聖典のファルザーン

佐々城鎌乃

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第1章 Ⅷ節 ホシュウルの決意

Ⅷ節 ホシュウルの決意 3

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 東雲しののめが山地の遠くに霞み、明けの鳥たちが忙しく鳴いていた。日はまだ昇っておらず、薄暗い青色の空が寒々とした森に光を通した。

 ファルシールはいつにもなくはっきりと目が覚めて、誰も起こさないように体を起こし、小さな小屋の中を見渡した。

 薄い布きれを被り大口を空けて眠っている賢者もどきが横に、囲炉裏の横には石造りの壁にもたれ掛かって眠る商人が居る。騎士の姿は見当たらない。

「相変わらず間抜けた寝顔だ」

 ファルシールは与一の寝姿に取りあえず毒づいておいて、じんわりとした熱が感じられる囲炉裏の灰の中で小さく燻る薪の残り火に目を遣った。

 ミナオで高官のファラーマルズより父皇と兄たちの死を聞かされてから、ファルシールは絶えず頭の隅で皇位について考えていた。諸侯らが起こした謀叛に大義はない。誰から見ても明らかである。キースヴァルトの侵攻も、手を打つのが遅くなれば、それだけ多くの民が苦しめられるであろう。自身でも、この混乱するシャリムの皇位を継ぐべきなのは正統な血を引く自分であると理解はしている。
 だが、自分にそのような力があるのか。貴族や部下相手に嫌悪と恐怖をいだき震える自分に、政も軍も動かせるのか。シャリムの数百万の民の上に立てるのか。考えるほどに足がすくんだ。

 そして、ケイヴァーンから皇宮の事を聞いた。もう誰も居なくなった。唯一心を許すことができた家族たちも失った。

 逃げたかった。例えここで逃げても、ケイヴァーンは仕える気でいるし、守ってくれるだろう。しかし、その忠義を受けとる事が重く、苦しくもあった。何も為さない自分には余りある騎士である。

 けれども逃げ切ることは出来ない。諸侯たちにとって自分が生ける大義であることは変わらない。生きているならば追われ続けるであろう。

 君主として起つか、敗軍として逃げ続けるか。どちらの決断もファルシールには選べなかった。しかし、

 ──俺はさ、ファルシールが王様って言われても信じるな──

 ヨイチはそう言った。賢者もどきのくせに生意気だとも思ったが、少し心のつかえが取れた。

 それから眠った。今は不思議なくらいに頭がすっきりとしている。

 ファルシールがじっとしていると、小屋の扉が空いた。ファルシールは咄嗟に懐に掛けていた短剣アキナカに手を伸ばした。

「殿下、お目覚めでしたか。今朝は如何でございますか」

 ファルシールは小さな扉から背を屈めて入ってくる見知った顔に、にわかに緊張を解いた。騎士ケイヴァーンである。


「ああ。よく眠った。疲れもそれほど無い」

「それは良うございました」

 ケイヴァーンは静かに入ってくると、手に抱えて持っていたひと山の雪を囲炉裏の灰の上に被せて、残り火を消した。

「寒いですが、お許しを。夜が明けると、煙で見つかりますゆえ」

「うん」

 ケイヴァーンは用が済むと、すぐに小屋を出ようとした。

「待て、ケイヴァーン」

 若い主君に呼び止められて、ケイヴァーンは畏まって踵を返した。ファルシールはそのままケイヴァーンに座るよう手で招いた。

 ファルシールの瞳には朝の青い光が映り込んで、視線は静かにケイヴァーンを見つめていた。

「ダレイマーニの息子ケイヴァーン」

「は」

 凛とした強い声で名を呼ばれて、ケイヴァーンは思わず頭を下げた。

「そなたの昨晩の問い。余はずっと考えていた」

「······」

「シャリムの地は混乱に陥っている。余にはその混乱を鎮める責がある」

「それでは殿下は──」

「だが、今はまだ皇帝になるか決められぬ。余は根っからの君ではないし、力もない」

 ファルシールは息を吸った。

「故に余は国を出ようと思う」

「……国をお出になられる──」

 ケイヴァーンは止めようとした。内憂外患の状況下で主が国を出るのは、民を捨て置いて逃亡するも同然である。しかし、目の前の若き主の目は、後ろ暗いところが無いというようにしっかりと据わっていた。ケイヴァーンは口をつぐんで次の言葉を待った。

