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瘴気

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 意識が朦朧とするシャロンお母さんに右手をかざす。ごめん、意志を確認する時間は無さそうだ。

「浄化……っ!?」

 バチバチバチッ!

 僕の右手の内側を何かが貫いた。

「ぐっ」

 それに歯を食いしばって耐えていると、

「アアアアアッ!」

 浄化をかけた瞬間、お母さんの身体が跳ね上がり、海老反りになって絶叫する。

「アAアア亜アガ餓アァァッ!!」

 痙攣し白目を剥く声が人間のそれではない。ベッドが壊れそうな程に激しく揺れ、シャフナさんが落ちそうになる。

「お母さんっ!」

「こ、こらシャロン! そっちは危険だ!」

 お母さんの無惨な変貌に耐えられなくなったのか、シャロンちゃんが飛び出す。

 バリッ!

「きゃっ!」

 シャロンちゃんが見えない壁に阻まれ、弾き出される。ブラガさんが素早く近付いて彼女を連れ戻した。

『ォォォ……』

 シャフナさんの身体から黒い影が暗雲のように立ち上る。それは人の形にも見えたし、全く別の物にも見えた。

(……なんだこれ、歯車?)

「これは……まさかアセンブラの因子……!? ケイ! 離れて!」

 ベステルタが慌てて、僕を影から引き離そうとしたが、

「いっ!」

 影が僕の腕を掴む方が早かった。

「ぐっ、ああっ!」

 影は絶えず姿を変える不定形。

 掴まれた腕がじわじわ変色していく。鮮血と深淵のような黒赤の筋が、雷紋のように僕の右腕を侵食する。痛みよりも恐怖。何かが自分を食い荒らしているような、侵食されていく怖気。

 それはどう考えても僕の頭を目指している。

 アセンブラの因子? 冗談じゃないよ。これの侵食を許したら、絶対やばいことになる。

「ケイから離れろ!」

 ベステルタが不定形の影の腕を掴んで引き離そうとする。

 ジュッ、シュウウウゥゥ!

「く……ううぅぅ!」

 肉の焼ける嫌な音と共に、彼女の手から白煙が立ち上った。

「だめだ! ベステルタ、手を放せ!」

「放すわけ、ないでしょ……ッ!」

 ギリギリ、と歯を食いしばるベステルタ。奥歯を噛み砕いたのか、口から血が流れている。

(このままじゃベステルタが……ッ!)

 まさか、こんなことになるなんて。

 くそっ、自分の判断の甘さを嘆いている暇は無い。とにかく浄化しなければ。幸い、ベステルタの強引な対処のおかげで、影の侵食は遅くなっている。

「浄化! 浄化! 浄化ぁ!」

 叫ぶ。

 とにかく叫ぶ。

 異世界に来て一番叫んだ。

『ォ……ォォ……』

 部屋の中が渦巻いている。黒い瘴気はシャフナさんからとめどなく溢れ、空気を重く澱ませる。

 呼吸が苦しい。浄化が届かない。

 影は僕をあざ笑うように、接近してくる。

「離れろ……! ケイから離れろ……っ!」

 影の腕を握りしめるベステルタの掌から血が落ちる。ぽたり、ぽたり、と床が赤く濡れる。

「浄化! 浄化! 浄化されろよ!」

『ぁぁ……ぁ……ア……』

 浄化が影に当たる度にシャリーン、シャリィン……と弾かれ光に消える。

(くそっ、なんで浄化が効かないんだ!)

 今までこんなことは無かった。

 浄化は必ずうまくいったし、皆感謝してくれた。

 以前の僕とは違う。僕は何でもできる。ここなら何でもできる。きっとできるはずなんだ。無能で無気力で、受け身で怠惰な僕とは違う。僕は影じゃない。光だ。光でいいはずなんだ。

「浄化……浄化……頼むよ……!」

 影の浸食が肘を超える。アセンブラの因子が嘲笑う。ベステルタがさっきから言葉を発していない。心配だ。でも、僕も余裕が無い。いよいよ恐怖よりも痛みが大きくなってきた。腕が作り替えられる。無理やり皮膚を剥がされて、肉を裏返されて、血を根こそぎ吸い出され、熱湯を注がれる。そんな途方もない痛み。

「ああああああああ浄化ああああああああああ!!!」

 言葉を発しているのかもわからない。僕は今とにかく叫んだ。この痛みを上書きする何かが無いと意識がバラバラに砕け散りそうだった。

『オオォ……オォ……』

 ベステルタの手がずるりと抜け落ちたのを目の端で捉えた。べっとりと、彼女の血が腕に付着している。くそが。くそくそ。それだけは絶対だめだ。駄目だ駄目だ。

 シャリン、シャリン……。

 その間も僕の浄化は弾かれ続ける。輝きはすぐに闇に呑まれ消える。

 浸食はとうとう肩にまで侵食してきた。心臓の鼓動に合わせ、何かの足音が近づいてくる。

(どうすればいい、どうすれば……!)

