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潜水思考/outside
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これは、僕の思考。
とりとめもない、ぼくの物語。
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破滅に捧ぐ歌を考えよう。
僕は今、橋を渡りながらそんなことを思っている。
ミシシッピ川みたいな脳の毛細血管に,思考を垂れ流しているのだ。うっかり人に聞かれないためにも大事なことはたくさんある。
「あなたがたはそうやって何かをいのることしかできない」僕の国の偉い詩人が言った言葉だ。思い返せばなつかしく感じる。
潜水病に陥りながら,僕は僕に潜る.そして溺死したピアノを弾くんだ.そのために調律しなきゃいけないんだけど,うまくいかない.ああ、フラストレーションがたまっていくよ。うまくできないんだ。こちこち、と水没したメトロノームの音ばかり鳴っていく。刻まれる度に僕は機械になっていく。どこからか、前世がタガメの蝶がやってきて、ひらひらと鼻の先を舞う。鱗粉の呼び声が僕をいざなう。はやく踊ろう。はじめよう。きれいな瞳を悲しそうな声で染め上げよう。そう言ってる。
あぁコギト。君はいまどこにいるんだろう。
僕は今、橋の上にいるよ。橋の上で取り付く暇もなく考えている。実はまだあまり考えていないんだ。君に捧ぐ歌をさ。そういったら許してくれるのかい?
「やっぱりあんたは凍えているね」と橋の脇の乞食が言う。
「誰にも相手にされないからひどく凍えているんだ。僕と同じだよ」そう言って、くたびれた聖杯を干からびた手で差し出してくる。
僕はその手を蹴り上げる。中の金貨がすべて散らばった。この乞食はまた最初からやり直しだ。産声をあげるところから。
君の頭はDでいっぱいだ。そうだろ? 窓からいつも見てるのを知ってるよ。この前のパレードの時もそうだった。君はいつも肝心なことから目をそらして大切なものを探していた。僕はその生き方が羨ましくて向かい側の窓から君をいつも眺めていたんだ。
あんたのまばたきってクセになるわね、と昔お姫様に言われたことがある。ただ目が悪くて、良く見るために細めたり、しばたたいていただけなんだけどね。でもそれは数少ない僕の自慢の一つだよ。ちなみに僕はそのとき紫色の証明をしていたところだったんだ。もうずっと解いているんだけどね。今でもなんだけどさ。一人じゃ何も出来ないな、って分かってたんだけど、解かずにはいられなかった。君だってあるだろ? 誰も要らないから自分だけの部屋を欲しいって時がさ。
とにかくお姫様は僕のまばたきをいたく気に入ってくれたのは確かだったんだ。分かる? 「分かるさ、分かるとも」僕は空を見上げる。ひねくれたつばめがどうやらカーカー言ってるらしい。「お姫様は好きだったんだろ君のこと」ちぇっと僕は舌打ちする。1、2、3、どれだけ数えてもあのつばめは群れを成さない。一人で飛んでいてもまったく楽しくないだろうに。ほんとうに、カラスみたいなやつだよ。
コギト、歌はなかなか定まらない。僕は君に許して欲しいんだ。歌を捧ぐことによって。かすれたインクのようになったっていい。どうにかして君ともっといたいんだよ。君は僕の素晴らしさをまだぜんぜん分かっていない。またビッグバンが起こるまで一緒にいても分からないかもしれないけど、僕は君にそれを教えてあげたいんだ。君は物事を自分の方向からしか見ていない。まぁその視線が僕はとても好きなんだけどね、でも危なっかしくて見ていられない。僕は見えない君となって君の多面的になるよ。まだ一緒にいてくれない?
