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される発狂/inside
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エイミーが発狂したので、川に捨てた。汚い川だった。ごみが溢れていて、彼女は何度もそれらに引っかかった。その度に衣服が削られてエイミーはぼろぼろになった。その時初めて裸のエイミーを見たと思う。のっぺりとしていた。ごみに引っかかって不安だったけど、ちゃんと流れてくれた。戻ろうとしたとき、ポケットから紙くずが落ちた。僕はそれを拾って帰る。
エイミーを捨てた帰り、僕はバスを待ちながら及ばずとも風に転ばされる。夕暮れの景色が辺りを赤く染める。風と戯れながら僕は空を見上げる。
「おにいちゃんは、どうしてあのお人形さんを捨ててしまったの?」
僕は視線を落とす。少し大きめの野球帽を被った男の子が、俯いていた。悲しそうにしているのが分かる。肩で分かる。子供は悲しい時、肩を窮屈に感じるから。男の子は肩を廃棄したがっているように感じた。朱色の夕暮れの景色の中、ゴミだらけの川の近く、バス停で。
僕は微笑んだ。その影濃く俯いた顔を白濁させてあげたい。
「彼女は潜水病になってしまったんだよ」
「そうなんだ」
男の子はまだうまく分かっていなさそうだった。彼の顔はまだ幾分暗い。ああ、そんな顔されるとむずむずするじゃないか。
「大人は子供になれないだろう」
「でも、ぼくは、大人になるよ」
「なりたいのかい」
「わかんない。でも大人になるよ」
「でも君はまだ君でいい」
五時半になった。バスがくる。きた。でかい図体を不恰好に揺らして僕に近づいてくる。僕はこの四角い乗り物がひどく嫌いだ。僕は生まれつき三半規管が弱いようで、乗り物にすぐ酔ってしまう。中でもこのバスという乗り物はひどい。車内の空気が硬い。そんな空気を吸っていると、喉の奥がどんどん肥大していって、そのカタマリを吐き出したくなる。だから、橋をかければいいと思う。バスの屋上に通じる橋を。そうすればたくさん新鮮な呼吸ができる。
バスの扉がぷしゅうと開いて、中の瘴気が外に漏れ出してくる。内臓がせり上がってきそうだ。その時僕はふと思い付いて、男の子の野球帽をひょいっと取り上げて、自分の頭に乗っけた。ちょうど良いサイズだ。僕はバスに乗り込む。
男の子はぼさぼさの黒髪を露出させたまま、しばらくぽかんとしていたけれど、自分の野球帽が取られたと分かると、わぁっと泣き出した。子供は自分のものを取られるのがとても嫌いだからね。だからやったんだけど。返して、返して、とバスの扉を叩いた。返して、返して。僕は震えた。男の子の濃い影は桜色に紅潮して、光る瞳がざわめいている。バスは無常に去る。排気ガスを男の子に浴びせながらあとにする。男の子と僕の距離が離れていく様はきれいだった。彼の姿が小さくなって、行動も小さくなる。彼は地面に座り込んでいた。ティピカルでほんとうに美しい。僕は彼から奪った野球帽のにおいを嗅ぐ。顔いっぱいに押し付けて、彼のにおいを吸い込んで、胸に取り込む。未熟なにおいがした。
「またやってんのか」
と黒星さんがバスのハンドルを切りながら言う。「小さい子をいじめて楽しいのかよ」
いじめてないよ、と僕は言った。誰もいない、揺れる車内でうまくバランスをとりながら、両替機の前まで行く。
「これでエイミーもうかばれるよ」
「ただの人形だけどな」
黒星さんは吐き捨てた。思うに、この人は愛が足りない。
後ろを振り返っちゃいけないよ、と昔に言われたことを思い出す。僕は振り返る。誰もいない。空席のシート、短く揺れる吊り輪、鈍くシルバー、たまに反射して赤銅色に光る手すり、硬い奥行き、があるだけ。分かっている。それはもっと局地的な状況下におけることなんだろう?
