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盈月
130.
しおりを挟む「なに訳分かんねぇこと言ってんだよ」
アニキが西山の胸ぐらを掴んだ。爆発寸前のようだった。むしゃくしゃしているのに、次から次へと邪魔が入る。その怒りを全て彼女に向けていた。だが、西山は動じず、されるがままにアニキの腕に身を委ねている。
「そーか、嬢ちゃん、お前も俺らと遊びたいのか? ならそう言えよ!」
左の拳が西山顔へ飛んだ。感情に任せた攻撃は雑であっても、勢いで威力を補填している。殴られれば火花が散るような痛みが彼女を襲うのだろう。
「なんでみんな聞き分けが悪いんだろうね」
拳は避けられ、アニキは勢いのまま倒される。
その瞬間、時間が止まった。初めて攻守が交代した。
「え?」
アニキは呆けた顔をしている。何が起こったのか理解できていない。
「ちゃんと忠告したのに、消えてって」
雰囲気が変わる。多分彼女は嗤っている。俺の本能が逃げろと叫び始めた。でも、だからこそ心強かった。
「てめぇ!」
弾けたようにタカが殴りかかる。左、右、蹴り、また右……。激しい打撃は全て彼女に当たらない。西山は遊んでいる。それ程に格が違う。
「殴るなら、こうだよ」
軽い一撃に見えた。だけど、それだけでタカは顔を歪めてうずくまる。
「で、蹴るならこう」
勢いよくタカが転がった。地面を擦り、固まったように動けない。
「やるならちゃんとやろうよ」
楽しげに響く声はなんだか恐かった。
ーー西山は俺たちを助けてくれているんだから。
恐怖を感じた自分を叱る。彼女を恐がるなんて許されない。
「瑠璃!」
巴の声。西山の背後にはナイフを持ったアニキが迫っていた。彼女は振り向かない。気づいていないようにタカから視線を外さない。
「死ね!」
だが後ろにも目があるかのように、アニキが振りかぶった右手を受け止めた。ナイフはすれすれだったが、それに怯えることもなく西山は左手でひじてつを入れ、手品のようにナイフを奪い取った。
「これは、貴方にはまだ早いよ」
うずくまるアニキにナイフを当てる。
「どうせ上手くなんて使えないんでしょ」
そして、躊躇うことなくその肩に突き立てた。悲鳴が上がる。血は思ったほど出なかった。
「っ……」
俺は動けなくなっていた。
痛みが治まってきた様子のタカも、巴も、アニキも動けない。
「なら、無駄に使わない方がいいよ」
乱暴に引き抜き、西山はナイフを見つめる。血が流れた。アニキは痛みに負け、抵抗する気力を失ったようだった。そしてーー。
「瑠璃!」
ナイフを持ち直した西山がびくっと震え、動きを止めた。そしてゆっくり右手を下ろす。
「消えて。それが最善の選択」
二度目の言葉は効果的だった。痛みも怪我も無視するようにチンピラ達は逃げていった。
身体がゆっくり弛緩する。消えていた痛みが戻ってくる。
「賢太郎、傷見せて」
しゃがんだ巴は俺の髪をかきあげて一つ一つ丁寧に傷を確認していく。そしてぽつりと呟いた。
「守れなくてごめんね」
泣きそうな声だった。
ーーそんなの……。
巴が謝る必要なんてない。むしろ感謝したいくらいだ。
「と……」
だけど、その気持ちは伝えられなかった。少女は苦しんでいるような、怒っているような表情をしていた。声をかけられる雰囲気ではなかった。
「瑠璃」
そして、低い声で友人を呼ぶ。彼女は弄んでいたナイフを収め、巴を向いた。
「なんで賢太郎を助けてくれなかったの?」
言葉の意味が分からなかった。
「見てたんでしょ、賢太郎が連れ去られるの」
「っ」
ーーそんな……。
「見てた」
ーーなんで……。
「じゃあ、なんで助けてくれなかったの?」
巴が代弁してくれる。
「その子とは友達じゃないから」
目の前が歪んだ気がした。何かが俺から流れ出していく。
「なんで……」
あの時、西山と目が合った気はしていた。だけど、気づかなかったんだと思っていた。
ーーそう……だよな。俺、あいつのこといじめてたんだもんな。
仲良くなれた気がしていた。もっと知りたいと思っていた。だけど、そんなことは許されなかったんだ。俺はーーなんて自惚れていたんだろう。
「そっか」
目を伏せた巴は、この答えが分かっていたのかもしれない。
ーーなんか、ごめん。
俺のせいだ。全部。巴がこんな悲しい顔をしているのも。
「ごめん、瑠璃。賢太郎を病院連れてくから、先帰ってて」
絞り出した言葉に、西山は「分かった」とだけ告げて去っていく。
なんとなく目で追った彼女の姿。一度も振り返らずに夕闇へと消えた少女と関わるのはきっともう最後だろう。
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