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積年

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 ジャンゴさんの商館を後にして、適当に昼食をとる。

 なんかよく分からない肉のサンドイッチ。タレが美味しかった。脂も滴ってボリューミー。やっぱり冒険者が多い街だから、こういうのが受けるんだろうな。ごはんが美味しいところで良かった。

 転移当初は大変だったからな……。肉一枚焼くのにも一苦労で、最初生で食ってたとか信じられない。どんな蛮族だよ。今思えば無茶してたよな。いくら頑健スキルあるって言っても寄生虫とか怖いし。ふっ、僕は文明人だからね。もう暖かいご飯しか食べないからな。サンドリアも美味しそうに食べていた。姿消しながらだけど。

「ゴドーさん、いる?」

「来たか」

 ゴドーさんの鍛冶屋の扉をノックする。なんか静かだ。

「ケイさん……」

 ファイナちゃんが不安そうな表情をしている。これからお母さんが浄火されるわけだからね。そりゃ不安にもなるか。

「あれからファイナと、妻ともしっかり話した。妻も良く考えた上で、浄火を受け入れると言ってくれた。本人がそう言うんだ。俺が言えることは何もねえ。ただ……」

 ゴドーさんは熊顔を壮絶に歪め言った。

「もし、妻の身に何かあったら俺はお前を許さねえ。絶対に殺してやる。おかしい話だってのは分かってる。だが、それでもだ」

 ゴドーさん、相当気が立っているな。ちょっとあんまりだ、と思うけど仕方ない。今までクローズドな人間関係だったんだし、奥さん命っぽいしね。何年もの間、妻子を守るために一人奮闘してきたんだ。店を切り盛りしつつ、呪われて爛れてしまった奥さんを介護する日々。自分の軽率さとアセンブラへの憎しみと否が応にも向き合わなきゃいけない。そんなの、精神がおかしくなっても仕方ないのに、この人は耐え抜いた。だからこれくらい、なんてことない。

「そんなことにはならないよ」

 わざと落ち着かせるように軽く返した。

「……すまん、俺も自分でもよく分からなくなってる。妻が本当に治ると思ったら、気持ちが落ち着かなくてな……。俺も無駄死にはしたくねえ。それに、妻が治ったなら、何でも作ってやるからよ。魔人だって倒す武器作ってやるぜ。もうこれ以上、ナーシャをこんな目に遭わせたアセンブラのクソ野郎のポーションに縋らなきゃいけないなんて屈辱、耐えられねえ」

 だから、頼む。と不器用に頭を下げられた。ファイナちゃんも慌ててぺこりと下げてくる。ほんと、こっちに来て頭下げられること増えたよな。未だに慣れない。いや、慣れない方がいいに決まっているさ。


「この部屋だ」

 ゴドーさんに案内されたのはお店を上がって二階の部屋。何の変哲もない普通の部屋だ。

「ナーシャ、開けるぞ」

「……ヒュ、ウゥ」

 ゴドーさんがとても優しい声色で言うと、中から呻き声のようなものが聞こえた。

 ナーシャさんって言うんだね。綺麗な名前だな。

 覚悟を決めて中に入る。

 質素な内装。壁に剣がかかっている。ナーシャさんのだろうか。隅にベッドがあり、誰かが横たわっている。

「お邪魔します……うっ!」

 強烈な臭気。

 まずそれが鼻腔を駆け抜ける。肉が腐ったような臭いに思わずえづきそうになる。しかし、それもナーシャさんの姿を見て吹き飛んだ。

 カヒュー、カヒュー……。

『ひ、ひどい』

 亜人のサンドリアが思わず声に漏らすほど、絶句するような光景だった。

「ゴ、ゴドーさん……」

 感情がぐちゃぐちゃになって泣きそうになる。

「ケイ。これがアセンブラの……罪だ」

 そう言って、ナーシャさんが横になっている布団を優しく剥がし、胸から上があらわになった。

「ウゥ」

 カヒュー、カヒュー……。

 ナーシャさんと思しき腐敗した肉が弱々しく呻き声を上げる。

 最初に連想したのは全身を包帯でぐるぐる巻きにされたゾンビだ。それが的確な表現だろう。

 彼女の顔のパーツはほとんどが溶け、膿まみれになっている。口のあたりに辛うじて空洞があるから、なんとなく顔と判断ができるという有様だった。片目は赤黒く爛れた肉に覆われ完全に塞がっている。もう片方の瞳は無事だが、膿が染みるのか、うっすらとしか開けていられないみたいだった。

 鼻も横にひん曲がっている。体組織が破壊されているのだろう。ナーシャさんが動くたびに重力に負けてぐらぐらしている。鼻の穴がほとんど塞がっているから呼吸するのも苦しそうだ。カヒュー、という音がする。なるほど、さっきからする音は僅かな口の隙間から呼吸する音だったのか……。

