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みぃ

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608号室

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608
 浴槽の底に横たわり虚な目で天を眺めている全裸の少女。額に張り付く濡れたショートヘアを拭う不自然な腕の動きは、両手を縛られているせいだ。



「その命、捨てるならわしに寄越せ」

と拾われた雨の夜はもう何年も前のことだった。彼女の胸がまだ真っ平らな子どもの頃のことだ。



 その相手が彼女をこんな風に縛り上げたのだ。いつもの事だった。痛みと屈辱を伴う激しい性交も天を衝く高まりも既にマンネリの域だった。



(なぜまだ生きているんだろう)と彼女は自分が不思議だった。

 青空にはさっき男が撃ち落として殺した鳶の番が虚しく相手を探し鳴き喚きながら舞っていた。



 隣かその隣の部屋のどこかから、男が唸るような低い声で何か言っているが、聞き取れず、口に咬まされている猿轡を外してまで返事をする気にもなれない。声と足音とが近づいてき、大きな影がさし、男が目の前にぬっと覆い被さるように現れた。顔を直視するのも嫌な憎い大男だ。乱暴に少女の口から猿轡を外し、

「いつまで寝てる?」

と地鳴りのような声を発した。

黙っていると、ふっと眉を潜め、

「どこか痛むのか?」

と柄にもなく気遣わしげな声になって聞いてきた。気色悪い。私の体のあちこちに痣をつけたのはお前だ、と思ったが口には出さない。骨が折れたかとか内臓が潰れたのかとかいう次元の話をこの男はしているのだと分かっていた。

「おい」

男が浴槽の縁をどすんと揺さぶり、揺れるはずのない広い浴槽が揺れ、苛立ちを募らせているのが伝わってきた。

「何とか言いやがれ」

「別にどこも」

男は黙って睨み付け、フン、と荒い鼻息を吐き、ユラリと立ち上がって高みから見下ろし言い放った。

「なら、とっとと仕事にかかれ。618号室の野郎をヤってこい」

 男の見下ろす浴槽の底、泡と抜けていく残り湯の中で、身をくねらせ、慣れた手順できつい拘束から両腕を自分で抜き取ると、少女は男の目と目を見交わせたままちょっと伸びをした。黙って横を通り、滴を滴らせながら浴室を出て、自分の住処にしている穴蔵の奥の暗闇へと引っ込んだ。





 2人が暮らしているのは巨大な城の天辺だった。ここは男の牙城だ。この城では100人を超える女性達が身を売って生計を立てている。



 普段男は人に姿を見せない。限られた少数の者達と特別な1人の少女を除いては、彼は伝説でしかなかった。竜やペガサスに並ぶ架空の存在だ。誰もがこの城の主人を知ってはいたが、誰も、まさか言い伝えのような伝説の人物が生きて自分たちの頭上を現実に今この瞬間も歩き回り、実在しているとは夢夢思ってもいないだろう。

 彼女達は各々、与えられた自分達の部屋で暮らしたり働いたり、入れ替わり立ち替わり通いの者達は出勤したり退勤したりして、それぞれの仕事に勤しんでいた。



 今暗闇で身支度を整えている、まだ名前さえ与えられていない唯一無二の少女にだけ、男は特別な使命を与えていた。それは、自分と交わる事の他に、客の中から1人ずつ、彼の気に触る人間を屠る作業だった。





 少女は何が気に病むのか自分でもハッキリとは理解できなかったが、今日はいつになく投げやりな苛立たしさが胸に蟠っていた。目蓋の裏に何度も甦るのは、ついさっき、男が鳶を撃ち落とした瞬間の光景だった。



「あの子はトリちゃんだった…」

声に出しブツブツ呟いていた。

「あれはトリちゃんだった…」

2週間前、翼の怪我の癒えたその同じ鳥を右腕から空へ羽ばたかせ、大声で高らかに笑っていた男の横顔。あのときは優しげな目尻の下がった笑顔だったのを思い出し、

(この男に自分は惚れてるのかな…)と揺れかけた、己の柔い気持ちも、男と共々憎憎しかった。



 トリちゃんは半年ほど前の凍て付くような寒い風の強い早朝に、ガラスの窓にぶつかって来た。翼に怪我をし、すぐにも死にそうに見えながら、威嚇し続け、人を近寄らせまいと折れた翼をバサバサ振って血を飛ばしながら不穏な鳴き声を上げ、パン屑も水も口に入れようとしなかった。

男が窓からゴミを投げ捨てるように捨ててしまわなかったばかりか、自ら寝床を用意してやり、誰も怖がり汚がって近寄りたがらないのを、突き回されて悪態を吐きながらもとっ捕まえて小脇に挟み、嘴をこじ開けて餌を与えるのを、信じられない思いで眺めてきた。男のあの表情は、人を高みから見下ろし使い物になるかどうか見定めてやろうというような嫌味な装いの影に隠して、慈悲の心が宿っているように見えた。

