蛍地獄奇譚

玉楼二千佳

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 それはいつもの事だった。ここは鬼門。妖怪が人間界へ出入りする場所だ。
  妖怪達が人間界から帰ってくる。また、閻魔えんまに通行手形を申請する為だ。

  でも、今日は出入りが少ない。門番の鬼は、夜明けと共に交代する。明日からは非番。最近、構ってやれなかった妻や子供達に久々に会うのだ。こんななりだか家族はいる。もう終わりかと、鬼はホッと溜息をついた。

 すると、一人あまり見かけない茶褐色の布を被った者がやってきた。あまり綺麗とは言えない布を被った者は、徐々に自分の方へやってきた。

「……閻魔手形を見せよ」

 その者の大きさは人間の成人男性くらいで、鬼より小さく、その代わりに刀のような武器を持っている。

「どうした?」

 その者は、微動だにしないので不審に思い、少し近寄ると、鬼は刀で腹を貫かれていた。

「あっ……」

 一瞬の事で、何もできない自分を責める暇もなく、いつの間にかこじ開けられた門から魑魅魍魎ちみもうりょう達が解き放たれたのだった。

 ─────────*──────────




 
  
 部屋のノック音が聴こえて、ほたるはようやく起き出した。今年いっぱい眠るつもりだったのに、急に起こされ、不機嫌になる。

 ここを訪ねてくるのは一人だけ。蛍のお目付役の赤い鬼の三吉さんきちだ。三吉は身体が大きく、力も強い。

 本人は優しく叩いたつもりでも、蛍にとっては騒音に等しい。

「入れよ」

 溜息混じりに蛍は呟く。すると、ドアが開いて、巨体が入って来た。

「ああ、坊ちゃん。今年はずっと寝てるのかと思いましたよ」

 起こした張本人に言われて、蛍はムッとした表情で三吉を睨む。

「今すぐ、着替えて下さい。お父上、閻魔大王がお待ちかねです」

 蛍は、それを聞いてまた不機嫌になる。どうせ、元気かどうかを聞きたいだけだろう。
 それとも、看守の仕事を半年以上サボったのがバレたかと考えた。

「用は何?」
「さあ?分かりかねます」

 蛍は、左側に分けて伸ばした癖のある前髪を掻き分けて、もう一つの目で三吉を見ようとする。

「坊っちゃん、その目はあっしには通用しやせん」

 三吉に窘められ、蛍は口を尖らせ、手を下ろす。蛍はのろのろとベッドから降りて、クローゼットから看守服一式取り出し、着替え始める。

 シャツ、ネクタイ、ズボン、上着とベルトの順番で着替えて、編み上げブーツに制帽を被り、手袋を嵌める。そして、黒い筒。

 これは、妖怪の囚人を取り締まる為の暗器で、これは感情に合わせた武器になる。

 ここまですれば、いやでもシャキッとするが、蛍の顔はまだ眠たそうだった。

 三吉に背中を叩かれ、ふらふらと外へ出る。
 姿勢だけはいい蛍は、身長はそれほど高くないとは言え、スタイルがよく見える。

 ちゃんと測ったことはないが、大体173センチほど。ただ、二メートルを超え、巨漢である三吉と並ぶと、自分が小人になった気分だ。三吉はあとで行くと蛍を見送る。

 父の閻魔は、それ以上の大きさで見ただけで、どんな極悪人であろうと震え上がる。息子の蛍でさえ、ほんの少し嘘をついただけでまともに顔を見れない。

 ─────────*──────────

 閻魔城の中に入り、次々と鬼達とすれ違う。鬼達は、人間達の伝承と違い、姿形は人間と変わらず、中には角の生えたものもいたが、意外に数は少ない。途中、鬼と目が合うと、鬼達は蛍に向かい、会釈をする。

