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1108号室
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1108号室
コハクは働き出してもうすぐ半年が経つ。女子寮での集団生活にもすっかり慣れた。
枕と頭の間に右手を滑り込ませ、左手を伸ばして天井の小さな蜘蛛を指で追いかける。誰かが落書きした出口のない迷路の中を蜘蛛は描かれただけの壁を無視して縦横無尽に突き進む。
「ズルイなぁ」と呟きながらフフフと笑った。
頭のすぐ横で充電中だった携帯電話が振動しだし、起きる時間だと告げている。
あちこちのベッドから、ゴソゴソ起き出したり、今まさに夢見の真っ只中で寝返りを打ったりしている密やかな物音がする。
朝の5時。
深夜から始発電車が走り出すまで働いていた子達が仕事を終えて帰って来て、これから働き出す子達と入れ替わる時間帯。部屋の中央の炬燵台が二つ並べて置かれた開けた場所で、寮にたった3つしかないシャワーの順番をジャンケンして決めているらしい。声が聞こえてくる。
「ジャンケンポン、アイコデショッ、アイコデショ…あっ、今のはナシで。もう一回」
「えー狡い…」
「はい、ジャンケンポン…」
コハクはもう一度目を閉じ、狭いベッドの中で精一杯の伸びをした。深呼吸をすると今でも、何種類もの香料が混じり合った女子寮特有の香りを鼻の奥に感じる。ここに入りたての頃にはこれが頭痛の種だったのだけれど、今や懐かしい日常の香りだ。鼻が慣れてしまったのだ。
ベッドの周りをグルリと囲む薄っぺらいカーテンは、窓がある右側だけ白く光っている。生地が薄すぎて日射しを遮りきれない。手を伸ばし少しだけ隙間を開けて外を覗いてみると、シロツメグサが咲く窓の外の道を城から城下町へと帰って行く1人の男の人の踝から下が通り過ぎるのが見えた。
コハクが横たわっているのは、半地下の三段ベッドの一番上の段。カーテンで囲われたベッドの幅が自分だけの専有空間だ。
右側のカーテンを下ろし、今度は左側のカーテンを少しだけ開けて下を覗いてみる。
梯子の下の開けた場所では、炬燵台の上にメイクポーチを並べ、女の子達が犇めき合って自分や友達の顔にお化粧を施しているのが見下ろせた。欠伸をしながら歩き回ったり、着るものを探して裸でベッドの下を覗き込んだり、変な所に手を入れてボリボリ掻いたりしている起き抜けの女の子達もいる。頭はまだ寝ていて、先に起きた体だけがボーッとうろつき回っている。
そんな子達が仕事帰りの子達にぶつかり、叱られ、だんだん目を覚まして「ごめんごめん」と謝っている。
(今下に降りて行っても狭いだけだなぁ…)
コハクはもう一度カーテンを閉め、寝返りを打ってうつ伏せになり二度寝の体制を整えた。10分後にもう一度携帯が振動して起こしてくれることになっている。
半年前、無料の女子寮に住み込みを希望して入店した初日の事を思い出す。
「どこかベッドの空きはない?」
そう言いながら先導して女性スタッフが寮の中へ案内してくれた。
「貴重品は自己管理で。大事な物は常に持ち歩いてね。仕事に行く時も全部持って出て。無くなって良いもの以外置いて行かないで。寝る時も鞄を抱えて寝るつもりで。盗難の相談には一切対応できないから」
「はい」
部屋は端から端までが見通せないほど薄暗かった。天井まで四面の壁にずらりと三段ベッドが立ち並び、地震が来たらひとたまりもなくドミノ倒しが起きそうだ。カーテンに閉ざされたベッドや、一見誰も使ってなさそうな空に見えるベッド、カーテンの中でスタンドライトを点けた発光する繭のようなベッドや、布団の上にギュウギュウ四人が集まって端末を寄せ合いゲームしているベッドやらがあり、数え切れないベッドと女の子の数に圧倒された。
