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本編
第36話 バレンタイン
しおりを挟む2月14日(水)
時刻【9時58分】
天気【快晴 最低気温4℃ 最高気温18℃】
バレンタイン当日のとある百貨店の前。
現在、バレンタインチョコレート博覧会の真っ最中だ。
ここは、大阪で一番賑わいを見せるバレンタインイベント会場と言っても過言ではなく、さまざまなジャンルのチョコレートが揃う場所。
参加店舗は300店舗。チョコレートの種類は3000種類。
その売り上げは1日あたり、1億を超えてくる夢のチョコレート会場。いや、チョコレートドリーム会場だ。
そこにゴリラは居た。
ちなみに本日の服装は、ストライプ柄のスーツにいつも大きな革靴。そして、ノートパソコンとバナナが入るサイズのリュックを背負っている。
「ウホ! ウホ!」
ゴリラは腕をブンブンと回してお店を前で気合いをいれている。
黒い立派な鼻から勢いよく出る息。
その風を受けて揺れる口元の艷やかな黒い毛。
彼がなぜこんな場所にいるのかだが、それは普段お世話になっている人たちへのチョコレートを調達する為。
人間思いのゴリラは、この為だけに半休の申請とフレックス制度を利用して博覧会へと赴いていたのだ。
時代が進んできたとはいえ、本来であれば日本では好きな人にチョコレートを渡す文化となっている。
しかし、彼はゴリラ。
そんなことなど些細なことでしかなかった。
いつもお世話になっており、ご近所さんである山川家。
それにトレンドバナナ情報を交換する駅員。
会社で従業員の安全を確保している守衛。
工程管理課の皆に、ジム職員の亀浦マリン。
この普段からお世話になっているバナ友たちが、笑顔にさえなれば良かったのだ。
これが彼にとって常識で、この気遣いこそが彼が誰からも好かれる理由。
そんなバナ友たちへ贈るチョコレートだが、トレンドをチェックを欠かさないゴリラはもちろんリサーチ済み。
「ウホウホ…」
ゴリラはチョコレートを渡した時の想像をして思わず笑みがこぼれる。
そして、はやる気持ちを落ち着かせながら、正面入口にできている2つの列の内の左側へと並んだ――。
☆☆☆
―――バナナの文字盤の腕時計を確認するゴリラ。
時間は2分経過し、針は開店時間をさしていた。
時刻【10時00分】
「ウホ!」
ちなみにゴリラ的スケジューリングでは、お目当ての物をすぐ購入し、14時頃に工程管理課のオフィスへと戻り、就業時間中に職場関係のバナ友へと渡す算段だ。
「ウホウホ」
だが、周囲を見渡せど人、人、人だらけで開店時間を迎えたというのに全く列が進まない。
「ウホゥ……?」
ゴリラはその太い首を傾げて腕時計を確認する。
時刻【10時10分】
少し不思議には思うが、まだ時間には余裕がある。
彼の勤める会社へは、この場所から電車で1時間ほどだ。なのでそこまで慌てる必要はない。
なんせ14時に戻れば問題ないのだから。
ゴリラはそう思っていた。
「ウホゥ……」
そして、ただ、混んでいるだけなのだろうと思いスマホを触りながら待つことにした――。
☆☆☆
――5分後。
時刻【10時15分】
まだ、ゴリラは百貨店の前に居た。
「ウホウホゥ……?」
彼は全く進まないことを不思議に思い、列を成すベビーカーを押す家族連れの間からひょこひょこを顔を出す。
すると、その先にはエレベーターがあった。
「ウ、ウホ!?」
ゴリラは自身の思わず目を疑い頭を抱える。
「ウホゥ……」
そんな彼の袖を後ろからひっぱる何かがいた。
「ゴリラたん、ゴリラたん。ここえーべーたーね、のるところだよ」
ゴリラがその声の方へ視線を向けると、フワフワな桃色のワンピースに、桃色の靴を履いた小さな女の子がいた。
その姿は、林檎のような赤いほっぺに前歯が抜けた笑顔の可愛い子。
「だいじょーぶ? ゴリラたん?」
「ウホウホ」
「よかったぁ、だいじょうぶなんだね」
女の子の横には、優しそうな雰囲気を纏った母親がいた。
「こ、こら! そんなこと言わなくても、ゴリラさんはわかってるわよ?」
その服装はリンクコーデのようで、同じく桃色のワンピースにパンプス。それにあたたかそうなロングコートを羽織っている。
「すみません、ゴリラさん。うちの娘が……余計なことを」
母親は申し訳無さそうな顔で頭を下げる。
そんな母親を目の当たりにした女の子は近寄り、恐る恐る口を開いた。
「で、でもね。ママ……ゴリラたん。こまってたよ? あたまぎゅーしてた」
その真剣な表情を見たことで、母親は女の子の声に耳を傾け始めた。
「そ、そうなの?」
「うん。ね? ゴリラたん?」
「ウホウホゥ……」
「ほあね? こまってたでしょ?」
「うふふ……そうね、ごめんね。「こら!」なんか言って」
「だいじょーぶだよ? ママもわたちのことをおもってくれたんだから」
「うふふ……優しい子ね。ありがとう」
そう言うと母親は女の子の頭を優しく撫でる。
2人のやり取りを見ていたゴリラの胸の中は、あたたかくなっていた。
「ウホゥ……」
微笑ましい親子のやり取りを前にしたことで、ゴリラは当初の目的を忘れていた。
だが、女の子が再び袖を引っ張り、彼が並ぶべき列をを指差す。
「ゴリラたん、ゴリラたん! ゴリラたんが、なーぶのはあっちね」
この女の子の言う通り、この列はエレベーターを使う人たちが並ぶ列だったのだ。
だから、開店時間を迎えようともなかなか動く気配がなかった。
「ウホウホ……」
腕を組みながら納得するゴリラ。
とはいえ、このままでは店内に入りたくても入れない。
そして、ふと思い出した。
今日が休みではなかったことを。
彼は出勤することを思い出して焦り始めた。
「ウッ、ウホ!」
思わず咆哮をあげそうになってしまう。
だが、そんなゴリラに女の子は臆せず、大きな手を小さな手でギュッと握ると優しく声を掛けた。
「だいじょーぶ! まだいっぱいじゃないよ? ね? ママ?」
「うふふ、そうね! 今からなら大丈夫ね」
彼はその行動と自身の手に伝わるあたたかさで、落ち着きを取り戻していく。
心配そうな顔でゴリラを覗き込む女の子。
「おちついた? ゴリラたん……?」
「ウホウホ……」
「よかったぁ!」
そして、彼が大丈夫だということがわかると無邪気な笑顔を見せている。
そんな小さな救世主により、冷静になったゴリラは女の子の母親へと尋ねた。
「ウ、ウホウホ?!」
「はい、今からでしたら、並び直しても全く問題ないと思いますよ」
「ウホウホ」
「いえいえ! 娘もゴリラさんのお話できて喜んでおりますので、お礼なんて気にしないで下さい。ね? 桃香ちゃん」
「うん」
「ウホウホ……?」
「それじゃ、こまちゃうの? ゴリラたん……」
「ウホ……」
「じゃあ、じゃあね……またあったら、あたちとあそぼうね」
「ウホ?」
「うん! やくそくね」
「うふふ、この子ったら、すみませんね」
「ウホウホ!」
「そうですか、ありがとうございますね」
「ウホウホー!」
ゴリラは、心優しい親子に別れを告げて隣の列を並び直した――。
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