聖典のファルザーン

佐々城鎌乃

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第1章 Ⅶ節 敗軍と賊軍と

Ⅶ節 敗軍と賊軍と 3

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 昼、切れ間のない曇り空の下、ケイヴァーンはイグナティオと名乗った商人の提案を受けて、一路ミナオへと急いでいた。

 黒煙が霞む皇都アキシュバルを遠く背に、寒野の中を東へと駆け抜けるのは馬群と2人の影である。

 朝方に諸侯の軍勢の目を掻い潜ってアキシュバルを脱し、ここまで3刻ほど経っている。

『用心棒をお願いしたいのです』

 それは皇家の最後の主君である第六皇子の居場所を教えた"返礼"として商人がケイヴァーンに要求したことである。

 本来であればケイヴァーンひとりで探しに行くところであるが、商人がミナオまでの道程だけ皇子の捜索に随行するという形で守って欲しいというので、共にくつわを並べているのであった。

 ただケイヴァーンは完全に商人を信じている訳ではなかった。

 皇子の使っていた葦毛の馬を商人が持っていたとは言え、それが本当にミナオに皇子が向かったという確証にはならない。出鱈目を言われた場合、確かめる術をケイヴァーンは持っていない。

 また、商人が随行すると申し出たことも不可解であった。商人が諸侯らの間者である可能性が大いに残っている。随行するというていでケイヴァーンが確かにミナオに向かっている事を監視しているのではないか、そう考えることも出来た。ミナオに向かわせて、そこで待ち伏せることも出来るからである。

 ともあれ、商人が丸腰なのは見ればわかるので、騙していたようなら真っ先に斬り捨てる事に迷いはない。

「間も無くミナオですな」

 アキシュバルをってから黙り込んでいた商人が、砂丘の稜線に霞む城壁を見つけてそう言った。

「ああ」

 ケイヴァーンも既に目視していたが、商人のそれとは違った風に見えていた。

 城壁の前に広がる黒い群れと、城壁の軍旗である。

 ケイヴァーンには見覚えるのある占領された城市の光景である。

 ミナオは既に陥ちている。

 そう確信したのは宰相ベルマンの裏切りが念頭にあったからであった。

(宰相は皇帝の目サトラップの報告を一手に担う。報を隠して行動されれば、皇都を攻める前にミナオが陥とされていても気づけない)

 間も無くミナオだ、という商人の楽観的にも聞こえる言葉が、演技じみて嘘臭く感じられた。

(やはり騙しているか)

 ケイヴァーンは馬を止めた。

「どうしたのです? もうすぐ着きますのに」

 商人は止まったケイヴァーンに合わせて馬を止める。アキシュバルから連れてきていた馬群もまた商人に合わせて止まった。ケイヴァーンは商人に向いて、意図を計るように静かな声で口を開いた。

「この先にあるのは何だ?」

「はあ······ミナオの城市ではないのですか?」

「ミナオの外に野営が見える。それに軍旗も上がっている」

 商人はケイヴァーンの言葉に困った顔をして間を置かず答えた。

「なるほど、ミナオが諸侯の手に落ちたという事でしょうな」

 ケイヴァーンは商人のあっけらかんとした反応に眉をひそめた。

「なぜそう思う」

「皇国軍が平原の戦いで散ってより、この辺りにあれほどの軍営を敷けるのは諸侯たちくらいではないですかな?」

 (隠すつもりがない······?)