「こんなところに何しにきたのよ」 と園原が言っていた。
「あんたはもう橋の向こう側にいってしまったじゃない」
どうやらいつのまにか、橋のこちら側に戻っていたようだ。僕はすっと笑う。
「知ってるよ。でも橋の向こうには道が無かった。何もないんだ。草しかない。とても寂しいところなんだ。笑いながらお茶を飲むこともできない」
実際はそういう訳でもなかった。僕が橋の向こうに行った時は街があった。人が沢山いて、色んな物を抱えて歩いていた。パンとか、野菜とか。路上でライブもやっていた。下手だったけどね。ただ、みんなが楽しそうに笑っていたよ。やりたいことをやっているようだった。だからその街は僕には合わない。だってみんな勝手なことばかりしているんだ。それでなによりみんな僕を知らない。
園原はでもさ、って吐きそうになる。 「自分で行くって言ったんじゃん。なんで自分の言ったことに責任を持たないの?」 ああ、そんなこと言われるとどうにも弱くなっちまうよ。僕はそんなに強くないんだ。メガネのフレームみたいにさ。 「あの時の僕はきっと僕じゃなかったんだよ。僕は剣のように貫けた生き方はできない。園原も剣のようにはなれないだろ」
だけど、と園原は言う。 「でも刃こぼれしないよう自分にやさしくすることはできるわ。今のあんたはまるでのこぎりよ。できない、できない、できない、って。断裂していてじぐざぐよ。ばっかじゃないの。そんなにおとなしくしていたら本当のことだって歪んじゃうわよ。ねぇ、物事はプラスチックみたいに簡単じゃないの。ねぇ、それを確かめに行くんじゃなかったの。だから私から離れて行ったんじゃないの」
園原は目頭で息をするほどに泣いていた。じゃあ僕はどうすればいいんだい? そう問うよ、コギト。君はどう考える。僕のすることと言えばただ黙って歌を考えるだけ。とまらないように、他の事を考えないように。コギト、君のための歌を考えるしかないんだ。
僕らはしばらく座っていた。どこに座っていたかというと、橋から少し離れた土手に座っていた。草花の景色が一面に広がっている。緑の斜面にはところどころきれいな花が咲いている。その周りを一匹のハチがぶんぶん飛んでる。どうやら花粉集めにてこずっている様だった。多分不得意なんだと思う。すると、別のハチがやってきて代わりに花粉を取ってあげた。こいつはきっと得意なんだな。得意なハチは花粉をとると後ろを向いて不得意なハチを一瞥してぶーんと巣に帰っていった。不得意なハチはぶぅん、と申し訳なさそうに後を追いかけて行った。 「何見ているの」
いくらか落ち着いた園原は、冷静さを装ってそう言った。
「ハチも大変だなぁって」 「ばかじゃないの」 僕はそうだね、と言って手元の草を引っこ抜いて、前に投げた。案の定、そよ風にやんわりと跳ね返された。そのいくつかが園原の顔にかかって、彼女はしかめっ面をする。
「ばかじゃないの」
と睨まれる。ごめん、と彼女の顔から草を取り除こうと手を伸ばしたが、彼女は顔を逸らす。
「もういいよ」
「ごめん」
だからもういいって。ハチたちが僕らの横を通り過ぎていった。ごめんよ。いいよ。そんなに気にしてないから。ハチは青空に向かっていく。二匹は時折交差しながら舞う。地上が徐々に離れていって、ゆるい螺旋が軌跡として降ってくる。ああ、青空がまぶしい。白光する螺旋がゆったり僕の首に纏わりついてきて、空想上の僕は事切れていく。そう望んでいるんだ。ごめん。
「シュイロのところに行こうか」
ぱんぱんと汚れを払いながら園原は立ち上がる。
「帰ってきたなら、行かなくちゃ」
彼女は笑って目尻の残涙を目尻から拭き取る。それは僕の役目だったんだけど、今の僕はすっかり盲目だからそんなことにも気づかない。こういう時、僕は本当に自分を螺旋に委ねたくなるよ。
「そうだね」
僕も立ち上がる。園原はそれを確認してすたすたと歩いていく。後ろに続いて行く。日差しがじりじりと首筋にプレッシャーをかけてくる。青空め。相変わらず晴れている。