「いくつあるんですか?ベッドは」
「50」
面接官でもあった案内役のスタッフは手短に素早く答えてくれたが、それを聞いた女の子達が何やらブツブツ不服そうな声を上げていた。
「だからそんなに無いって…」と言う呟きがコハクの耳にも届いた。
後から分かった事だったが、三段ベッドは16あり、本当にはベッドは48人分しかない。その上、そのうちの二つは予備の寝具がギッチリ詰まった段ボールの保管場所にされ、塞がっているので、実質人が横になることができるのは46床だった。何故か何度スタッフに報告してもキチンと伝わることがないのだと言う。それで時々新入りの女の子が溢れてしまい、
「私のベッドで知らない子が寝てる!」
と騒ぎが持ち上がったり、梯子の真下の地べたに横たわって眠っている子をグニャリと踏んづけてしまったりした。
〝城”は24時間稼働していて、住み込みと言っても昼に寝る子や夜に寝る子がいるから、どこかしらのベッドは無人だし、いつの間にか煙のように消えていなくなっている子も大勢いるので、いつもどうにかなんとかはなってきたけれど。
寮で一番下っ端の頃は使うベッドも一番下で、まだ他の先輩達との距離感も上手く掴めず、しきたりも良く分かっていなくて、巻き込まれるトラブルも多かった。焦って早くみんなと仲良くなろうとし過ぎ、あちこちで飛び交う会話に参加させてもらおうと口を挟んでは、場を白けさせてしまったり。
逆に凄く馴れ馴れしい子に懐かれた時期には、自分のベッドのカーテンを閉ざしている間は暗黙の了解で1人の時間を満喫している時なのだと言うことがなかなか理解してもらえず、いきなり勝手にカーテンを開けて「ねぇねぇ」と入って来られ、気が休まる時がなくなってしまったりしていた。
後々、その子の狙いは窓だということが分かり、問題は解決した。寮は半地下にあるため、ベッドの一番上の段に寝ている人にしか窓がない。コハクを悩ませたこのピヨちゃんという子は、本人が(もう私達は充分親密になった)と思い込んだタイミングで、口をコハクの耳に近寄せて囁いてきたのだ。
「窓を使わせて欲しいの。脱出のために…私今夜逃げ出したいの。こんなところにはもういられない…!一刻も!貴女も一緒に来る?決行は今夜よ」
コハクは冗談かと思ってちょっとニヤニヤしかけたが、相手の深刻な表情が揺るがないのを見て今度は少しクラクラした。あの子は被害妄想だとか言われて仲間外れにされ可哀想だなと気に掛けたのが間違いだったのかもしれない。
「この窓内側からは開かないよ。ほら…」
そう言って窓枠に嵌め込まれたガラスの全貌をカーテンを全開にして見せてあげ、ベッドに招き入れて隅々まで点検させてあげることまでした。
「本当だ…!こんな事して…私達閉じ込められてるんだねっ…?!この地下牢に…!」
ドラマチックな子だなぁとピヨちゃんの劇的に見開いた目に魅入られながらコハクは囁き返した。
「辞めたいなら普通にスタッフさんにそう言えばいいよ。面接を受けに入ってきたドアから出ていけば良い。堂々と。何日か前に言っておけば別に誰も引き止めないと思うよ…」
コハクは全くの業界未経験からのスタートだったが、なんとか諦めず逃げ出さずにここまで登り詰めてきた。
リュックを背負って梯子を登り、一番下の段から二段目、三段目へと。
初めて1番上の段に上がってきた時は夜だったので、真っ暗で、窓の外がどうなっているのか何も見えなかったが、翌朝、眩しい日射しが差し込んでくる薄っぺらいカーテンを開けてみると、外は雪が降り積もる銀世界だった。
(窓の真横は冷気が来て寒いな…)と思いながらもずっと朝日にキラキラ光る踏まれていない雪を見ていた。
携帯電話が震えだし、コハクは二度目の浅い眠りから覚めた。今度はうつ伏せで伸びをする。起き上がってからでは天井につっかえて腕を上に上げる動作はできないからだ。もう体のどこかを壁やベッドフレームにぶつけて痣を作る事はなくなったけれど、もうすぐそんな事を心配する必要もなくなる。この寮を出ていくのだ。
