お城

みぃ

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3-B

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 毎夜仕事終わりに一服しながら眺めるものは野良猫と月と城だ。



 猫と月は気まぐれだ。白黒の猫の親子がいつも現れる、路地裏を塞いだ板の抜け穴に小声で呼びかけてみたが、出て来てくれない。

この春に子猫を産んだばかりらしい若い母猫と白と黒の毛並の可愛らしい子猫の親子は人気者で、昼間は賑わう隠れ家カフェや雑貨店が並ぶこの界隈では有り余るほどの食べ物を貰って可愛がられている。

ずっと前から鞄に入れてる餌があるけれど、そろそろ袋の中で粉々に砕けていそうだ。かわりに煙草の箱を取り出す。

 空には星もない。暗い夜だ。街灯の灯りに照らされて佇む彼の名前を呼ぶ人もない。

 火が危険なほど指に迫るまでぼんやりと物思いに耽っていた。いつの間にか眺めていた城から目を逸らす。

 二本目のタバコに火をつける。細く立ち上りながら溶けていく白い帯のような煙の先を見上げる。明かりの灯っていない暗い窓に視線が漂っていき、憂鬱になる。それは3-Bの部屋の窓だ。彼と彼女が二人で住んでいる部屋だ。その窓の形に穿たれた穴のような闇はさっきも歩いて来ながら見上げたのだ。

 煙草の火を消し、ちらりと遠く聳えるお城を眺める。



手を触れさせてくれもせず、姿さえ現さない月や野生の猫に比べると城はいつもすぐそこに見えている。夜もライトアップされて、少し小高い丘の上にくっきりと浮かび上がっている。そこだけ真昼の世界のようだ。眩しく白く照らされて、水底に沈んだような夜のこの街とは違う時間が流れている。

 今夜も彼女はあの城で働いている…

 彼はため息を吐き、硬くて冷たい三階までの灰色の階段を、一段ずつ登って、部屋に帰る。



ムッとする空気で分かる。扉を開けた瞬間、一日中締め切られていたのだと考える。昼間も彼女は帰ってこなかったらしい…

室内は彼女の物で溢れ返っている。玄関には数えきれない靴が散乱していていつも躓きそうになる。壁のスイッチを押すと正面の窓いっぱいにカーテンの代わりにぶら下がったワンピース。春物だけでこの部屋は満杯だ。服屋の試着室にあるような大きな鏡が服や靴や鞄を倍の数に増やして映し出している。持ち主は不在なのに。

彼はため息をつく。

まるで時が止まった女の子の衣装部屋で独り暮らししてるみたいだ。情けなくなってくる。春以来彼女はこの部屋に帰って来てないみたいなのだ。鏡の前のゴミ箱の底には、赤い口紅を整えたティッシュがひらりと一枚落ちている。



 この荷物を全部捨ててしまいたいと思う事もある…けれど、いつも一応は一つも捨てない。ここにこんなにも沢山ある似たような服や靴のどれか一つくらいなくなっていても本人にも分からなそうだと思うけれど…ひょっこり帰って来た彼女に「あれお気に入りだったのにー」と怒られそうな気がして…その光景が目に浮かび、口元がニヤける。

そのうちきっとあの子は帰って来る…結局はそう思える夜もあるのだ。



 今夜は元気がほんのちょっと残っている。立ち竦んでいた玄関で、足元を見下ろす。

どれも長くは歩けない、足を飾るためだけに作られたみたいな華奢なハイヒールだ。お店で売られているときには目線の高さに掲げられ、インヒールや靴底の模様にまで細工が施されている。車で移動し柔らかい絨毯の上を歩くための靴だ。こんな泥塗れの狭いワンルームの玄関にゴロゴロ転がされ山積みになって放っておかれるはずのものではない。

いつもなら必ず嫌になるのだけれど、今夜は気が付くと一足ずつ手に取り、もう片方と揃え、手で汚れを払い、隅から並べて綺麗に整頓し始めている。無意識に。やり始めると凝り出して、ティッシュなんかじゃ全然足りないなと思い、雑巾にしてもいいような一番擦り切れたタオルを濡らしてギュッと絞り、靴を並べる棚の埃をまず拭き取った。もう一枚別のタオルを持って来て、靴の裏を拭い、側面や中はティッシュや別のタオルにファブリーズを吹き付けて拭いた。彼女が季節の変わり目にいつもやっていた…靴磨き職人になったみたいだ。彼女の靴の専属の。どれもほとんどおんなじみたいな淡いピンクかベージュかクリーム色かの靴ばかりだ。控えめなラメや細いリボンやレースの繊細な飾りが少しずつ違っているだけだ。結婚式にドレスの色を揃えて花嫁に付き添う従姉妹たちみたいにそっくりで可愛らしい。こういうのが好みなのだ。