「ク、ヒュウ」

「ナーシャ!? だめだ、じっとしていろ! 崩れちまう!」 

「お母さん……!」

 ナーシャさんが僕に挨拶しようとしたのか、身体を動かすと、顔面の膿がぽたぽた滴り、肉がぐじゅぐじゅと揺れる。ゴドーさんとファイナちゃんがたまらず悲鳴をあげて駆け寄った。

「……アァ」

「なんだ? どうしたいんだ?」

 ゴドーさんは毛むくじゃらの熊顔が膿まみれになるのもいとわずに、ナーシャさんの口元に耳を近づける。

「そうか、そうか。分かった。伝えるよ。だからお前はじっとしているんだ。きっとよくなるからな、ナーシャ……」

 ゴドーさんはナーシャさんの頭を撫でようとしたけど、びくりとして引っ込めた。髪が抜け落ちて、赤く腫れた頭皮は触れたら痛いだろう。

「ケイ、ナーシャがお前に『きてくださりありがとうございます。おいしゃさま。くさくてごめんなさい』と言っている……」

 ゴドーさんが拳を握りしめて僕に言った。
 
 お医者様じゃないけどね。

 でも、お医者様になれっていうなら、なってみせるよ。

「ゴドーさん、すみません」

「いや、ケイは悪くない。俺たちは慣れたが初めてのやつには辛い臭いだよな。……もう、長いこと忘れていたぜ」

「お、お母さん臭くないもん……」

 ゴドーさんがらしくないような困った笑顔を浮かべ、ファイナちゃんが俯いて声を震わせ、キッと僕を睨んだ。

 ……これは嫌われたな。自分のデリカシーの無さにほとほと嫌気がしてくるよ。でも僕が嫌われるとか、そんなのはどうでもいい。

 彼らはこの強烈な臭気が当たり前になるほどの時間を、親子の絆だけで生き抜いてきた。

 もう、いいだろ。もういいよ。

 ジオス、この人たちはあんたが力を失っても、あんたを信じていた敬虔な信徒だ。家族の絆と信仰を忘れずに生き抜いてきた。あんたが神って言うなら、救ってみせろよな。

「ゴドーさん。ファイナちゃん。浄火を始めるよ。びっくりするかもしれないけど、じっとしていてください」

「……うぅ」

「……おう」

 ぼたぼた涙を流すファイナちゃんの肩を抱き、ゴドーさんが重々しく頷いた。

……

「ではファイナさん。これから浄火を行います」

「アアァ」

 ナーシャの側に立ち、なるべく不安がらせないように言った。

 臭気が目に刺さって涙が出てくる。でも我慢だ。

「……ごめんなさい。もしかしたら痛みがあるかもしれません。でも全力で貴方を治しますから、少しだけ我慢してください」

「ウ、アァ」

 こくり。

 微かにナーシャさんが頷いたのを認め、僕は右腕の布を外し、彼女にかざす。

 黒灼の文様があらわになる。

「み、右腕が」

 ファイナちゃんが化け物を見るような顔で僕を見てきた。そうだよね。それが正常な反応だよね。

「……浄火」

 僕の呼びかけに応え、右腕に宿った紫炎の獣が現出する。

 燃え盛る獣は憎しみに牙を剥き、ナーシャさんに飛び掛かった。

 ナーシャさんの爛れて痩せ細った身体に牙を立てる。

「ウグッ!」

 ナーシャさんが苦し気に身体をゆすった。

「ナーシャ!」

「お母さん!」

 獣がナーシャさんの身体に牙を立てる度に、彼女の身体が痛みに跳ねる。肉が揺れ、膿が散った。

「や、やめて! お母さんをいじめないで!」

 ファイナちゃんの絶叫。ゴドーさんがそれを押しとどめる。ぎゅと唇を噛み、つーっと血が垂れている。

「やっぱり、お母さんはこのままでいいんだよ! もうこれ以上苦しむことなんてないよぉ!」

「ファイナ……我慢だ。我慢するんだ……」

 親子の血を吐くような想いが伝わる。

 その間も僕には紫炎の獣を通して、呪いについて感覚で理解し始めていた。

(この前は必死で分からなかったけど。そうか、浄火になるとこんなに詳しく情報が伝わるのか)

 僕の瞳には紫炎の獣が見ている光景が映っていた。

 ナーシャさんの身体に無数の傷跡が光って見える。それは全身が包帯に覆われているのも拘らず、はっきりと見える。頭からつま先、背中から局部まで。

(これがゴドーさんの言っていた魔法陣てやつか)

 爛れの呪いは全身に魔法陣を刻む。

 ゴドーさんが言っていた意味が分かった。ものすごく精密な魔法陣だ。正直、こんな状況で無ければ美しいと思えるほどに。そして、かなり定着している。

「アアァ!」

 ナーシャさんが苦悶の声を上げる度に、ファイナちゃんがゴドーさんを振り切ろうともがく。

 紫炎の獣が猛然とナーシャさんの身体に喰らいついていく。

(なるほど、そういうことか)

 一見、獣が獲物を貪っているかのように見えるこの光景。

 しかし、紫炎の獣は的確に浄火しているということが、だんだん分かってきた。

(この魔法陣のつなぎ目を壊しているんだな)