「もうすぐ一つ上のランクの個室が空くかもしれないよ。次はコハクちゃんの順番だったね?希望してたよね?」
昨日の仕事終わりにノートを片手にしたスタッフに呼び出され、こっそり教えてもらった。
「個室を使ってた子が一人辞める事になったんだよ。コハクちゃんも長い事働いてくれてるしね」
早かったようでも長かったようでもあるが言われてみれば女子寮の中では自分はもう古株だった。三ヶ月続けば一人前、半年ももったらベテランと呼ばれる業界だ。
次に入る部屋には自分しか寝泊まりしない。両隣に先輩が2人いるだけだそうだ。お客さんもとる豪華な内装の自分だけの鍵付きの個室。カーテンで仕切る三段ベッドの一段とは大きな違いだ。
ずっと憧れだった。自分だけの部屋を持つのだ。
一番楽しみなのはお風呂。白い陶器のバスタブに虹色のバスボムを投下してコンビニで可愛いシャンパンと凍った苺を買ってきて長風呂を独占できる幸せに酔いしれよう…
携帯電話が5時15分を告げている。
(流石にもう起きないと…)
窓際に寄せて置いているリュックの中からブラを出し、身をくねらせてつける。梯子の下はまだ混んでいるので自分の空間で手早くお化粧し、昨日買っておいたメロンパンとコーヒー牛乳の朝食もベッドで済ませてしまった。
梯子を降りて行きながら下のみんなに声をかける。
「おはよう」
するとみんなが口々に挨拶を返してくれる。
「おはよう」
「おはようございます」
半年前には挨拶を返してくれる人はほとんどいなかった。すぐに辞めてしまう女の子が多いので、あまり早い段階から心を開いて仲良くなろうとしたり名前を覚えようとしたりするのが虚しいのだと後で知った。
最初のうちは(無視されてる、輪に入れてもらえない…)と悩み、(来たばっかりでまだなんにも悪いことなんてしてないのになぁ…こんなことでやっていけるのかなぁ)と落ち込んでいたけれど、一、二週間を過ぎたあたりから徐々に打ち解けて仲間として認めてもらえるようになっていった。
寮のお手洗いは混むので極力その日の仕事場まで行ってしまってからトイレに入る事にしていた。シャワーもその日割り振られた部屋で浴びる方が効率が良い。
廊下へ出ていく前にドアのところで振り返って目に焼き付けるように女子寮を眺め回した。右と左の壁際までは光が届かず相変わらず薄暗くてよく見えない。仮眠を取るための場所でしかない。あまり長く留まっている場所ではない。でもここにコハクは半年間住んでいたし、ここを気に入ってしまってもっと長い間住み続けているお姉さんもいる。
カエデさんという人で、寮で高熱を出し後輩や先輩達に変わりばんこに看病してもらったのがきっかけで、一人の部屋に移るのが怖くなってしまったらしい。もう5年以上も寮で生活し続けている。
「だってあの時は仕事から帰ってきて寝る時まではただ鼻がちょっとムズムズするなっていうくらいだったのよ。」
と彼女は言った。
「それが夜中に発火するんじゃないかってくらい暑くてビショビショに汗かいて冷えて。グルグル目が回って怖くてどうしようもなくなって。ベッドの淵を叩いて、カーテンを開けて揺らしながら、『誰か、お水をください』って言ったの。そしたら周り中の子達みんなが目を覚まして心配して起き出して見に来てくれて…
それから二日間起き上がれなかったけど、不安が全然なかった。しょっちゅう寮中の誰彼が仕事の行き帰りにカーテンをめくってちょこちょこと顔を見にきてくれて、ちょっとずつみんなでお水持ってきてくれたりお粥とかプリンとか買ってきてくれたり、気に掛けて親切に看病してくれて…」
別の人から既に彼女の話をもう聞いて知ってはいたが、これが本家なのだと思ってコハクは口を挟まずにうんうんと聞いていた。
