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三章

三話 言うなぁあああああああああああああああああああああああ! その九

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「ちょ、ちょっと兄さん!」
「正道! ウチの旦那から手を放しなさい!」

 上春と女の言葉を無視し、俺は上春信吾を睨みつけ、黙らせる。絶対に言わせないぞ、上春信吾! それだけは絶対に!
 胸倉を掴む手に力を籠め、上春信吾を窒息させる。意識を失えば、もう何も言わないだろう。
 悪いが、このまま落とさせて……。

「やめなさい、正道」

 義信さんの言葉に、俺は力が緩んでしまう。
 どうして? どうしてですか、義信さん。
 上春信吾は言ってはいけないことを言おうとしているんですよ? 
 楓さんまで、どうして、俺をそんな目で見るんですか? そんな悲しそうな目で。

 俺は断腸だんちょうの思いで上春信吾の胸元から手を放す。上春信吾は尻餅をつき、げほげほと息を吐き出している。
 女が、上春が、強が上春信吾の元に集まる。まるで、上春信吾を護るように、俺と上春信吾の間に入る。

 まるで境界線だ。上春家と藤堂家。お互いの距離がそこにあった。
 その境界線を、上春信吾は臆せずに踏み込んできた。

「正道君、僕は逃げないよ。たとえ、キミに嫌われても、僕はキミと家族になる為に踏み込むよ。だから、認めなよ。キミは……」
「……頼む……言わないでくれ」

 もう、暴力で上春信吾の口をふさぐことはできない。
 俺に出来ることは哀願することだけだ。偽りでも、それでも、俺は……。

「義信さんと楓さんを仮の家族だと思っている。本物の家族は澪さんと、離婚したキミの父親だと分かっているんだ。だから、義信さんと楓さんを父さん、母さんと呼べないでいる。義信さんも楓さんもキミの気持ちに気づいているから、お互いよそよそしくなってしまう。これが正道君のいう家族なのかい? そんなものは、間違っているよ」

 いいやがった……俺が必死に隠していたことを……。
 間違っているだと……知ってるよ……そんなことは……。

 全身の力が抜け、めまいで倒れそうになる。
 そうだ。俺の父親と母親は二人しかいない。
 心でどれだけ否定しても、罵ろうと、諦めきれないんだ。夢で父さんと母さんと一緒に暮らしていた夢を見続けるはそのためだ。
 きっと、心のどこかでそう願い、それを無意識のうちに夢の中で再現しているのだろう。両親と一緒に暮らしていた、かけがえのない時間を。

 二人に罵られた悪夢を見るよりも、家族団欒の幸せだったときの夢を見た後の方が寂しくて、胸がぎゅっと苦しい気持ちになる。それは、俺がまだ家族でやり直せることを願っている証拠だ。

 でも、そんなこと、言えるはずもなかった。言えるわけがないだろうが……。
 両親に捨てられ、俺を助けてくれたのは、優しくしてくれたのは、義信さんと楓さんなんだ。
 その二人を裏切るようなことは口が裂けても言えなかった。

 ひどい裏切りだ。俺は自分の気持ちを優先させるだけで、相手の事を考えてこなかった。
 大切だと、優しくしてくれる人の手を、払い続けたんだ。
 義信さん、楓さん、御堂、伊藤……手を伸ばせば掴めた幸せを、俺は頑なに否定してきた。
 なぜなら、俺が手にしたかったものは……愛されたかったのは、父さんと母さんだから……俺は今でも、父さんと母さんが……好きなんだ。

「兄さん……」
「あんちゃん……」
「正道……」

 俺は歯をぎゅっと噛みしめ、こみあげてくる涙をこらえた。
 みじめだ、あわれだ、救いようのないバカだ……かなうはずのない夢を見続け、本物という、ありもしない妄想にすがった愚か者だ。

 俺は無意識に女と視線を合わせてしまった。女は心配げに、悲しげに、俺を見つめている。
 やめろ。そんな悲しげな視線を向けるな。俺は不幸なんかじゃない。同情されるいわれはない。

 女の手が、俺に向かって差し伸ばされる。
 きっと、その手を掴めば、やり直せるのかもしれない。取り戻したかった絆ではないけれど、新たな絆が、この痛みを癒してくれるのかもしれない。
 俺はその手を……払いのけた。

「……」

 女は何も言わない。泣きそうな顔で俺を見つめている。
 なぜ、手を払いのけたのか? 分からない。求めていたはずなのに……でも、なぜか握ってしまってはいけないと思った。

 心のどこかで何かが叫んだんだ。握る手が違うのだと。では、誰の手をつかめというのか?
 矛盾している。
 両親とやり直したいと思っているくせに、母親の手をはねのけるなんて……でも、引っかかった……何に対して……悲しそうな顔……誰の……。
 思考がまとまらない。何をどうしていいのか、分からない……分からないんだ……。

