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第1章 Ⅵ節 雲厚く日未だ見えず
Ⅵ節 雲厚く日未だ見えず 4
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早朝、アキシュバルの郊外の殺伐とした荒野の風に乗せて、灰と粉雪が混じりながら舞い降っていた。
辺りには諸侯の軍勢の馬蹄の轟きが鳴り響きいよいよ西の先陣が城門へと差し掛かる頃である。とは言っても、アキシュバルの円城にはもはや抵抗する人影はなかったために、開け放たれた城門にするりと流れ込むだけである。
荒野にその眺めを立ち尽くして見届けている人影があった。黒鎧を纏った騎士、ケイヴァーンである。体躯から湯煙を発して蠢く馬群の中で、ケイヴァーンはただひとり、静かに押し黙っていた。
皇帝は死に、彼は今や何者の騎士ではなかった。仕える君を失い、兵を失い、およそ国都も灰塵と化して間も無く陥ちる。
ケイヴァーンには2つの道があった。いずれこの場所も諸侯の軍勢に飲み込まれるならば、1人でも多くの賊軍を道連れにして敵陣にて果てるか、大義なしと逃げ去るか、である。
無論、武人としての矜持を知るケイヴァーンには、逃げるという道は有り得なかった。
ケイヴァーンは皇帝の亡骸に返した剣を見遣ってから、先ほど射落として息絶えていた近衛の身に付けている剣を抜き取って腰に下げ、再び馬に乗ろうとした。
「何者だ」
その時、辺りの砂地から物音がした。周りには馬の群れが留まっていたが、その音は馬が立てるような音ではない。ケイヴァーンは瞬時に剣を抜くと、物音のした方に向いて構えた。
しかし何も起きない。物音は一瞬のものであったが、確かに何か硬い岩と岩を擦るような音で自然のものではない。ケイヴァーンは馬群の中に分け入って、音のした所を探した。
すると、馬群で隠れさていた地下隧道の竪穴を足下に見つけた。岩の板で封をしてある出入口が半端に開いていている。
ケイヴァーンが竪穴の中に剣を入れると、剣は中に居た者の首もとに突きつけられた。
それから、ひとりの男がおずおずと顔を出した。
「ま、待て、私は武器を持ってない」
背はケイヴァーンより低く、小綺麗な西方の衣服を纏った男で、女受けの良さそうな顔に引き吊った笑みを浮かべている。一見、商人のような風貌である。
「何をしていた」
ケイヴァーンは剣を下ろすことなく問うた。
「私は西方ネルヴィオスの商人で、イグナティオ=スー=スーシと申します。アキシュバルにて大火が起こりました故、焼け出されてこの地下隧道まで逃げ込んだ次第でございます......」
イグナティオと名乗った男は、ニタりと笑って冷や汗を流した。
ケイヴァーンは剣をさらに男の首筋に近づけて迫った。
(この男が出てきた地下隧道の孔、恐らくは皇帝陛下が皇宮から退避された際に用いられたものだ。この男がアキシュバルからここの孔に出たということは、ここ以外から地上に出る孔は無いことになる。つまり、皇帝陛下が通られた道筋を追って来た事になる)
「わ、私はなにもしていません!」
怪しさで言えばこの男はこの上なく怪しかった。焼け出されたためにこの地下隧道へと潜ったのならば、他の市民もこの孔から出てきているはずである。しかしこの辺りには人影もなければ、居た気配もない。
「お前はなぜこの地下隧道を知っている」
「そ、それは、たまたま救貧院の裏手の水汲み場に逃げましたら......」
ケイヴァーンが剣を男の顎に押し当てると、男は笑みを消して固唾を飲んだ。
(これ以上は出ないか。完全に信用することは出来ないが)
「まあ良い」
ケイヴァーンが剣を鞘に納めると、男は大きく肩の力を抜いた。
「イグナティオと言ったな。いつからそこに居た」
「随分と前から居りました」
(ということは、一部始終を目撃している......?)