「似たようなのもういっぱい持ってるじゃん」と靴屋で悩む彼女に言っても「うん。知ってる」と唇を尖らせ、「でも可愛い…」とうんうん唸って迷った末、どうしてもまた似たようなのを買ってしまっていた。絶対に家に帰ってから後悔するし、あまり大事にもしないくせに、いつも同じ失敗を繰り返していた。

愛おしさが込み上げてくる。彼女の靴に触れていると彼女の足先を思い出す…

 寒がりで、冬には何枚も重ねた毛布や布団のミルフィーユみたいになった層の中で、どこに寝てるのか分からなかった。めくってめくって「ここにいるのか」と探り当て、隣に潜り込むと、モゾモゾと冷んやり冷たい手や爪先をくっ付けてきた。彼は脇に挟んだり太腿に挟んだりして彼女の冷たい手足を温めてあげた…



ここにあったどれか一足を履いて行ったはずだ。それなのに、無くなっている靴が思い出せない。全部を対にして壁際に揃えて置いてみても。

…一緒にいる時には深く考えていなかった。いなくなってからの方が真剣に彼女の事を考えるようになった。あの子の立場であの子が何を考えていたのか…

隣にいる時に自分は何をしてたんだろう…とにかく肌に触れていられればそれだけで満ち足りていた…



 ふいに、見当たらない一足に思い当たる。

 彼女が自分と一緒に散歩する時に履いていた、一足しか持ってないボロいスニーカー…

仕事中やまだ付き合って間もない頃に隣を歩いていた彼女は、唇のあたりに目線があった。キラキラ眩しい粉を付け過ぎてヘンテコなメイクで。それがいつ頃からか喉のあたりの高さからつるんとした素顔で見上げてくるようになった。

「あれ?今日やたら背が低いね。縮んだ?…顔も変わった?」

とからかうと、彼女は笑いながら僕の肩に手をかけて自分の身長を測った。

「本当だ、そっちこそ今日は背が高いね」

一緒に部屋を借りて暮らし出してすぐ、ガス料金を払い忘れたせいでお湯が出なくなり、銭湯巡りをしてみた時期があった。その頃からだ…彼女が素を曝け出すようになったのは…

あのスニーカーだけが見当たらない。まさかあれを履いて行ったんだろうか…

「城で働き出す前から持ってるものはこれくらいだ」

と言ってた…

彼女は本当に城に戻ったんだろうか…



はっと目が覚める。玄関で突っ伏して寝ていた。彼女が泣いている夢を見たのだけれど、何故泣いていたのだったか思い出せない。砂を掻き集めるように記憶をまさぐるが、重要な鍵は指の隙間を抜けて消えてしまった。

 硬く冷たい床で眠っていたせいで全身がガチガチに強張っている。首筋も肩も腰も痛い。頭の下に敷いていた左腕は痺れて感覚がない。

仕事だ。

 鋸のように眠りを切断して鳴り続けるアラームを止める。何も考えている余地はない。服を脱ぎ、浴室に飛び込む。

 彼は昼間は移転作業、夜は引越しの作業員として、日雇いの仕事を詰め込んでいる。どちらもきつい力仕事だ。

 シャワーから上がると部屋干しのままの青い作業服を手で触って確かめてみて、(多分これは乾いてる)と思うのを頭から被り、濡れた髪のまま、鞄を引っ掴み家を出る。

 集合場所にはもう5人ほどが集まっている。7時。バンが渋滞した車の列の向こうに見えると、途端にもう5人ほど、遠巻きにうろついていた者達も集まってくる。犇めき合って一台の車に乗り込む。

 最後に乗り込んだ彼がまだ席を見つけられないうちに車は発進し、彼はなんとかあけてもらえた隙間の形になって座席に身を埋める。本日の現場まで、詰め込まれた家畜の群れみたいに運ばれる。バスが右に傾けば全員で右の者に肩をぶつけ、左に揺られれば左の者にぶつかる。急ブレーキで一斉にガクンと後頭部が後ろへ引っ張られみんなが顎を突き出す。

