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四章

四話 伊藤ほのかのファーストキス その四

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 先輩と獅子王先輩が徐々に距離を詰めてくる。
 お互い、射程を捕らえた。いつでも殴りあえる距離。
 緊張感が増していく。
 先輩……怪我しないで……。

 パン!

 ファーストアタックは獅子王先輩の左ジャブだ。
 先輩はそのジャブをガードして防いでいる。
 今度は……ああっ!
 獅子王先輩の左右の手が動いたと思ったら、先輩の顔がのけぞった。
 なんで!

「左右のジャブでガードを崩して、無理やりジャブをねじこみました」

 古見君が何が起こったのか説明してくれる。
 よく分からないんだけど、要は殴られたってことだよね!
 許せない!



 ×××


 痛ッ!
 何をされたのか、一瞬、分からなかった。
 両腕の痛みと、ガードが外れていたことで何をされたのか予測がついた。無駄がなく、流れるようなコンビネーション。大したものだと感心させられる。
 だが、手の速さは御堂や順平、朝乃宮も負けてない。

 見極みきわめろ。
 弱気になるな、気迫きはくで押し返せ。俺からも手を出していけ。
 両脚に力を込め、手を出そうとしたとき、異変に気づいた。
 獅子王先輩が何かに気をとられている。何に? 絶好のチャンスなのだが、気になる。

 獅子王先輩の視線が下に下がる。
 視線を下げてみると……タオル? なぜ、タオルが落ちているんだ?
 待て、タオルだと? 確か、セコンドがタオルを投げたら、試合放棄しあいほうきじゃなかったか?

「試合しゅ~りょ~! お疲れ様でした~! はい、撤収てっしゅう!」

 お前の仕業か、伊藤!
 あのバカ! 始まって十秒でタオル投げるヤツがいるか! しかも、一撃で!

「おい、連れていけ!」
「はい!」
「ヤッ! ドコ触ってるの! エッチ! スケベ! 変態! セクハラ! 藤堂!」

 伊藤が何人かの部員に連れていかれる。
 全く、アイツは……力が抜けるだろうが。
 どうでもいいが、最後の「藤堂」は助けを求めたのか? それとも悪口のたぐいか? 後ではっきりさせておこう。
 獅子王先輩に向き直り、頭を下げる。

「すみません、獅子王先輩。後輩がお騒がせしました。ルール違反は重々承知ですが、このまま続きをさせていただけないでしょうか?」
「敵に頭を下げるなんてバカか、お前は」

 呆れた顔をしている獅子王先輩に、俺は自分の意見をべる。

「こちらの不備で迷惑をかけたのであれば、謝罪するべきです。ですが、負ける気はありません」
「……撤回てっかいするわ。お前、難儀なんぎなヤツってよく言われるだろ? いいぜ、元々遊びだ。細かいことは抜きでいい。あの面白い女とお前に免じて許してやるよ」

 お互い、ファイティングポーズをとる。
 獅子王先輩が楽しそうに笑う。

「どんなボクシングの試合でも、ジャブ一つでタオルを投げたセコンドはあの女だけだ。だが、いいセコンドになれるかもな。タオルを投げた時点で終わっていれば、地獄を見ずに済んだのにな」
「そういうことは勝ってから言え」
「名前は?」
「藤堂」
「そっか。じゃあ、死ね、藤堂」


 ×××



「ああっ! また、殴られた! なんで止めないんですか! 暴行罪で訴えますよ!」
「ボ、ボクシングですから……それに、獅子王先輩が藤堂先輩を怪我させた場合、傷害罪が適用されますので、無理です」
「なら傷害罪です! 訴えますよ! 古○門先生、呼んじゃうんだからね!」

 なんで、古見君が邪魔するのよ! 誰の為にこんなことになってるか、分かってるの!
 古見君だけでなく、ボクシング部員も私の前に立ちふさがる。
 今すぐ、ここに立ちふさがる男どもを蹴散けちらして先輩に助太刀すけだちしたい! 中山安○衛のように格好良く助太刀したい!
 でも、三人の股間を蹴り上げてからは用心されて倒せなくなった。

「ねえ、どいて!」
「どきません。獅子王先輩と藤堂先輩の試合は誰にも邪魔はさせません」
「ふざけないで! 先輩は体調が悪いんだよ! フェアじゃない!」

 どうして、古見君は邪魔をするの! 古見君の為に、先輩は戦っているんだよ! 獅子王先輩の態度に頭がこないの! なんで、獅子王先輩をかばうの!
 私の想いは古見君に届かず、一歩も引いてくれない。

「それでも、リングに立ったのは藤堂先輩の意志です。その意志、決意は誰も邪魔は出来ません。しちゃだめです!」
「そんな男の子の我儘わがままにつきあわせないで! 好きな人が傷つくのを黙って見てろって言うの! やめさせてよ!」

 こうしている間も、先輩は獅子王先輩に殴られ続けている。私は何もできなくて、やめてと叫ぶことしかできない自分が情けない。
 でも、じっとしていられない、何かしなきゃって心が叫んでいる。先輩に教えてもらったことだ。
 だけど、どうやったら先輩を助けることができるの?
 先輩がコーナーに追い詰められ、殴られ続けている。先輩も必死で抵抗しているけど、獅子王先輩の猛攻もうこうは止まらない。
 いつ、先輩が倒れてもおかしくない。
 嫌……こんなの嫌……。