 ただ、それは敬意を表したものではなく、形だけの冷たいものである。

「…ちっ。実力もない癖に」
「穀潰しが…」
「…餓鬼道に堕ちろ」

 耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言にももう慣れた。

 時々、蛍が何も言わない事をいい事に、からかいに来るものがいた。

「どうされました?看守長殿。道に迷ったんですか?ご案内しましょうか?畜生道ちくしょうどうはあちらですよ」

 鬼は、馴れ馴れしく蛍の肩に触れてきた。流石に不愉快だったのか、蛍は鬼の手を払いのける。

「てめー。いい度胸してんだな」

 鬼は、蛍の胸倉を掴んで持ち上げる。胸ぐらを掴まれた蛍は、恐怖に怯えるわけでもなく、悔しがる表情も見せない。

 ただ、無表情に鬼を見下ろした。

「その顔が、ムカつくんだよ‼︎」

 鬼が蛍を投げ飛ばし、蛍は、頭と背中を壁にぶつけ、制帽を落とし、座り込むような姿勢になった。

 一瞬、蛍の前髪が浮いて、蛍は鬼の怯えた表情を見た。
 
「全く。坊っちゃんにも困ったものだ」

 三吉は、蛍が寝ていたベッドのシーツと、皺くちゃの寝間着を綺麗に畳み、急いで閻魔城に入る。閻魔城に入ってすぐに、騒ぎが聞こえた。騒ぎの中心はきっと…。三吉は、溜息混じりに近くの鬼に声を掛ける。