「これ落ちたよ。」左隣のおじさんがボールペンを拾ってくれたが自分のじゃない。首を振りそう伝えると、

「俺んだよ」とおじさんは言ってニヤリとした。

「鹿嶋くん」制服に付けたバッジの名前を読まれた。

「今日の現場は初めて?ボールペン持って来てる?無いと滅茶苦茶怒られるよ。」

「持って来てます」鞄を漁り、ペンを出して見せて安心してもらおうと思ったが、咄嗟にはなかなか見付からない。筆箱に空いた穴から抜け出すのだ。鞄の底のどこかにはあるはず…糸屑にまみれて出てくるはず…

「ほい」おじさんが自分の胸ポケットに二本挿していたペンの片方を抜いて鹿嶋くんのポケットにひょいと挿してくれた。

「いや…いいです…」

「良いって良いって!」返そうとすると盛大に仰け反って拒否された。借りた方がおじさんは嬉しいようだ。たとえ自分のが鞄の中で見つかっていたとしても…

鹿嶋くんはポケットに入れられたボールペンを出して眺めてみた。百均で10本セットとかで売ってる誰のものだなんて判別のつきにくい量産のペンだが、何故なのかそこにセロハンテープをぐるぐる巻いて改造してある。握りやすさと独自性を醸し唯一無二の薄汚いペンに仕上げてある。不器用なのか雑なのか粘着面が表を向いてしまってる箇所がところどころあり、ネチャネチャしている。ゴミ屑や埃や手垢がいっぱいくっついてバイ菌だらけっぽい。そんなものを渡されても、不思議に腹が立たなかったのは、おじさんの笑みに(まぁ仲良くやろうや)という心が感じられたからだ。それにこちらも、それだけのことにも深く感動できるほど人との繋がりに飢えていた。

そう言えば言葉を口から発するのも久しぶりな気がした。



 仕事以外で人と話したのはこの日はこれが最初で最後だった。

移転作業の仕事を終えると鹿嶋くんはコンビニの唐揚げを食べながら足早に歩いて次の現場へ向かった。次の仕事もやる事は同じだ。あっちからこっちへ荷物を運ぶ。

事務所へは立ち寄らずLINEで送られて来た所在地へ直接駆け付ける。同じ派遣元から来ている顔見知りの男がペアになる相手を待って、これから運ぶ業務用冷凍庫に寄り掛かっていた。鹿嶋くんはこの人とよくペアを組む。頷き合い、黙って息を合わせ黙々と冷凍庫を運んだ。二人は背の高さも年頃も体格も似ている。175㎝、25歳、57㎏。どちらも自分から話しかける方ではないから、ほとんど口をきいたことはないけれど、お互い相手の仕事ぶりを認め合い信頼し合えている気がする。鹿嶋くんは密かに、相手がペアを組むのに自分をちょっと待ってくれていたような気がするし、こちらの方が早く来た時は別の誰かよりもこの人と組みたいなと思ってちょっと彼を探してしまう。ユンくんという人だ。名札にそう書いてある。時間が来ると二人は頷き合い、解散する。



 青が深みを増していく夏の夜空の下、黄金の西陽を反射して煌めくビル街の窓窓に、白やオレンジ色の光がポツポツと灯り始めている。尖った建物の輪郭が夜空に溶けて薄まり消えていく。

 帰り道を急ぎながら(今夜は帰って来ているだろうか、今日もいないかな)と考える。彼女の事だ。家の窓が見える辺りまでは急ぎ足で歩いて来て、暗い窓が見えると急に向きを変える。繁華街にふらっと戻り、丼を腹に入れ、コンビニに立ち寄り、お茶とタバコを買ってもう一度同じ場所へぶらぶら戻って来る。