「そうか。では、諸侯の手に落ちたミナオに殿下が向かわれたと言うのだな?」

「何を計っておられるか存じませんが、私は皇子殿下と別れてよりずっとアキシュバルに居りました。ミナオが落とされたなど知るはずもございません。それに、一介の商人にどうして謀叛が起こる事を予想できましょうか」

「ずいぶんと落ち着いた物言いだな」

「裏も表もございませんから」

 商人はニコリともせずにケイヴァーンを見つめた。

「お気は済みましたか?」

「······」

 ケイヴァーンは商人が自分の心裏を全て見透かしているようで、言い知れない嫌悪感を覚えた。同時に、本心の知れない商人の表情がますます不信を募らせた。

「急がねば。謀叛が起きた事を知らない皇子殿下がどうなっているか心配です」

 しかし今は商人の言葉を頼るしかないのである。皇子はミナオに居るかもしれない。居なければそれでも良い。捕らえられていたなら救いだす。例え商人が自分を騙していて諸侯の兵に囲まれても、相手がどのような大軍であろうと、為すべき事は単純である。生きているならば見つけ出す。そう考えるしかない。

 ケイヴァーンは何も言わず商人から目を離し、馬首を再びミナオに向けた。

「はてさて、問題はどう入城するかですな」

 商人の声はケイヴァーンに答えを要求しているようであった。

「問題ない」

 ケイヴァーンはそう答えてミナオを見据えて馬の腹を蹴った。


   ***


 城壁の前に敷かれた野営は、ミナオへと入城する大きな障害のひとつである。

 ケイヴァーンはミナオの手前で自らの軍装を脱ぎ、外套を被って商人の連れていた馬群と共に警備の薄い東側へと回り、諸侯軍の野営へとゆっくり近づいた。

 野営は広範に敷かれていて、天幕や馬が溢れる厩舎が乱立している。主力である軍は今朝方にアキシュバルを攻めるために出払っており、野営にはまばらに見張りの兵士が立っている。

 そこに、当然のように目立つ馬群と、その群れを引き連れる二人組が近づけば、見張りの兵士は声をかける。

 ケイヴァーンは声をかけてきた見張りの兵士2人を馬群の中に紛れ込ませると、手早く気絶させ、鎧を脱がせて商人に着せた。

 ケイヴァーンは鎧を着ずに、兵士に扮した商人に連れられる形でそのまま野営の中を真っ直ぐ東門へと向かうと、「補充の馬だ」と言って門兵の目をすり抜けて、あっさりと城内に侵入した。

「勝利して気が抜けるのはよくあることだ。いくさ慣れしていない軍なら尚更のこと」

「良いことを聞いた。覚えておきましょう」

 後ろを付いてくる商人の問いに答えておいて、ケイヴァーンは城壁の裏に設けられた急造の厩舎へと馬を繋ぎ、囲いの柵を閉じて商人には鎧を脱がせた。

「それで、ミナオには着いた訳だが、お前はどうする」

 厩舎の影で着替えて装備を調え終わると、ケイヴァーンは商人に訊いた。ミナオまでの護衛はこれで終わりである。となればケイヴァーンにとっては商人が問題である。ここで別れて離れた後、商人が兵士の詰所に密告した場合、最も危険であった。ケイヴァーンの目には一抹の殺気がこもった。

「そうですね。とりあえずは知り合いの店を頼るつもりです······が、ここはまだ騎士様に付いていきたいところです。町のなかは危険そうですからね」

 商人は周りを見回してから肩をすくめてみせた。商人は騎士が自分を信用していない事を知っていた。もしここで別れると告げた場合、密告されるかもしれないと疑う騎士が口を封じるだろう事は容易に想像できた。ミナオが諸侯の手に落ちていたことは完全に商人にとって誤算であった。

「そうか」

 ケイヴァーンは、とりあえずは商人が目の届く場所に居ると答えたので、それ以上は何も言わなかった。とは言うものの、人数が多いのもかえって怪しまれるため警戒を怠ることは出来ない。

 町のなかには殺伐とした空気が冷気と共に漂っている。

 城市の中は荒らされた様子もなく、ただ諸侯の兵士以外の市民が一人も出歩いていない事を除けば普通そのものであった。それが意味することは、戦闘があってミナオが陥ちた訳ではないという事であった。城市が明け渡されたとすれば、状況は穏やかなものではない。皇子がすでにミナオに着いていると考えれば、急がねばならなかった。