カエデさんと隣合って炬燵に入り売店で買ってきたお弁当を食べていると、日本酒を飲んで少し酔っ払ったのか彼女がこちらへ熱く語りかけてきたのだ。
「特に誰が恩人というのじゃないのが良いの。それももちろんあるんだけど…
同期のユカちんという友達がいてその時は一番その子が親身になって良くしてくれたけどね…
でも結局は一人一人ここを出て行ってしまうし、もともとお金を貯めてこんなところ出て行ってやるぞっていうのがこの寮の本当の捉え方よね?だから誰の事も足引っ張って引き留められないんだけれど。
でもとにかくこの寮全体が私にとってはありがたい場所なんだなと思った。常に大勢の誰かがいつもそばで寝てるっていうのが。
外の世界はもう怖いわ…もう二度と一人暮らしなんてできない…どうしよう?歳をとってここを追い出された後は…」
泣き上戸なのかカエデさんはメソメソしだし、コハクはどうしようかと思ってヒヤヒヤしながら辺りを見回したが、ティッシュを取ってあげるとカエデさんはチンと鼻をかんで、それで少し落ち着いたようだった。
「ごめんね、暗く考えだすと止まらなくなるんだけど、私が言いたかったのは要するに、この寮って素晴らしいって事だけ。
どう?ここは好き?寮での生活は慣れた?今日で何日目位になるんだっけ?」
「12月13日に入って、今日でちょうど一ヶ月くらいです」
「そう。ここにいるうちに集団生活にいっぱい甘えてね。」
「はい」
コハクはお弁当を食べ終わってぼんやりとまだ座っていた。自分の話をするのは苦手だったが、まだ眠くなかったし、カエデさんはまだ話し足りないみたいだったので、聞いてみた。
「でも不便に思った事は無いんですか?毎朝トイレが渋滞したり持ち物が盗られないかといつも気を張って見てないといけなかったり。
何をするか分からない子だっているじゃないですか?出入りも激しいし…」
「不便には慣れられる。それよりも怖いものがあるの。孤独死とか、一人なのがとにかくダメみたい。私は」
カエデさんはまだ30歳くらいだったが今からもう一番怖い言葉は「孤独死」だとずっと首を振りながら言っていた。
「死ぬ時に一人ぼっちというのが怖いんじゃない。そうじゃなくて、ぽつんと家で一人でいる時に、考えだすの。ああ私は死ぬまでずっとこのままかもしれない…って考えだして際限がなくなる。その凄く孤独な長い時間が生きてる間を埋め尽くす、そういうのが怖いの」
「考え過ぎですよ。あまり考えないようにしたら良いんじゃないですか?何かするとか、外へ出掛けるとか…」
コハクはそう言ってみたが、そんな事はカエデさんは千回も言われた事がありそうだなとその横顔を見ていて感じた。
「ここにいる間はここを楽しまないと損よ。私が言いたかったのはそれだけ。一度出たらもう戻りたくないと思うのが正しいのかもしれないけど、でも心の中でだけでも振り返ってみれば懐かしく思い出したりするものよ。
ちょっと物が無くなる事もあるけれど、受け取った形のない気遣いや親切や繋いでは解けてまた繋ぐことができる綺麗な心の通い合いが必ず思い出せるはず。この寮にはそういうのがあるんだから」
(そうかなぁ、振り返れば懐かしい思い出になるのかなぁ)
と予感しながらこの頃は毎日寮を出て行く。
「今日からはこっちで寝泊まりしてね」と空いた個室に案内される、その時は急だろうと、なんとなくコハクには分かっている。そうなったらもう二度とここには戻って来ない。
あの天井の落書きを眺めながら寝る事も二度となければ、次にあのベッドで誰が寝るのかも想像するしかないのだ…
廊下に出て歩きだしながら携帯電話で今日の自分に割り振られた仕事部屋を確認する。1108号室。
コハクは歩きながら鞄から携帯用香水瓶を取り出し薔薇の香りを自分に纏わせた。
(頭を切り替えて今はこれからの仕事のことを考えなくちゃ)と思った。
おしまい!