 窓はまだ暗い。さっきより黒々と穴のような口を開けている。

ペットボトルの蓋を捻りながらいつも腰を下ろす煉瓦の出っ張りに今夜も腰を下ろす。



 城は美しく三日月を背景に麓を霧に包まれて地上から浮かび上がるようにライトアップされている。

遠いようにも近いようにも見える…

今日もらった茶封筒が鞄に入っているのを触って確かめる…



にゃーん。と呼ばれ、ハッと声がした方を向く。野良猫の親子が板で塞がれた路地裏の隙間から出て来ている。昼間は賑わうカフェの白いカーテンを閉じた窓の花壇で綺麗にお座りして置物のように二匹揃ってこちらを見ている。バイクが通り過ぎた。光が透き通った緑色の瞳の中を水のように煌めいた。子猫が可愛い声でもう一度、にゃーんと鳴いた。

「シーちゃん」と彼女が呼んでいた方の子だ。

「尻尾の先っちょが白いから。こっちの子はテーちゃん。軍手してるみたいに手が白いから…」

「昨日とは違う名前だな…」と笑いながら指摘したのを覚えている。

「昨日はペケとピコだって言ってなかった?」

「そう?だとしたらどっちがどっちだろ」

「人懐こい方の子が…」

どっちだったかな…

あの時はちゃんと覚えていて言ったはずなのに、鹿嶋くんにももう思い出せなくなっていた。彼女は毎晩煙草を吸う彼の隣で野良猫に新しい名前を授けていた。

「混乱するよ。早く一つの名前に決めてやらないと」

「混乱なんてしないよ。野良猫に名前なんてほんとはいらないんだもん。こっちでなんて呼んであげたってあっちじゃ自分の名前だなんて思ってないよ。ただ、餌をくれる優しい人間だってことだけは分かってると思うよ」

彼女は〝野良猫に餌を与えないで下さい″と書かれた貼り紙に一粒ずつ猫の餌を投げていた。

彼女がまだ隣にいた春先には、あの花壇にはルピナスと勿忘草が咲き誇り、子猫は二匹いた。

 最近は一匹しか見かけない。いなくなったのは手が白かった方のテーちゃん。人懐こかった子だ…



手が震えて餌がポロポロ溢れるほど慌てて、子猫に気に入られようと、鹿嶋くんは急いで用意した。

「ほら、おいで」

猫の親子の方へ一粒投げてあげた。二匹はビックリしてちょっと飛び退いたが、すぐ匂いを嗅ぎに戻り、母猫がカリカリと小さく音を立てて食べた。

こっちを見て「私にもちょうだい」という顔をしてる子猫へも投げてあげた。少しずつこっちへ寄ってくるように落ちる位置を調節して餌を投げたが、親子は警戒心の強さから、途中で「もういらない」という顔をして前足で口の周りを拭い、ぷらぷらと鹿嶋くんの狙いから逸れて他所へ遊びに行ってしまった。まだ目の届くところにはいるけれど…

「可愛くないな」と独り言を呟いた。

「まぁ、いいよ。俺がいない時に取りに来るんだろ」

道を越えてポツポツ続く猫の餌の粒は鹿嶋くんの隣で余り全部が小さな小山になっている。

 今度は飾り窓のランプだけを灯した雑貨屋の前の道で自分の影と戯れている子猫と、その近くに寝そべり身繕いしている母猫をしばらく眺めた。煙草に火をつける。

別の大きな雄の虎猫がゆったりと現れて小柄な白黒の親子が食べ残した餌にありついた。

 他の猫に比べると母猫は子どもみたいに小さい。まだ生まれて一年も経たないのかもしれない。毛並みは艶々で濡れたカワウソみたいに光沢があり、綺麗だけれど、痛々しいくらい常にピリピリ殺気立っていて、目が合っただけでもシャーッと威嚇してくる。心も体同様成熟しきっていなくて、余裕がない。春から全く慣れる気配がない。サッと顔をあげ、鹿嶋くんからは見えないL字に曲がった路地の向こうの何かに過敏に反応して、一目散に溝の中へ逃げ込んだ。

 クスクス笑う声がして、足音が聞こえ、角を曲がって来た二人組の姿が見えた。こちらへ歩いて来た二人は4階に住む同じアパートの住人だった。手を繋いで仲睦まじく鹿嶋くんの前まで来て、通り過ぎる時に二人してどちらからともなくペコっと頭を下げて行った。

キーキー軋む郵便受けを開けて閉め、階段を登って姿が見えなくなると、何かひそひそ話す声だけ響いてきた。クスクス笑いと。何を言ってるのかまでは聞き取れなかった。

「あの人の彼女さん最近見かけないね」とか言われてそうだなと思った。

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