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第二章 名もなき古話の神々は、漂泊の歌姫に祝福を与ふ
尾の長すぎる怪鳥は、眠れぬ恋を啄み呪う (21)飢餓の男
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無数の稲妻に照らされて、隣殿より遥かに巨大な朱塗りの神殿が浮かび上がる。
その屋根の上に、『さららの動く仮宮!』と大書された一枚板の大看板があることに気づいたヒギンズは、隣殿の浮力を断つ作業を中断して、上空に転移した。
(まさかとは思うが、この神殿の主は、サラが口寄せした女皇帝か?)
謎の神殿を取り囲む回廊に降り立ち、中を伺ったヒギンズは、そのまさかの女皇帝の姿を見つけて、一瞬だけ呆然とした。
(研究所にも自ら顕現していたとセバスティアヌスが言っていたが、なぜこんなところにまで……)
けれどもヒギンズはすぐに気持ちを建て直した。
(女皇帝の顕現が、サラと無関係なはずがない。本人に聞くのが手っ取り早いだろうが……一人ではないようだな)
──見事な落雷であったぞ、スガワラの。
少しばかりはしゃいだ様子の女皇帝の座所の向かい側には、見すぼらしい身なりの痩せた男が、苦々しげな顔で座っていた。
──誰が雷オヤジだと…人を勝手に怨霊なんぞにするなと言いたいのですが。それと、その品のない歌は、私が詠んだものではありませんから。
二人の間には、焼け焦げたような板が置いてあり、歌が書きつけられていた。
━━━━━━━━━━━━
つくるとも またも焼けなむ すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは
━━━━━━━━━━━━
──落書というやつであろうな。世に不満を持つものが、汝にかこつけて詠んだのであろうよ。
──なぜそんな歌で、私が呼び出されねばならんのです。
──これを目にした者の多くが、汝が詠みそうな歌だと思ったからであろうな。
──有象無象の者どもに、あの時の私の思いなど、分かるはずもない。
やつれた男の声には、深い諦めの気配があった。
──他人の思惑なんぞ、いつの世も身勝手なものよ。心の弱き者ほど、自分に都合のよい他者や世界を作り上げて、その中に住まおうとするものだからな。
──ええ、よく知っておりますよ。
女皇帝は、男にいたわりの目を向けながら、言葉をつづけた。
──それに我は汝を怨霊などとは思うておらぬ。なんでも逆恨みをした者どもに冤罪をかけられ、筑紫に追いやられたとか。雷を当ててやりたくもなろうよ。
──過ぎたことです。人の気持ちに疎かった私にも責はあったと、いまなら分かりますから。
──達観したのだな。汝の世であっても、筑紫はさぞ住みにくかったであろうに。
──最後は、ほぼ餓死でしたがね…
──なんと……志斐のお婆婆、焼き鳥を持て! 鵺でもカモメでもよいぞ!
──姫様や、飢餓の者に、いきなり肉はよろしくありませぬ。柔らかな粥などから始めねば。ミチザネ殿でしたかな。ささ、どうぞ。
──これは、ありがたい……
湯気の立ち上る粥の器を手にすると、男の表情がいくらか和らいだ。
──筑紫には、我も戦のために送られたことがあってなあ。酷いものを、山ほども見た。
──女性の身で戦とは……失礼ながら、古き世の、高貴なるお方とお見受けしますが、一体何が…
──汝の世よりも、二百年ほど遡るかの。我のクソ親父が、唐と新羅に喧嘩を売ってな。それはまあ、政の事情もあることだから文句もないが、女親や妻まで引き立てて行かんでも、とは思ったものよ。
──唐に喧嘩……もしや、あなた様は…
──かの国は、汝の世では滅んだのだったか。
──いえ、私のほうが、いくらか先に滅びましたが……知らぬとはいえ、大変なご無礼を。
──気にするな。今は、ただの、さららじゃ。ほれ、粥のおかわりは、いるか?
──はい。あ、いえ…
──遠慮するなよ。ん?
女皇帝は、回廊に立つヒギンズに気づくと、機嫌よく手を振った。
──おお教授よ、来ておったのか。入って参れ。サラを探しておるのだろう?
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
兄
「鹿が、おらぬな」
弟
「いませんねえ」
サルマロ
「鹿なら、鳴きながら紅葉の向こうに逃げていっちゃったよ」
兄
「それは困った。鹿を持ち帰らねば、父上がむずがるであろう」
弟
「帰るころには忘れちゃってるから、大丈夫だって」
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
*スガワラノミチザネ……菅原道真。冤罪で大宰府に送られ、失意のまま死亡。きわめて優秀な人材だった半面、なにかと人の恨みを買いやすいタイプでもあったらしい。
*兄……天智天皇。
*弟……天武天皇。
*サルマロ……猿丸太夫。彼の詠んだ鹿と紅葉の歌が、百人一首に入っている。
*女皇帝(持統天皇・さらら)が、菅原道真を呼ぶのに使ったという和歌は、「大鏡」に出てくる。
つくるとも またも焼けなむ すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは
【良い子のためのテキトーな意訳】
内裏など再建しても、何度でも焼けるであろうよ。この私、菅原道真の胸の傷がふさがって、痛みが消えてしまわぬうちはな。
その屋根の上に、『さららの動く仮宮!』と大書された一枚板の大看板があることに気づいたヒギンズは、隣殿の浮力を断つ作業を中断して、上空に転移した。
(まさかとは思うが、この神殿の主は、サラが口寄せした女皇帝か?)