「さ、三吉親分」

 鬼がそう言うと、人集りになっていた鬼達は蜘蛛の子を散らすように、道を開ける。
 次の瞬間、三吉が見たものは、壁に体を預けている蛍と、若干息を切らした鬼だった。

「おい。こいつはどういう事だ?」

 三吉は息を切らした鬼に尋ねる。すると、鬼は三吉の顔を見た途端にしどろもどろになり、目を泳がす。

「あれほど、蛍様には手を出すなと…」

 三吉は鬼の頭を掴み、そのまま鬼の頭を床に叩きつけたのだ。

「言っただろうが!」
「あが…っ」

 床板が割れ、鬼の顔は血だらけなり、前歯が二、三本折れていた。

 鬼はビクビクと、身体を痙攣けいれんさせ、暫くすると動かなくなる。

「おい。誰か、医務室に連れて行け。他の奴は仕事に専念しろ」

 二人の鬼が、倒れた鬼を運び出すと、他の鬼達は何事もなかったようにそれぞれの持ち場についていく。

 三吉はまだ、壁際に座り込んでいる蛍に声を掛ける。

「坊っちゃん。怪我は?」
「してない」
「でしょうな。さっさと立って下さい。閻魔様がお待ちですぞ」

 そう言われて、蛍は埃を払いながら制帽を拾い、うるさいと思いながら立ち上がったのだった。

 ─────────*──────────




 
 ミシッと言う音が鳴ると、少女は天井を見上げる。当然、上には何も無いのだから、意味は全くないのだ。味噌汁が沸騰しそうになり、慌てて火を消す。

 味噌汁は、沸騰すると風味がなくなり、美味しくなくなる。

 もうかれこれ、六年以上家の家事をやっている。それで覚えたのだ。

 最初のうちは、家庭科の教科書を見ながら料理していたが、最近はスタンダードな料理なら大抵の物は本を見る事は無くなった。

 焼けた鮭とサラダを三人分、皿に盛っていく。なかなか、綺麗に盛り付けられたと嬉しくなる。      

 スマホをエプロンのポケットから取り出し、写真を撮ろうと構えると、今度は大きめの音でパキッとなったのだ。びっくりして、サラダの上にスマホを落としてしまう。

「姉ちゃん、今日のご飯…うわー、それ最悪だね」

 弟の弘海ひろみが、サラダの中に落ちているスマホを見て、苦笑いをしていた。

「本当…あの音、どうにかならないかしら?」

 少女が怯えていると、弘海はからかうように笑うのだ。

「姉ちゃん、まだあんなの怖いの?」

 にやにやしている弘海に少しムッとしたが、すぐに高校生にもなって馬鹿みたいだと思い直す。

「なずな、弘海。ただいまー」

 父の吉永が帰ってきたので、二人で玄関で出迎えた。なずなが、父に夕飯が出来た事を伝えると、またミシッと音が鳴ったのだ。

 なずなは一瞬、天井を見上げるが首を振る。

「…お化けなんて、妖怪だなんて居るわけない」



 ──────────*─────────
 
「で、一体何の用?」

 蛍は、閻魔と目を合わせる事なく言った。とは言え、目を合わそうにも相手が大きすぎて、無理な話だ。

「まずは、蛍よ。我が息子、よく来たな」

 自分から呼び出しておいて…蛍はぼそりと呟く。代理の補佐官である牛頭ごず馬頭めずがこちらを睨むように見てくる。

 二人は、曲がりなりにも閻魔の子息だと言うのを弁えているので、さっきの鬼のように蛍に直接拳を振るう事はないが、やはり自分は憎悪の対象なんだろう、蛍はそう思った。

 蛍は、人間と閻魔の間に生まれた。人間の母は閻魔の正室ではなく、側室で更に人間としてもかなり、身分の低い女だ。

 更に、人身御供として死んだ女だったと蛍は聞いている。霊力はあったものの妖怪にはなれず、蛍が幼い頃、天道に行ってしまう。

 さっき、鬼達が言った餓鬼道や畜生道は六道と呼ばれる世界のうちの一つ。

 六道には、餓鬼、畜生、地獄の三悪道と、天道、人間、修羅の三善道がある。つまり、母とは異なる道に行けと言われたように蛍は感じたのだった。

 餓鬼道とは、飢えと強欲が渦巻く世界、
 畜生道とは本能のまま弱肉強食の世界。
 地獄道は深い罪を犯したものが行く責苦の世界。
 
 蛍は閻魔の息子である事から、将来的には閻魔の補佐官への道が決まっている。そう言った僻みや憎しみから、蛍は一部の鬼達から忌み嫌われていた。

「…ところでお前は百六十才になるな。人間で換算すれば丁度十六。最近の人間はそれくらいの歳の子は、高等学校なるものに通うそうだ」

 そんな話は、別に聞きたくない。人間がいくつになったら、何をするかくらいは把握している。人間はやけに寿命が短くて、弱い。

  その癖に、あっと言う間に、あれやこれや作ったり、壊したり、いくさをしたがる。妖怪達を怖れたり、崇めたりすると訳が分からない。

