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婚約破棄という選択肢⑦
しおりを挟む興奮して目をぎらつかせた王子と、その背後に銀色の鎧を着た護衛兵――最悪の展開がビスコースの脳裏をよぎる。
(まさか、モースリンをここで『始末』するつもりなんじゃ……)
考えられなくはない。モースリンの予知夢の通りなら、彼女を死に追いやるものは『ハリエット王子』その人だ。予定よりは早いが、何らかのきっかけでモースリンの死の運命が早まった可能性も……とか難しいことを考えているビスコースの目の前で、ハリエットは情けなくベソをかいた。
「ビスコース、馬車にモースリンが乗っているんだろ、頼む、彼女に会わせてくれ!」
洟をすすりあげて懇願する様子は、いつも通りのヘタレ王子に見えるが。
それでもビスコースは、警戒して声を上げる。
「だが断る!」
「なぜだ!」
「まずは兵を下がらせてくれ、それとも君は、うちの妹を捕まえに来たのか!」
「そんなことする訳ないだろ、それにこれは兵ではなく、楽隊《バンドメンバー》だ!」
「はあ?」
確かに兵が構えているのは剣や矛ではなく、楽器だ。編成もリードがいて、ベースがいて、ドラムがいて、バンドとしての体をなしている。
「ハリエット、君は、楽器は?」
「僕は、ほら、ボーカルだから……」
「あー、楽器が弾けないのね、わかったわかった。で、楽隊を引き連れて、うちの妹に何用で?」
「モースリンに愛の歌を捧げに……」
「………はあ?」
「いや、女性の扱いに長けた軽音部の連中に聞いたら、女性を口説くには歌でも贈ればいいって言われたから……」
「あー、よりによって一番軽薄なところ参考にしちゃった……」
ハリエットがビスコースを押し退けて、馬車に向かって叫ぶ。
「そのままでいい、聞いてくれ、モースリン! 俺の魂のシャウトを!」
ハリエットが懐から取り出した楽譜をバッと、投げる。譜面に踊るは16分の1音符、そして注釈は熱情的に。
「ワンっ、ツー、スリー、ふぉおお!」
ハリエットのコールを受けて最初に鳴り出したのは打楽器《ドラム》、ベースとリードがそれに追従し、荒々しく激情的な音を鳴らす。
特にリードは凄腕だ。薬指に酒瓶の首をはめて、キュルキュルと高速でリズムをかき鳴らす。その賑やかしくも心地良い音をバックにハリエットは歌う。
「う゛ぁいいいしつ゛ぅえるぅうううう」
残念ながらシャウトがかかりすぎていて何を言っているのかさっぱり聞き取れない。そのうえ、ハリエットはメロディよりも魂を歌うタイプの……ぶっちゃけ音痴だった。
ビスコースが耳を塞ぐ。
「やめろ、ハリエット、近所迷惑だ! バラードにしておけばよかったのに、ああ、もう!」
騒音の中、ふと一小節だけが聞き取れたりする。
「死して屍拾うものなしぃ!」
「なんの歌だよ! 恋の歌じゃないのかよ!」
歌っている本人はノリノリで、何やらシャウトした後でコールアンドレスポンスを求めて馬車を指差す。
突然、馬車のドアが開いてモースリンが顔を出す。
「うるさいっ」
その剣幕に、全ての音がピタリと止んだ。ハリエットなんか、シャウトの最中で口を大きく開けたまま、凍りついたみたいに立ち尽くしている。
モースリンはふわりと馬車から降りて、そんなハリエットの懐近くまでツカツカと歩み寄った。その表情は怒りに燃えている。
「なんで今さら愛の歌なんか!」
ビスコースが絶叫する。
「え、あれ、屍の歌じゃないの!」
「お兄様の耳は節穴ですか、どうせ屍を拾ってくれる人は君じゃないから、せめて一緒のお墓に入りたいっていう、プロポーズの歌じゃないですか」
「え、そこまで聞き取れるの、逆にすごくない?」
「ともかく!」
モースリンはハリエットに向き直り、その淡麗な顔をキュッと睨みつけた。
「いまさら愛の歌なんて、何事ですか、殿下、婚約なら解消して構わないとお伝えしたでしょう」
ようやく正気を取り戻したハリエットは、シャウトで嗄れた声ではっきりと言い返した。
「婚約は……解消しない」
モースリンがうっすらと笑みを浮かべる。
「では、婚約破棄ですか?」
「そんなこと、するわけがないだろ!」