「何か見たか」
「......地下隧道にてそちらの御仁と兵士の一団が殺しあいを始めたところを見掛けました......」
イグナティオと名乗ったネルヴィオス商人は視線を皇帝の遺骸に向けてから、ケイヴァーンに一路で遭遇した弑逆の顛末を語った。
。。。
イグナティオは諸侯の軍勢が迫る中で長くとも短くともなく語った。先程から警戒を解いていない黒鎧の騎士に冷や汗を滲ませながら、それでも努めて真実を隠さずに伝えた。
(まったく、とんだ災難続きだ。ただでさえおっかない近衛たちが去ったと思ったら、こんな奴に見つかるとは。よりによって、暑苦しい犬なんぞに)
黙って聞いていた騎士は途中で首を落とされた老将の話に狼狽した。
「ダレイマーニ......だと......!? まさか父上が──」
イグナティオは騎士が口走ったひと言に思い至るものを聴いた。
(父上、と言ったな......ダレイマーニは確か大万騎将、その息子ということは......この騎士、もしかすると獅子殺しケイヴァーンか? 黒い鎧に金髪の偉丈夫、この若さ、間違いない。──なら、ちょうど良い)
イグナティオは瞬時にあることを閃いた。
イグナティオは騎士のことを知らないように振る舞い続けた。
「これからこの国はどうなるのでしょう......」
イグナティオは心配そうな表情
を作って燃えるアキシュバルを眺めながら呟いた。
「皇家は潰えた。皇帝陛下も3方の皇子殿下もすでに亡いとなれば、シャリムは滅んだも同然」
騎士はイグナティオに答えて、「アヒヤ」と自らの馬を呼んだ。すると騎士が乗っていた青毛の馬が馬群のなかを分け入って騎士の前まで歩み来た。
「お前は元居た地下隧道へ戻って隠れていると良い。あの軍勢が通過した後に隙を見て西の都市シーラーズへ向かえば、まだ冬前にメギイトへと向かう隊商があるはずだ」
騎士は慣れた動きで馬に乗った。鎧が重く鳴る。
「お前を逃がしてやりたいが、俺にはする事がある」
馬も主の動きに合わせて足踏みをひとつすると、短く嘶いて意気込んだようだった。
「これからあの軍勢に」
「大万騎将が陛下をお守りして果てた。俺は陛下の御首級をせめて取り返さねば。皇家に忠誠を誓った騎士として、最後の君の威儀をお守りする」
騎士は間近に迫る軍勢を遠い目で正面に捉えると、馬の腹を蹴って進み出そうとした。
イグナティオはその後ろ姿に、見計らったように声を掛けた。
「あなたの仕えるべき君は、まだおりますのに?」
騎士はイグナティオの言葉に馬を止めた。
「なに」
「私がアキシュバルに訪れたのは昨日の夕方でございます」
騎士は振り返ると、訝しげに眉をひそめてイグナティオを睨んだ。
「私は3日前までホスロイに居りました」
騎士はホスロイと聞いて何かを勝手に悟ったようだった。
──落ちた。
イグナティオは心中で確信してほくそ笑んだ。しかしそれを面に見せず、続ける。
「わたくしはホスロイにて皇家に名を連ねるお方と共にありました」
「なんだと......!?」
「白銀の髪に黒獅子の短剣を帯び、伴の方も連れていらした。間違いございません」
ホスロイにて捕囚となってから運良く逃げ出して峠を越える時、イグナティオは確かに白銀の髪の貴人らしい少年と共に居た。加えて、少年が腰に下げていた黒獅子の短剣は、皇族の本流の者にしか帯びることが許されていない代物である。それに、パルソリア平原での戦いには、皇子3人が出馬している事は商人仲間を伝って知っていた。
「白銀の髪......ファルシール殿下......!」
(ほう。あの銀髪のやつ、やはり皇子であったか。ファルシール......ということは第6皇子か)
騎士はイグナティオの言葉を吸い込むように聞くと、怒りの形相で馬を飛び降りてイグナティオに迫った。
「......何のつもりか知らんが、俺を謀るつもりなら相当タチが悪い!」
騎士は腰の剣を再び抜いてイグナティオに突きつけた。にわかに頭に血が登り、今度は容赦するなどの冷静さはない。首筋に当てられた切先が肌に食い込んで、あわや血が出る寸前である。イグナティオは心の臓が止まりそうなほど怖じ気付いたが、おくびにも出さず、最後のひと押しをした。
「この馬群は私がホスロイからイーディディイールへ殿下と共に至った時に、ファルシール殿下から譲り受けたものでございます。殿下はイーディディイールから馬を替えられた。探せば殿下のお乗りになっていた葦毛の馬が居るはずです」