コハクは働き出してもうすぐ半年が経つ。女子寮での集団生活にもすっかり慣れた。
枕と頭の間に右手を滑り込ませ、左手を伸ばして天井の小さな蜘蛛を指で追いかける。誰かが落書きした出口のない迷路の中を蜘蛛は描かれただけの壁を無視して縦横無尽に突き進む。
「ズルイなぁ」と呟きながらフフフと笑った。
頭のすぐ横で充電中だった携帯電話が振動しだし、起きる時間だと告げている。
あちこちのベッドから、ゴソゴソ起き出したり、今まさに夢見の真っ只中で寝返りを打ったりしている密やかな物音がする。
朝の5時。
深夜から始発電車が走り出すまで働いていた子達が仕事を終えて帰って来て、これから働き出す子達と入れ替わる時間帯。部屋の中央の炬燵台が二つ並べて置かれた開けた場所で、寮にたった3つしかないシャワーの順番をジャンケンして決めているらしい。声が聞こえてくる。
「ジャンケンポン、アイコデショッ、アイコデショ…あっ、今のはナシで。もう一回」
「えー狡い…」
「はい、ジャンケンポン…」
コハクはもう一度目を閉じ、狭いベッドの中で精一杯の伸びをした。深呼吸をすると今でも、何種類もの香料が混じり合った女子寮特有の香りを鼻の奥に感じる。ここに入りたての頃にはこれが頭痛の種だったのだけれど、今や懐かしい日常の香りだ。鼻が慣れてしまったのだ。
ベッドの周りをグルリと囲む薄っぺらいカーテンは、窓がある右側だけ白く光っている。生地が薄すぎて日射しを遮りきれない。手を伸ばし少しだけ隙間を開けて外を覗いてみると、シロツメグサが咲く窓の外の道を城から城下町へと帰って行く1人の男の人の踝から下が通り過ぎるのが見えた。
コハクが横たわっているのは、半地下の三段ベッドの一番上の段。カーテンで囲われたベッドの幅が自分だけの専有空間だ。
右側のカーテンを下ろし、今度は左側のカーテンを少しだけ開けて下を覗いてみる。
梯子の下の開けた場所では、炬燵台の上にメイクポーチを並べ、女の子達が犇めき合って自分や友達の顔にお化粧を施しているのが見下ろせた。欠伸をしながら歩き回ったり、着るものを探して裸でベッドの下を覗き込んだり、変な所に手を入れてボリボリ掻いたりしている起き抜けの女の子達もいる。頭はまだ寝ていて、先に起きた体だけがボーッとうろつき回っている。
そんな子達が仕事帰りの子達にぶつかり、叱られ、だんだん目を覚まして「ごめんごめん」と謝っている。
(今下に降りて行っても狭いだけだなぁ…)
コハクはもう一度カーテンを閉め、寝返りを打ってうつ伏せになり二度寝の体制を整えた。10分後にもう一度携帯が振動して起こしてくれることになっている。
半年前、無料の女子寮に住み込みを希望して入店した初日の事を思い出す。
「どこかベッドの空きはない?」
そう言いながら先導して女性スタッフが寮の中へ案内してくれた。
「貴重品は自己管理で。大事な物は常に持ち歩いてね。仕事に行く時も全部持って出て。無くなって良いもの以外置いて行かないで。寝る時も鞄を抱えて寝るつもりで。盗難の相談には一切対応できないから」
「はい」
部屋は端から端までが見通せないほど薄暗かった。天井まで四面の壁にずらりと三段ベッドが立ち並び、地震が来たらひとたまりもなくドミノ倒しが起きそうだ。カーテンに閉ざされたベッドや、一見誰も使ってなさそうな空に見えるベッド、カーテンの中でスタンドライトを点けた発光する繭のようなベッドや、布団の上にギュウギュウ四人が集まって端末を寄せ合いゲームしているベッドやらがあり、数え切れないベッドと女の子の数に圧倒された。
「いくつあるんですか?ベッドは」
「50」
面接官でもあった案内役のスタッフは手短に素早く答えてくれたが、それを聞いた女の子達が何やらブツブツ不服そうな声を上げていた。
「だからそんなに無いって…」と言う呟きがコハクの耳にも届いた。