 共有した視界に、魔法陣が光って映っているんだけど、中でも特に光っている点が無数に見て取れた。

 たぶん、ここが魔法陣を構成している関節みたいなものなのだろう。

 獣は肯定するかのように、そのつなぎ目を的確に牙で裂いていく。

 手足の小さなつなぎ目から順に、中心に向かうようにゆっくりと壊している。

 獣はとても精緻な作業を行っているように見えた。

(でも、見ている方は気が気でないよね)

 ちらり、と後ろを見るとファイナちゃんが僕に向かって叫んでいた。凄まじい表情だ。獣と感覚を共有しているから良く分からないけど、きっと罵っているに違いない。仕方ない。目の前で最愛のお母さんが獣に喰われているんだ。それをけしかけている僕に、憎しみを抱くなんて普通のことだ。ちょっと辛いけどさ。

 がぶり。

「っつ! ファイナ!」

 ファイナちゃんがゴドーさんの腕を噛んで飛び出した。そのまま壁にかかっていた大きな剣を手に取り、無防備な僕に振りかざす。

 ガキィン。

 それを霧化を解いたサンドリアが受け止める。万力のような力で掴まれた剣はびくともしない。

 サンドリアは霧を漂わせながら、ファイナちゃんを見下ろす。

「あっ、あっ」

 しょわぁ。

 つんとした匂いと共に彼女はへたり込んでしまった。がたがたと身体を震わせているのに、一歩も動けない。

「あ、亜人様! 娘が申し訳ございません! どうか罰は俺が受けますから、娘にはご容赦をっ!」

 呆然自失とするファイナちゃんを守るように抱いたゴドーさんが懇願する。その彼も全身をがたがた震わせていた。

 サンドリアが圧倒的格上のオーラを漂わせながら言った。

『ジオスの子らよ。焦るな。貴様たちの積年の闇、必ずや我が契約者が晴らす』

 ふわり。

 サンドリアはファイナちゃんの頬を撫で、にこりを微笑んだ。

『見るがいい』

 彼女は促すようにナーシャさんを指差す。

「……ナーシャ?」

 最初に呟いたのはゴドーさんだった。

 ふらふらと立ち上がる。

「お母さん?」

 まだ腰に力が入らないのか、ファイナちゃんがよたよたと四つん這いで近付いていく。

「……ふー」

 あぶねえ。

 サンドリアがいてくれて助かったよ。すこし肝が冷えた。

 僕はちょうど最後のつなぎ目を浄火したところだった。
 
 そして、変化は劇的だった。

「あ……な、た」

 今にも消えそうなかすれ声。女性とは思えないほどしゃがれた声。

 それでも、それはナーシャさんの口から発せられていた。

「ナ、ナーシャ。お前、口が」

 まっさらだった口は唇が隆起し、鼻も真っ直ぐになっている。爛れた肉によって埋没していた片目は、白く濁ってはいるものの、顔の一部として蘇っていた。

「ファ、イ、ナ」

「あ……ああぁ……」

 ナーシャさんが途切れながらもファイナちゃんの名前を呼ぶと、彼女は力なく崩れ落ちてしまった。

「ナ、ナーシャ」

 ゴドーさんが顔をぐちゃぐちゃに歪ませて、泣きはらしている。その涙がナーシャさんの顔に落ちた。肉はケロイド状に歪んでいるが、膿は消え去り、赤黒さよりも肌の色が目立つ。

「あ、な……ゴドー」

 ナーシャさんは顔の筋肉を引きつらせながら、微笑んだ。

「せっかく、の、男前が、台無し、よ」

 枯れ枝のように細い手で、彼の涙をぬぐう。

「ファイナ、私の、いとしい、ファイナ……大きくなっ、た、わね」

 俯くファイナちゃんの頭に手を乗せる。

 ヒュッ。

 二人が大きく息を吸い込む音。

「ナーシャああああああああああうわああああああああぁぁぁああ!!!」

「お母さあああああああああああああああああああああああああ!!!」

 二人は絶叫してナーシャさんに縋りつく。

 そして懺悔するかのように、長年の膿を吐き出すかのように、心中を吐露していった。

「すまねえ、すまねえ。俺が馬鹿だったばかりにお前に辛い思いをさせて。俺が浅はかだったんだ。お前は何も悪くないのにお前の言うことを聞いていればよかったのに。すまねえナーシャすまねえ」

「お、お母さん。私頑張ったよ私またお母さんに会いたくて、辛かったけど頑張ったの。お父さんと一緒に頑張ったのお母さんに会いたくてまた一緒にいたくて、あ、わああああん」

「いい、のよ。もういいの……二人とこうして。また一緒にいられるなら……もう、いいの、よ……う、ぅうう」

 ナーシャさんの濁った瞳から、膿ではないもっと純粋なものが流れ落ちる。

 それからしばらくの間、熊人族の家族はお互いの名前を呼び抱きしめ合い、ただただ泣き続けた。
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