「…で?」
「うむ。お前の兄、経国つねぐにが人間界で今、働いているのを知っているな?」

 勿論、その事も蛍は知っていた。兄は蛍と正反対で、鬼達から崇拝されている。

 父に何かあれば、兄が代理を務める事になるだろう。そして、人間と言う者を知る為、今人間界にいわゆる留学をしているのだ。

「それがどうかしたの?」
「…お前も行け」

 通常、地獄の住人が人間界や天道に行くには生まれ変わるか、閻魔手形を貰い、鬼門と呼ばれる地獄の門を通るかだ。

 ただし、生まれ変わる場合、地獄での記憶は全て消えてしまい、閻魔手形は三年ごとの更新が必要で、人間界での永住権はない。

 地獄の住人はほぼ後者で、前者は人間達が多い。つまり、蛍の母は、生まれ変わってしまったので、蛍が会いに行っても、蛍を認識できないか、拒絶されるかどちらかである。

「つまり、生まれ変われって事?」
「馬鹿者。皮肉を言うんじゃない。兄の手伝いをしろと言う事だ」

 兄の手伝いと言う言葉に蛍は、うんざりした。経国とは、あまり仲が良くない。
 兄は自分が気に食わないようで、蛍もそれを感じとっていた。

「兄さんの?どうして?」
「うむ。最近、鬼門の門番が何者かに倒されるという事件が起きてな…」
「鬼門の門番が?」

 鬼門は地獄へ続く大事な場所だ。勿論、門番もかなり屈強な鬼。三吉も一時的に門番をしていた事がある。門番する鬼は、看守達も通れば道を開ける。

 それに閻魔から直々に指名されるほど、信頼も厚い鬼。それを倒すと言う事は…。

「…妖怪の仕業?」
「早い話がな。だが、そのせいで、かなりの数の妖怪が人間界に出てしまった。奴らは、手形を持っておらぬゆえに、動向が掴めん」

 閻魔手形は持つと言うより、体に刻まれる。体に手形を刻まれれば、閻魔はその者の動向が浄玻璃の鏡を通して分かる。

   悪さをすれば、閻魔に伝わり、酷い仕置きが待っている。3年毎の更新をサボっても、手形を刻まれている以上、仕置きされるのだ。しかし、手形がなければ…。

「いくら経国でも、一人で妖怪を取り締まるのは無理。人間の能力者もいるのだが、限界がある。そこでお前に…」
「分かったよ。父さん」

 蛍は、閻魔が何かをいい終わる前に返事をした。牛頭と馬頭も驚いたようにこちらを見ている。

 多分、断ると思われたようだ。

 閻魔の言い方は、歯切れが悪かった。父は、自分が兄と不仲なのは承知。だが、それよりも何かを隠しているようだった。

 蛍が承諾したのは父を驚かせかったのと、自分が活躍すれば、兄の鼻をあかせてやる事も出来るかもしれないと言う気持ちだった。

「そうか…。では、心臓を預けよ」
 閻魔がそう言って、手を動かす。すると、蛍の胸から心臓が出てきたのだ。蛍は眠るように眼を瞑ったかと思うと、すぐにカッと眼を見開く。
「蛍よ。どうだ?仮の心臓の調子は?」
「…よくも悪くもないよ」

 蛍は、心臓を預けなければいけない理由がよく分からなかった。恐らく、死なせない為と考える。

 兄も心臓を預けたのだろう。それからすぐに、腹の辺りに手形が刻まれた。刻まれた部分はやや熱い。

「…そうだ。これも預ける」

 閻魔が目配せすると、牛頭が小さな箱を蛍の前に持って来て跪く。

「蛍様、こちらは閻魔様より下賜日 かしひんで御座います。守りたい者に授けよとの事です」

 蛍は牛頭から、箱を受け取る。牛頭は、牛のように曲がったツノを生やし、三吉と負けずと劣らない体躯だ。

 三吉より、若くやや引き締まった身体をしていた。いつも、セットになっている馬頭は、身長こそあるものの二人よりは細身である。

「…行ってきます」

 蛍は、閻魔に一礼すると三吉を従え、部屋から出ていく。

「…蛍よ。お前の浄玻璃じょうはりの眼に人間達はどう映る?」

 ─────────*──────────
 


 あれからすぐに、荷物をまとめ、鬼門を潜る。門番に挨拶をすると、やや緊張し過ぎた面持ちで、門番は蛍と三吉に敬礼する。

 どうやら、この門番は新入りで、先日の話を聞いているらしく、余計に顔が強張っている。

 門番が倒された話は地獄全土には広まっていないらしく、門を潜る前にある妖怪達の商店街はいつも通り、妖怪達で賑わっていた。

 多分、閻魔が混乱を招かないように口止めをしていたのだろう。

 蛍達の荷物は多く、人間界に着いた頃には蛍はへたへたになっていた。

 荷物は殆ど、三吉が妖怪商店街で買った人間界ではまず手に入らない酒類や食べ物で溢れかえっていて、蛍の荷物はごく少量だ。それでも、手が空いているからと言って、荷物を持たされたのだ。