イグナティオは嘘は言わなかった。実際にイーディディイールで皇子から馬を貰い受けていたし、すべての馬をもらう約束であったので、皇子の白い馬も貰っている。ただ、言わなくても良い事は言わなかった。奴隷として売り払った事実まで漏らすと、即座に首が飛ぶであろう。
騎士は剣を突きつけたまま、辺りを見回した。本当はこの商人から目を離したくなかったが、一縷の望みの誘惑に勝てなかった。
「──っ!!」
そしてすぐに見覚えのある白い馬を馬群の中に認めて狼狽えた。
騎士は揺れた。皇家の消滅と共に死ぬ覚悟を決めた騎士にとって、生きて仕えるという大義を目の前をちらつかされたのだ。意地と意思の鬩ぎ合いが、騎士の平静を取り去った。
(あとひと押しか)
「騎士殿。あなたはあなたの守るべき君のためにその忠節を尽くすべきではないのですかな」
イグナティオは少し熱を込めて言い放ってやった。
いつの間にか止んでいた雪の代わりに灰だけが降って、アキシュバルの上空には分厚い雲がなっていた。時折、炎の熱が作った雲が乾いた雷鳴を呼んだ。
十分すぎるほど長い沈黙が流れた。それから騎士は力なく剣を下ろした。
「......お前の目的はなんだ。ネルヴィオスの商人が何ゆえ皇家を気に掛ける」
騎士は悄然とした面持ちで弱々しく問うた。騎士の最後の抵抗にも聞こえるその声は、ほぼイグナティオの提示した望みに屈したのを認めた結果からであった。イグナティオは、自身がこの場で最も価値のある人物であるのを騎士に知らしめたのだった。
「私はネルヴィオスの商人ではございますが、生まれはシャリムにございます。商人とて人の子。故国がこのような終わり方では、あまりに不憫かと」
騎士はイグナティオが商人である事を忘れていなかった。それゆえにただの親切心などで教えているわけではないことは分かっていたが、イグナティオの本心はともかく、もはやイグナティオに乞うしかなくなった。君の所在を知るのは、このイグナティオしか居ない。
騎士は崩れ落ちるように膝を折って地面に跪いた。誠意を示すのにこれ以外はなかった。
「......殿下はどちらに。──どうか」
騎士の声には震えが混ざっている。
「ミナオへと向かわれました」
皇子を売り付けたセグバントがイーディディイールから逃れてまず向かうとすれば、間違いなくミナオである。イグナティオは、あえて皇子の居場所をすんなりと教えた。ここで話を長く引っ張ったところで、特に意味はない。
「俺はお前に何をすれば良い」
(ものわかりが良い騎士だ。だがここで欲を出して要求を増やさぬ方が賢明だろう)
「今は何も。ただ望むとすれば、騎士様と共にミナオへと」
騎士は神妙な表情でイグナティオを見上げた。イグナティオの顔には、不思議と笑みが浮かんでいた。すべてイグナティオの思惑どおりであった。
早朝、アキシュバルの郊外の殺伐とした荒野の風に乗せて、灰と粉雪が混じりながら舞い降っていた。
辺りには諸侯の軍勢の馬蹄の轟きが鳴り響きいよいよ西の先陣が城門へと差し掛かる頃である。とは言っても、アキシュバルの円城にはもはや抵抗する人影はなかったために、開け放たれた城門にするりと流れ込むだけである。
荒野にその眺めを立ち尽くして見届けている人影があった。黒鎧を纏った騎士、ケイヴァーンである。体躯から湯煙を発して蠢く馬群の中で、ケイヴァーンはただひとり、静かに押し黙っていた。
皇帝は死に、彼は今や何者の騎士ではなかった。仕える君を失い、兵を失い、およそ国都も灰塵と化して間も無く陥ちる。
ケイヴァーンには2つの道があった。いずれこの場所も諸侯の軍勢に飲み込まれるならば、1人でも多くの賊軍を道連れにして敵陣にて果てるか、大義なしと逃げ去るか、である。
無論、武人としての矜持を知るケイヴァーンには、逃げるという道は有り得なかった。
ケイヴァーンは皇帝の亡骸に返した剣を見遣ってから、先ほど射落として息絶えていた近衛の身に付けている剣を抜き取って腰に下げ、再び馬に乗ろうとした。
「何者だ」
その時、辺りの砂地から物音がした。周りには馬の群れが留まっていたが、その音は馬が立てるような音ではない。ケイヴァーンは瞬時に剣を抜くと、物音のした方に向いて構えた。
しかし何も起きない。物音は一瞬のものであったが、確かに何か硬い岩と岩を擦るような音で自然のものではない。ケイヴァーンは馬群の中に分け入って、音のした所を探した。
すると、馬群で隠れさていた地下隧道の竪穴を足下に見つけた。岩の板で封をしてある出入口が半端に開いていている。
ケイヴァーンが竪穴の中に剣を入れると、剣は中に居た者の首もとに突きつけられた。
それから、ひとりの男がおずおずと顔を出した。
