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あんたが眠るまでそばにいるよ/sequence
しおりを挟む「俺たちここでおわりなんすかねぇ」
そう言った黒星の横を黒いナイフが駆け抜ける。私はぐっと笑う。
「そうかもしれないな」
「だいじょうぶすか」
彼の言葉にあまり元気はない。もうこいつともずいぶん長くやってるが、ここまで元気ないのは珍しい。
「まあな」
私はそう強がる。でもわかる。これが戯言だってこと。私のおなかにはひとつ穴が開いている。ぽっかりと夜が訪れたみたいにひりひりした現実感が、傷口の摩擦熱を通して伝わる。
「やめてくださいよ」
「ないているのか」
「ちげえよ」
黒星は黒いもやを打ち倒す。私よりもはるかに早いスピードでめまぐるしく動く。
「煙草くれるか」
私がそういうと、彼はぽいっとくしゃくしゃになったラッキーストライクを投げてよこす。
「全部あげます」
「そんなにいらないよ」
私が笑うと彼はぐっと歯を食いしばる。何かを我慢しているのかな。私の足元には濃いブランデーのような血が溜っている。
「約束しますよ」
彼は私のリボルヴァーを拾ってもやに撃つ。分かる。弾丸は全てを貫ける。
「あんたが眠るまでそばにいるよ」
わたしはばかみたいに笑ってしまいそうだった。現に笑えたと思う。私はほころぶ。笑顔と存在が。この男の言葉に愛があったんだよ。笑ってしまうね、フォガティ。
*
僕が園原を失って百年経ったあとで、僕はしあわせを手に入れた。それはピアノを弾くことだったんだ。僕が殉教者のように何十年も歩いた後、すくいのようにピアノは湖に沈んでいた。それはまるでシンガーソングライターの歌詞のようだった。それは否定しない。でも水がきれいで、透き通っていて、自分の影まで水底に映ってしまいそうな純度だから、ピアノは溺死を喜んでいるように見えた。
僕は湖に入る。冷たさは感じない。生暖かくも感じるが、気持ち悪くない。真っ裸の羊が浸かったあとみたいだった。
それでピアノを弾くんだけど、何を弾くべきなのかわからない。分かっている、別に迎合しようってわけじゃない。誰かに聞いてほしいわけじゃない。でも曲自体が見当たらないんだよ。その場合どうすればいいんだろう。
「溶ける魚を知ってるか?」
とフォガティが僕を呼びかける。彼とはもうずいぶんと長いこと友達でいた気がする。彼は園原を撃ったんだ。弾丸で貫いたんだ。でもわかってる。それはやさしさからなんだ。腑抜けの僕から園原を遠ざけてくれたんだ。そうだろう。
「溶ける魚は何も考えていない。それはお前が考えているだけで、魚自身は何も考えていない」
何も考えないこと、無意識でいること、それだから溶けることができたんだ。魚であることさえ、思考の海に垂れ流してしまってさ、と彼は言う。
「溶ける魚はダレよりも考えなかったから、ダレよりも早く答えにたどり着けた。魚はダレよりも早く泳ぐことを止め、海に溶けることを選んだ」
「だからお前も溶ければいいんだよ」
僕は溶ける。溶けるぼく。それに学術的な意味はあるかな。
「ない」
とフォガティは即答する。
僕は弾いた。溺死したピアノを。
音色は水の中をよく伝わった。珊瑚を叩き、海がめのヒレを撫で、白い砂浜にさざなみを起こしていく僕の音。どんなコンサートホールよりも雄弁に僕の内心を語ってくれる。
「わかるよ」
とシュイロが言う。彼はピアノに腰かけていた。
「俺もピアノをしずめたら、ひょっとして本来の静謐さを取り戻すんじゃないかって思ってた」
そうだね、と僕とフォガティは笑う。
バロバロはピアノの上にいた。音色を食べている。僕が奏でる水音をおいしそうに食べている。
「バロバロというのはね」
とシュイロは姿勢は同じのまま目だけ開け、僕に言う。
「虚構そのものなんだ」
僕はショタコンビッチみたいな名前の人の曲を弾いている。バロバロは彼の薬指をかじっている。
「私たちが虚構と実像の間に飼っている獣、それがバロバロなんだ」
私たちはそれを心と呼称することもある、とシュイロはくつくつ笑う。
「こいつは基本的にわがままなんだよ。飽食なんだ。飽きるほどものを食べないと満足しない。そして満足したら吐く」
嘔吐するんだよ。とシュイロは言う。
「でも溶けた魚は食べられない」
「フォガティ」
二人は初めて向かい合った。フォガティはシュイロを見据える。シュイロはフォガティに吐き気を覚えた。
「フォガティ、君は異物なんだよ」
とシュイロは言う。
「君がこの子の、私がせっかく育てたコギトの虚構のヴェールに穴を開けてしまった。それがいい変化をもたらすかとも思って放置していたけども」
やっぱりそんなことはなかったようだ、とシュイロは首を横に振る。
「君は純粋さを汚したんだよ、腐臭のする嘔吐物で」
フォガティは悲しそうな顔をする。
「そうじゃない。そうじゃないんだ」フォガティは言う。「純粋な虚構なんてないんだよ」
「あるとも」
シュイロは声をやや荒げる。