後から分かった事だったが、三段ベッドは16あり、本当にはベッドは48人分しかない。その上、そのうちの二つは予備の寝具がギッチリ詰まった段ボールの保管場所にされ、塞がっているので、実質人が横になることができるのは46床だった。何故か何度スタッフに報告してもキチンと伝わることがないのだと言う。それで時々新入りの女の子が溢れてしまい、
「私のベッドで知らない子が寝てる!」
と騒ぎが持ち上がったり、梯子の真下の地べたに横たわって眠っている子をグニャリと踏んづけてしまったりした。
〝城”は24時間稼働していて、住み込みと言っても昼に寝る子や夜に寝る子がいるから、どこかしらのベッドは無人だし、いつの間にか煙のように消えていなくなっている子も大勢いるので、いつもどうにかなんとかはなってきたけれど。
寮で一番下っ端の頃は使うベッドも一番下で、まだ他の先輩達との距離感も上手く掴めず、しきたりも良く分かっていなくて、巻き込まれるトラブルも多かった。焦って早くみんなと仲良くなろうとし過ぎ、あちこちで飛び交う会話に参加させてもらおうと口を挟んでは、場を白けさせてしまったり。
逆に凄く馴れ馴れしい子に懐かれた時期には、自分のベッドのカーテンを閉ざしている間は暗黙の了解で1人の時間を満喫している時なのだと言うことがなかなか理解してもらえず、いきなり勝手にカーテンを開けて「ねぇねぇ」と入って来られ、気が休まる時がなくなってしまったりしていた。
後々、その子の狙いは窓だということが分かり、問題は解決した。寮は半地下にあるため、ベッドの一番上の段に寝ている人にしか窓がない。コハクを悩ませたこのピヨちゃんという子は、本人が(もう私達は充分親密になった)と思い込んだタイミングで、口をコハクの耳に近寄せて囁いてきたのだ。
「窓を使わせて欲しいの。脱出のために…私今夜逃げ出したいの。こんなところにはもういられない…!一刻も!貴女も一緒に来る?決行は今夜よ」
コハクは冗談かと思ってちょっとニヤニヤしかけたが、相手の深刻な表情が揺るがないのを見て今度は少しクラクラした。あの子は被害妄想だとか言われて仲間外れにされ可哀想だなと気に掛けたのが間違いだったのかもしれない。
「この窓内側からは開かないよ。ほら…」
そう言って窓枠に嵌め込まれたガラスの全貌をカーテンを全開にして見せてあげ、ベッドに招き入れて隅々まで点検させてあげることまでした。
「本当だ…!こんな事して…私達閉じ込められてるんだねっ…?!この地下牢に…!」
ドラマチックな子だなぁとピヨちゃんの劇的に見開いた目に魅入られながらコハクは囁き返した。
「辞めたいなら普通にスタッフさんにそう言えばいいよ。面接を受けに入ってきたドアから出ていけば良い。堂々と。何日か前に言っておけば別に誰も引き止めないと思うよ…」
コハクは全くの業界未経験からのスタートだったが、なんとか諦めず逃げ出さずにここまで登り詰めてきた。
リュックを背負って梯子を登り、一番下の段から二段目、三段目へと。
初めて1番上の段に上がってきた時は夜だったので、真っ暗で、窓の外がどうなっているのか何も見えなかったが、翌朝、眩しい日射しが差し込んでくる薄っぺらいカーテンを開けてみると、外は雪が降り積もる銀世界だった。
(窓の真横は冷気が来て寒いな…)と思いながらもずっと朝日にキラキラ光る踏まれていない雪を見ていた。
携帯電話が震えだし、コハクは二度目の浅い眠りから覚めた。今度はうつ伏せで伸びをする。起き上がってからでは天井につっかえて腕を上に上げる動作はできないからだ。もう体のどこかを壁やベッドフレームにぶつけて痣を作る事はなくなったけれど、もうすぐそんな事を心配する必要もなくなる。この寮を出ていくのだ。
「もうすぐ一つ上のランクの個室が空くかもしれないよ。次はコハクちゃんの順番だったね?希望してたよね?」
