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ヴィヴィアンの婚約

ヴィヴィアンは現場を検証した

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 病院内を埋め尽くさんばかりの黒い虫は、ヴィヴィアンとスカーレットには近寄らず、恐れるように避けて飛んだ。

「虫、どうやって退治するの?」
「こういうのはね、元から絶たなきゃダメなの」
「元って、ユアンなんとかいう人?」
「そう。あんたの婚約者もどき」
「また罵ればいい?」

 ヴィヴィアンは、頭の中で悪口雑言のストックをかき集めてみたけれども、虫の大群の大元を絶つには、語彙量がどうにも乏しい気がした。

「まあ、口で言って分からなかったら、物理で解決するだけだから」
「物理…ゲンコツ…」

 ヴィヴィアンが自分の拳を見つめている間に、スカーレットは目的の病室を見つけていた。

 他の虫よりも五倍ほど大きい、丸々と肥えた黒い虫がたかるドアの向こうから、弱々しく泣く女の声と、焦ったように早口で何かを怒鳴り続ける男の声が聞こえてくる。

 男の声は、ヴィヴィアンの記憶に植え付けられている婚約者の声に、よく似ている気がした。

 スカーレットは、ドアノブにくっついていた黒虫たちをピシピシと弾き飛ばしてから、勢いよくドアを開いた。

「ユアン・グリッド、そこにいるんでしょう!」

 虫で視界のきかない病室に向かってスカーレットが叫ぶと、男女の声がぴたりと止まった。

 それと同時に、飛び交っていた無数の虫がバラバラと床に落ち、部屋の中がすっきりと見渡せるようになった。

「ビンフィル様、なぜ、ここに…」

 数時間前にカフェテラスで見かけた時よりも、だいぶやつれた顔の婚約者が、呆然とした顔でスカーレットを見つめている。彼女の斜め後ろに立っているヴィヴィアンには気づかないのか、視線を向けようともしない。

 婚約者こと、ユアン・グリッドの背後のベッドの上では、痩せこけた女が、毛布を抱きしめて震えながら、こちらを見ている。

「あんたがヴィヴィアンに送りつけた呪いを叩き返しに来たのよ。嘘っぱちの婚約関係と一緒にね。神妙に受け取ってくたばりなさい!」
「なっ……全部バレて…」

 スカーレットはつかつかとユアンのそばに行き、胸ぐらをぐいっとつかんだ。

「バレないと思うほうが不思議だわ。さあヴィヴィアン、言いたいことを今すぐこいつに全部ぶちかましなさい! 害虫退治の仕上げよ!」

「え、ぶちかます? ゲンコツ?」

 拳を握ってドアの外に立っていたヴィヴィアンに、ようやく気づいたらしいユアン・グリッドは、怯えきった顔で叫んだ。

「やめてくれ! 惑乱の黒魔女に殴られたら即死する!」
「ヴィヴィアンの命を吸い取る呪いをかけた奴が、殺されたからって文句をいう権利はないわね」

 呼ばれたヴィヴィアンも病室に入り、ユアンのそばに立って言った。

「あのー、私、わくらん、とかではありませんよ」
「嘘をつくな! 災厄の権化め! 僕に近寄るな!」

 ユアンは逃げようとするものの、胸ぐらをつかんでいるスカーレットが追加で捕縛の魔法をかけたらしく、身じろぎもままならない。

「ユアンさん、でしたっけ? 一応仮にも偽の婚約者の私に対して、その呼び方は、ひどくないでしょうか」
「婚約なんて建前だ! 誰がお前みたいな暴虐女と本気で婚約なんかするか! ちょっと魔力と生命力を借りるだけのつもりだったんだ! それくらい、お前ならどうってことないだろうが!」

 『惑乱の黒魔女』に続く、新たな悪名と理不尽な発言に衝撃を受けたヴィヴィアンは、握った拳をじっと見つめながら、小さくつぶやいた。

「嘘の婚約とぼうぎゃくからの、普通で無難な人生への巻き返しのためのストラテジーが、なにも、見えない…」

 その時、ベッドで震えていた女が、声を発した。

「婚約って…? ユアン、あなた、何をしたの?」
「ああメアリー…全部君のためなんだ」
「私のため? 私を助けるために、離婚して、ヴィヴィアン様と結婚するというの?」
「離婚なんかしない! 僕の妻は君だけだ!」

 ユアンを抑えつけて傍観していたスカーレットは、落ち込んだまま戦線復帰しそうにないヴィヴィアンを見てため息をつき、自分で話を進めることにした。

「メアリー・グリッド、あんたの夫は、最初は自分の余命をあんたに譲り渡そうとして、私に禁術を依頼してきたのよ」
「ユアン…」

 ほろほろと涙をこぼして夫を見つめるメアリー・グリッドに向かって、スカーレットは容赦なく話を続けた。

「だけどそんな話、いやしくも魔導医師の私が受けるわけないってことは、あんたの夫もよく分かってたはずよ。そいつは私をダシにしてヴィヴィアンに近づいて、ヴィヴィアンに碌でもない呪いをかけたの。余命その他もろもろ奪い取って、あんたと入れ替えるつもりでね」
「そんな……ユアン、ヴィヴィアン様に、なんてことを!」
「違う! 少しの間、そいつの身体を借りるだけで済むはずなんだ! 惑乱の黒魔女の強靭な身体なら、メアリーの病気にだって打ち勝てるはずだから!」

 ユアンの身勝手な言い分を、スカーレットは鼻で笑い飛ばした。

「馬鹿じゃないの? 身体を丸ごと入れ替えたら、病気もヴィヴィアンのほうに移るだけじゃない。そもそも狙ってたのは、身体だけじゃないわよね。頭の中身までヴィヴィアンそっくりになりかけていたメアリーと、カフェテラスでデートしてたっていうじゃないの」

「それは…そいつとメアリーを出会わせて、一気に入れ替えを進めようとしただけで…」

「そうなっていたら、本物のヴィヴィアンはカフェテラスで倒れていたでしょうね。そのままヴィヴィアンを病院に放り込んで、ヴィヴィアンに成り代わったメアリーと結婚すれば、ヴィヴィアンの身分も財産、全てがあんたたちの物になると。呆れるほど下衆な計画だわ」

 メアリー・グリッドは夫のやらかしに目の前が暗くなった。

「ユアン、あなた、そんなことがしたかったの?」
「ち、違う! 違うんだ、誤解だメアリー!」

 妻に失望されることを恐れたユアン・グリッドは、さらに驚くべき言い訳を持ち出した。

「くそっ、そもそもメアリーがこんな身体になったのは、全部そこのクソ魔女のせいじゃないか!」

 その言葉は、新たな悪名に落ち込んでいたヴィヴィアンの意識を現場に引き戻すのに、十分な効果を発揮した。


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