「ま、待て、私は武器を持ってない」
背はケイヴァーンより低く、小綺麗な西方の衣服を纏った男で、女受けの良さそうな顔に引き吊った笑みを浮かべている。一見、商人のような風貌である。
「何をしていた」
ケイヴァーンは剣を下ろすことなく問うた。
「私は西方ネルヴィオスの商人で、イグナティオ=スー=スーシと申します。アキシュバルにて大火が起こりました故、焼け出されてこの地下隧道まで逃げ込んだ次第でございます......」
イグナティオと名乗った男は、ニタりと笑って冷や汗を流した。
ケイヴァーンは剣をさらに男の首筋に近づけて迫った。
(この男が出てきた地下隧道の孔、恐らくは皇帝陛下が皇宮から退避された際に用いられたものだ。この男がアキシュバルからここの孔に出たということは、ここ以外から地上に出る孔は無いことになる。つまり、皇帝陛下が通られた道筋を追って来た事になる)
「わ、私はなにもしていません!」
怪しさで言えばこの男はこの上なく怪しかった。焼け出されたためにこの地下隧道へと潜ったのならば、他の市民もこの孔から出てきているはずである。しかしこの辺りには人影もなければ、居た気配もない。
「お前はなぜこの地下隧道を知っている」
「そ、それは、たまたま救貧院の裏手の水汲み場に逃げましたら......」
ケイヴァーンが剣を男の顎に押し当てると、男は笑みを消して固唾を飲んだ。
(これ以上は出ないか。完全に信用することは出来ないが)
「まあ良い」
ケイヴァーンが剣を鞘に納めると、男は大きく肩の力を抜いた。
「イグナティオと言ったな。いつからそこに居た」
「随分と前から居りました」
(ということは、一部始終を目撃している......?)
「何か見たか」
「......地下隧道にてそちらの御仁と兵士の一団が殺しあいを始めたところを見掛けました......」
イグナティオと名乗ったネルヴィオス商人は視線を皇帝の遺骸に向けてから、ケイヴァーンに一路で遭遇した弑逆の顛末を語った。
。。。
イグナティオは諸侯の軍勢が迫る中で長くとも短くともなく語った。先程から警戒を解いていない黒鎧の騎士に冷や汗を滲ませながら、それでも努めて真実を隠さずに伝えた。
(まったく、とんだ災難続きだ。ただでさえおっかない近衛たちが去ったと思ったら、こんな奴に見つかるとは。よりによって、暑苦しい犬なんぞに)
黙って聞いていた騎士は途中で首を落とされた老将の話に狼狽した。
「ダレイマーニ......だと......!? まさか父上が──」
イグナティオは騎士が口走ったひと言に思い至るものを聴いた。
(父上、と言ったな......ダレイマーニは確か大万騎将、その息子ということは......この騎士、もしかすると獅子殺しケイヴァーンか? 黒い鎧に金髪の偉丈夫、この若さ、間違いない。──なら、ちょうど良い)
イグナティオは瞬時にあることを閃いた。
イグナティオは騎士のことを知らないように振る舞い続けた。
「これからこの国はどうなるのでしょう......」
イグナティオは心配そうな表情
を作って燃えるアキシュバルを眺めながら呟いた。
「皇家は潰えた。皇帝陛下も3方の皇子殿下もすでに亡いとなれば、シャリムは滅んだも同然」
騎士はイグナティオに答えて、「アヒヤ」と自らの馬を呼んだ。すると騎士が乗っていた青毛の馬が馬群のなかを分け入って騎士の前まで歩み来た。
「お前は元居た地下隧道へ戻って隠れていると良い。あの軍勢が通過した後に隙を見て西の都市シーラーズへ向かえば、まだ冬前にメギイトへと向かう隊商があるはずだ」
騎士は慣れた動きで馬に乗った。鎧が重く鳴る。
「お前を逃がしてやりたいが、俺にはする事がある」
馬も主の動きに合わせて足踏みをひとつすると、短く嘶いて意気込んだようだった。
「これからあの軍勢に」
「大万騎将が陛下をお守りして果てた。俺は陛下の御首級をせめて取り返さねば。皇家に忠誠を誓った騎士として、最後の君の威儀をお守りする」
騎士は間近に迫る軍勢を遠い目で正面に捉えると、馬の腹を蹴って進み出そうとした。
イグナティオはその後ろ姿に、見計らったように声を掛けた。
「あなたの仕えるべき君は、まだおりますのに?」
騎士はイグナティオの言葉に馬を止めた。
「なに」
「私がアキシュバルに訪れたのは昨日の夕方でございます」
騎士は振り返ると、訝しげに眉をひそめてイグナティオを睨んだ。
「私は3日前までホスロイに居りました」
騎士はホスロイと聞いて何かを勝手に悟ったようだった。
──落ちた。