 人間界に着くと、ドームハウスが山の麓に用意されていた。とりあえず、兄と住む訳ではなさそうで、蛍はそれが一番安心できた。

 ドームハウスは、蛍が使う主寝室と、他に三吉の寝室、キッチンダイニング、バスルーム、トイレ、リビングと人間達が使うのと変わりのない構成だ。

 ドームハウス故にやや、部屋の形が歪であったが、寝る所さえ確保できれば、蛍は快適である。

「坊っちゃん、食事ですよ」

 ベッドに横たわっていると、三吉の声が聞こえて来た。蛍は、舌打ちをして、ダイビングの方へ向かう。食事や洗濯は、基本的には三吉がしてくれる。

 でも、どうせなら可愛い女の子がいい。

「生きてる人間の女の子を飼いたい」

 ダイビングに来て、開口一番に蛍がそう言って、三吉は口を開けたまま、しばらく閉じれなかった。

「ああ、坊っちゃん。人間は犬畜生じゃありません。第一、ここじゃ人を飼う事はご法度です」

 三吉はやっと開いた口でそう言ったが、蛍は納得してないようだった。

「…じゃあ、飼わない。その変わり…攫ってくるのは?」
「もっとダメでしょうな。さあ、早く汁物が冷めてしまいます」

 蛍に釘を刺したのはいいが、三吉はこの先が心配だった。

 何しろ、世間知らずで、地獄でも浮いた存在だった。小さい頃から、地獄の看守になるよう教育されて、いざ妖怪が暴れた時の倒し方、逃げ出そうとした妖怪達の捕まえ方…色々教えたが、人間界の知識はないに等しい。

 それにしても、女に興味を示すとは。だいぶ成長しているようだ。体躯も大きくなった。ふと、三吉が感心していると、テレビの音が聞こえる。

「今日のゲストはネットアイドルの柚月さんです」

 テレビの内容は、音楽番組らしく、蛍が食い入るように見ていた。アイドルが、歌ったり踊ったりしている。

「こういう娘がタイプですかい?」

 よく見ると、アイドルの歳の頃はまだ10代。蛍も人間なら、丁度同い年である。蛍は質問に首を振った。


「…随分、怨まれているよ。この子…ククッ」

 蛍は、そう言って高らかに笑い出したのだ。


 ─────────*──────────



 暫くして、現れたのは一つ目坊だった。彼は目が一つしかない妖怪だ。

 だが、その目は大きく、成人男性の手くらいの大きさである。彼は大層立派なスーツを着こなしている。まるで服と一体化しているようだった。

「さて、月曜日から来て頂くのですが、一応形として、転校して来た事にします。そして、こちらが我が校の教科書、制服一式、その他諸々、学科としては進学科、普通科とありますが、蛍様は、人数調整と学力を総合しまして、普通科になります。ここまでで何か質問は?」

 一つ目坊は、蛍に聞いたが、蛍はまるで興味がなそうに欠伸をしている。仕方なく三吉が代わりに答えた。

「普通科と進学科の違いは?」
「そうですね。普通科だと、卒業すると大学へ進学もしくは、就職。進学科だと、よりグレードの高い大学へ。蛍様は、今後人間界で大学へ行くつもりでしょうか」
「興味ない」