「キョロキョロすんなあんまり」
黒星さんはハンドルを切る。
「なんでですか」
「なんかむかつくからだよ」
おもしろくて笑った。僕は笑う。バスが少し揺れたので、僕は手すりにつかまった。黒星さんは恥ずかしそうにむすっとしている。顔を歪めて怖い恐い雰囲気を垂れ流して、それを僕に押し込もうとしているのがよくわかる。大声を出して、そんなの効かないよ、と言いたかったけど、黒星さんがびっくりして事故ったらいやだから胸の奥で笑うに留めた。ああ、僕は今日も命を救ったよ。
「俺はあんたを家まで送る。それだけなんだからな」
黒星さんは細い目に力を込めて言う。だから俺の中に入ってくるなよ、と言いたいんだろうきっと。いいさいいさ、知ってる。そんなことしないよ。たぶん、大丈夫。
あの男の子から離れてずいぶん経ったかな。バスはぐんぐん、ぎんぎん進んでいった。あらゆる背景と景色を引き伸ばしていって、僕の宇宙ができあがっていった。夕景はやがて鮮やかさが失われ、どす黒い動脈のような色になっていく。バスはちょっとした住宅街を通り過ぎて、僕の家に向かう。こんな狭い住宅街を毎夜毎夜通られたら、近隣の人はきっと迷惑だろう。猫や犬も轢いてしまったかもしれない。しかたないよ。そんなことがあってもしかたない。それより今、鳥が鳴いていたよ。ほーお、すこう。ほーお、すこう。僕はそれに合わせて両替機を一緒に叩いた。ほーう、すこう。ほーうすこう。鳥の鳴き声はちょっと頬を赤らめたような鳴き方に変えた。無邪気なんだろう。雛鳥なら飼いたいけども。
不意にバスが止まった。僕の家に着いたからだ。「着いたぞ」と黒星さんが言う。そんなん分かってるよ。たまに無粋だよこの人は。僕は乗車口から下車する。
「じゃあ、またな」またな、になんか含みがあったけど気にかけるのは止めた。黒星さんはバスを発車させようと、アクセルを踏もうとしたけど、そういえば、と僕に尋ねた。「なんでバスで迎えに来させるんだ?」
ああ、それはね。僕は首だけ後ろを向いて答える。「好きになりたいからだよ。嫌いなものを」
それって、すごく感動することなんだよ。された方はとってもぐっとくる。だけど、すごく殺してやりたくなる。分かんないかな。
「そうかい」黒星さんはさっぱり分からなさそうだった。でも彼は明日も僕を迎えにここにやってくる。僕はそれで満足だ。それが満足だ。彼はアクセルを吹かし、夜闇にバスごと紛れて消えていった。
僕の家はアパートだ。二階の右から三番目の部屋。外の景色が良く見えるところ。この部屋から見渡せる景色は、この街で一番の景色だと思う。大きな川が流れていて、その淵を土手が沿っている。昼ごろにもなるとそこでは子供がダンボールを使って土手滑りをしていたり、ジョギングをしている若いおねいさん、犬の散歩をしているおじいさんがいたりする。僕はそれを見ながら、エイミーと暮らしていた。静かに暮らしていたんだ。
でもエイミーは発狂してしまった。潜水してしまったんだ.きっと黒星さん達のせいで発狂してしまった。悲しかった。できることなら僕も発狂したかった。でも僕にはやることがあるから、それはできなかったんだ。だから川へ捨てた。僕はエイミーを見殺しにしたんだ。それは言い訳できない。誰か僕の靴を燃やしてしまえば良かったのに。そうすれば僕は川へ行ったりしなかった。そうすれば、エイミーを見殺しになんてしなかった。ごめんね、エイミー。
僕は意識を集中させる。あの野球帽に集中させる。付随してあの男の子のことも思い出してきた。彼はいい子だったな。野球帽を被ってるからいい子だ。