 影。影に光が届かない。影を晴らすにはどうすればいい。影から逃れるには……。


 その時、脳の奥深く。仄暗く、枷に繋がれた女。顔が半分爛れたあいつが囁く。


『人は低きに流れるが、同様に深きに潜ることができる……。

 練り上げ、喚び覚ませ、貴様の反攻を』

 
 爛れた容貌は、瞳を煌めかせ、再び消える。

 
 声が僕を導く。その一瞬の間に、僕は悟った。

「練喚攻!」

 痛めつけられた身体を奮い立たせ、喚ぶ。僕の反攻を。

『深層!』

 イメージを練り上げる。僕は深くに潜る。影から逃れ、自分の内へ。その深層へ。

 ベステルタの魔力を体の隅々にまで行き渡らせる。身体の奥深く。内臓一つ一つに。

 脳内に別の声が響き渡る。

 

<『深ナル者』に至りました。『浄化』を『浄火』に拡張しますか?>



 腹が立つくらいに冷静なアナウンス。この際、誰かは問わない。

「なんでもいいから早くしてくれ!!」

<肯定を確認。深ナル者よ、清浄なる汝の火炎欲望で影を払い給え>

 祈りのようなアナウンスが終わると同時に、浄化とは違う力が漲るのを感じた。

 深淵に潜む燃えたぎる欲望。僕の反攻の火炎が現出する。ベステルタの血が発光する。

 いける。

 これならいける。 

「浄火!」

 ブワァァァッ!

 黒灼した右腕が紫炎に包まれる。指先から背中にかけて、すべてを焦がす情動を感じるのに、全く熱くない。

 それはやがて形を成し、顕現する。

『ガァァァァァァッ!』

 紫炎の獣。

 そいつが目を爛々に輝かせ、憎しみのアギトを煌めかせる。

 何もかも分からないけど、やることは一つだけ。

「燃え去れ!」

 浄化の紫煙が意志に沿って影を払う。意志を持った火炎は、獣のように駆け抜け、僕たちを嘲笑う影を撃った。

『……! ォォォ……ォオオオ……!』

 さっきとはまるで違う。影が苦しんでいる。

 浄火が影に喰らいつき、離さない。焔の牙は弾かれず、その黒い身体を噛み砕く。炎の爪が、その身を引き裂く。紫炎の獣は影の内側に潜り、食い荒らす。

『……ぉぉ……ぉ』

 影は身体を捩り、逃れようとするが、紫炎はそれを許さない。牙爪が火の粉を散らす度、黒い粒子が溢れ落ち消えていく。

『ぁ……ェ……ァ……』

 最後の一片まで喰らい尽くされたアセンブラの因子は、遠い残響のような断末魔の声の後、残った僅か身体を紫炎の獣に踏み潰され、完全に消滅した。

 唐突に沈黙が訪れる。

 ちゅんちゅん、と鳥の鳴き声が聞こえる。

「終わった……のか?」

 ブラガさんが恐る恐る口を開いた。

「そうみたいだね……」

 ものすごく疲れた。やばい、気を抜いたら寝ちゃいそう。でも、ぐっとこらえて部屋を見渡す。ぴくりともしないシャフナさん。でも顔色がよくなっている気がする。今は人として認識できる。

 そして……膝を突くベステルタ。良かった……意識はあるみたいだ。本当によかったよ……。

「……」

 でも元気がない。俯いて、影を掴んだ手をじっと見つめている。どこか痛いのかな。血が出ていたし、心配だ。

「お、お母さん!」

 はっ、と我に返ったシャロンちゃんがシャフナさんに駆け寄る。そうだな、まずはできるところからやろう。

「ブラガさん、シャフナさんを見てあげて。僕はベステルタを」

「お、おう。わかった」

 ブラガさんはシャロンちゃんと共にシャフナさんの状態を確認し始めた。思ったよりずっと冷静に行動できているな、僕。まあ、あまりのことに現実感が無いだけなんだけどさ。

「ベステルタ、大丈夫?」

「……ええ。問題ないわ。一瞬意識が飛んだだけ」

 それって途轍もないことだよね? 世の中に亜人の意識を飛ばせる存在がいるなんて思いもしなかった。

「手は問題ないの?」

 影を握った彼女の手。煙が出て血が滴っていたからとても心配だ。

「暫く痛かったんだけど、あの影が消えたら治まったわ。今は、ほら」

 笑ってぷらぷら手を振るベステルタ。でも、その笑顔が辛そうだ。

「無理しないでね」

「しないわよ。ただ……悔しいだけ」

 はぁー、と深く溜め息を吐いた。珍しい。

「ケイこそ、腕は大丈夫? かなり侵食されていたけど」

「ん? ああ、大丈夫だよ。ほら……あれ?」

 ベステルタみたいに手をぷらぷらさせると、黒灼の腕が一緒に揺れた。指先から真っ黒に染まり、血管に沿って紅い筋が幾重にも連なっている。

 まるで夜空に迸る朱い熱雷だ。

 こ、これは……。

「めちゃくちゃかっこいい……」

 絶対めちゃつよなパンチ撃てる。

「な、なによそれ……ずるいわ……」

 ベステルタが羨ましそうに見てくる。

 衝撃のタネズブリット撃っちゃおうかな。

 少しの間、何も考えずにかっこいいポーズをしまくった。仕方ない。これからのことを考えると気が重かったからね。現実逃避だ。 
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