「メギイトへと向かう」

「メギイト、にございますか」

「ああ。メギイトとは古くから国交があり、民たちの往来もとても盛んだ。それに、諸侯たちは皇国領を奪うだけで満足するような者たちではない。キースヴァルトの侵攻も止まるとも思えぬ。であるならば、メギイトにはシャリムの安定を望む理由があるはずだ。そこで助力を得る」

「介入する機会を得たと思われかねません」

「それでも、この山に籠って逃げ続けるよりはずっと良い」

 ファルシールは自らの手を膝の上で握りしめた。

「民が死ぬのを見るのは嫌だ。たとえそれが兵であっても、妻と夫が死に別れるのは嫌だ。親と子が、兄弟姉妹が。余が必ず、介入させずにメギイトの助力を得る。……そうでなければ、何をも成せぬ。だから」

 ファルシールは腰に下げた黒獅子の短剣アキナカを眼前まで持ち上げて、ケイヴァーンに示した。

「余がシャリムの太平を成すまで、戦士アールティーシュダレイマーニの息子ケイヴァーン、余にそなたの剣を預けて欲しい」

 そのときケイヴァーンは皇子の目に覚悟の光を見た。漫然と状況に流された目ではなく、この内気な主の瞳には、確かにこの先の苦難に立ち向かおうとする強い決意が沸き上がっているようだった。父皇のような威厳も、戦士のような剛胆さもないが、強く向けられた眼差しに合わせた目が離せない。ケイヴァーンは些細な懸念など忘れて、主の決意の前に、すかさずかざされた短剣の元に片ひざをつき、こうべを垂れた。

「神々のもとに誓い奉る。殿下の赴きますところ、どんな死地であろうとも、わたくしの剣もまた付き従いましょう」

「ケイヴァーン」

「わたくしの一切を殿下にお預けします」

「預かろう」

 ファルシールはケイヴァーンの忠誠の言葉を重く心に受け入れた。

「それからヨイチ。起きておろう」

「げ」

 与一は聞き耳を立てていたのを看破されてびつくいた。

「そなたはどうする」

 ファルシールは与一に向いて、問うた。

「どうって······」

「そなたには帰る場所があるのであろう。帰るならば、そなたとはここでお別れだ」

「······」

 与一は起き上がってファルシールに向いた。帰ると言っても、与一にはどうすることも出来ない。帰り方も分からないのである。かと言って、このままこの山小屋に残るのも無理がある。外に独りで出れば、訳もわからず殺される事すらあり得た。ファルシールは黙って俯き加減の与一に手を差し出した。

「だが、もし帰らぬのなら、余はそなたに傍に居て欲しく思う。余は弱いし、力もない。だから、そなたの力を貸してはくれぬだろうか」

 ファルシールの言葉の意味するところは、これからファルシールたちが始める戦いに一緒についていって欲しいということである。

(平和育ちのぬくぬく温室栽培の俺に何が出来るってんだ……)

 手を取る義理はない。ここで手を取って付いて行けば、間違いなく帰れるかもしれない機会は遠のくはずである。それに、進んで戦乱に巻き込まれに行って、死ぬのは嫌である。

 しかし、手を取らなかったとして、ただのオタク気質な高校生に、戦乱の中を生きていく力がある訳はない。外は今や戦争の只中なのだ。

「戦争するんだろ」

「ああ」

「勝てるのか」

「多難な前途であろう」

「負けたら」

「死ぬこともある」

「人を殺すことも」

「ある」

(──なんだよそれ。すげえ怖いじゃん)