謎の神殿を取り囲む回廊に降り立ち、中を伺ったヒギンズは、そのまさかの女皇帝の姿を見つけて、一瞬だけ呆然とした。
(研究所にも自ら顕現していたとセバスティアヌスが言っていたが、なぜこんなところにまで……)
けれどもヒギンズはすぐに気持ちを建て直した。
(女皇帝の顕現が、サラと無関係なはずがない。本人に聞くのが手っ取り早いだろうが……一人ではないようだな)
──見事な落雷であったぞ、スガワラの。
少しばかりはしゃいだ様子の女皇帝の座所の向かい側には、見すぼらしい身なりの痩せた男が、苦々しげな顔で座っていた。
──誰が雷オヤジだと…人を勝手に怨霊なんぞにするなと言いたいのですが。それと、その品のない歌は、私が詠んだものではありませんから。
二人の間には、焼け焦げたような板が置いてあり、歌が書きつけられていた。
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つくるとも またも焼けなむ すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは
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──落書というやつであろうな。世に不満を持つものが、汝にかこつけて詠んだのであろうよ。
──なぜそんな歌で、私が呼び出されねばならんのです。
──これを目にした者の多くが、汝が詠みそうな歌だと思ったからであろうな。
──有象無象の者どもに、あの時の私の思いなど、分かるはずもない。
やつれた男の声には、深い諦めの気配があった。
──他人の思惑なんぞ、いつの世も身勝手なものよ。心の弱き者ほど、自分に都合のよい他者や世界を作り上げて、その中に住まおうとするものだからな。
──ええ、よく知っておりますよ。
女皇帝は、男にいたわりの目を向けながら、言葉をつづけた。
──それに我は汝を怨霊などとは思うておらぬ。なんでも逆恨みをした者どもに冤罪をかけられ、筑紫に追いやられたとか。雷を当ててやりたくもなろうよ。
──過ぎたことです。人の気持ちに疎かった私にも責はあったと、いまなら分かりますから。
──達観したのだな。汝の世であっても、筑紫はさぞ住みにくかったであろうに。
──最後は、ほぼ餓死でしたがね…
──なんと……志斐のお婆婆、焼き鳥を持て! 鵺でもカモメでもよいぞ!
──姫様や、飢餓の者に、いきなり肉はよろしくありませぬ。柔らかな粥などから始めねば。ミチザネ殿でしたかな。ささ、どうぞ。
──これは、ありがたい……
湯気の立ち上る粥の器を手にすると、男の表情がいくらか和らいだ。
──筑紫には、我も戦のために送られたことがあってなあ。酷いものを、山ほども見た。
──女性の身で戦とは……失礼ながら、古き世の、高貴なるお方とお見受けしますが、一体何が…
──汝の世よりも、二百年ほど遡るかの。我のクソ親父が、唐と新羅に喧嘩を売ってな。それはまあ、政の事情もあることだから文句もないが、女親や妻まで引き立てて行かんでも、とは思ったものよ。
──唐に喧嘩……もしや、あなた様は…
──かの国は、汝の世では滅んだのだったか。
──いえ、私のほうが、いくらか先に滅びましたが……知らぬとはいえ、大変なご無礼を。
──気にするな。今は、ただの、さららじゃ。ほれ、粥のおかわりは、いるか?
──はい。あ、いえ…
──遠慮するなよ。ん?
女皇帝は、回廊に立つヒギンズに気づくと、機嫌よく手を振った。
──おお教授よ、来ておったのか。入って参れ。サラを探しておるのだろう?
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兄
「鹿が、おらぬな」
弟
「いませんねえ」
サルマロ
「鹿なら、鳴きながら紅葉の向こうに逃げていっちゃったよ」
兄
「それは困った。鹿を持ち帰らねば、父上がむずがるであろう」
弟
「帰るころには忘れちゃってるから、大丈夫だって」
+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-+-
*スガワラノミチザネ……菅原道真。冤罪で大宰府に送られ、失意のまま死亡。きわめて優秀な人材だった半面、なにかと人の恨みを買いやすいタイプでもあったらしい。
*兄……天智天皇。
*弟……天武天皇。
*サルマロ……猿丸太夫。彼の詠んだ鹿と紅葉の歌が、百人一首に入っている。
*女皇帝(持統天皇・さらら)が、菅原道真を呼ぶのに使ったという和歌は、「大鏡」に出てくる。
つくるとも またも焼けなむ すがはらや むねのいたまの あはぬかぎりは
【良い子のためのテキトーな意訳】
内裏など再建しても、何度でも焼けるであろうよ。この私、菅原道真の胸の傷がふさがって、痛みが消えてしまわぬうちはな。
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