僕たちは今シュイロの所へ行こうとしている。シュイロの場所を僕は知らない。園原が知っている。だから後ろに続いて行く。彼女の後ろ姿を僕は見つめている。髪が綺麗だ。長さは短くは無いが長くもない。特に切り揃えたりしている訳でもなく、ゆらゆらと自然のままに伸ばしているようだ。彼女が最後に髪を結んだのはいつだったっけ。うまく思い出せない。首筋もゲレンデのように滑らかだ。美しい山の裾野のように広がっている。それでいて、観光された跡もない。未開拓のままだ。その下の背筋から臀部にかけてのラインはスプーンのような流曲線を描いて、ふっくらとした太腿に滑り落ち、丸くてやわらかい膝裏のくぼみを通って、豊潤で瑞々しいふくらはぎと、きゅっとすぼまった踵を繋いでいる。僕は園原の後ろ姿が大好きだ。僕をこんなにもうっとりさせるから。歩くたびに園原の体は揺れる。魅力的なそれらが全部、歩くための機能を果たしつつ、僕を揺さぶる。揺さぶられた僕は斜め後方に押し出されて僕自身を見ることになる。僕はどうやらうっとりと静かな興奮の余韻を楽しんでいるようだ。園原の後方をじっと細めている目は鋭い残像のようにくっきりしている。気持ち悪い。
「シュイロのところまでどれくらいあるんだい?」
後姿に揺られながらそう言う。
「分からない。シュイロのことは私もよく知らないの。でもじきに分かるはず」
「じきに?」
「うん」
じきに。じきに、ってのはいつだろう。園原らしくない不明確な答えだった。彼女の背筋も不安げにしおれている。 園原はね、メガネなんてかけてぱっと見、真面目なで大人しそうに見えるけど、その実、結構自信家なんだ。成績もいいし、確か新聞部だったかな。部活にも打ち込んでいて、かなり優秀なんだよ。実のところ。後輩には頼られてるし、先生にも評判いいみたいだし。あぁ、そう言えばサッカーもうまかったな。彼女がゴール決めたところを見せてあげたいよ。足を高々とボールごと蹴り上げてさ、溜め込んだ熱い息を吐き出して全身で蹴りこむんだ。自分がゴールに直接入っていくみたいにさ。それで、網に跳ね返ってころころ転がってきたボールをつま先でちょいっと浮かせて脇に抱え込み、満面に笑うんだよ。あの笑顔は好きだったな。自分が蹴った、ゴールさせた、ってのをちゃんとわかっている笑顔なんだよ。全部わかっていて笑うんだ。かっこよかったな、あれは。まぁそんな園原が自信無さげにしているんだ。なんかこっちも不安になってしまうよね。だから終わって欲しくないな、園原には。
僕らはその後も歩いていた。園原は僕の前を行って、僕は園原の後にくっつくようにして歩く。彼女はなかなか歩くのが早いんだ。歩くのが早い女の子は少々堪えるよ。女の子に自分から行かれてしまうと、残された僕は何も始められなくなっちまうからね。でも園原はそこら辺をきちんとわかっていて、僕のことをちゃんと気にかけてくれるんだ。僕がどこにいるか把握して歩いてくれるから。ふいに後ろを見て僕をちらりと一瞥して、輪郭だけ見せて、また思い出したようにすたすた歩き出す。そんな悠長な繰り返しさ。だけどそれでいいのさ。 でもさすがに少し疲れてしまって、休んだりなんかする時なんかはただ何も思わずに、何も変わらない青い空を仰いでじっとしていた。そんな時は園原もそれなりに疲れていたりするから、二人で身動きしないで、自分の身体の言うことを聞いているんだな。内側の血液たちが鼓を打ってどこどこ行進しているのがよく聞こえる。そんな時ちょこっと風なんかが吹いてくれると僕はすうっと気持ちよくなる。何か始めたくなるような気分だよ。でもそれが何かわからないんだ。何をしたいのか。半分だけでもいいのにさ。
コギト。君は今どうしてる? 何か気に入った物をまた見つけることができたかい。それなら僕はいいんだけどさ、でもそれはそれで僕は辛いかもしれないね。それこそ悠長だ。ああ、悠長だよ。耳障りなことにね。
