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第1章 Ⅴ節 皇都陥落─後編─
Ⅴ節 皇都陥落─後編─ 3
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一騎の若き万騎将の姿が、乱戦極まる南門の前にあった。
黒鎧に身を包んだ騎士ケイヴァーンである。
ケイヴァーンは襲いかかる諸侯の兵士を薙ぎ倒しつつ南門の城塔に上ると、郊外の遠くにおびただしい数の松明がひしめいて寄せているのを見た。
諸侯たちの軍勢である。
軍勢は南の方角に見渡す限りに広がって澄んだ冬の空気に霞みながら砂漠の奥から迫っている。その数は優に50万を下らないであろう。
最期の報告をした部下によれば、西からも同じような数が近づいている。
(諸侯らが持てる全ての兵力を以てアキシュバルを落としにかかっているのは間違いない)
先に内部に入り込んだ先兵で城内を撹乱して時間を稼ぎ、頃合いを見て城門を開け放つ。あとは大挙して押し寄せた諸侯たちの本軍が皇都を落とす。完全に諸侯らの術数にはまっている。
ただ、拭い去れない違和感が絶えず頭の隅にちらついていた。
(糧食部隊が入城しなければ、この策は成功しない。そのためにはアキシュバルの兵力が不足している状況が不可欠だ。それに、パルソリア平原で主力の皇国軍が壊滅するという条件がなければ、諸侯の兵士を呼び寄せて補填するという考えに至る事もなかった──。いや)
「覚悟ぉおおっ!! ?! がふっ......!!」
ケイヴァーンは大振りに剣を振りかざす諸侯の兵を片手でいなして斬り崩した。そのあと、かぶりを振って優先すべき事を自分に言い聞かせた。
(いや、今は皇帝陛下との合流が先決だ。もはやアキシュバルにはあの数の諸侯軍に太刀打ち出来る兵力はない)
南門の城塔を見渡しても、見方の兵士が立って戦っている姿は、ほとんど無くなっていた。命令を伝える兵も、導くべき兵も、もうケイヴァーンには残っていなかった。
皇都の守護を放棄する命を下しても、聞き届ける兵はいない。
皇都を燃やす大火の熱風がケイヴァーンの背中を押して吹き抜けた。
(──行こう)
ケイヴァーンは城壁から降りると、馬に乗った。
後から諸侯の兵士と一部の裏切った鎮護軍の兵士が追いかけてくる。
「はっ」
ケイヴァーンは半開きになった城門の隙間に向けて馬鞭を打って馬を走らせた。
辺りを見回すと、大陸随一の美しさと繁栄を極めたシャリム皇国の都アキシュバルは、今や諸侯の謀叛によって焼かれ、業火に灰塵と潰えていた。民の営みの軌跡は全て黒煙と炎に呑まれ、混乱と死臭が渦巻いて、強烈な地獄が地上に湧き出でていた。昨日まで詰めていた南門の詰所も、今は火中であった。
「ケイヴァーンだ!! あそこに居るぞ!! 殺せっ!!」
駆けていると、猛追する騎馬の集団が後ろに見えた。
歩兵相手ならまだ一騎でも分があるが、騎兵となるとそうもいかない。向き直って一戦交えるわけにはいかない。止まれない。
しかし、門への道は小高い山のように累々と折り重なった諸侯兵と部下たちの死屍で足場無く塞がれていた。
ケイヴァーンは馬の足を遅める事なく、死骸の上を一直線に城外へと駆けた。
(......すまない)
駆け抜けた死屍には蹄鉄の跡が残された。
門をすり抜けると、遠くの荒野に黒く広がる諸侯の軍勢が目に飛び込んできた。ちょうど東の空が薄く白んで、少しはっきりと見えるようになっていた大軍は、着々と皇都へ歩み寄りつつある。
ケイヴァーンは左右を見渡し、軍勢の包囲がまだ完成していない東に馬首を向けようとした。
(......なんだ......?)
