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第1章
2・皇帝陛下
しおりを挟む凍てつく氷の帝国、ルーンセルン。
若き皇帝、オズウェル・ウォード・ルーンセルンが治める帝国で、大陸で最も力を持つ大国である。
一年のほとんどが寒波に見舞われ、季節はほぼ冬しかないといってよい。
氷の帝国に君臨する皇帝オズウェルには、大陸中の誰もが知っている噂があった。
それは、彼の心は統治する土地と同様に氷のように冷たく、部下にも敵にも容赦がない判断を下す冷酷な皇帝であるということだ。
どんな状況、どんな相手であっても、感情に左右されることなく冷静沈着。まるで氷のような心をもっている無感情な男だと評されていた。
ついたあだ名は『氷の皇帝』。
そんな皇帝の妻に、ヴィエラはなる。
正確には、これから一年の婚約期間を経て正式な妻になるのだが、現状不安しかない。
(今の段階でもう無理な気しかしないわ)
馬車での長旅の末、ようやく皇帝の住まう居城に着いたヴィエラは、通された部屋のソファに腰掛けていた。
こちらで少々お待ちください、と使用人にこの部屋へ通されてからしばらく経つが、一体どうしたらいいものやら。
(まだこの国に来たばかりなのに、一人にされても困るわ)
城の中の構造もよく分からないので、下手に動くこともできない。
ヴィエラはどうしたものやらと部屋の中を見回した。
室内は全体的に白の調度品で揃えられ、落ち着いた雰囲気だ。
部屋の隅に置かれた花瓶には、様々な色のアネモネの花が生けられている。
寒い地域であるルーンセルンでこんなに美しい花が見られるとは思っていなかったので、どうしても目を惹かれてしまう。
(……皇帝陛下って、お花が好きなのかしら)
部屋にもここに来るまでの廊下にも、アネモネの花が花瓶に飾られていた。
ルーンセルンの皇帝は氷のように心が凍って無感情と聞いていたが、実は違うのだろうか?
ヴィエラがそんなことを考えていると、ようやく部屋の扉が開かれた。
室内に誰かが入ってくる。
ヴィエラは慌てて居住まいを正してそちらを見た。
「ヴィエラ……。ルーンセルンへようこそ」
「……っ」
甘く低い声で名前を呼ばれて、ヴィエラは思わず息を飲み込んだ。
「いや、違うな……。おかえり、か。ようやく見つけたぞ、私のヴィエラ」
室内に入ってきたのは長い銀髪の青年だった。
目鼻立ちの整った、ひどく美しい男性だ。
整いすぎた顔立ちからは、冷たい印象を受ける。
だがそれでも、ヴィエラはその青年の深い海のような群青の瞳から慈愛のようなものを感じた。
青年はヴィエラの前までやってくると、すっと片膝をついてヴィエラに視線を合わせた。
(おかえり……?)
慈愛のようなものを向けられる覚えも、「おかえり」などと言われる覚えもなくて、ヴィエラは戸惑ってしまう。
こんなに美しい男の人にあったことがあれば、覚えていないわけがないだろう。だから、この皇帝陛下に会ったのは、これが初めてのはずだ。少なくとも、ヴィエラが覚えているこの7年間では。
「あ、の……。もしかして私、以前あなたにお会いしたことがありますか……?」
ヴィエラは青年を見上げ、恐る恐る尋ねた。
もしかしたら、ヴィエラの記憶がない7年前よりも過去に、会ったことがあるのかもしれない。
ヴィエラの言葉に、青年はわずかに青の瞳を見開いた。
「何を言っている。確かに最後に会った日からかなりの時間が経っているが――」
やはりこの青年とヴィエラはあったことがあるらしい。
青年の言葉に、ヴィエラは申し訳なくなる。
どんな関係だったのかは分からないが、彼の口ぶりや態度からそれなりに親しかったのだろうと推察できた。
「すみません……。私には、7年前より昔の記憶がないのです」
「……そうか」
青年は静かに呟いた。
そのたった一言からは、ヴィエラには彼の感情は汲み取れない。
青年の表情を見るのが怖くて、ヴィエラは顔を俯けた。
(どなたかは分からないけど、きっとがっかりさせたわよね……)
以前の自分を知っている人に会ったのはこれが初めてだった。
落胆させてしまっただろうか。
彼が求めているのは、きっと今のヴィエラではないだろう。
しかし、青年の反応はヴィエラが想像したものとは違った。
「それならまた一から始めよう」
思ってもいなかった言葉に、ヴィエラは顔をはね上げる。
オズウェルは穏やかな瞳でヴィエラを見つめていた。
「改めて……。私はオズウェル・ウォード・ルーンセルン。お前の夫になる男だ」
「夫……っ!?」
ヴィエラはつい素っ頓狂な声を上げてしまった。
まさか目の前にいるこの青年が、皇帝本人だとは思っていなかったのだ。
「ご、ご無礼をお許しください……! ご存知かとは思いますが、私はヴィエラと申します。精一杯オズウェル様をお支えして参りますのでこれから――」
「固い」
よろしくお願いします、と続けようとしたヴィエラの声は、どことなく不満そうなオズウェルによって遮られた。
「…………はい?」
「お前は私の妻になるのだろう? それでは先が思いやられる」
オズウェルは何にため息をついているのだろう。
ヴィエラとしては、オズウェルが何に不満を抱いているのかが分からなくて首を傾げるしかない。
「まずは敬語をとれ。お前にかしこまられるのはむず痒くて仕方がない」
(私は、この皇帝陛下とどんな関係だったんだろう)
過去の自分のことは分からないが、今のヴィエラとしては、皇帝陛下を相手に馴れ馴れしい口をきくことには抵抗があった。
「……ですが」
ヴィエラが言葉を重ねようとすると、オズウェルから冷たい視線が飛んできた。
「これは命令だ。敬語をとれ」
再度繰り返される。
それ以上反抗することはできなくて、ヴィエラは小さく頷いた。
「わかりました……じゃ、なくて、わかったわ……!」
うっかり敬語で返しかけて、すぐにヴィエラは訂正する。
ヴィエラのその様子に、オズウェルは満足そうに目元を緩めた。
「それでいい」
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