 蛍はまるで人ごとのように応える。

「あ、いや。こりゃ失礼。まだ考え中だと言う事です」

 三吉はとりなして応える。一つ目坊は、苦笑いをするが、一つしかない目は笑っていなかった。かわりに、口元だけを歪ませていたのだ。

「まあ、来たばかりですし。そのうちに興味が湧いてくるでしょう」

 その後、制服やジャージなどの衣装合わせを行い、一つ目坊はホッとした。

「では、これにてお暇させて頂きます」

 一つ目坊が何か唱えると、彼の眼は二つになり、それに合わせて顔が変わり、中年ぐらいの男性の姿になり外へ出て行く。こうやって、彼は人間界に馴染んでいるのだろう。

「待ってよ。頼みがある」

 蛍が一つ目坊を呼び止めた。


 ─────────*──────────
 
 一つ目坊は、待機させていた車に乗り込んで、運転手に自宅へ向かうように命令する。

「…噂通りの体たらく。問題を起こさないといいのだが」

 一つ目坊は、小声で悪態をついたのだった。そして、スマホを背広のポケットに手を伸ばして、電話を掛けたのだ。



 ─────────*──────────
 
 日曜の夜十一時、なずなはようやく部屋の電気を消そうとする。しかし、ふと何かが走ったような気がして、辺りを見渡す。
 勉強机と、制服のかかったハンガー、本棚、一人掛けのソファー、ベッド…。いつもと変わらない風景。カーテンは閉めてあるし、学校用のリュックが空いているので、取り敢えずチャックを閉める。何か問題はなそうだ。
 気のせいかと、電気を消して布団に潜る。

「明日は…転校生が来るんだっけ?」

 なずなは、金曜日の帰りを思い出す。


 ─────────*──────────
 
「転校生…?」

 なずなは、帰りに職員室に来るよう担任の山野から呼び出されていた。山野はいかにも、優男と言う感じで、何処か頼りない男だ。
 眼鏡をかけ、短髪でまだ二十代である。しかし、あまり大人と言う感じがせず、生徒からは歳の近い親戚のお兄ちゃんみたいだと人気がある。

「そうなんだよ。月曜日にね。いや、ひょっとしたら、頓挫するかもって言われてて、何にも用意してなかったんだ」

 参ったなと言って、彼は後ろ髪をかいていた。

「で、その子、男子なんだけど、学校も見学していないし…吉永、お願い何だけどさあ」

 山野ははっきりしない様子だった。

「案内すればいいんですか?」
「そう!軽くどこに、何があるかだけ教えてくれればいいよ!一日だけでいいから」

 山野は目の前で手を合わせる。このちょっと子供っぽい所が好感を持たれるのだ。

「分かりました。で、どんなの子何ですか?」
「それがよく分かんなくて…。けれど、相手が案内役は女子で心臓が強い子がいいって…よく分かんないけど」

 つまり、自分は山野に心臓が強いと判断されたのか、なずなは喜んでいいのか複雑な気持ちになる。しかし、頼まれた以上断れず、引き受ける事にした。


 ─────────*──────────
 
 深夜、なずなは誰かに伸し掛かれたような気がして目が覚める。弟の弘海がふざけて乗っているのか?初めはそう思った。
 だが、なんだかおかしい。枕元にあるスマホに手を伸ばして時間を見ようとするが、身体が動かない。