その時、視界の端を掠めたものがあった。昨晩は暗くなっていて見えなかったが、皇都の南西の方角に数百からなる馬の群れがひとつあった。
砂漠に馬は自生しない。それに、意図してそこに誰かが留め置かない限り、群れが草の少ない砂漠に留まる事もない。
「......」
ケイヴァーンは直感的にそちらへと向かうことにした。
諸侯軍50万の真っ只中に飛び込んでいくようなものである。下手をすれば迫ってくる敵に見つかるかも知れなかった。しかし、何かがあるとケイヴァーンは確信した。
(皇宮から逃れるならば、地下しかない。地上を通るのは危険過ぎる。ならば、郊外のどこかに出口があるはず。もしかしたらあの馬群が、何か関係するのやも知れん)
ケイヴァーンは最高速で馬を駆け、馬群へと近いていった。
それからしばらく走っていると、馬群のなかに動きがあった。
馬群の中に人影が見えたのだ。まだ日が昇ってないのと、遠目でよく見えなかったが、数人の甲冑を纏った者たちが馬群の中央に見え隠れしていた。
6ジクアリフ(キロメートル)ほどの距離に近づくと、その正体がはっきりと判った。
(近衛たちだ......!)
皇帝の身辺を守護する近衛兵であった。鎧を着た姿形が他の兵士のものとは違っている。
(ということは、やはり皇帝陛下はあそこに......! しかし、あのままでは軍勢の只中に出てしまう!)
ケイヴァーンは、より速く馬を走らせた。
だが、様子が違った。人影は馬に乗って諸侯の軍勢の方へと進んで行くではないか。
(近衛らは何を考えて──)
このとき、ケイヴァーンは先ほどから感じていた違和感に、強く思考を引き戻された。
(なぜ我が軍はこうも巧く敵の術数にはまった? 違う。ニハヴァンテのように鎮護軍の中に謀叛に加担する者たちが居たように、味方にこの謀がはまるよう誘導した者が居たからだ。そんなことが出来るのは、国事に容易く干渉でき、此度の糧食部隊を使った兵力の補充を父上へと進言した──)
「宰相ベルマン......!」
ケイヴァーンは全身の血の気が一瞬にして退いていくのを感じた。握っていた槍を動揺のあまり落としそうになった。
(ベルマン殿しかあり得ない......! こんなにも大規模な諸侯の軍勢がアキシュバルまで迫っていたのに、報告ひとつ入っては来なかった。それに、諸侯のもとへお目付け役として派遣される皇帝の目が、挙兵の動きを察知しながら伝えない訳はない。全て宰相が揉み消していたとすれば、合点が行く!)
「はっ!」
ケイヴァーンはさらに速く馬を駆けた。南門から相当な時間馬を駆け続けていて馬も疲労ぎみであったが、気にしている余裕はない。
(もしかすると、近衛も謀叛に加担しているかもしれん......!)
遠目から見える近衛たちは、何やら落ち着き払って、諸侯の軍勢と合流するように見えた。何か黒い塊を剣先に掲げて。
(......っ!)
恐ろしい予感が頭を過った。
その影は、戦場において勝者が敵将の御首級を剣先に掲げて戻っていく様と同じであった。
もう疑う余地はなかった。
「陛下ぁっ!!」
ケイヴァーンは叫んだ。半ば悲鳴にも似た叫び声は荒涼とした岩石砂漠に響いて、1ジクアリフ(キロメートル)先に居た近衛たちの耳にも届いた。
「おい、何か来ているぞ」
「あれは──っ」
近衛の長の隣に居た兵が、喋りかけて声を止めた。
「なんだ、最後まで言わぬか──!?」
近衛の長が部下を振り返ると、部下の喉をひと筋の鷹羽根の矢が貫いていた。
ケイヴァーンが矢を射たのだった。
五人張りの弓を引き絞り、弦を離すと、半ジクアリフ(500m)先の標的に鋭く矢が走った。
矢はその鏃の鋭利さと重さを弓の強さに加えて、深々と標的の喉笛を掻き切って刺さる。
矢を受けた近衛兵は馬上から転げ落ちた。
「て、敵です! 敵が来ます!」
「分かっている! 駆けよ!」
近衛の長は残り少ない部下に命を出して急いで馬を駆けさせた。
近衛の馬は速かった。たまたま地下隧道を出たところに軍馬の群れが留まっていたのを何頭か拝借したので、馬は元気であったのだ。
ケイヴァーンは矢を放ちつつ猛追したが、500アリフ(メートル)の距離は縮まらず、悪いことに駆け続けのケイヴァーンの馬は、ここへ来て速度を落とし始めた。
(頼む! まだもってくれ!)