結局君のDについてだけどさ、あれの解決はできたのかい? 僕はDが大嫌いだよ。君が僕を嫌うようにね。Dに親しみを込めるには、僕の拳は小さすぎる。君の知ったこっちゃないけどね。ごめんね。でもだいたいにしてさ、あのお姫様もいけないんだよ。あんなに僕をカナリアみたく大事にかくまっていたくせに、いざカナリアが飛ぼうとするとか細い両手で行く手を遮るんだ。「助けて」って。だからあんたの拳は僕には小さすぎるんだって。そう言いたいけど、僕の思いは想いでしか伝えられない。だからもうしばらく傍にいてやったけどね。証明も出来ずじまいさ。だから昔も今もこんなに困ってる。始まりの合図はいつだっけ。ねぇねぇ、ねぇ、ねえ。
「だめっ」
と園原の鋭い声が僕のいざないを切り裂いた。はっと気付いて下を見ると、足元から胸の辺りまで薄紫の影に飲み込まれていた。違う、僕の身体の半分はもうバロバロに食われていた。痛みは無いんだ。だから余計に恐ろしくて、自分の身体が夜霧のもやに静かにとけていくようで、行進が途絶えてしまうようで、怖かった。両手は使えたからバロバロを夢中で殴った。子供の喧嘩みたいにぐるぐる振り回して。でも感触も手応えもない。ただ、叩く度にバロバロの黒い体から桜色の粒子がぶわぁと吹き上がってその粒子にも包まれていく。バロバロが僕に呼吸を合わせたがっているのがよくわかった。こいつの呼吸は甘美だ。僕の肺が踊らされていく。胸の一点が凍ったように動かなくなる。それもよくわかる。段々と、やがて、が連続していって、いつか、になって僕の内側の血液たちがゆっくり歩くようになる。悠長だよ。本当に悠長だ。
その時、手が僕を引っ張る。園原の手だ。そんなのすぐにわかる。だって周りが桜や薄紫でいっぱいなのに、ひとつだけ雪のように白いから。季節が逆になったような気になる。でも園原の手は僕を真っ直ぐに引っ張り出す。淡い鮮やかな世界に亀裂が入って、吐き出されるように僕は地面に転がる。土ぼこりが目に入ってうっかり涙が出た。 バロバロは僕をじっと見つめるように、暫くその場を漂っていたけれども、何かに掻き消されるように消えて行った。 そしてすぐに抱きしめられる。きつい。それと少しごわごわするな。多分園原の服のせいだろう。それと一緒に、とてもいい灰のような匂いがするけれども。 抱きしめながら「離れない」と彼女は言った。で、が抜けているんじゃないかい。そう問いたいよ。でも今はこのままでいいかな。そうしていなきゃ、僕はまだ腕の震えが止まりそうにない。それと、バロバロに連れて行かれた僕の心臓が引き起こす、幻肢痛のような痛みも。
これは、僕の思考。
とりとめもない、ぼくの物語。
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破滅に捧ぐ歌を考えよう。
僕は今、橋を渡りながらそんなことを思っている。
ミシシッピ川みたいな脳の毛細血管に,思考を垂れ流しているのだ。うっかり人に聞かれないためにも大事なことはたくさんある。
「あなたがたはそうやって何かをいのることしかできない」僕の国の偉い詩人が言った言葉だ。思い返せばなつかしく感じる。
潜水病に陥りながら,僕は僕に潜る.そして溺死したピアノを弾くんだ.そのために調律しなきゃいけないんだけど,うまくいかない.ああ、フラストレーションがたまっていくよ。うまくできないんだ。こちこち、と水没したメトロノームの音ばかり鳴っていく。刻まれる度に僕は機械になっていく。どこからか、前世がタガメの蝶がやってきて、ひらひらと鼻の先を舞う。鱗粉の呼び声が僕をいざなう。はやく踊ろう。はじめよう。きれいな瞳を悲しそうな声で染め上げよう。そう言ってる。
あぁコギト。君はいまどこにいるんだろう。
僕は今、橋の上にいるよ。橋の上で取り付く暇もなく考えている。実はまだあまり考えていないんだ。君に捧ぐ歌をさ。そういったら許してくれるのかい?