「ごめんね、正道君。でも、どうしても確かめておきたかったんだ。キミは大切な人を自分の手で遠ざけようとしている。でも、義信さんと楓さんは違った。一緒にいたいと願っていた。正道君にとって、二人は例外だったのか? それとも、大切な人ではなかったのか? 大切な人ではないことは見当外れな答えだね。普段の生活やキミの言動からみて、それは明らかだ。だとしたら、例外が存在するのか? 答えはノーだ。だとしたら、キミはどうやって二人を遠ざけていたのか? さん付けすることで、親として認めないことで、遠ざけていたんだね。でも、それはすごく悲しいことだよ、正道君」

 黙れ……黙れ……。

 そうするしかなかったんだ。もし、義信さんと楓さんに捨てられたら、本当に一人になってしまう。孤独で死んでしまう。
 だから、必死になって隠していたのに……自分が傷つかない為の距離をとっていたのに……なのに……。

 俺の浅ましい考えがみんなに知れ渡ってしまった。この中で一番醜くておぞましい男が正体を現したのだ。
 もう、笑うことしかできなかった。
 本当にピエロだ、俺は……。

「正道君、キミはトラウマを抱えてしまっている。残念だけど、一人では解決できない問題だ。でもね、一人で解決できない問題であって、僕達と一緒なら解決できる問題だって、僕は思う」
「……なぜそう言える? 上春信吾には俺の問題が解決できるというのか?」
「今すぐには無理だよ。でも、条件が違うでしょ?」
「条件?」

 なんだ? なんの条件だ?
 戸惑う俺に、上春信吾は優しく、力強く語りかけてくる。

「今までは正道君一人だったけど、これからは僕達がいる。一人で解決でなくても、二人なら、三人ならきっと解決できるかもしれない。これなら解決できないって言い切れないでしょ?」
「……解決できるとも言い切れないだろ?」

 そう言いつつも、俺の言葉には力がなかった。正直、疲れていた。一人では太刀打ちできない問題だった。誰かにすがりたかった。
 一人で頑張ってきたが、結局答えは見つからず、御堂を、伊藤を傷つけてしまった。
 もうこれ以上、傷つけたくないし、傷つきたくもない。

 疲労しきった俺の心に、上春信吾の提案はまるで麻薬のように魅力的だった。一度でも味わったら抜け出せない、ダメだと分かっていても依存してしまう恐怖と安心感があった。
 上春信吾の提案に乗ってしまいたい。でも、それは弱さだと、心のどこかで否定している自分がいる。
 踏ん切りがつかなかった。

「でも、やってみる価値はあると思う。これが僕が言ったメリットさ。だから、正道君、僕達と家族になろう。お互いの悩みを解決していこうよ。その先にきっと見つかるさ。キミのトラウマの解決方法も家族の答えも」
「家族の答え……」

 上春信吾の提案は途方もない、まるで雲をつかむような話だった。
 普通、親になるには、異性と結婚して、性行為で子供を孕み、子供が産まれた瞬間、親になる。
 上春信吾はその過程を飛ばし、産まれてきた後の子供の親になってしまっている。
 だから、上春達とは本当の家族でない事にコンプレックスを感じ、父親とは何か悩み続けてきた。

 俺は両親に捨てられ、家族とは何か分からなくなっていた。親と子の縁は一生切れないものだと思っていた。
 だが、その常識は打ち砕かれ、失ったものを取り戻す方法が分からず、孤独に震えていた。誰かに愛されるのを恐れてきた。

 そんな二人が、正しい解を導き出させるのか? 何を目印にして解を解く方法を探し当てるんだ?

「なあ、信吾さん。本気なのか? 本気で俺達は家族になれると信じているのか? 俺は家族のことが分からないんだぞ? そんな俺が手を貸したところで、足を引っ張る結果になりかねないんだぞ。お前たち家族の仲を引き裂くかもしれないんだぞ」
「もちろん! それに逆だよ、正道君。キミがいてくれるから、僕達は本物の家族になれるんだ」
「なぜだ? なぜ、そんなことが言える。断言できる」

 俺は再婚に反対していた。なのに、どうして、上春信吾は自信満々に俺を肯定できるのか? 家族として受け入れようとするのか?
 頼む、もっとわかりやすく説明してくれ。根拠を教えてくれ。でなければ、安心できない。不安で仕方ないんだ。

「もう忘れたのかい? 正道君は強を救ってくれたじゃないか」
「……別に救ったつもりはない。俺自身の為にやったことだ。期待されても困る」

 そうだ。あれは強を救おうとしたわけではない。強が俺の姿と被ったから、イラっとしてやったことだ。つまりは自分自身の為だ。
 だが、上春信吾はそう思ってはいないようだ。