 あの夜、自分を冷たい雨の中から救ってくれた時に見たのと同じ顔をしていた。



 しかし…

あの男は何を考えているか分からない。もうそろそろ分かってきたぞと思っていたら不意をついて裏切られる。その思考回路は複雑なのか、単純な気紛れなのか。全く読めない。

 いずれ私のことも殺すつもりなのだ、そうとしか思えない。

 あれだけ自分で手を焼き面倒を見、介抱してやった野鳥を、懐いたからという理由で撃ち落とすとは。



 ドンという銃声に驚いて自分の穴蔵から這い出し、男の構えるライフルの先に、空から滑り落ちていくトリちゃんの姿を見つけ、慌て、取り乱し、別の鳶と間違えて撃ち殺してしまったに違いないと早合点して、

「拾ってくる」

と駆け出そうとする彼女の腕を掴み、

「あれはゴミだ」と男は言い放ったのだ。

「人に懐かんところがあれの良さだった。また餌が貰えるとでも思ったか、こちらに向かって飛んで来やがった。だから撃ち落とした。拾う手間は無い」



 このままではいずれあの男とは殺し合いになるか、いや、むしろ、ただ黙って殺されてやるか。

…分からないが、そのどちらかになるだろう。所詮一度くれてやった命だ。今更取り返して何になる…



 少女は頭の中でブツブツ独り言を唱えながら身支度を整え、暗闇を自分だけが知るルートで這いずって先へ進み始めた。

 屋根裏の、外の明かりが筋状に差し込む薄明るい広い空間に出ると、埃の舞う梁の上を忍者のように音も無く素早く駆け抜けた。また狭い隠し通路に飛び込み、指定された部屋の側の忍び隠しから、外に誰もいないのを窺ってから、奥まった窪みへソロリと出、角を曲がって表の廊下に姿を現した。

「608号室で良かったんだったっけ」

と小さく声に出して誰にともなく聞いてみたが、答える者などいない。

「まぁ良いわ」

間違った人間を1人2人殺したところで、今日はどうでも良い気分だった。



 ドアを軽く2度ノックする。

「はい、どうぞ」

と中からかしこまった応対があった。面接官と学生のような一瞬のドア越しの1コマの刹那、

(ドアを開けたらすぐ、ヤろう)

と胸の中で決めている。

 いつも、殺しの手順は決まっていなかった。常に相手の隙を窺い(今だ)と確信が閃いた瞬間、を捉えていた。

 それは行為の真っ最中であることも、プレイに見せかけ縛り上げておいてから落ち着いてゆっくりと、という場合もあった。一連の行為が終わってから、客の気が緩んだ隙を突いてのこともあった。



 使う凶器にも拘りがなく、バラバラだった。

今日はナイフを握り締めて来た。



 部屋に踏み込むと、白髪と黒い毛の半々に入り混じったグレーの頭が、椅子の背の上でこちらに振り向くところだった。椅子が邪魔だ、と咄嗟に判断した。まだだ、待て待て…

「ん?あれ?」

立ち上がり椅子を回ってこちらの正面に立った老紳士は、きちんとした身なりの、何処かの重役みたいな雰囲気のある男で、警戒したような目でジッとこちらを見つめた。いきなり相手に警戒されているような、こんな状況は、あまり今までに無かった。



『怖がらないで、可愛いなぁ』

とか

『緊張してる?大丈夫だよ』

などと、いつもなら心配される側だった。体が小さくつぶらな瞳の少女は、警戒心を抱かれる事などほとんど無い。



ジワリと背筋に嫌な汗が浮いた。

「部屋を間違えたのかな?お嬢さん」

別の正しい女の子が後から入ってくるのを期待してか、少女が後ろ手に閉めたドアと彼女を見比べながら、老人が言った。

「僕は顔馴染みの女の子をお願いしたんだけれど。ミズキさんっていう…」

(手違いか…)

焦りで、背後に隠したナイフを握る手にまで汗をかき始めた。どうする?どうする?こいつをヤるか、誤魔化して部屋を出るかだ。二つに一つ。間違った部屋に入ってしまったのかなどということは、今考えても仕方のない話だ。二択だ。死なないでいいかも知れない人を殺して部屋を出るか、死ぬべき人間を放置して自分が殺されるか。



…殺されるのだろうか…?