「やっぱりあんたは凍えているね」と橋の脇の乞食が言う。
「誰にも相手にされないからひどく凍えているんだ。僕と同じだよ」そう言って、くたびれた聖杯を干からびた手で差し出してくる。
僕はその手を蹴り上げる。中の金貨がすべて散らばった。この乞食はまた最初からやり直しだ。産声をあげるところから。
君の頭はDでいっぱいだ。そうだろ? 窓からいつも見てるのを知ってるよ。この前のパレードの時もそうだった。君はいつも肝心なことから目をそらして大切なものを探していた。僕はその生き方が羨ましくて向かい側の窓から君をいつも眺めていたんだ。
あんたのまばたきってクセになるわね、と昔お姫様に言われたことがある。ただ目が悪くて、良く見るために細めたり、しばたたいていただけなんだけどね。でもそれは数少ない僕の自慢の一つだよ。ちなみに僕はそのとき紫色の証明をしていたところだったんだ。もうずっと解いているんだけどね。今でもなんだけどさ。一人じゃ何も出来ないな、って分かってたんだけど、解かずにはいられなかった。君だってあるだろ? 誰も要らないから自分だけの部屋を欲しいって時がさ。
とにかくお姫様は僕のまばたきをいたく気に入ってくれたのは確かだったんだ。分かる? 「分かるさ、分かるとも」僕は空を見上げる。ひねくれたつばめがどうやらカーカー言ってるらしい。「お姫様は好きだったんだろ君のこと」ちぇっと僕は舌打ちする。1、2、3、どれだけ数えてもあのつばめは群れを成さない。一人で飛んでいてもまったく楽しくないだろうに。ほんとうに、カラスみたいなやつだよ。
コギト、歌はなかなか定まらない。僕は君に許して欲しいんだ。歌を捧ぐことによって。かすれたインクのようになったっていい。どうにかして君ともっといたいんだよ。君は僕の素晴らしさをまだぜんぜん分かっていない。またビッグバンが起こるまで一緒にいても分からないかもしれないけど、僕は君にそれを教えてあげたいんだ。君は物事を自分の方向からしか見ていない。まぁその視線が僕はとても好きなんだけどね、でも危なっかしくて見ていられない。僕は見えない君となって君の多面的になるよ。まだ一緒にいてくれない?
「こんなところに何しにきたのよ」 と園原が言っていた。
「あんたはもう橋の向こう側にいってしまったじゃない」
どうやらいつのまにか、橋のこちら側に戻っていたようだ。僕はすっと笑う。
「知ってるよ。でも橋の向こうには道が無かった。何もないんだ。草しかない。とても寂しいところなんだ。笑いながらお茶を飲むこともできない」
実際はそういう訳でもなかった。僕が橋の向こうに行った時は街があった。人が沢山いて、色んな物を抱えて歩いていた。パンとか、野菜とか。路上でライブもやっていた。下手だったけどね。ただ、みんなが楽しそうに笑っていたよ。やりたいことをやっているようだった。だからその街は僕には合わない。だってみんな勝手なことばかりしているんだ。それでなによりみんな僕を知らない。
園原はでもさ、って吐きそうになる。 「自分で行くって言ったんじゃん。なんで自分の言ったことに責任を持たないの?」 ああ、そんなこと言われるとどうにも弱くなっちまうよ。僕はそんなに強くないんだ。メガネのフレームみたいにさ。 「あの時の僕はきっと僕じゃなかったんだよ。僕は剣のように貫けた生き方はできない。園原も剣のようにはなれないだろ」
だけど、と園原は言う。 「でも刃こぼれしないよう自分にやさしくすることはできるわ。今のあんたはまるでのこぎりよ。できない、できない、できない、って。断裂していてじぐざぐよ。ばっかじゃないの。そんなにおとなしくしていたら本当のことだって歪んじゃうわよ。ねぇ、物事はプラスチックみたいに簡単じゃないの。ねぇ、それを確かめに行くんじゃなかったの。だから私から離れて行ったんじゃないの」
園原は目頭で息をするほどに泣いていた。じゃあ僕はどうすればいいんだい? そう問うよ、コギト。君はどう考える。僕のすることと言えばただ黙って歌を考えるだけ。とまらないように、他の事を考えないように。コギト、君のための歌を考えるしかないんだ。