昨日の仕事終わりにノートを片手にしたスタッフに呼び出され、こっそり教えてもらった。
「個室を使ってた子が一人辞める事になったんだよ。コハクちゃんも長い事働いてくれてるしね」
早かったようでも長かったようでもあるが言われてみれば女子寮の中では自分はもう古株だった。三ヶ月続けば一人前、半年ももったらベテランと呼ばれる業界だ。
次に入る部屋には自分しか寝泊まりしない。両隣に先輩が2人いるだけだそうだ。お客さんもとる豪華な内装の自分だけの鍵付きの個室。カーテンで仕切る三段ベッドの一段とは大きな違いだ。
ずっと憧れだった。自分だけの部屋を持つのだ。
一番楽しみなのはお風呂。白い陶器のバスタブに虹色のバスボムを投下してコンビニで可愛いシャンパンと凍った苺を買ってきて長風呂を独占できる幸せに酔いしれよう…
携帯電話が5時15分を告げている。
(流石にもう起きないと…)
窓際に寄せて置いているリュックの中からブラを出し、身をくねらせてつける。梯子の下はまだ混んでいるので自分の空間で手早くお化粧し、昨日買っておいたメロンパンとコーヒー牛乳の朝食もベッドで済ませてしまった。
梯子を降りて行きながら下のみんなに声をかける。
「おはよう」
するとみんなが口々に挨拶を返してくれる。
「おはよう」
「おはようございます」
半年前には挨拶を返してくれる人はほとんどいなかった。すぐに辞めてしまう女の子が多いので、あまり早い段階から心を開いて仲良くなろうとしたり名前を覚えようとしたりするのが虚しいのだと後で知った。
最初のうちは(無視されてる、輪に入れてもらえない…)と悩み、(来たばっかりでまだなんにも悪いことなんてしてないのになぁ…こんなことでやっていけるのかなぁ)と落ち込んでいたけれど、一、二週間を過ぎたあたりから徐々に打ち解けて仲間として認めてもらえるようになっていった。
寮のお手洗いは混むので極力その日の仕事場まで行ってしまってからトイレに入る事にしていた。シャワーもその日割り振られた部屋で浴びる方が効率が良い。
廊下へ出ていく前にドアのところで振り返って目に焼き付けるように女子寮を眺め回した。右と左の壁際までは光が届かず相変わらず薄暗くてよく見えない。仮眠を取るための場所でしかない。あまり長く留まっている場所ではない。でもここにコハクは半年間住んでいたし、ここを気に入ってしまってもっと長い間住み続けているお姉さんもいる。
カエデさんという人で、寮で高熱を出し後輩や先輩達に変わりばんこに看病してもらったのがきっかけで、一人の部屋に移るのが怖くなってしまったらしい。もう5年以上も寮で生活し続けている。
「だってあの時は仕事から帰ってきて寝る時まではただ鼻がちょっとムズムズするなっていうくらいだったのよ。」
と彼女は言った。
「それが夜中に発火するんじゃないかってくらい暑くてビショビショに汗かいて冷えて。グルグル目が回って怖くてどうしようもなくなって。ベッドの淵を叩いて、カーテンを開けて揺らしながら、『誰か、お水をください』って言ったの。そしたら周り中の子達みんなが目を覚まして心配して起き出して見に来てくれて…
それから二日間起き上がれなかったけど、不安が全然なかった。しょっちゅう寮中の誰彼が仕事の行き帰りにカーテンをめくってちょこちょこと顔を見にきてくれて、ちょっとずつみんなでお水持ってきてくれたりお粥とかプリンとか買ってきてくれたり、気に掛けて親切に看病してくれて…」
別の人から既に彼女の話をもう聞いて知ってはいたが、これが本家なのだと思ってコハクは口を挟まずにうんうんと聞いていた。
カエデさんと隣合って炬燵に入り売店で買ってきたお弁当を食べていると、日本酒を飲んで少し酔っ払ったのか彼女がこちらへ熱く語りかけてきたのだ。
