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前触れ
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日付が変わった深夜、保が帰って来るとみちるは溶けたように眠っていた。いつもなら気配で目を覚ますのだが、今夜は起きそうにない。
保はネクタイを緩めながら、うつ伏せに眠るみちるの顔にかかる黒髪をそっと払い、優しく梳いた。指で頬を突っついてみてもまったく反応はない。
リビングで煙草を吸っていた星児の首筋に小さなキスマークが二つ付いていたな、と保は思い返した。薄明かりの中、みちるの、髪に隠れる首筋から背中に幾つか見えた。
ばか星児、この様子だと全身に付けやがったな。
小さくため息をつく保の胸に、複雑な想いが去来する。
俺が抱く時とは違う顔を見せるんだな、みちる。
ベッドの傍で暫くみちるの髪を撫でていた保は顔を上げた。みちるは起きない、と見て取ると、腹立ち紛れに声を上げた。
「星児ぃ、どんな抱き方したらみちるがこんな状態になるんだよ!」
リビングからハハハと笑う星児の声が聞こえた。
「なんだ、まだ起きてたのか」
「ああ」
風呂から出てきた保はバスタオルを頭から被ったままキッチンへ入って行った。カウンターからリビングのソファーに座りテレビで深夜番組を観る星児が見えた。
背もたれに深く身を預け、頬杖をつく。その目には、テレビは映ってはいないようだった。
「先に寝てりゃいいのに」
冷蔵庫から缶ビールを出しながら保は言った。
「やっぱお前に話しておこうと思ってさ」
保はプルトップを開けながら、星児を見た。
「とりあえず、お前も呑むか」
「ああ」
リビングに来た保が星児に缶ビールを差し出し、星児が受け取ろうと掴んだ時、保の手にグッと力が入った。
「俺もひと言言っとく。いいか、星児。お前がみちるをどんな風に抱くか、にはとやかく言うつもりはねーよ。でもな、みちるにとって身体は商売道具だ。アレはいただけねーよ」
星児は缶ビールをパッと保の手から取り上げた。
「わーってるよっ!」
そっぽを向いた彼に保は、ふぅ、と息をついた。
「とりあえず、何かツマミ持ってくる」
†††
「この後は本社で新事業計画のプレゼンがありますので、そちらに御幸専務に出席していただきたい、との事です。こちらがその資料になっております」
出張先の静岡から東京に戻る為に、東名高速を疾走する車の中で御幸は秘書から渡された書類に目を通す。束ねられた書類を迅速に読み上げてゆき、胸ポケットからボールペンを取り出し、時折線を引いたり何かを書き込んでいった。
全てを読み終え、組んだ足の膝で整え秘書に渡した。
「プレゼンの会場に着いたら渡してください」
「はい」と答えた秘書は書類の束をクリップで留め、黒いビジネスバッグに入れながら聞く。
「内容はいかがでしょうか」
御幸は顎に軽く手を当て、少し思案する。
「それを読む限りでは、企画はなかなかのものですが、立案に至るまでの現状把握に於ける状況説明が少々説得力に欠けますね。実際のプレゼンで何処までのパフォーマンスが出来るか楽しみにしておきましょう」
御幸の優雅な笑みにドキリとした女性秘書は眼鏡を掛け直し、動揺を隠すようにスケジュール確認の為に分厚いバインダーに目を落とした。
「プレゼン後は三時から取引先数社と会合、その後、経団連での会合。夜はーー」
苦笑いした御幸は手で秘書を制した。
「分かりました。後のスケジュールはまた後ほど。ちょっと、野暮用を思い出しました。失礼」
御幸は車内に備え付けられた電話を取り、ある男へ掛けた。
†††
東側の窓から見える日がすっかり高くなっていた。
寝坊しちゃった。
目を覚ましたみちるは左隣にまだ眠っている保に気付いた。
保さん?