しくじった前例がないためどんな処罰を受けるか少女には想像が付かなかった。

「まぁ、ケーキは3つ買ってある…」

老人が優しく落ち着いた声音になって、目尻に皺を浮かべ、笑顔で手招きし始めた。

「こっちにおいで。せっかくだからケーキの一つでも食べて行きなさい。何か手違いがあったんだろう。ちょっと、もう一度、受付に電話をかけてみるよ。ミズキさんが来るまでの間だけ、ここに座って話し相手をしてくれればちゃんと時間分の手当を払うから…」

ゆっくり老人がこちらに向かって歩いてきた。

ダメだ、汗で手が滑る。ここは一旦保留だ…

 ナイフの刃を畳み、肩に交差させて背中に吊った隠し道具入れに、いつでもまたすぐに取り出せるように仕舞った。

呼吸を整え、素早く落ち着きを取り戻す。

 これまでもそうしてきた。機を見るんだ。焦らず、最善の瞬間が訪れるのをじっくり待てばいい、いずれその時が来る。

「…ふうん、長く通ってると珍しい経験をさせてもらえるもんだねぇ…」

老人は興味が湧いて来たような目で改めて少女を眺め回し始めた。まだ喋り続けてもいた。

「…いや、きみが魅力的じゃないからチェンジしようと言うんじゃなくて。もうずっと私はミズキさんに一筋でお願いしてるもんでね、すまんけど。この年になるともう次から次に色んな女の子と1から仲良くなろうなんて気が起きなくて、そういうのがなんだか、こう、もう億劫になってしまってね…

でも迷い込んできたお嬢さんは可愛い人だなぁ、ねぇ。きみ、

…それで、お名前は?」



 名前など無かった。

ヒヤリとした。

2度と再び生きて会う事はない相手ばかりをこれまで相手にしてきた。他の女の子達のように常連とか顔馴染みとかになる事などない。名前を覚えてもらって再び会う、指名制度などと言うものは、これまで自分とは無縁だった。いつも

「初めまして」

そして、そこで相手の寿命が尽きる。死神に名など要らなかった。今の今まで。



「ミ…ミサキです」

と咄嗟に口から出任せを言いながら、ミズキとソックリだなぁと内心、自分に呆れて舌打ちをした。

「ほほお!」

と老人が大きな感嘆の声をあげ、思わず肩がビクッとなった。

「聴き間違えたんだ!なるほど、そうかそうか。よく似ているから。名前が。受付の人には聞き取り辛かったんだろう」

謎が解けたと思ったせいかじぃさまは機嫌良さそうになり、急に距離を詰めて近寄って来て、新生ミサキの肩に手をかけ、椅子の向こうにもう一つある別の椅子にミサキを誘導した。

椅子と椅子の間にはガラステーブルが、その上にはケーキの箱と思しき可愛い花模様の大きな箱と白い取り皿、ピンクゴールドのケーキ用ナイフとフォークが2組並んでいた。

「さ、1つ、1番好きなのを選んで取って良いよ」

とおじいさんはケーキの箱をミサキの方へ向けて少し押した。

「今日は特別だ。これはいつもミズキさんと2人で一つずつ食べて、その後、もう一つは置いて帰るんだ。後でミズキさんのお腹が空いた時のために。それか、家で食べてもらったらと思ってね。ミズキさんは長い時間よく頑張って働いてるからなぁ…」

紳士の目が細く遠くなり、表情に心配そうな影がさした。

「…ちょっと痩せすぎだしなぁ…今時の若い人達はみんなそうだね、きみも。…もう少し太った方が健康的だと思うんだがねぇ…」

(ミズキさん愛されてるなぁ。どんな人なんだろう…このおじいさんもいい人そうだな…)

と思いながら、勧められるままケーキの箱をソロっと開けた。見事な小山のようなモンブラン、凄い背の高い苺のショートケーキ、それから何ていう名称なのか分からない魅惑的な、蜂の飾りのついた黄金色の艶艶キラキラした光沢のある真ん丸なケーキが入っていた。どれも拘りの詰まっていそうな、ほっぺがトロけて落ちそうな、甲乙付け難い素晴らしいお菓子、最上級の儚い芸術作品だ。三択なのに。全然選べない。



 やっとの思いで、迷い始めた最初は(1番珍しそうな蜂の飾りのやつだけはやめておこう)と胸に誓って遠慮していたのに、結局、蜂のやつに決めた。

慎重に皿に取り出し、ひと口、プラスチックのフォークで大きなひと掬いを口に入れるところまで、ニコニコとミサキを見守っていた老紳士が、

「ちょっと、電話をかけてくるね」

そう言って席を立ち、どこへ行ったのか、その次にドアを開けて入ってきたのは女の人だった。

「あっ…」

その綺麗な人はミサキを見て立ち竦んだ。サッと素早い動きで外に消え、

「あれ、ここ608ですよね…」

と言いながら再び入って来た。

 覗き穴や物影から城で働く女の子達を見る事はあっても、話しかけられることはこれまでに無かったミサキは咄嗟に何とも答えられなかった。相手の女の子がジッと食べかけられたケーキに視線を注いでいることに気が付くと、盗みの現行犯を見つかったみたいに尚更、気まずくて喉が詰まった。