「お願いだから、助けてよ……お願い……」
「……すみません」

 私の目の前で先輩が……先輩が……。

「先輩!」

 悪夢だった。
 獅子王先輩の右ストレートが先輩の顔面をとらえる。
 先輩が崩れるように倒れた。
 もう、何も考えられなかった。体が勝手に動いた。古見君を押しのけて、先輩のもとへ一直線に走った。

「先輩! しっかりして! しっかりしてよ、先輩!」

 体が熱い! 汗でべったりしている!
 体調が悪いのになんで無茶するの! 先輩にも、獅子王先輩にも怒りがこみ上げてくる。

「おい、どけ! まだ終わってない」

 先輩を見下す獅子王先輩に、私は怒りに任せて叫んだ。

「ふざけないで! もういいでしょ! 獅子王先輩の勝ちでいいじゃないですか!」
「まだだ、そいつは死んでねえ。目が生きてる。まだ負けてねえ」

 まだやる気なの! 日本語、通じないの! バカなの!
 男の子ってなんで勝ち負けなんかにこだわるの! 理解できない!
 私は両手を広げ、獅子王先輩の前に立ちふさがる。

「どけ」
「どきません。もう、試合は終わりです!」
「最終警告だ。黙って消えろ」
「どきません! いい加減にしてください! 獅子王せんぱ……ぃ!!」

 それは一瞬の出来事だった。
 何が起こったのか分からなかった。分かりたくなかった。
 獅子王先輩に胸倉を掴まれて……顔が近づいてきて……唇が塞がれた。獅子王先輩の唇で。

 なんで……。
 胸倉を掴まれていた手が離され、座り込んでしまう。
 私のファーストキス……。

 涙があふれて……視界しかいがにじむ。相手は先輩じゃない。先輩を傷つけた人に私の……私のファーストキスがうばわれた。
 しかも、先輩の前で。
 好きな人の目の前で……。

「う……ううっ……」

 私はその場にしゃがみ込み、泣いてしまう。
 獅子王先輩はリングの外につばく。

「ブッ! 気がすんだらさっさと消えろ。男の喧嘩に女が邪魔する……ぐっ!」

 獅子王先輩がしゃべっている最中に先輩が殴りかかった。
 先輩の足が震えている。立っているのもやっとなのに。必死になって立ち上がり、獅子王先輩を殴ってくれた。
 先輩……。

「勘違いするな。俺とあんたの喧嘩だ。伊藤を巻きこむな」
「チッ! 人が喋っているときに殴りやがって。覚悟できてんだろうな!」

 先輩が私をかばうようにの前に出て、獅子王先輩と殴り合いを始めた。でも、実力の差はあきらかで、一方的に獅子王先輩が先輩を殴っている。
 殴られても、先輩は後ろに下がらない。私をまもるために、一歩も下がらない。
 私はキスのショックで見ていることしかできなかった。

 涙が止まらない。
 先輩が殴られているのに、指先一つ動かせない。
 これは、きっと夢だ。こんな、こんなの、夢だよ……。
 先輩と二人きりで歩いて、私がふざけて先輩を困らせて、怒られて、でも許してくれて……笑いあって……それで……。

 これが私の日常なの。だから、夢なら覚めてよ……。
 悪夢は覚めることなく、私を絶望へとおいやる。
 先輩が膝をつく。
 獅子王先輩が右足を上げる。

「終わりだ」

 獅子王先輩は右足を先輩の顔面めがけて……振り下ろした。先輩の顔面に食い込み、それでも、先輩は後ろに倒れず、前に倒れた。
 先輩は負けた。
 私は……何もできなかった。
 先輩は最後まで護ってくれたのに……私は……私は……。

「終わりだ。暇つぶしにはなったな。古見、片付けておけ」
「……はい」



「……う……と……いと……い……とう……いとう……伊藤!」

 ……あれ? いつの間にか、目の前に御堂先輩がいる。来てくれたんだ……。
 先輩は長尾先輩が背負っている。
 終わったんだ……それでも、涙が……止まらない。

「……せんぱい……御堂……先輩……ううっ……」

 私はただ御堂先輩の腕の中で泣くことしかできなかった。
 御堂先輩は私を力強く抱きしめてくれた。

「長尾、ここを頼む」
「待ちなよ、御堂」

 長尾先輩が止めに入る。御堂先輩は長尾先輩の胸倉を掴む。

「藤堂と伊藤の敵討かたきうちだ。このまま黙ってられっか。邪魔するな」
「伊藤を喧嘩の理由に使うな。僕達がやるべきことは、正道を保健室に連れていって、伊藤をどこか落ち着ける場所へ移動させるべきだ。獅子王を倒して自己満足に浸りたいなら出ていけ、邪魔だ」
「んだと!」
「お姉さま、ここは長尾先輩の指示に従いましょう」
「麗子! なんでここに!」
「お姉さまが暴走しないように橘先輩から要請ようせいがありましたの。ここはお二人のために、お引きください」

 黒井さんの沈痛ちんつうな表情を見て、御堂先輩は胸倉をつかんでいた手を離す。
 冷静になってやるべきことに気付いたのだろう。

「……分かった」

 長尾先輩が先輩を介抱かいほうしてくれている。

「伊藤さん、もう大丈夫ですわ。遅くなってしまい、ごめんさない」
「黒井さん……」

 涙がぽろぽろと落ちていく。
 私……私……何もできなかった……先輩の相棒なのに……何も出来なかったの……。

「ううっ……あぁあああああああああああああああ!」


 この日、私と先輩は傷をった。
 無力だった。
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