布団を頭から被った保は背中を向けたまま、微動だにしない。いつもと違う保の様子にみちるは心配になりながらも声を掛けられず、そっとベッドを下りた。
近くに脱ぎ捨てられていた下着を身につけTシャツを着た。
日差しが暖かな色を帯びて部屋に差し込んでいた。
星児はもう起きているようだ。みちるは恐る恐るドアを開ける。
「おぅ、よく眠れたか」
キッチンのカウンターの向こうに星児の姿があった。
寝室から出てきたみちるはTシャツ姿の星児の首筋を見、恥ずかしくなりちょっと目を逸らした。見透かしたように星児がクククと笑う。
「みちるが付けたんだぞ」
「やだ! 星児さんのバカ!」
プイッと横を向いたみちるに、星児はアハハハと声を上げ笑った。
コーヒーの入ったマグカップが二つカウンターに出される。
「ねぇ、星児さん?」
両手でマグカップを受け取るみちるは躊躇いがちに聞く。星児はカップに口を付けたまま、みちるを見た。形の良い切れ長の目が、なんだ? と言っていた。
「あのね、保さん、どうしたのかな?」
星児は、ああ、と言う。
「気にするな、疲れてんだろ。そっとしといてやってくれ」
うん、と答えたみちるは、腑に落ちない様子だったが、星児はそれ以上の事は言えなかった。
昨夜、保にみちるの出自にまつわる話した。本当は、星児自身が墓まで持ってゆくつもりだった真実だった。
みちるは、群司武の娘。
保は、何も言わなかった。全ての反応表現を忘れたかのようだった。
星児は保に祈る。
どうにか、乗り越えてくれ。ここを乗り越えて、みちるをもう一度、ーー。
小さく息を吐き、気持ちを切り替える。
「さて、着替えて出掛けるか」
キッチンから出てきた星児が軽く伸びをした時だった。リビングのテーブルに置かれていた星児の携帯が鳴った。
みちるはダイニングのテーブルにカップを置き、洗面所に入って行った。そのままシャワーを浴びるのだろう。
星児は携帯を手にし、相手を確かめほくそ笑む。通話ボタンを押すと耳に当てた。
「ちょうど良かったぜ。タイムリーだな。アンタには聞きたい事があったんでね」
掛けてきた相手は、御幸右京だった。
「そうですか、それは良かった、と言いたいところなのだが、今は少々時間が取れないので君からの質問はまた改めて時間を取らせて貰って良いかな」
星児は、なんだ、と言いながらも納得する。
「んじゃ、そっちから日時は指定してくれ、近いうちにな」
「そうさせて貰うよ」
穏やかに答えた御幸に星児は言う。
「で? 電話してきたって事は俺に用なんだな」
その通り、と御幸は言う。
「君との、例の約束について、だよ」
例の、約束?
星児は携帯を耳に当てたまま、眉を寄せ、閃いた。
津田恵三!
「予定が取れたのか」
声を上ずらせた星児に、御幸はクスリと笑った。
「そんな反応をされると言い淀みそうになるね」
星児は、なんだ違うのかよ、と僅かに肩を落としたが、御幸は続ける。
「確かに恵三叔父は多忙で捕まらないが、そう落胆しなくて良い。三ヶ月後に彼の誕生パーティーが帝国ホテルである。そこに君が招待されるよう手配しておいた。そのうち招待状が届くだろう。出席の返信をしておきなさい。私が恵三叔父に引き合わせてあげよう。だが、私はあくまでも橋渡し。チャンスをしっかりとしたパイプに繋げられるかは、君の腕次第だ」
星児はフッと笑った。
「おいそれとはその姿を拝む事も叶わねーような男だ。引き合わせて貰えるだけで恩に切るぜ」
電話を持つ星児の手が震えていた。
これは、武者震いだ! 見てろ、群司武!
お前のネタを土産にして、津田恵三に近付いてやる! お前が、津田恵三の大事な息子を陥れ、その上、手に掛けたというネタを土産にな!