ケイヴァーンの馬は、いくら鞭を打っても駆けなくなった。やがて常歩になり、馬群の手前あたりで足を止めた。
ケイヴァーンは近衛が諸侯の軍勢の中に消えていくのを、動かない馬の上から見届けるしかなかった。
沸き立つ怒りと拭えない悔いを胸中に抱えて、ケイヴァーンは馬から降りた。
青毛の軍馬は息を荒くしながら、砂漠の早朝の寒さに身体中から湯気を発している。ケイヴァーンは馬に寄って頭をひと撫でして労うと、覚悟を決めて周りを見回した。
辺りを囲む馬群の中から確かに血の匂いが立っていた。先ほど射落とした近衛は、跨がっていた馬のそばに仰向けに転がって息絶えている。他にも斬り合った末に倒された近衛の死体が何体か横たわっている。
その中に、ケイヴァーンの探している者があった。
濃紫のマントと、宝石の数々を纏った頭部のない骸──皇帝の遺骸であった。
ケイヴァーンは物言わぬ主君の亡骸に歩み寄ると、静かに俯いた。
大陸の王者と謳われたシャリムの皇帝は今や動かぬ屍となって野に臥し、皇国の都は叛逆と裏切りによって轟々と立ち昇る黒煙に包まれて潰えた。無敗を誇ったシャリム皇国の軍は外敵の前に敗れ去り、万騎将として率いる兵はもう無い。仰ぐべき君主もその後継も、もう居ない。全てが一連のうちに起こり、己はなす術なく、こうして荒野に佇んでいる。
ケイヴァーンは腰に下げていた剣を外した。そして、皇帝の前に跪いて地面に剣を置いた。
武骨な黒い鞘地に黒く燻んだ獅子の浮彫彫刻があるその剣は、ケイヴァーンが21歳で万騎将になった時に皇帝より下賜された剣であった。
(この剣はお返し致します。わたくしが忠誠を誓うのはシャリム皇家のみ。もはやわたくしは何人の騎士でもありません)
ケイヴァーンは地に手を突いてそのまま祈りを捧げた。
(願わくは地上の栄光と武威が、神々の天上の玉座とならん事を......)
ケイヴァーンは立ち上がる。
辺りからは諸侯の軍勢の歩みが低い地鳴りとなって響いてくる。
砂漠の空を覆う雲は、西から東へと速く流れて、大きな塊の端を小さく千切れさせて地を押し縮めるように重く影を落としている。
ゆっくりとケイヴァーンの肩に白い細雪が舞い落ちた。
初雪であった。
一騎の若き万騎将の姿が、乱戦極まる南門の前にあった。
黒鎧に身を包んだ騎士ケイヴァーンである。
ケイヴァーンは襲いかかる諸侯の兵士を薙ぎ倒しつつ南門の城塔に上ると、郊外の遠くにおびただしい数の松明がひしめいて寄せているのを見た。
諸侯たちの軍勢である。
軍勢は南の方角に見渡す限りに広がって澄んだ冬の空気に霞みながら砂漠の奥から迫っている。その数は優に50万を下らないであろう。
最期の報告をした部下によれば、西からも同じような数が近づいている。
(諸侯らが持てる全ての兵力を以てアキシュバルを落としにかかっているのは間違いない)
先に内部に入り込んだ先兵で城内を撹乱して時間を稼ぎ、頃合いを見て城門を開け放つ。あとは大挙して押し寄せた諸侯たちの本軍が皇都を落とす。完全に諸侯らの術数にはまっている。
ただ、拭い去れない違和感が絶えず頭の隅にちらついていた。
(糧食部隊が入城しなければ、この策は成功しない。そのためにはアキシュバルの兵力が不足している状況が不可欠だ。それに、パルソリア平原で主力の皇国軍が壊滅するという条件がなければ、諸侯の兵士を呼び寄せて補填するという考えに至る事もなかった──。いや)
「覚悟ぉおおっ!! ?! がふっ......!!」
ケイヴァーンは大振りに剣を振りかざす諸侯の兵を片手でいなして斬り崩した。そのあと、かぶりを振って優先すべき事を自分に言い聞かせた。
(いや、今は皇帝陛下との合流が先決だ。もはやアキシュバルにはあの数の諸侯軍に太刀打ち出来る兵力はない)
南門の城塔を見渡しても、見方の兵士が立って戦っている姿は、ほとんど無くなっていた。命令を伝える兵も、導くべき兵も、もうケイヴァーンには残っていなかった。
皇都の守護を放棄する命を下しても、聞き届ける兵はいない。
皇都を燃やす大火の熱風がケイヴァーンの背中を押して吹き抜けた。
(──行こう)
ケイヴァーンは城壁から降りると、馬に乗った。