僕は頑張った。誰も褒めてくれないけど。でも、やらなきゃいけないことをやろうと思う。あいつををぶん殴ってやる。それが僕の今のやること。そういえばあいつからもらった鉛筆はどこにやったっけ。僕は部屋の真ん中にぽつんと置かれているちゃぶ台の前であぐらをかく。同じようにちゃぶ台に横たわっているノートPCを開いた。そして同じように置いてあるヘッドホン型の機械を装着する.眠けまなこの液晶が僕をぼんやりと見つめた。見つめ返す。意識を断つ。
エイミーを捨てた帰り、僕はバスを待ちながら及ばずとも風に転ばされる。夕暮れの景色が辺りを赤く染める。風と戯れながら僕は空を見上げる。
「おにいちゃんは、どうしてあのお人形さんを捨ててしまったの?」
僕は視線を落とす。少し大きめの野球帽を被った男の子が、俯いていた。悲しそうにしているのが分かる。肩で分かる。子供は悲しい時、肩を窮屈に感じるから。男の子は肩を廃棄したがっているように感じた。朱色の夕暮れの景色の中、ゴミだらけの川の近く、バス停で。
僕は微笑んだ。その影濃く俯いた顔を白濁させてあげたい。
「彼女は潜水病になってしまったんだよ」
「そうなんだ」
男の子はまだうまく分かっていなさそうだった。彼の顔はまだ幾分暗い。ああ、そんな顔されるとむずむずするじゃないか。
「大人は子供になれないだろう」
「でも、ぼくは、大人になるよ」
「なりたいのかい」
「わかんない。でも大人になるよ」
「でも君はまだ君でいい」
五時半になった。バスがくる。きた。でかい図体を不恰好に揺らして僕に近づいてくる。僕はこの四角い乗り物がひどく嫌いだ。僕は生まれつき三半規管が弱いようで、乗り物にすぐ酔ってしまう。中でもこのバスという乗り物はひどい。車内の空気が硬い。そんな空気を吸っていると、喉の奥がどんどん肥大していって、そのカタマリを吐き出したくなる。だから、橋をかければいいと思う。バスの屋上に通じる橋を。そうすればたくさん新鮮な呼吸ができる。
バスの扉がぷしゅうと開いて、中の瘴気が外に漏れ出してくる。内臓がせり上がってきそうだ。その時僕はふと思い付いて、男の子の野球帽をひょいっと取り上げて、自分の頭に乗っけた。ちょうど良いサイズだ。僕はバスに乗り込む。
男の子はぼさぼさの黒髪を露出させたまま、しばらくぽかんとしていたけれど、自分の野球帽が取られたと分かると、わぁっと泣き出した。子供は自分のものを取られるのがとても嫌いだからね。だからやったんだけど。返して、返して、とバスの扉を叩いた。返して、返して。僕は震えた。男の子の濃い影は桜色に紅潮して、光る瞳がざわめいている。バスは無常に去る。排気ガスを男の子に浴びせながらあとにする。男の子と僕の距離が離れていく様はきれいだった。彼の姿が小さくなって、行動も小さくなる。彼は地面に座り込んでいた。ティピカルでほんとうに美しい。僕は彼から奪った野球帽のにおいを嗅ぐ。顔いっぱいに押し付けて、彼のにおいを吸い込んで、胸に取り込む。未熟なにおいがした。
「またやってんのか」
と黒星さんがバスのハンドルを切りながら言う。「小さい子をいじめて楽しいのかよ」
いじめてないよ、と僕は言った。誰もいない、揺れる車内でうまくバランスをとりながら、両替機の前まで行く。
「これでエイミーもうかばれるよ」
「ただの人形だけどな」
黒星さんは吐き捨てた。思うに、この人は愛が足りない。
後ろを振り返っちゃいけないよ、と昔に言われたことを思い出す。僕は振り返る。誰もいない。空席のシート、短く揺れる吊り輪、鈍くシルバー、たまに反射して赤銅色に光る手すり、硬い奥行き、があるだけ。分かっている。それはもっと局地的な状況下におけることなんだろう?