 ケイヴァーンと商人は厩舎の区画を後にして町のなかへと入っていった。

 街角に立って見張りをする兵士の目につかないよう裏路地を行き、皇子の手がかりを捜す。時折、兵士たちが話す他愛もない話に陰から耳を澄まして情報を探る。

 しかし外縁から中心まで捜しても皇子を見かけることも、見かけたという話すら無かった。捕まっているわけでもないようである。

「ミナオにはいらっしゃらないのかもしれませんな」

 ミナオに潜入して1刻ほど過ぎた頃、商人がそう洩らしてケイヴァーンは足を止めた。

「ミナオにいらっしゃると言ったのはお前だが」

 裏路地の暗がりにケイヴァーンの強く冷ややかな声が響いた。

「申しましたとも。向かわれたと。まだ着いていないのやも──」

 ケイヴァーンは振り向いて商人の胸ぐらを掴むとそのまま片手で吊り上げて人家の壁を押しつけた。

「俺は、お前の、茶番に、付き合っている、わけでは、ない」

 ケイヴァーンは言葉を区切った。顔には強い憤怒が冷たい表情で浮き出ている。商人は襟を締め上げられて喉が閉まり声を出そうとしても声が出せない。

 ケイヴァーンは商人の服の襟を次第に強く巻き込んで締め上げを強くしていく。商人は苦しそうに自らを掴むケイヴァーンの手を叩いて降参の意を示す。

 ようやくケイヴァーンが下ろした頃には商人の息は絶えだえになっていた。

「高官の邸宅を探る」

 ケイヴァーンは地面で息を調えていた商人に言って捨てると、踵を返して町の中心へ向かって歩き出した。商人も「最悪だ······」と小言を洩らしてケイヴァーンの後を追った。

 しかし、路地の角から出た時、ケイヴァーンの脇に人影が突っ込んだ。少年らしき二人組が揃ってケイヴァーンの体躯に跳ね返されて地面に転がった。

「大丈夫か」

 ケイヴァーンは大ごとになって兵士に目をつけられないように小声で尻餅をついた二人の少年に手を差し出した。一番最初にぶつかったのは黒髪の異邦の装いをした少年で、外套を被って頭をさすっている。その後ろで二番目にぶつかった少年は綺麗な銀髪を後ろで結び細やかな刺繍の入った遊牧民風の服シャリマーニを着た、黒髪の少年より幼げな少年である。

「すいませんすいません、急いでますんで、んじゃ!!」

 ケイヴァーンの手を取ることなく黒髪の少年は立ち上がろうとした。

「待て」

 だがケイヴァーンはおもむろに少年たちを引き留めた。そうしてしゃがみこむと、銀髪の少年に寄った。鮮烈な衝撃と、歓喜の衝動がケイヴァーンの胸から全身に広がった。この顔立ち、髪、姿、間違いはない。

「もしや、殿下······? ファルシール殿下、ファルシール殿下であらせられますか?!」

 ケイヴァーンは人目を気にせず高揚して声をあげた。言葉は問うものであったが、それは確信の裏付けで喜びに溢れていた。

「······ケイヴァーン? ケイヴァーンか!」

 銀髪の少年はケイヴァーンを知っている。疑う余地はない。シャリム皇家最後の主、第六皇子ファルシールである。

「はい! ダレイマーニの息子、ケイヴァーン=ファーシでございます!! 殿下をお探し申し上げておりました!」

 ケイヴァーンは皇子の手を取って壊れ物を扱うように丁寧に引き起こした。

 黒髪の少年はケイヴァーンと皇子を交互に見て戸惑っている風である。

「......よもや本当に居るとは」

 跪いたケイヴァーンの後ろに立っていた商人は、苦々しそうな口調で皇子らから顔を逸らした。

「あ」

「そなた......っ!」

 皇子と黒髪の少年が商人を見て顔色を変えた。
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