「自分自身の為でも、結果的に強は救われたんだ。強は僕達に少しずつだけど歩み寄ってきてくれるようになった。もちろん、まだまだだけど、それでもきっかけを与えてくれたのはまぎれもなく正道君だ。僕や咲では、強を傷つけるのが怖くて、腫物のように扱ってしまった。踏み込めなかった。一緒に過ごした時間は僕達の方が長いのに、正道君は短期間で強に踏み込んでくれた。実は嫉妬していたんだ。どうして、父親である僕ではなく、正道君が強を救ったのかって。情けなくて……身勝手な嫉妬して……悔しくて……泣いたよ、本当」
「……スマン」

 俺は反射的に頭を下げてしまった。そりゃそうだ。上春信吾は、一生懸命、強の親として頑張ってきたのだ。
 だからこそ、誰よりも強の心を開かせたかったのだろう。それを俺がぶち壊してしまったのだ。
 別に何か悪い事をしたわけではなかったし、俺自身、あのときの行動は間違っていなかったと断言できる。それでも、謝ってしまった。

「いいんだ。自分の無力さに恨んだけど、確信したんだ。僕達が家族になるには、本音でぶつかってきてくれる相手が必要なんだって。飾った言葉や相手を気遣う言葉は優しいけど、それだけではダメなんだ。本音でぶつかることも時には必要なんだってキミに教えられたんだ」

 上春信吾の飾らない、本音の言葉に俺は少しテレくさくなった。年上の男に褒められるのはこそばゆい。悪い気はしなかった。
 上春信吾は言葉を続ける。

「本物の家族になるには、いいことも、嫌なことも、全部受け入れなきゃいけないって思うんだ。だから、正道君、キミの力を僕達に貸してほしい。キミが追い求めている答えのためにもね」

 確かに上春信吾と本物の家族について問い続ければ、俺が探してきた答えが見つかるのかもしれない。
 他人や親友でも結ぶことのできない絆を手に入れることが可能かもしれない。
 だが、裏切られるかもしれない。また、捨てられるかもしれない。

 なら、どうすればいい? 上春信吾の提案に乗るか、拒否するか。
 上春信吾の提案に乗ったところで、徒労で終わる可能性だってある。けど、ここで提案に乗らないと俺は一生、答えを見つけることが出来ない気がする。
 どうすれば……どうすれば……。

 ぎゅっ!

「痛っ!」

 太ももに痛みが走る。
 俺の太ももを思いっきりつねってきたのは、朝乃宮だった。
 俺は怒鳴ったやろうとして……言葉を失った。
 朝乃宮はいつも俺に見せる軽蔑したような、嘲るような表情ではなく、澄んだ瞳で俺に優しく笑いかけていたからだ。

 美しい……。

 なぜか、そう思った。朝乃宮が美人なのは知っているが、仇敵ともいえる朝乃宮に綺麗という感情を抱くことはなかった。
 薔薇に棘あり、その言葉を体現したような人物こそ、朝乃宮なのだ。
 だが、今の朝乃宮は人を慈しむような、そんな雰囲気が醸し出されている。
 俺を嫌っている朝乃宮がどうして、そんな顔をするのか?
 それに気のせいか、朝乃宮は笑顔なのに泣いているような儚さを感じてしまい、モロく見えてしまう。
 胸が締め付けられる感覚に戸惑うことしかできなかった。
 朝乃宮はひねった場所をやさしく撫でると、そっと手をのけた。

「らしくないんとちゃいます? そんなことやと、笑われますえ」
「……誰にだ」
「伊藤はんに」


「先輩。らしくないですよ!」


 息が止まるかと思った。伊藤の声が聞こえたような気がしたからだ。あの能天気で人懐っこい、元気な声が朝乃宮の言葉と被って聞こえた。
 そんなはずはない。伊藤の声が聞こえるはずがない。でも、聞こえたんだ……。
 どうしてだろう。胸の奥があたたかい。励まされたような気がする。

 そうだな、笑われるな、伊藤に。俺は伊藤の先輩として、俺らしく、堂々とした態度をとるべきだ。
 迷っていたら、どうしていた? 俺は伊藤にどんな姿を見せていた?
 迷ったら、行動あるのみ。だったら……。

 俺は上春信吾に向かって、手を指し伸ばした。握手を求めるように手を向ける。
 上春信吾は嬉しそうに、俺の手を握った。握手の、契約の成立だ。
 正直、徒労に終わるだけかもしれない。答えは見つからないのかもしれない。
 でも、頑張ってみよう。本物の家族とは何かを問い続けよう。そうすれば、きっと解は見つかるはずだ。
 俺は今日、この時をもって、上春家の家族となった。
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