 おじいさんがすぐ戻って来てくれて助かった。

ミズキさんはとろけるような微笑みを浮かべ、介護するみたいに老紳士と手を取り合って、こちらを紹介するように差し出された老人の手と、その先のミサキにも優しく説明を求める表情になり、2人で部屋に入って来た。

「こちら、ミサキさん…」

会釈され、慌てて立ち上がってお辞儀を返した。

「…ミズキさんと名前が似てるから間違えてここへ派遣されてきたみたいなんだ」

「あ、そうでしたか…なんだぁ、ビックリしちゃったぁ…

 呼び出されて、もう別の女の子が好きになっちゃった、とかって紹介されるのかなと思っちゃいましたよ」

笑い出したミズキさんは可愛らしかった。真顔で立ち尽くしていたときには怒ったような硬く閉ざした口元と目が意地悪にもなりそうな年上のお姉さんに見えたが、顔が綻ぶと赤ちゃんが笑ったような幼さで、時々チラリとこちらに向ける視線や会話の流れにも嫌味がなく、むしろ仲間意識のような暖かい温度が感じられた。

「きみは予定の時間通りに来ることが無いんだから…」 

と怒る気もなさそうな諦め切った優しい口調で老人がミズキさんの肩をポンポンと叩いた。



 2人は同じ一つの椅子にギュウ詰めに座ったり、おじいさんの膝の上にチョンとミズキさんが座ったりしていた。立ち上がって

「自分は床で良いです、全然、全然、床が好きなくらい…」

と遠慮するミサキを奥の椅子に押し留め、かえって楽しそうに一つの椅子にどうやって2人で収まるかのゲームをして遊んでいるようだった。

 袖の長い極薄い水色のトンボの翅のようなレースのガウンをふんわりたなびかせて纏い、その下に何もつけていないらしいミズキさんのピンと尖った胸の先をあまり見ないようにしなければと思うほど目がそちらに吸い寄せられていってしまう。彼女は品があって天女のようだった。まるで天国へ向かうおじいさんと天使みたいだ。



 2人がやっぱり椅子をもう一つどこかから持って来ようと探し始めた頃、ジワジワと落ち着きを取り戻してみると、もはやこれは取り返しのつかない事態になっているではないかとようやく気が付いて、殺し屋は、逆に開き直ってしまった。

 この部屋から死んで出ていく人間は今日のところはいないだろう。女の子を殺せなどとは一言も聞いてはいない。このおじいさんにしても老衰で死ぬべき人物だろう。多分。間違った男とその巻き添えに女の子まで殺すわけにはいかない。

 ここから出た後、自分がどうなるかは知らないが。なるようになるしかない。





 2人は面白がって、早く2人きりになりたいなどとは思い付きもしないように〝ミサキ″を帰したがらず、180分間のコースの時間中ずっと部屋に殺人鬼を引き留めていた。

 老紳士の帰り際には、ミズキさんと2人で部屋のドアの前に立って見送り、手を振りながら、

「また組んで仕事しよう、ミサちゃん」

と耳に甘く囁かれた。



 後から思い返してみても不思議なひと幕だった。指令を受けて入った部屋から命を奪わず出てきたのは初めての事だった。



 その後何日も、平穏な心を維持しつつ、いつ鉄槌が下されるか、今日か明日か、と待つ体勢で過ごしたが、何事も起こらずむしろ退屈な日々が過ぎ去った。

もともと数ヶ月に一度ほどの頻度でしか殺しの仕事は来なかった。男から呼び出され、太い腕に抱かれながら、さぁいつ締めかかって来るかと覚悟を決め、やるなら早くやってよ、と無精髭の生えたガッチリした顎を見上げる。それが複数回に及び、無事毎度何事もなくいつも通り拘束あり抑制の効いた暴力ありの、一戦を終え、自分の穴蔵に戻って来ると、なんだか気が抜けていった。



罰など何も受けないまま、次の任務が来た。





指定の部屋の扉をノックすると、

「はい、どうぞ」

と内側からドアが中に開き、ああ、そうか、と少女は得心した。こんな事だろうと薄々分かっていた。

「またきみに逢いたくてね…」

と言いかける老人の笑顔を見ないようにして、その温かい胸の中に、刃先を自分の鼓動に向けて当て、飛び込んだ。

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