僕らはしばらく座っていた。どこに座っていたかというと、橋から少し離れた土手に座っていた。草花の景色が一面に広がっている。緑の斜面にはところどころきれいな花が咲いている。その周りを一匹のハチがぶんぶん飛んでる。どうやら花粉集めにてこずっている様だった。多分不得意なんだと思う。すると、別のハチがやってきて代わりに花粉を取ってあげた。こいつはきっと得意なんだな。得意なハチは花粉をとると後ろを向いて不得意なハチを一瞥してぶーんと巣に帰っていった。不得意なハチはぶぅん、と申し訳なさそうに後を追いかけて行った。 「何見ているの」
いくらか落ち着いた園原は、冷静さを装ってそう言った。
「ハチも大変だなぁって」 「ばかじゃないの」 僕はそうだね、と言って手元の草を引っこ抜いて、前に投げた。案の定、そよ風にやんわりと跳ね返された。そのいくつかが園原の顔にかかって、彼女はしかめっ面をする。
「ばかじゃないの」
と睨まれる。ごめん、と彼女の顔から草を取り除こうと手を伸ばしたが、彼女は顔を逸らす。
「もういいよ」
「ごめん」
だからもういいって。ハチたちが僕らの横を通り過ぎていった。ごめんよ。いいよ。そんなに気にしてないから。ハチは青空に向かっていく。二匹は時折交差しながら舞う。地上が徐々に離れていって、ゆるい螺旋が軌跡として降ってくる。ああ、青空がまぶしい。白光する螺旋がゆったり僕の首に纏わりついてきて、空想上の僕は事切れていく。そう望んでいるんだ。ごめん。
「シュイロのところに行こうか」
ぱんぱんと汚れを払いながら園原は立ち上がる。
「帰ってきたなら、行かなくちゃ」
彼女は笑って目尻の残涙を目尻から拭き取る。それは僕の役目だったんだけど、今の僕はすっかり盲目だからそんなことにも気づかない。こういう時、僕は本当に自分を螺旋に委ねたくなるよ。
「そうだね」
僕も立ち上がる。園原はそれを確認してすたすたと歩いていく。後ろに続いて行く。日差しがじりじりと首筋にプレッシャーをかけてくる。青空め。相変わらず晴れている。
僕たちは今シュイロの所へ行こうとしている。シュイロの場所を僕は知らない。園原が知っている。だから後ろに続いて行く。彼女の後ろ姿を僕は見つめている。髪が綺麗だ。長さは短くは無いが長くもない。特に切り揃えたりしている訳でもなく、ゆらゆらと自然のままに伸ばしているようだ。彼女が最後に髪を結んだのはいつだったっけ。うまく思い出せない。首筋もゲレンデのように滑らかだ。美しい山の裾野のように広がっている。それでいて、観光された跡もない。未開拓のままだ。その下の背筋から臀部にかけてのラインはスプーンのような流曲線を描いて、ふっくらとした太腿に滑り落ち、丸くてやわらかい膝裏のくぼみを通って、豊潤で瑞々しいふくらはぎと、きゅっとすぼまった踵を繋いでいる。僕は園原の後ろ姿が大好きだ。僕をこんなにもうっとりさせるから。歩くたびに園原の体は揺れる。魅力的なそれらが全部、歩くための機能を果たしつつ、僕を揺さぶる。揺さぶられた僕は斜め後方に押し出されて僕自身を見ることになる。僕はどうやらうっとりと静かな興奮の余韻を楽しんでいるようだ。園原の後方をじっと細めている目は鋭い残像のようにくっきりしている。気持ち悪い。
「シュイロのところまでどれくらいあるんだい?」
後姿に揺られながらそう言う。
「分からない。シュイロのことは私もよく知らないの。でもじきに分かるはず」
「じきに?」
「うん」
じきに。じきに、ってのはいつだろう。園原らしくない不明確な答えだった。彼女の背筋も不安げにしおれている。 園原はね、メガネなんてかけてぱっと見、真面目なで大人しそうに見えるけど、その実、結構自信家なんだ。成績もいいし、確か新聞部だったかな。部活にも打ち込んでいて、かなり優秀なんだよ。実のところ。後輩には頼られてるし、先生にも評判いいみたいだし。あぁ、そう言えばサッカーもうまかったな。彼女がゴール決めたところを見せてあげたいよ。足を高々とボールごと蹴り上げてさ、溜め込んだ熱い息を吐き出して全身で蹴りこむんだ。自分がゴールに直接入っていくみたいにさ。それで、網に跳ね返ってころころ転がってきたボールをつま先でちょいっと浮かせて脇に抱え込み、満面に笑うんだよ。あの笑顔は好きだったな。自分が蹴った、ゴールさせた、ってのをちゃんとわかっている笑顔なんだよ。全部わかっていて笑うんだ。かっこよかったな、あれは。まぁそんな園原が自信無さげにしているんだ。なんかこっちも不安になってしまうよね。だから終わって欲しくないな、園原には。