 与一はこの世界に来てから見てきた"死"を脳裏で反芻した。自分が死にかけた時のも、他人が死んだ時のも。

(でも、もし俺がここでファルシールの手を取らずに行かせて死んだりしたら──)

 ──後悔する。そんな言葉が与一の頭をよぎった。なぜであろうか。目の前の異世界の皇子と出会って、たかだか4日の付き合いである。しかし、この幼さの残る年下の少年の大きな決意が、どうしても心に引っ掛かって離れがたく思ってしまうのである。

 横目に主へ低頭するケイヴァーンが映った。

 ──ヨイチには殿下の傍に友として居続けて差し上げて欲しい──。

 ふと昨晩の言葉が脳裏を掠めた。与一はファルシールの手を取った。

「いいぜ。手を貸してやるともさ。この世界じゃファルシールだけが頼りなんだ。帰るまでの寄り道ついでについて行ってやるよ」

 与一は楽観的に考えることにした。

(ついていかずに帰る方法を探すより、ついていって何とかやりながら帰る方法を探す方が楽そうだし、なんか話の展開的に面白そうじゃん)

 場の雰囲気に呑まれなかったのかと問われれば、そうも言いきれない。しかし、この世界に飛ばされた事に理由があると考えるなら、この皇子の手助けをする事こそが理由なのではなかろうか。与一は一応そう結論付けることにした。

「……まあ、友だちだってのもあるし」

「そうであったな」

 ファルシールは和らいだ表情を浮かべて与一の手を握り返した。

 しかし、この場に居る者の中で唯一ひとり、商人イグナティオだけが顔色を悪くしていた。騒がしさに目を覚まして傍観を決め込んでいたが、話の雲行きが怪しくなったからである。

「皇子殿、もしや私について来るつもりではないでしょうな?」

 イグナティオはファルシールを睨んだ。イグナティオはメギイトにある自身の商会へと帰るつもりである。行き先が同じということに疑念が湧いた。

「無論違う」

 ファルシールはすかさずそう答えてイグナティオに向いた。

「そなたと取り引きをしたい」

 イグナティオは珍しく露骨に嫌な顔をした。

「あなたとの取引はもう御免被る。命がいくつあっても足りやしない」

「そなたはこれより単身メギイトへと向かう。道中、諸侯領2つ通って聖地カナーンを経る。無論、隊商カールワーンとも同道するだろう」

「でしたら何です。道案内でもしろと? その取り引きは私に何の得があるのでしょう。国中のお尋ね者であるあなた方を引き連れて、私が危険でないと? 冗談ではない」

「そなたに余とケイヴァーン、ヨイチの身を預ける。好きに使え」

「殿下……!」

「お、俺も!?」

 ファルシールの言葉にケイヴァーンと与一は同時に反応した。しかし、ファルシールは手で制して2人を静めた。

 イグナティオは厳しい面持ちを変えずに続ける。

「好きにして良い、とは?」

「そなたは一度、余を売った。余の身に売れる価値があると踏んだからであろう」

「……」

 イグナティオは口をつぐんだ。ファルシールの言い様にではなく、その後ろに控える騎士の顔色が険悪であるからである。

「ケイヴァーンは知っての通り古今無双の騎士で腕も立つ。道中の護衛には十分であろう」

「十分過ぎて私まで斬られそうですな」

「余がそれを許さない」

「ほう」

「そしてヨイチは……」

 ファルシールは少しばかり言い澱んだ。賢者であるかもしれない事をここで話したところで、イグナティオが信じる訳もない。ファルシールは思い当たる事を探した。

「……ヨイチは異国の知識を持っておる。森羅万象のことわりを書き記した書物も。そなたが望めば、それを享受することも出来るだろう」

 そう言われて、イグナティオは与一を訝しげに目だけ上下させて検分した。

「ヨイチ、そなたの書物を」

「え? ああ」

 与一は言われて、久しぶりに開ける自らの学生カバンから適当にまさぐって教科書を取り出し、イグナティオに渡した。小さくても厚みのある倫理政経の教科書である。

「……」

 イグナティオは与一から本を受け取ると、まず表紙に印刷された絵の精巧さに心中で感嘆した。それから中身の知らない文字を読み飛ばしつつ、使われている紙の薄さや、図画の造形に目を見張った。