後から諸侯の兵士と一部の裏切った鎮護軍の兵士が追いかけてくる。
「はっ」
ケイヴァーンは半開きになった城門の隙間に向けて馬鞭を打って馬を走らせた。
辺りを見回すと、大陸随一の美しさと繁栄を極めたシャリム皇国の都アキシュバルは、今や諸侯の謀叛によって焼かれ、業火に灰塵と潰えていた。民の営みの軌跡は全て黒煙と炎に呑まれ、混乱と死臭が渦巻いて、強烈な地獄が地上に湧き出でていた。昨日まで詰めていた南門の詰所も、今は火中であった。
「ケイヴァーンだ!! あそこに居るぞ!! 殺せっ!!」
駆けていると、猛追する騎馬の集団が後ろに見えた。
歩兵相手ならまだ一騎でも分があるが、騎兵となるとそうもいかない。向き直って一戦交えるわけにはいかない。止まれない。
しかし、門への道は小高い山のように累々と折り重なった諸侯兵と部下たちの死屍で足場無く塞がれていた。
ケイヴァーンは馬の足を遅める事なく、死骸の上を一直線に城外へと駆けた。
(......すまない)
駆け抜けた死屍には蹄鉄の跡が残された。
門をすり抜けると、遠くの荒野に黒く広がる諸侯の軍勢が目に飛び込んできた。ちょうど東の空が薄く白んで、少しはっきりと見えるようになっていた大軍は、着々と皇都へ歩み寄りつつある。
ケイヴァーンは左右を見渡し、軍勢の包囲がまだ完成していない東に馬首を向けようとした。
(......なんだ......?)
その時、視界の端を掠めたものがあった。昨晩は暗くなっていて見えなかったが、皇都の南西の方角に数百からなる馬の群れがひとつあった。
砂漠に馬は自生しない。それに、意図してそこに誰かが留め置かない限り、群れが草の少ない砂漠に留まる事もない。
「......」
ケイヴァーンは直感的にそちらへと向かうことにした。
諸侯軍50万の真っ只中に飛び込んでいくようなものである。下手をすれば迫ってくる敵に見つかるかも知れなかった。しかし、何かがあるとケイヴァーンは確信した。
(皇宮から逃れるならば、地下しかない。地上を通るのは危険過ぎる。ならば、郊外のどこかに出口があるはず。もしかしたらあの馬群が、何か関係するのやも知れん)
ケイヴァーンは最高速で馬を駆け、馬群へと近いていった。
それからしばらく走っていると、馬群のなかに動きがあった。
馬群の中に人影が見えたのだ。まだ日が昇ってないのと、遠目でよく見えなかったが、数人の甲冑を纏った者たちが馬群の中央に見え隠れしていた。
6ジクアリフ(キロメートル)ほどの距離に近づくと、その正体がはっきりと判った。
(近衛たちだ......!)
皇帝の身辺を守護する近衛兵であった。鎧を着た姿形が他の兵士のものとは違っている。
(ということは、やはり皇帝陛下はあそこに......! しかし、あのままでは軍勢の只中に出てしまう!)
ケイヴァーンは、より速く馬を走らせた。
だが、様子が違った。人影は馬に乗って諸侯の軍勢の方へと進んで行くではないか。
(近衛らは何を考えて──)
このとき、ケイヴァーンは先ほどから感じていた違和感に、強く思考を引き戻された。
(なぜ我が軍はこうも巧く敵の術数にはまった? 違う。ニハヴァンテのように鎮護軍の中に謀叛に加担する者たちが居たように、味方にこの謀がはまるよう誘導した者が居たからだ。そんなことが出来るのは、国事に容易く干渉でき、此度の糧食部隊を使った兵力の補充を父上へと進言した──)
「宰相ベルマン......!」
ケイヴァーンは全身の血の気が一瞬にして退いていくのを感じた。握っていた槍を動揺のあまり落としそうになった。
(ベルマン殿しかあり得ない......! こんなにも大規模な諸侯の軍勢がアキシュバルまで迫っていたのに、報告ひとつ入っては来なかった。それに、諸侯のもとへお目付け役として派遣される皇帝の目が、挙兵の動きを察知しながら伝えない訳はない。全て宰相が揉み消していたとすれば、合点が行く!)
「はっ!」
ケイヴァーンはさらに速く馬を駆けた。南門から相当な時間馬を駆け続けていて馬も疲労ぎみであったが、気にしている余裕はない。
(もしかすると、近衛も謀叛に加担しているかもしれん......!)