僕らはその後も歩いていた。園原は僕の前を行って、僕は園原の後にくっつくようにして歩く。彼女はなかなか歩くのが早いんだ。歩くのが早い女の子は少々堪えるよ。女の子に自分から行かれてしまうと、残された僕は何も始められなくなっちまうからね。でも園原はそこら辺をきちんとわかっていて、僕のことをちゃんと気にかけてくれるんだ。僕がどこにいるか把握して歩いてくれるから。ふいに後ろを見て僕をちらりと一瞥して、輪郭だけ見せて、また思い出したようにすたすた歩き出す。そんな悠長な繰り返しさ。だけどそれでいいのさ。 でもさすがに少し疲れてしまって、休んだりなんかする時なんかはただ何も思わずに、何も変わらない青い空を仰いでじっとしていた。そんな時は園原もそれなりに疲れていたりするから、二人で身動きしないで、自分の身体の言うことを聞いているんだな。内側の血液たちが鼓を打ってどこどこ行進しているのがよく聞こえる。そんな時ちょこっと風なんかが吹いてくれると僕はすうっと気持ちよくなる。何か始めたくなるような気分だよ。でもそれが何かわからないんだ。何をしたいのか。半分だけでもいいのにさ。
コギト。君は今どうしてる? 何か気に入った物をまた見つけることができたかい。それなら僕はいいんだけどさ、でもそれはそれで僕は辛いかもしれないね。それこそ悠長だ。ああ、悠長だよ。耳障りなことにね。
結局君のDについてだけどさ、あれの解決はできたのかい? 僕はDが大嫌いだよ。君が僕を嫌うようにね。Dに親しみを込めるには、僕の拳は小さすぎる。君の知ったこっちゃないけどね。ごめんね。でもだいたいにしてさ、あのお姫様もいけないんだよ。あんなに僕をカナリアみたく大事にかくまっていたくせに、いざカナリアが飛ぼうとするとか細い両手で行く手を遮るんだ。「助けて」って。だからあんたの拳は僕には小さすぎるんだって。そう言いたいけど、僕の思いは想いでしか伝えられない。だからもうしばらく傍にいてやったけどね。証明も出来ずじまいさ。だから昔も今もこんなに困ってる。始まりの合図はいつだっけ。ねぇねぇ、ねぇ、ねえ。
「だめっ」
と園原の鋭い声が僕のいざないを切り裂いた。はっと気付いて下を見ると、足元から胸の辺りまで薄紫の影に飲み込まれていた。違う、僕の身体の半分はもうバロバロに食われていた。痛みは無いんだ。だから余計に恐ろしくて、自分の身体が夜霧のもやに静かにとけていくようで、行進が途絶えてしまうようで、怖かった。両手は使えたからバロバロを夢中で殴った。子供の喧嘩みたいにぐるぐる振り回して。でも感触も手応えもない。ただ、叩く度にバロバロの黒い体から桜色の粒子がぶわぁと吹き上がってその粒子にも包まれていく。バロバロが僕に呼吸を合わせたがっているのがよくわかった。こいつの呼吸は甘美だ。僕の肺が踊らされていく。胸の一点が凍ったように動かなくなる。それもよくわかる。段々と、やがて、が連続していって、いつか、になって僕の内側の血液たちがゆっくり歩くようになる。悠長だよ。本当に悠長だ。
その時、手が僕を引っ張る。園原の手だ。そんなのすぐにわかる。だって周りが桜や薄紫でいっぱいなのに、ひとつだけ雪のように白いから。季節が逆になったような気になる。でも園原の手は僕を真っ直ぐに引っ張り出す。淡い鮮やかな世界に亀裂が入って、吐き出されるように僕は地面に転がる。土ぼこりが目に入ってうっかり涙が出た。 バロバロは僕をじっと見つめるように、暫くその場を漂っていたけれども、何かに掻き消されるように消えて行った。 そしてすぐに抱きしめられる。きつい。それと少しごわごわするな。多分園原の服のせいだろう。それと一緒に、とてもいい灰のような匂いがするけれども。 抱きしめながら「離れない」と彼女は言った。で、が抜けているんじゃないかい。そう問いたいよ。でも今はこのままでいいかな。そうしていなきゃ、僕はまだ腕の震えが止まりそうにない。それと、バロバロに連れて行かれた僕の心臓が引き起こす、幻肢痛のような痛みも。
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