「特に誰が恩人というのじゃないのが良いの。それももちろんあるんだけど…
同期のユカちんという友達がいてその時は一番その子が親身になって良くしてくれたけどね…
でも結局は一人一人ここを出て行ってしまうし、もともとお金を貯めてこんなところ出て行ってやるぞっていうのがこの寮の本当の捉え方よね?だから誰の事も足引っ張って引き留められないんだけれど。
でもとにかくこの寮全体が私にとってはありがたい場所なんだなと思った。常に大勢の誰かがいつもそばで寝てるっていうのが。
外の世界はもう怖いわ…もう二度と一人暮らしなんてできない…どうしよう?歳をとってここを追い出された後は…」
泣き上戸なのかカエデさんはメソメソしだし、コハクはどうしようかと思ってヒヤヒヤしながら辺りを見回したが、ティッシュを取ってあげるとカエデさんはチンと鼻をかんで、それで少し落ち着いたようだった。
「ごめんね、暗く考えだすと止まらなくなるんだけど、私が言いたかったのは要するに、この寮って素晴らしいって事だけ。
どう?ここは好き?寮での生活は慣れた?今日で何日目位になるんだっけ?」
「12月13日に入って、今日でちょうど一ヶ月くらいです」
「そう。ここにいるうちに集団生活にいっぱい甘えてね。」
「はい」
コハクはお弁当を食べ終わってぼんやりとまだ座っていた。自分の話をするのは苦手だったが、まだ眠くなかったし、カエデさんはまだ話し足りないみたいだったので、聞いてみた。
「でも不便に思った事は無いんですか?毎朝トイレが渋滞したり持ち物が盗られないかといつも気を張って見てないといけなかったり。
何をするか分からない子だっているじゃないですか?出入りも激しいし…」
「不便には慣れられる。それよりも怖いものがあるの。孤独死とか、一人なのがとにかくダメみたい。私は」
カエデさんはまだ30歳くらいだったが今からもう一番怖い言葉は「孤独死」だとずっと首を振りながら言っていた。
「死ぬ時に一人ぼっちというのが怖いんじゃない。そうじゃなくて、ぽつんと家で一人でいる時に、考えだすの。ああ私は死ぬまでずっとこのままかもしれない…って考えだして際限がなくなる。その凄く孤独な長い時間が生きてる間を埋め尽くす、そういうのが怖いの」
「考え過ぎですよ。あまり考えないようにしたら良いんじゃないですか?何かするとか、外へ出掛けるとか…」
コハクはそう言ってみたが、そんな事はカエデさんは千回も言われた事がありそうだなとその横顔を見ていて感じた。
「ここにいる間はここを楽しまないと損よ。私が言いたかったのはそれだけ。一度出たらもう戻りたくないと思うのが正しいのかもしれないけど、でも心の中でだけでも振り返ってみれば懐かしく思い出したりするものよ。
ちょっと物が無くなる事もあるけれど、受け取った形のない気遣いや親切や繋いでは解けてまた繋ぐことができる綺麗な心の通い合いが必ず思い出せるはず。この寮にはそういうのがあるんだから」
(そうかなぁ、振り返れば懐かしい思い出になるのかなぁ)
と予感しながらこの頃は毎日寮を出て行く。
「今日からはこっちで寝泊まりしてね」と空いた個室に案内される、その時は急だろうと、なんとなくコハクには分かっている。そうなったらもう二度とここには戻って来ない。
あの天井の落書きを眺めながら寝る事も二度となければ、次にあのベッドで誰が寝るのかも想像するしかないのだ…
廊下に出て歩きだしながら携帯電話で今日の自分に割り振られた仕事部屋を確認する。1108号室。
コハクは歩きながら鞄から携帯用香水瓶を取り出し薔薇の香りを自分に纏わせた。
(頭を切り替えて今はこれからの仕事のことを考えなくちゃ)と思った。
おしまい!
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