あやかしがくえん

橋真和高

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 その言葉を最後に、今も蹲っている僕なんか無視して、踵を返して歩いて行く。その姿を見ながら、ようやく立ち上がることができた。その頃には朝比奈の姿はどこにも見当たらない。

「女神だと、ふざけるな……あれは──魔王だろうが」

 脳味噌の構造が、一切合切違う。

 ああは言っても、実際に朝比奈の要望を受け入れれば、実際に行動に移すとは思ってはいなかった。どこか、少しだけ、甘く考えていた。

 先刻受けた傷を確認するように、右腹部を抑えている、右手をどかした。

 よし、そんなに深くはない。

 次に僕は、廊下を染め上げている、自身の血を処理していた。幸い、男子トイレが近くにあったため、トイレットペーパーを即座に入手することができた。

 そんなに深い傷ではないこともあって、流れる血の量も少なくて済んだ。だけど、このワイシャツだけは、言い逃れができない。こんな赤く染まったシャツを妹に見られてしまえば、きっと尋問が始まってしまう、早々に捨てておこうか。

 弁償して欲しい。

 最後の仕上げに、トイレットペーパーを僕の体に、包帯の代用品として、巻きつけて、応急処置を済ませた。

 大丈夫。

 このくらいなら、僕は問題にならない。

 廊下を拭き終わったトイレットペーパーを、無事誰にも見られることなく、流し終えた。

「あれ? 吉良、何でまだいんの?」

 部室から雨霧が出てきた。

 ネタが見つかったのかどうかは、わからないが、今日の部活動は終了したのだろう。

 今出てきてよかった。

 あんなのを見られていたら、今頃、この廊下は血で溢れ返っているところだ。

「あの人の所に行くんじゃないの?」

 疑問を露わにして問う。

 この扉を一枚挟んだ向こう側で、何があったのか知らない様子だった。それなのに、雨霧に悟られることなく、あれだけの怪奇てきなことをやってのけた朝比奈未来は、やはり只者ではなかった。

「雨霧、……お前、廊下の曲がり角を曲がるとき、誰かにぶつかることを想定しているか?」

「は? まあ、特に気にして歩いたことはないかも? たぶん」

「いいか? これからは、いかなるときであろうと、曲がり角を曲がるときは絶対に人がいないことを確認してから、歩けよ!」

「はあ⁉ さっきから、何を言っているの?」

「歩いている時も、走っている時も、一度、止まれ。右と左と正面を目視で確認してから歩き出せ! さもなければ僕はお前を一生許さないからな!」

 一体全体、僕の言っている言葉の意味が理解できていない様子。

 それもそうだろう。

「それより、吉良、あの人の──」

「これから、行くんだよ!」

 僕はそう言って、雨霧の脇をすり抜けて、駆けだした。

 駆ける。

 とにかく、駆ける。

 階段を下る。

 ここは、三階。

 彼女の足取りであるなら、まだ、間に合うはず。

 一段一段下りていては、間に合うかわからない、だから、踊り場から踊り場へと飛び降りる。

 脚には衝撃が来る。

 そんなの僕にとっては特に問題の無い事だ。

 こんなことをしている奴が、朝比奈と出くわしたら、──彼女はどう思うのだろう。

 普通にしている行動も、朝比奈からしたら、恐怖なのだろう。

 その人と、ぶつかり合うことを考えると。

 実体がない。

 体が透き通る。

 それは、つまり、幽霊のような存在。

 蝙蝠。

 蝙蝠と、朝比奈は言った。

「そろそろかな」

 あの状況で、まさか、寄り道をするとは到底、思えない。僕が追いかけてくるだなんて彼女は、思いもしないだろう。朝比奈が部活動に所属していることも、考えられない。そうだと決めつけて、僕は飛ぶ足を止めなかった。

 そして、下駄箱に通ずる、最後の踊り場で。

 朝比奈未来はそこにいた。

 階段全てをすっ飛ばして、飛び降りていたから、相当な衝撃音がなっていたはずだ。流石にその音に反応しない、朝比奈ではない。こちらに背を向けてはいるが、ちらりと、振り返っている。

 驚きと、怒りの形相で。

「はあ、まさか、ね」

 呆れた様子で、口にする。

「いえ、これは素直に驚いたわ。まさか、あそこまでされておいて、私に臆することなく立ち向かってきたのは、恐らく、あなただけじゃないかしら」

 恐らく。

 彼女はそう言った。

 まさか、信じたくはないが、他にも被害者がいるということか……?

 一体、どういう状況で、他の誰かは、この魔王に制裁されたのだろう。そして、一つの噂話も出ないことから、徹底的に追い詰めているのだろうか。

 やはり、本物の魔王じゃないのか?

「それに、浅いとはいえ、腹部を切られて、そんなどたばたと走ることはおろか、暫く安静にしてないといけないはずなのだけれど」

 経験者のセリフだった。

 あり得ない。怖すぎる。

「ええ、そうですか、わかりましたよ。夜神君。その倍返し根性に敬意を表して、その覚悟を認めましょう」

 朝比奈は、鞄からまたもやペティナイフを取り出して。

 一切の迷いなく、人目も憚らず、僕に向けて。

「殺し合いましょう」

「ま、待て待て! 僕はそんなことしたくない!」

「そうなの?」

 なぜか、物寂しそうな顔と声で言う。

 手に持たれるペティナイフはそのままで。

「じゃあ、何をしに私を追いかけたのよ」

「もしかしたら、さ」

 若干言葉を濁しながら。

「お前を、救えるかもしれない」

「救う?」

 その言葉を聞いて、朝比奈の眉間にしわが寄る。触れられたくない琴線に触れてしまったのだろう。

「あまり、ふざけたことを言うと、次はその程度では済ませないわよ。あなたに何ができるの? 病院の先生にも何もできないことを、あなたならできると? 笑わせないで。私を無視してくれれば、それでいいのよ」

「いや、だから」

 チャキン。

 と、ペティナイフが光を放つ。

「優しさも、敵対行為と看做すわ」

 朝比奈は、僕に、一歩、近付く。

 本気だ。

 一切の迷いなく、僕に突き付けてくると、先のやり取りで、十分に知っている。わからされた。

 だから、僕は何も言わずに、シャツのインナーをぐい、と、持ち上げる。

 両手で、インナーを。

 僕の腹部が、晒される。

「……え、嘘……」

 からん、と、音を立てながらペティナイフが床に落ちる。流石の朝比奈も驚いたのだろう。

「何が、どうなっているの?」

 疑問に思うのも、当然だ。

 なぜなら。

 流血も、止まっている。

 朝比奈の切りつけた僕の腹部には、血の跡も無ければ、傷跡すら残っていないのだから。
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