「キョロキョロすんなあんまり」
黒星さんはハンドルを切る。
「なんでですか」
「なんかむかつくからだよ」
おもしろくて笑った。僕は笑う。バスが少し揺れたので、僕は手すりにつかまった。黒星さんは恥ずかしそうにむすっとしている。顔を歪めて怖い恐い雰囲気を垂れ流して、それを僕に押し込もうとしているのがよくわかる。大声を出して、そんなの効かないよ、と言いたかったけど、黒星さんがびっくりして事故ったらいやだから胸の奥で笑うに留めた。ああ、僕は今日も命を救ったよ。
「俺はあんたを家まで送る。それだけなんだからな」
黒星さんは細い目に力を込めて言う。だから俺の中に入ってくるなよ、と言いたいんだろうきっと。いいさいいさ、知ってる。そんなことしないよ。たぶん、大丈夫。
あの男の子から離れてずいぶん経ったかな。バスはぐんぐん、ぎんぎん進んでいった。あらゆる背景と景色を引き伸ばしていって、僕の宇宙ができあがっていった。夕景はやがて鮮やかさが失われ、どす黒い動脈のような色になっていく。バスはちょっとした住宅街を通り過ぎて、僕の家に向かう。こんな狭い住宅街を毎夜毎夜通られたら、近隣の人はきっと迷惑だろう。猫や犬も轢いてしまったかもしれない。しかたないよ。そんなことがあってもしかたない。それより今、鳥が鳴いていたよ。ほーお、すこう。ほーお、すこう。僕はそれに合わせて両替機を一緒に叩いた。ほーう、すこう。ほーうすこう。鳥の鳴き声はちょっと頬を赤らめたような鳴き方に変えた。無邪気なんだろう。雛鳥なら飼いたいけども。
不意にバスが止まった。僕の家に着いたからだ。「着いたぞ」と黒星さんが言う。そんなん分かってるよ。たまに無粋だよこの人は。僕は乗車口から下車する。
「じゃあ、またな」またな、になんか含みがあったけど気にかけるのは止めた。黒星さんはバスを発車させようと、アクセルを踏もうとしたけど、そういえば、と僕に尋ねた。「なんでバスで迎えに来させるんだ?」
ああ、それはね。僕は首だけ後ろを向いて答える。「好きになりたいからだよ。嫌いなものを」
それって、すごく感動することなんだよ。された方はとってもぐっとくる。だけど、すごく殺してやりたくなる。分かんないかな。
「そうかい」黒星さんはさっぱり分からなさそうだった。でも彼は明日も僕を迎えにここにやってくる。僕はそれで満足だ。それが満足だ。彼はアクセルを吹かし、夜闇にバスごと紛れて消えていった。
僕の家はアパートだ。二階の右から三番目の部屋。外の景色が良く見えるところ。この部屋から見渡せる景色は、この街で一番の景色だと思う。大きな川が流れていて、その淵を土手が沿っている。昼ごろにもなるとそこでは子供がダンボールを使って土手滑りをしていたり、ジョギングをしている若いおねいさん、犬の散歩をしているおじいさんがいたりする。僕はそれを見ながら、エイミーと暮らしていた。静かに暮らしていたんだ。
でもエイミーは発狂してしまった。潜水してしまったんだ.きっと黒星さん達のせいで発狂してしまった。悲しかった。できることなら僕も発狂したかった。でも僕にはやることがあるから、それはできなかったんだ。だから川へ捨てた。僕はエイミーを見殺しにしたんだ。それは言い訳できない。誰か僕の靴を燃やしてしまえば良かったのに。そうすれば僕は川へ行ったりしなかった。そうすれば、エイミーを見殺しになんてしなかった。ごめんね、エイミー。
僕は意識を集中させる。あの野球帽に集中させる。付随してあの男の子のことも思い出してきた。彼はいい子だったな。野球帽を被ってるからいい子だ。
僕は頑張った。誰も褒めてくれないけど。でも、やらなきゃいけないことをやろうと思う。あいつををぶん殴ってやる。それが僕の今のやること。そういえばあいつからもらった鉛筆はどこにやったっけ。僕は部屋の真ん中にぽつんと置かれているちゃぶ台の前であぐらをかく。同じようにちゃぶ台に横たわっているノートPCを開いた。そして同じように置いてあるヘッドホン型の機械を装着する.眠けまなこの液晶が僕をぼんやりと見つめた。見つめ返す。意識を断つ。
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