イグナティオは心中で確信してほくそ笑んだ。しかしそれを面に見せず、続ける。
「わたくしはホスロイにて皇家に名を連ねるお方と共にありました」
「なんだと......!?」
「白銀の髪に黒獅子の短剣を帯び、伴の方も連れていらした。間違いございません」
ホスロイにて捕囚となってから運良く逃げ出して峠を越える時、イグナティオは確かに白銀の髪の貴人らしい少年と共に居た。加えて、少年が腰に下げていた黒獅子の短剣は、皇族の本流の者にしか帯びることが許されていない代物である。それに、パルソリア平原での戦いには、皇子3人が出馬している事は商人仲間を伝って知っていた。
「白銀の髪......ファルシール殿下......!」
(ほう。あの銀髪のやつ、やはり皇子であったか。ファルシール......ということは第6皇子か)
騎士はイグナティオの言葉を吸い込むように聞くと、怒りの形相で馬を飛び降りてイグナティオに迫った。
「......何のつもりか知らんが、俺を謀るつもりなら相当タチが悪い!」
騎士は腰の剣を再び抜いてイグナティオに突きつけた。にわかに頭に血が登り、今度は容赦するなどの冷静さはない。首筋に当てられた切先が肌に食い込んで、あわや血が出る寸前である。イグナティオは心の臓が止まりそうなほど怖じ気付いたが、おくびにも出さず、最後のひと押しをした。
「この馬群は私がホスロイからイーディディイールへ殿下と共に至った時に、ファルシール殿下から譲り受けたものでございます。殿下はイーディディイールから馬を替えられた。探せば殿下のお乗りになっていた葦毛の馬が居るはずです」
イグナティオは嘘は言わなかった。実際にイーディディイールで皇子から馬を貰い受けていたし、すべての馬をもらう約束であったので、皇子の白い馬も貰っている。ただ、言わなくても良い事は言わなかった。奴隷として売り払った事実まで漏らすと、即座に首が飛ぶであろう。
騎士は剣を突きつけたまま、辺りを見回した。本当はこの商人から目を離したくなかったが、一縷の望みの誘惑に勝てなかった。
「──っ!!」
そしてすぐに見覚えのある白い馬を馬群の中に認めて狼狽えた。
騎士は揺れた。皇家の消滅と共に死ぬ覚悟を決めた騎士にとって、生きて仕えるという大義を目の前をちらつかされたのだ。意地と意思の鬩ぎ合いが、騎士の平静を取り去った。
(あとひと押しか)
「騎士殿。あなたはあなたの守るべき君のためにその忠節を尽くすべきではないのですかな」
イグナティオは少し熱を込めて言い放ってやった。
いつの間にか止んでいた雪の代わりに灰だけが降って、アキシュバルの上空には分厚い雲がなっていた。時折、炎の熱が作った雲が乾いた雷鳴を呼んだ。
十分すぎるほど長い沈黙が流れた。それから騎士は力なく剣を下ろした。
「......お前の目的はなんだ。ネルヴィオスの商人が何ゆえ皇家を気に掛ける」
騎士は悄然とした面持ちで弱々しく問うた。騎士の最後の抵抗にも聞こえるその声は、ほぼイグナティオの提示した望みに屈したのを認めた結果からであった。イグナティオは、自身がこの場で最も価値のある人物であるのを騎士に知らしめたのだった。
「私はネルヴィオスの商人ではございますが、生まれはシャリムにございます。商人とて人の子。故国がこのような終わり方では、あまりに不憫かと」
騎士はイグナティオが商人である事を忘れていなかった。それゆえにただの親切心などで教えているわけではないことは分かっていたが、イグナティオの本心はともかく、もはやイグナティオに乞うしかなくなった。君の所在を知るのは、このイグナティオしか居ない。
騎士は崩れ落ちるように膝を折って地面に跪いた。誠意を示すのにこれ以外はなかった。
「......殿下はどちらに。──どうか」
騎士の声には震えが混ざっている。
「ミナオへと向かわれました」
皇子を売り付けたセグバントがイーディディイールから逃れてまず向かうとすれば、間違いなくミナオである。イグナティオは、あえて皇子の居場所をすんなりと教えた。ここで話を長く引っ張ったところで、特に意味はない。
「俺はお前に何をすれば良い」
(ものわかりが良い騎士だ。だがここで欲を出して要求を増やさぬ方が賢明だろう)
「今は何も。ただ望むとすれば、騎士様と共にミナオへと」
騎士は神妙な表情でイグナティオを見上げた。イグナティオの顔には、不思議と笑みが浮かんでいた。すべてイグナティオの思惑どおりであった。
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