」

 星児は煙をくゆらせ前を向きながらも、これから何かを話そうとするみちるに耳を傾ける。みちるはゆっくりと動く車の窓から見えるビル郡に目をやりながら、言った。

「幸せって、何だろう。どんなのを幸せって言うのかな?」

 ハンドルを握りフロントガラスの向こうに続く車の列を見ていた星児は、煙草を口から外して備え付けの灰皿でそれを揉み消しながら煙を吐いた。

「どうした、急に」

 星児の問いにみちるは言葉を選びながら答えた。

「私、ミキエさんに幸せになりなさい、って言って貰った。麗子さんも言ってくれたよ。でも、〝幸せ〟って? 分かんない」

 幸せの定義ってやつか。

『麗子』という言葉に星児の胸を微かな郷愁が掠めていったが、やり過ごす。考え込む様子を見せるみちるに星児は「そうだな」と話し始めた。

「幸せなんてのは、本人基準なんじゃねーかな。端から見たらスゲー幸せそうに見えても、本人は不幸せと思っていりゃ、幸せとは言えねー。反対にさ、周りからすりゃどう見たって不幸にしか見えねーのに、本人は至って幸せと感じていたりする。幸せの線引きなんて誰にも出来ねーよ。自分基準のもんなんじゃねぇか」

 そこまで話した星児自身、ふと胸に去来する複雑な想いに顔を曇らせた。

 みちるの幸せは、星児と保が考えるものがそれとは限らない。

 俺達の独りよがりになっちまったら意味がねぇんだ。

「星児さん?」

 話しの途中で黙ってしまった星児を、みちるは不安げに見た。車の流れが滞り、星児はみちるを見、微笑んだ。

「要は、本人が満ち足りた気持ちで日常を過ごせればそれが幸せっていうんじゃねーかな」

 けれど人間は時に貪欲で。幸せのハードルを知らず知らずのうちに上げていってしまう。星児は僅かに眉根を寄せた。

「満ち足りた気持ち」

 星児の言葉をなぞらえるように呟いたみちるの頭を彼はクシャッと撫でた。

「そんなに難しく考える事はねーよ。みちるが幸せと感じられる時間を掴めれば、それでいいんだよ」
「私が幸せと感じられれば?」
「そ。今は分からなくても、そのうち分かる」

 星児の漆黒の瞳には優しい光が挿していた。みちるは、くすぐったそうに笑っていた。

 いつしか車の列が流れ出し、前を向いた星児はギアを操作しながら言った。

「俺も保も、みちるが幸せと感じられる生き方を掴めるまで、絶対に傍にいてやるから。守ってやるから」

 聞き逃してしまいそうなくらいサラリとさりげなく。けれどもみちるの心の奥底にしっかりと染み込んだ。

 甘く艶っぽい媚薬のような声と共に。

 目先の幸せの為に生きるか、それとも永く続く幸福を望むのか。今は分からない、誰にも。

†††

 夕刻になって家に戻った保がリビングのドアを開けると、ベランダでタバコを吸う星児は目に入ったが、みちるの姿が見えなかった。

「みちるは?」

 保はスーツのジャケットを脱ぎソファに置くと、リビングにいた星児に、みちるの事を聞いた。星児は、ああ、と奥の部屋のドアを顎で差した。

 みちるの部屋だ。寝室とは別に、みちるには着替えやメイク道具などが置いてある個室があった。

「部屋に?」

 怪訝な顔をした保に星児は頷いた。

「御幸の家政婦がさ、御幸からの遺志だっつって着物をみちるにくれたんだ」
「着物?」
「ああ、舞妓だか芸妓だったっていうみちるの実の母親のものらしい」

 星児は声のトーンを抑え言った。

 みちるの母親の遺品。保はゴクリと固唾を呑んだ。

「それをちゃんとしまうからって部屋に籠ったきり出てこねぇ。実の母親の遺品とはみちるは知らねーけど、アイツなりに色々思うとこがあんだろ。そっとしとくことにした」

 ネクタイを外しながら話を聞いていた保は、そうか、と部屋のドアを見た。保は胸に締め付けるような痛みを覚えた。

 本当は、そのドアを開けて今すぐにでも抱き締めたい。けれど、それは出来ない。みちるの為に。

 ふぅ、とため息をついた保がソファに置いてあったバッグとジャケットを手にして自室に入ろうとした時だった。

 カチャ、という音がして、みちるの部屋のドアが開いた。星児と保の視線が直ぐに向いた。



 みちるがそっとドアを開けると、星児と、いつの間にか帰っていた保の姿が見えた。

「みちる」

 二人がほぼ同時に名前を呼んだ。二人から真っ直ぐに注がれた視線に、みちるは気恥ずかしそうにうつ向いた。

 みちるは自室に籠っている間、御幸から受け継いだ大事な着物を衣紋掛けにかけて眺めながら、自分の周りであった今までの事の、意味を考えていた。

 自らの幸せ、という到達点とは。

 私は、今のままでいいのに。

 胸に去来する不安と怖れはなんだろう。

 星児も保も、いつまでも一緒に、とは決して言わない。いつか別れが来るという事なのか。

 そんなの嫌!

 引き裂かれるような痛みが走った胸をギュッと押さえ、みちるは目を閉じ深呼吸しゆっくりと思いを巡らせた。

 拾われ救われた、という負い目と、拾い養った、という事実。互いの背負うものが、想いを口にする障壁となる。

「どうした、みちる。便所行きたくなったか」
「違います」
「バカ星児」

 一瞬の沈黙の後、アハハハハッと三人同時に笑い出した。次の瞬間、みちるは星児と保の腕の中にいた。

「星児さん、星児さん! 保さん、保さん!」

 右腕で星児、左腕で保にしがみつくみちるは声を上げ何度も何度も二人の名前を呼んだ。込み上げる涙を堪え、そのTシャツの背中とワイシャツの背中を掴む手に力を込めた。

 私は、私の幸せは、今のまま!




 微かに汗ばむ肌と僅かに上がる息が、時間の経過を教える。部屋に射し込んだ春の満月の幻想的な光がみちるの肌を妖しく魅せていた。

 星児に跨がるみちるは胸元に埋まる頭を優しく抱き締め、保が背後からみちるを抱き締め振り向かせ唇を塞ぐ。

 あっ。

 星児の指にみちるは快楽の突端に誘われた。ピクンッと震えた彼女は思わず塞がれていた唇を離す。

「ぁあんっ」

 宙にさ迷ったしなやかな白い手を保が握り締めた。

 逃れられないくらいに強く、前後から抱き締められたみちるは二人の男の体温と鼓動の記憶をその躰に刻み込んだ。

「みちる……」

 甘く囁いた星児の唇がみちるの唇と重なり、その首筋に保が唇を寄せた。

 触れ合う肌も、躰の芯に届く熱も、全身で感じる脈動も、全てがみちるの生きる証となる。今のみちるの幸せの全てとなる。

「離さないで……」

 嬌声の合間に漏れたみちるの呟きが二人の男の胸を締め付けた。

 離したくない。
 もう離さない。
 ずっと俺達の傍にいるんだ、みちる。

 言葉に出来ない願いと抱える願望は、熱に込めた。

 幸せの形など分からない。どんな歩みがその到達点への最善策なのか、など誰にも。

 フラストレーションに近い感情は激情の波となった。

「んん……あっ!」

 ビクンッと震えたみちるの背中が弓なりに仰け反り、躰を星児と保が抱き締めた。
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