「弘海。部屋に戻ってよ…」

 なずなは、寝ぼけ眼で上に乗っているであろう弟に声を掛けるが、返事がない。

「んもう。弘海!」

 今度は強く言って、眼をしっかりと開ける。確かに、誰か乗っている。でも、それは弟ではなく、般若の様な形相でこちらを睨んでいた。

 暗闇でも、何故かその形相だけはなずなの目にはっきりと映ったのだ。

「ひっ!」
「カエセ…」

 あろう事か、その顔は少しずつなずなの顔の目の前にあったのだ。

「きゃああー!」

 体は動かず、叫ぶ事でいっぱいいっぱいのなずなの声は家中に響き渡った。すると、バタバタと父の良介が走って、部屋に入って来た。父は慌ててなずなの部屋の電気を点ける。

「どうした⁈なずな」
「い、今そこに顔がっ!」

 なずなは、身体を起こし、顔が見えてた方向を指さす。

「ん…?何もないぞ?」

 良介は、首を傾げて言った。確かに今は何もない。しかし、さっきまで暗闇なのに鮮明に見えていた。

「…え?だって」
「見間違えじゃないのか?まあ、いいや。今日はもう寝なさい。あ、スタンドライト、つけておくんだ」

 良介は苦笑いをしていた。

「ねえ…どうしたの?」

 瞼を擦り、弘海が顔を出す。

「はあ…お前まで…さ、二人とも寝るんだ。明日は学校だぞ」

 そう言って、良介は弘海を部屋に戻す。一人部屋に残ったなずなは、スタンドライトの明かりをつけ、部屋の電気を消して、ベッドに横になる。


 ─────────*──────────
 
「ああ。心地いいなあ」

 ゆったりとベッドで寛ぐ蛍。もう、二日以上こうしているのだ。いつも、シングルサイズの簡素な寝台で寝る、それが今日からはクイーンサイズのベッド。広々として、マットレスも上等のものを使っていた。
 しかし、蛍の居心地をよくするものは、それだけではなかった。

「遠くの方だけど、女の悲鳴が聞こえたなあ…ククッ」

 それを子守唄にでもするように、蛍は目を瞑る。


 
「坊っちゃん。朝ですよ。今日は学校の日です」

 言い方は穏やかだが、ノック音がうるさい。蛍は不機嫌そうに目を覚ます。確かに朝だ。

 地獄にも朝はある。だけど、こんなに明るくないし、鳥も煩く鳴いたりしない。うるさいのは三吉だけだ。

「全く…」

 仕方なしに、貰った制服に袖を通す。シャツにベスト、ネクタイ、スラックス。ジャケットはまだ暑いので、羽織りたくない。人間界じゃ、もう六月初旬で梅雨に入るらしい。

「ほら、ご飯を食べて、荷物も用意して、閻魔様から頂いた小箱、入れときますからね」

 自分の代わりに、ご飯も食べてくれればいいのに…気だるそうにトーストを齧る蛍。
 大体、蛍は閻魔の子である。数年先は何も食べなくても大丈夫だ。なのに、三吉は毎回ご飯を用意してくるのだ。それを蛍はぶつくさいいながら食べる。

「坊っちゃん。そういえば、あの箱何でしょうね」

 そういえばと、蛍も気になった。守りたい者とはどういう意味だ?

「さあ?僕も中身見てないし…」

 気にはなったもののさして興味はないせいか、蛍は砂糖とミルクを入れたコーヒーを飲み干し、荷物を手に取る。荷物は少し重く感じたが、リュックサックになっており、そこまで負担には感じない。

 拘束時間は、九時から十五時半の七時間半。そして、二十分前に教室に入るのが、暗黙のルール。ここから、学校まで徒歩二十分で近い。地図もスマホに入っている。
 だけど、蛍はこれを使うのがあまり好きではない。何だか使いにくいし、兄だけではなく、最近これを持ち始めた妹のネリネからも連絡が来る。

 一度、血の池に放り投げたことがあるが、地獄製のこれは、次の日に蛍の枕元に戻って来ていたのだ。

 地獄の住人ですら怯える呪われたスマホともにこれから、初登校となる。



 ──────────*─────────
 
 春が終わり、夏が近づこうとしている六月。今日はすっきりとしたいい天気で、なずなは店が定休日の父に洗濯を頼んだ。

「じゃあ、お願いね、パパ。いってきます」
「いってきます」

 まだ、眠そうな良介はあくびをしながら、返事をする。しかし、娘が昨日の夜あれだけ怯えていたのに、朝になるとあっけらかんとしていて、ほっとした。良介は洗濯機が回る間、ソファーに座り新聞を読む。


「令和の切り裂きジャック現る」


 街で二十代の女性が、深夜に切り裂かれる事件の全容が、新聞に掲載されている。

「喉、腹、腕を切り裂かれ…怖いな…」

 ピピっと洗濯機のエラー音が鳴る。良介は腰を上げて、浴室の洗濯機を見に行く。何故かガチャガチャと音がした。

「ん…っ?なっ…⁈」

 小さな鬼のような生き物が良介に飛びかかって来た。

「なんだ⁈」

 良介は咄嗟の事で、身を屈める事しか出来ない。すぐさま、状態を戻すが、もうそこには何もなかったのだった……。
 
 
 
 
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