「この書物には何が書かれているのですかな」

「ええと……倫理政経だから、倫理と政治と経済について書いてあります」

まつりごとの書物なのですか」

「そこまで詳しく書いてあるわけじゃないですけども一応……」

 イグナティオは一ヶ所、気になる図画を指差して、与一に訊いた。

「これは金貨だと思うのですが、何と書かれているのか教えて頂けますかな」

 イグナティオは口調の冷静さは意図して保っていたが、興味が湧いたのを抑えられなかった。

「ここは……経済についてですね。市場の供給は消費者の需要によって決定される、とか、中央銀行と市中銀行の関係とか」

 イグナティオは与一の価値を見定めた。幼少より商いについて学んできた事の、さらに上を行く内容が書かれてある書物と、それを訳せる人物。これを手放せるほど、イグナティオは無頓着ではなかった。

「書物はこれだけではないですな?」

「え、ああ、いろんな教科のが……」

 イグナティオは決心した。

「よろしいでしょう。殿下、あなた方の身を預かる代わりに、メギイトまでの道案内をおおせつかりましょう。ただし条件3つがあります」

 イグナティオは手を挙げた。

「1つ目、わたくしの手の及ぶ範囲で殿下のことは隠しますが、私に危害が及ぶ場合は口を割らないことを保証できません。2つ目、わたくしの指図には何があっても従って頂けると誓って下さい。道半ばで仲間割れをされることほど恐ろしいことはありませんゆえ。3つ目、案内費を後日に請求致します。今は払えるものが無いゆえに御身を担保としておりますが、必ずやお支払い頂けるという確約を頂戴いたします。この3つを満たすことが出来ましたらならば、私はあなた方をしっかりとメギイトの都、ラシュまで案内いたします」

 ファルシールはイグナティオに手を差し出して、迷いなく応えた。

「誓おう」

「殿下!」

 ケイヴァーンが止めに入ったが、ファルシールは構わずに続けた。

「ファルシール=フサイ=シヴァール=イル=シャ=プール=シャリムは、そなたに身を預け、指示に背かず、後日必ずや報酬を支払うことを契約の神ハールドの元に誓いたてまつる。そなたはこれより我らの道連れであり、仮の主だ」

 イグナティオは、ファルシールの手を取った。

───
──────
──────────

 ホシュウル山中の山小屋で1つのささやかな旅団が成った。弱冠16歳の麗しき皇子ひとり、17歳の高校生ひとり、古今無双の騎士ひとり、道侶のしたたかな商人ひとり、総数4人の旅団は、明けの陽光が冬の冷たい山地の岩肌を照らし出す頃、西へと出立した。

 一路、メギイトへ。


──────────
──────
───


 アキシュバルへと続く荒涼たる岩石砂漠に、黒々と蠢く軍勢の姿があった。軍勢は昨日、へシリア山地を越えて、ようやく今朝、長蛇の列を成してシャリム皇国の都アキシュバルへと向かっていた。

「グルック様。このまま半日ほど直進しますと、伝令馬の駅が並ぶサキュロエス街道へと突き当たります」

「うむ」

 部下が全軍を指揮する将に馬を寄せて申告した。

 先頭に騎馬、続いて歩兵、弓兵、糧食部隊、その数およそ13万。深藍の地に双頭の獅子をあしらった軍旗が、長く尾を引いてたなびいている。キースヴァルトであった。

「いよいよ、本づめよな。我らが女王陛下と賢者のご采配、とくと楽しませてもらうとしよう」

 将は戦列の後方を見遣った。

 その双眸の先には、ひときわ黒くおびただしい集団が、冷徹な軍靴を鳴らして中衛を進んでいた。

 翌々、早朝、皇都アキシュバルは、さらなる悲劇を見ることになる。





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