「自信は、ある――」
「君らしい。何か確信があるのかな。恵三叔父が堕ちる姿を是非見たいがね」
柔らかな御幸の言葉が一瞬、星児の胸にスッと影のような違和感をもたらした。
なんだ? それは、不穏な予感のような。
星児は、電話が切れた後も暫くそれを手に持ったまま見つめていた。
†
通話を終え御幸が置いた電話は、程無くして受信を知らせる音を鳴らし、秘書が取った。
「はい、御幸専務はこの車に乗っておられます。今代わりますのでお待ちくださいませ」
秘書が、御幸に受話器を渡す。
「御幸専務。幸陽園の院長先生でございます」
御幸は、ありがとう、と受話器を受け取った。
幸陽園、とは姫花を預けているホスピスの名だった。向こうから電話をかけて来ることは滅多にない。それが、車内電話にかけてくる、という事は――。
来るべき時が来た、という事か。
御幸は受話器を耳に当て軽く目を閉じ、口を開いた。
「お電話代わりました。御幸です」
電話の向こうの院長の声は神妙な、低い声だった。
院長の話を聞いていた御幸は、静かに答えた。
「ありがとうございます。では、今夜は必ずそちらに伺います。彼女にはあと数時間、何としても頑張っていただくよう祈ってます。では――よろしくお願いします」
簡潔な会話を終えて受話器を秘書に渡し、御幸は空を睨み思案する。電話が切れている事を確認した秘書がそれを置いた時だった。
「すまない。一件かけたいところがある」
「え?」
「その電話になら番号が登録してあるだろう」
†††
保はネクタイを緩めながら、うつ伏せに眠るみちるの顔にかかる黒髪をそっと払い、優しく梳いた。指で頬を突っついてみてもまったく反応はない。
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ばか星児、この様子だと全身に付けやがったな。
小さくため息をつく保の胸に、複雑な想いが去来する。
俺が抱く時とは違う顔を見せるんだな、みちる。
ベッドの傍で暫くみちるの髪を撫でていた保は顔を上げた。みちるは起きない、と見て取ると、腹立ち紛れに声を上げた。
「星児ぃ、どんな抱き方したらみちるがこんな状態になるんだよ!」
リビングからハハハと笑う星児の声が聞こえた。
「なんだ、まだ起きてたのか」
「ああ」
風呂から出てきた保はバスタオルを頭から被ったままキッチンへ入って行った。カウンターからリビングのソファーに座りテレビで深夜番組を観る星児が見えた。
背もたれに深く身を預け、頬杖をつく。その目には、テレビは映ってはいないようだった。
「先に寝てりゃいいのに」
冷蔵庫から缶ビールを出しながら保は言った。
「やっぱお前に話しておこうと思ってさ」
保はプルトップを開けながら、星児を見た。
「とりあえず、お前も呑むか」
「ああ」
リビングに来た保が星児に缶ビールを差し出し、星児が受け取ろうと掴んだ時、保の手にグッと力が入った。
「俺もひと言言っとく。いいか、星児。お前がみちるをどんな風に抱くか、にはとやかく言うつもりはねーよ。でもな、みちるにとって身体は商売道具だ。アレはいただけねーよ」
星児は缶ビールをパッと保の手から取り上げた。
「わーってるよっ!」
そっぽを向いた彼に保は、ふぅ、と息をついた。
「とりあえず、何かツマミ持ってくる」
†††
「この後は本社で新事業計画のプレゼンがありますので、そちらに御幸専務に出席していただきたい、との事です。こちらがその資料になっております」
出張先の静岡から東京に戻る為に、東名高速を疾走する車の中で御幸は秘書から渡された書類に目を通す。束ねられた書類を迅速に読み上げてゆき、胸ポケットからボールペンを取り出し、時折線を引いたり何かを書き込んでいった。
全てを読み終え、組んだ足の膝で整え秘書に渡した。
「プレゼンの会場に着いたら渡してください」
「はい」と答えた秘書は書類の束をクリップで留め、黒いビジネスバッグに入れながら聞く。
「内容はいかがでしょうか」
御幸は顎に軽く手を当て、少し思案する。
「それを読む限りでは、企画はなかなかのものですが、立案に至るまでの現状把握に於ける状況説明が少々説得力に欠けますね。実際のプレゼンで何処までのパフォーマンスが出来るか楽しみにしておきましょう」
御幸の優雅な笑みにドキリとした女性秘書は眼鏡を掛け直し、動揺を隠すようにスケジュール確認の為に分厚いバインダーに目を落とした。
「プレゼン後は三時から取引先数社と会合、その後、経団連での会合。夜はーー」
苦笑いした御幸は手で秘書を制した。
「分かりました。後のスケジュールはまた後ほど。ちょっと、野暮用を思い出しました。失礼」
御幸は車内に備え付けられた電話を取り、ある男へ掛けた。
†††
東側の窓から見える日がすっかり高くなっていた。
寝坊しちゃった。
目を覚ましたみちるは左隣にまだ眠っている保に気付いた。
保さん?