「私はそれを常に追及していたし、もうそれは見つかったんだ。あとはそれを形にするだけなんだ」
ちがうんだ、とフォガティ。
「混じってこそ虚構なんだ。純粋でないから虚構なんだ」
「ちがう!」
シュイロはピアノを叩いた。ぎぃよん、と調律の狂う音がする。「それはお前が穢れているからだ。お前がコギトの虚構を簒奪した、忌むべき存在だからだ」
フォガティは悲しそうな顔をする。
「あの時だって、お前が園原を撃っていなければコギトの夢はさらに純度を増したんだ」シュイロは続ける。「大切なものを取り込んで、より完璧な虚構に近づくはずだった」
シュイロは大きくため息をついた。
「だけどそんなことはもうどうでもいい」
バロバロは僕の奏でる虚構を喰らう。おいしそうに食べる。
「バロバロが喰らって貯めた虚構はもうじき嘔吐という形で吐き出される」シュイロは笑う。「そして世界にべっとりとこびりつくんだ。この星は虚構で満たされ、虚像は実像を生み出す。私はその焦点となり、木星を生み出す」
地球は拭い去れない虚像の星となる、とシュイロは言った。
「フォガティ、もうお前にできることは何もないんだよ」
「そうだね」
フォガティは銃を取り出し、
「僕にできることは何もない」
「私を撃つつもりか?」シュイロはおかしそうに笑った。「虚構にすぎないお前が実在する私を侵せるとでも?」
「いいや」
フォガティはひょいっと銃を投げた。
「君にそんなことはしない。ただ、」
その銃はゆるい楕円形を描き、細い手に収まる。
「塵は塵に。灰は灰に。虚構は虚構に」
そうだろ父さん、と言ったパーカーを着た人はためらいなく引き金を引く。
「絵井美」
絶句するシュイロの顔を見て、その人は満足そうにバロバロに銃弾を撃ち込んだ。
*
思考の虚構に潜っていく。白さが僕を切る。何が白いのかというと、それは虚構だ。僕は虚構というものはもっと黒くて雑然としたものだと思っていた。しかしコギトの虚構は違った。どこまでも澄み切っている。嘘っぽいところが少しもない。僕は潜水して行く。横を見るとぎんぶちが苦しそうな表情をしていた。無理もない。コギトの虚構は澄み切り過ぎている。ここが巧妙に創られたフィクションの世界だと分かっているのにも関わらず、ここはどこまでも完全だ。頭がおかしくなりそうだ。完全は完璧じゃない、という詩を重思い出す。そのとおりだ。その言葉を頼りに僕は自分を不完全だと言い聞かせて正気を保つ。後ろを振り向く。誰もいない。どうやらパーカーはまだ来ていないようだ。その方がいい。こんなところに長くいたら本当に意味消失してしまう。この白い暗闇の海は澄み切っていた。圧迫されることもない。窒息することもない。呼吸をしなくてもいい。でも苦しい。その苦しさが分かることが僕を、僕が虚構じゃないのだと実感させてくれる。
僕たちはどこまでも潜っていく。たまに虚構の断片が海に浮かんでいた。それは沈みもせずにただそこに漂っていた。それは石ころだったり、ロープだったり、飴玉だったり、ガラクタだった。なんだか昔に書いた小説を思い出す。もうあまり内容を思い出せないんだけど、確かこういったモチーフが出て来るんだよな。
僕たちは潜り続けた。時間の感覚なんかとっくになくなっていて、あるのは伸びきった自分の意識だけ。僕もぎんぶちも狂いかけていた。特にぎんぶちはひどく、もう自分に客観性がないのだと思い始めていた。自分は誰にも観測されない存在で、誰一人自分に碇を下ろしてくれないのだと。固定(fix)してくれないのだ。私が見ている景色は誰とも共有できないんだ。
僕はぎんぶちの頬に手を添える。
それはいかにも偽善的で女性にとってはいやな行為だと分かっている。でもそんくらいしかできなかった。僕にはそんくらいしかレパートリーがないから。
「あ、り、が、と」
ぎんぶちは口をそう動かした。ぼくはすくわれた気持ちになる。
そのとき不意に僕たちは重力を得た。それは強い力だった。
僕たちはあっという間に地面に張り付けられてしまう。
地面? と僕は思う。
そう地面だった。さっきまでの白い海はなくなっていて、代わりに地面があった。この地面は地球の地面じゃない、と直感した。
「木星ね」
とぎんぶちは苦しそうに言った。
「コギトが話していた所とそっくり」僕たちはなんとか身体を起こす。「彼の見る夢の話を聞くのが好きだったの」
それはよっぽど楽しい話だったに違いない。あるいはコギトがとても話上手だったかだ。人の夢の話を聞いて楽しいなんて思うことはほとんどない。たいていは自意識にまみれた退屈な話だからだ。意味もなければ実際起きたことではない。でもそれは今ここでとても大切なことだった。
「コギトがどこにいるかわかる?」
「彼はいつも湖の傍にいたと思う。そしていつもそこで何かを探していた」
湖。と僕は思う。木星に湖なんてあるのだろうか。
「きっとあるのよ」
ぎんぶちは強く言う。彼女はコギトの虚構を本当に信じているのだ。やさしいんだね、と声に出さずにつぶやく。
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