「いいえ、いずれあなたは、私に向かって婚約破棄を言い渡すのですわ、これは決められた運命なのです」
「そんなことがどうしてわかる!」
家門の特性である女神の加護のことは、たとえ相手がこの国の王子であろうと迂闊に話すことはできない。モースリンは曖昧に言葉を濁して逃げようとした。
「私、気づきましたの。きっとあなたは、あの白い髪の少女を愛するようになる……だって、あんなに魅力的な方なんですもの」
「君の方が魅力的だ」
食わせ気味に重ねられた褒め言葉に虚をつかれて、モースリンは少し戸惑った。
「ええと……」
「聞こえなかったのか、君の方が魅力的だといったんだ」
「ええと、あの、はい」
「だから、他の女に目移りすることはないと誓える」
ハリエットがグイとモースリンに身を寄せる。
実はモースリン、普段は淑女らしく楚々としてクールに振る舞っているが、グイグイ来られるのには弱い。
「でっ、殿下、少し離れてくださいませ!」
「なぜ?」
そう言いながらハリエットは両手を広げ、今にもモースリンを腕の中に抱きとらえようという体勢だ。
「モースリン、君が不安なら何度だって言う、俺は、他の女になんか目移りしない。ずっと君だけを……」
ゆっくりと腕を閉じて、細い肩を抱きしめようとした、まさにその刹那……
「離れろって言ってんのよぉ!」
モースリンはスッと身をかがめて、硬く折った肘を中心軸にしてハリエットの鳩尾目掛けて当て身を喰らわせた。
「ぐほっ!」
鳩尾を肘でえぐられて、ハリエットは片膝をつく。そんなハリエットを見下ろして、モースリンは喚いた。
「私だって、本当は……本当は……」
ハリエットが涙目でモースリンを見上げる。
「本当は?」
「本当はハリエットって呼びたいし、ギュって抱きついてみたいし、腕だって組んでみたいんだもん!」
「それってやきもち?」
「違う! 違わないけど、違うっ!」
「落ち着いて、モースリン、君は、俺のことを好きなの、それとも嫌いなの?」
「そっ、そんなの!」
モースリンの顔が、タコを湯に投げ込んだ時みたいに、一気に赤くなった。
「好きに決まってるじゃないのよぉおおお!」
叫びながらモースリンは駆け出し、自分の馬車の御者台に飛び乗った。そのまま御者から手綱を奪い、一声高く。
「はいやー!」
実はモースリン、ハリエットと馬車に乗っている時に賊に襲われた場合も想定して、馬を御す術も身につけている。それもかなりの腕だ。
馬は何も戸惑うことなく猛スピードで走り出した。馬車はガラガラと乱暴な音を立てて走り去ってゆく。
後に残されたハリエットは、鳩尾の痛みも何処へやら、「ふふふふ」と笑う。
「聞いたか、ビスコース、モースリンってば、俺のことを好きだって、確かにそう言ったよな」
馬車から取り残されて所在なく立ち尽くしていたビスコースは、ハリエットの言葉をとりあえず否定してみた。
「そんなこと言ってましたか? ちょっと聞こえなかったですね」
「言ってたよ、名前で呼びたかったとか、ギュッてしたかったとかも言ってた。ふふ、やっぱりやきもちを焼いただけなんだな、本当にかわいいなあ、モースリンは」
「えー、いや、それも聞こえなかったですねー」
めちゃくちゃ正直な話、ビスコースの胸の内は(どうすんだよコレ)という気持ちでいっぱいだ。
カルティエ家では、モースリンの死の運命を回避するべくいくつかの策が既に動き出している。そのうちの一つが円満な婚約の解消だ。
父であるカルティエ公は円満な婚約の解消のためにあちこちの貴族に、すでに根回しを始めている。要するにモースリンの死の原因となるハリエット王子を遠ざければ、自ずと運命も変わるだろうという、まず間違いのない対策だ。
ところが、肝心のハリエットがこの様子では、この婚約解消は簡単にはすすまないだろう。
とりあえず今ビスコースにできることは……
「なあ、本当に聞こえなかったのか、確かに俺のことを好きだって言ったんだ」
「ふふふー、幻聴じゃないんですかねえ」
これ以上話がこじれないように、ハリエットの言葉に曖昧な否定の言葉を返すことのみであった。
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