布団を頭から被った保は背中を向けたまま、微動だにしない。いつもと違う保の様子にみちるは心配になりながらも声を掛けられず、そっとベッドを下りた。
近くに脱ぎ捨てられていた下着を身につけTシャツを着た。
日差しが暖かな色を帯びて部屋に差し込んでいた。
星児はもう起きているようだ。みちるは恐る恐るドアを開ける。
「おぅ、よく眠れたか」
キッチンのカウンターの向こうに星児の姿があった。
寝室から出てきたみちるはTシャツ姿の星児の首筋を見、恥ずかしくなりちょっと目を逸らした。見透かしたように星児がクククと笑う。
「みちるが付けたんだぞ」
「やだ! 星児さんのバカ!」
プイッと横を向いたみちるに、星児はアハハハと声を上げ笑った。
コーヒーの入ったマグカップが二つカウンターに出される。
「ねぇ、星児さん?」
両手でマグカップを受け取るみちるは躊躇いがちに聞く。星児はカップに口を付けたまま、みちるを見た。形の良い切れ長の目が、なんだ? と言っていた。
「あのね、保さん、どうしたのかな?」
星児は、ああ、と言う。
「気にするな、疲れてんだろ。そっとしといてやってくれ」
うん、と答えたみちるは、腑に落ちない様子だったが、星児はそれ以上の事は言えなかった。
昨夜、保にみちるの出自にまつわる話した。本当は、星児自身が墓まで持ってゆくつもりだった真実だった。
みちるは、群司武の娘。
保は、何も言わなかった。全ての反応表現を忘れたかのようだった。
星児は保に祈る。
どうにか、乗り越えてくれ。ここを乗り越えて、みちるをもう一度、ーー。
小さく息を吐き、気持ちを切り替える。
「さて、着替えて出掛けるか」
キッチンから出てきた星児が軽く伸びをした時だった。リビングのテーブルに置かれていた星児の携帯が鳴った。
みちるはダイニングのテーブルにカップを置き、洗面所に入って行った。そのままシャワーを浴びるのだろう。
星児は携帯を手にし、相手を確かめほくそ笑む。通話ボタンを押すと耳に当てた。
「ちょうど良かったぜ。タイムリーだな。アンタには聞きたい事があったんでね」
掛けてきた相手は、御幸右京だった。
「そうですか、それは良かった、と言いたいところなのだが、今は少々時間が取れないので君からの質問はまた改めて時間を取らせて貰って良いかな」
星児は、なんだ、と言いながらも納得する。
「んじゃ、そっちから日時は指定してくれ、近いうちにな」
「そうさせて貰うよ」
穏やかに答えた御幸に星児は言う。
「で? 電話してきたって事は俺に用なんだな」
その通り、と御幸は言う。
「君との、例の約束について、だよ」
例の、約束?
星児は携帯を耳に当てたまま、眉を寄せ、閃いた。
津田恵三!
「予定が取れたのか」
声を上ずらせた星児に、御幸はクスリと笑った。
「そんな反応をされると言い淀みそうになるね」
星児は、なんだ違うのかよ、と僅かに肩を落としたが、御幸は続ける。
「確かに恵三叔父は多忙で捕まらないが、そう落胆しなくて良い。三ヶ月後に彼の誕生パーティーが帝国ホテルである。そこに君が招待されるよう手配しておいた。そのうち招待状が届くだろう。出席の返信をしておきなさい。私が恵三叔父に引き合わせてあげよう。だが、私はあくまでも橋渡し。チャンスをしっかりとしたパイプに繋げられるかは、君の腕次第だ」
星児はフッと笑った。
「おいそれとはその姿を拝む事も叶わねーような男だ。引き合わせて貰えるだけで恩に切るぜ」
電話を持つ星児の手が震えていた。
これは、武者震いだ! 見てろ、群司武!
お前のネタを土産にして、津田恵三に近付いてやる! お前が、津田恵三の大事な息子を陥れ、その上、手に掛けたというネタを土産にな!
「自信は、ある――」
「君らしい。何か確信があるのかな。恵三叔父が堕ちる姿を是非見たいがね」
柔らかな御幸の言葉が一瞬、星児の胸にスッと影のような違和感をもたらした。
なんだ? それは、不穏な予感のような。
星児は、電話が切れた後も暫くそれを手に持ったまま見つめていた。
†
通話を終え御幸が置いた電話は、程無くして受信を知らせる音を鳴らし、秘書が取った。
「はい、御幸専務はこの車に乗っておられます。今代わりますのでお待ちくださいませ」
秘書が、御幸に受話器を渡す。
「御幸専務。幸陽園の院長先生でございます」
御幸は、ありがとう、と受話器を受け取った。
幸陽園、とは姫花を預けているホスピスの名だった。向こうから電話をかけて来ることは滅多にない。それが、車内電話にかけてくる、という事は――。
来るべき時が来た、という事か。
御幸は受話器を耳に当て軽く目を閉じ、口を開いた。
「お電話代わりました。御幸です」
電話の向こうの院長の声は神妙な、低い声だった。
院長の話を聞いていた御幸は、静かに答えた。
「ありがとうございます。では、今夜は必ずそちらに伺います。彼女にはあと数時間、何としても頑張っていただくよう祈ってます。では――よろしくお願いします」
簡潔な会話を終えて受話器を秘書に渡し、御幸は空を睨み思案する。電話が切れている事を確認した秘書がそれを置いた時だった。
「すまない。一件かけたいところがある」
「え?」
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†††
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