遠目から見える近衛たちは、何やら落ち着き払って、諸侯の軍勢と合流するように見えた。何か黒い塊を剣先に掲げて。
(......っ!)
恐ろしい予感が頭を過った。
その影は、戦場において勝者が敵将の御首級を剣先に掲げて戻っていく様と同じであった。
もう疑う余地はなかった。
「陛下ぁっ!!」
ケイヴァーンは叫んだ。半ば悲鳴にも似た叫び声は荒涼とした岩石砂漠に響いて、1ジクアリフ(キロメートル)先に居た近衛たちの耳にも届いた。
「おい、何か来ているぞ」
「あれは──っ」
近衛の長の隣に居た兵が、喋りかけて声を止めた。
「なんだ、最後まで言わぬか──!?」
近衛の長が部下を振り返ると、部下の喉をひと筋の鷹羽根の矢が貫いていた。
ケイヴァーンが矢を射たのだった。
五人張りの弓を引き絞り、弦を離すと、半ジクアリフ(500m)先の標的に鋭く矢が走った。
矢はその鏃の鋭利さと重さを弓の強さに加えて、深々と標的の喉笛を掻き切って刺さる。
矢を受けた近衛兵は馬上から転げ落ちた。
「て、敵です! 敵が来ます!」
「分かっている! 駆けよ!」
近衛の長は残り少ない部下に命を出して急いで馬を駆けさせた。
近衛の馬は速かった。たまたま地下隧道を出たところに軍馬の群れが留まっていたのを何頭か拝借したので、馬は元気であったのだ。
ケイヴァーンは矢を放ちつつ猛追したが、500アリフ(メートル)の距離は縮まらず、悪いことに駆け続けのケイヴァーンの馬は、ここへ来て速度を落とし始めた。
(頼む! まだもってくれ!)
ケイヴァーンの馬は、いくら鞭を打っても駆けなくなった。やがて常歩になり、馬群の手前あたりで足を止めた。
ケイヴァーンは近衛が諸侯の軍勢の中に消えていくのを、動かない馬の上から見届けるしかなかった。
沸き立つ怒りと拭えない悔いを胸中に抱えて、ケイヴァーンは馬から降りた。
青毛の軍馬は息を荒くしながら、砂漠の早朝の寒さに身体中から湯気を発している。ケイヴァーンは馬に寄って頭をひと撫でして労うと、覚悟を決めて周りを見回した。
辺りを囲む馬群の中から確かに血の匂いが立っていた。先ほど射落とした近衛は、跨がっていた馬のそばに仰向けに転がって息絶えている。他にも斬り合った末に倒された近衛の死体が何体か横たわっている。
その中に、ケイヴァーンの探している者があった。
濃紫のマントと、宝石の数々を纏った頭部のない骸──皇帝の遺骸であった。
ケイヴァーンは物言わぬ主君の亡骸に歩み寄ると、静かに俯いた。
大陸の王者と謳われたシャリムの皇帝は今や動かぬ屍となって野に臥し、皇国の都は叛逆と裏切りによって轟々と立ち昇る黒煙に包まれて潰えた。無敗を誇ったシャリム皇国の軍は外敵の前に敗れ去り、万騎将として率いる兵はもう無い。仰ぐべき君主もその後継も、もう居ない。全てが一連のうちに起こり、己はなす術なく、こうして荒野に佇んでいる。
ケイヴァーンは腰に下げていた剣を外した。そして、皇帝の前に跪いて地面に剣を置いた。
武骨な黒い鞘地に黒く燻んだ獅子の浮彫彫刻があるその剣は、ケイヴァーンが21歳で万騎将になった時に皇帝より下賜された剣であった。
(この剣はお返し致します。わたくしが忠誠を誓うのはシャリム皇家のみ。もはやわたくしは何人の騎士でもありません)
ケイヴァーンは地に手を突いてそのまま祈りを捧げた。
(願わくは地上の栄光と武威が、神々の天上の玉座とならん事を......)
ケイヴァーンは立ち上がる。
辺りからは諸侯の軍勢の歩みが低い地鳴りとなって響いてくる。
砂漠の空を覆う雲は、西から東へと速く流れて、大きな塊の端を小さく千切れさせて地を押し縮めるように重く影を落としている。
ゆっくりとケイヴァーンの肩に白い細雪が舞い落ちた。
初雪であった。
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