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第三章:明日を落としても
最終話:明日を落としても
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----- 七年後 -----
先に目を覚ましたのは、半井ゼンジの方だった。望月リクは、いつものようにゼンジの胸元に頭をくっつけ、猫のように身体を丸めて穏やかな寝息を立てている。
「リク。おはよう」
ゼンジが囁いてリクの頭にキスをする。うーんと伸びをしながらTシャツに手を伸ばしたリクが、顔を埋めてゼンジの匂いを嗅いだ。安心しきった表情で再び眠りに落ちてゆく。
これが、俺たちの日常。
二人で暮らし始めて、二年目になる。
「――……今日……まあいいや。メシ作ってくる」
ゼンジは、ベッドから立ち上がると、Tシャツを脱いでボクサー一枚になった。ベッドへ落ちたTシャツに、リクの細い腕が伸びる。そうしてシャツを抱きかかえると「すぐ起きる……」と寝ぼけた口調で、ゼンジに向かって甘えた声を出した。
一緒に暮らし始めた頃は、このTシャツ一枚でも揉めた。生地がチクチクして嫌だ、と脱ぎだがるゼンジと匂いに拘るリク。これで喧嘩になり、オーガニックコットンのTシャツを買ってきたリクが「これなら文句ないだろ!」とゴリ押しで勝利した。
シャワーを浴びて、新しいTシャツを着たゼンジがキッチンに立つ。慣れた手付きでハムエッグを作りながら、トースターレンジに食パンをセットした。
リビングと部屋を隔てるドアから、ゴンッと小さな物音が聞こえる。
リクの右目は、あれから視力が著しく低下して弱視になってしまっていた。七年経つので、左目だけの生活にも慣れてはいた。しかし寝ぼけたり酔っ払ったりすると、未だに距離感を誤ってしまう。
火を止めて、ドアを開けてやったゼンジに向けたリクの右目は、軽い外斜視になっていた。手術すれば、外斜視は治ると言う。しかし、リクは拒否し続けた。
それはそれで妙な色気のある目元なので、ゼンジは好きだったが。他の男も同じなんじゃないかと思うと、落ち着かなかった。もっとも、リク本人は「ゼンジが思ってるほど俺はゲイ受けしない」とそっけない態度であったが。
「……おはよ。コーヒー入れる」
いつものようにゼンジのTシャツを捲りあげて、背中の傷痕に小鳥が啄むようなキスをしたリクは、欠伸をしながらコーヒーメーカーの方へ向かっていった。
慌ただしい生活を送る二人にとって、一緒に朝食を食べる瞬間が、何よりも穏やかで幸せな一時だった。
「いただきます」
二人の声が重なる。トーストの上に目玉焼きを乗せ、黄身を潰したリクが口を開いた。
「国試、通りそう?勉強してんの?」
「――……一発で通らなかったら、申し訳ないだろ。お前に」
「てかさ。俺と早く一緒になりたいとか言うなら、歯科医なんか目指すなよ。最短距離とか合理性って言葉、頭にないわけ?」
それは……と言いかけたゼンジは、窓へ目をやると気まずそうにコーヒーへ口をつけた。
まだ高校生だったゼンジが、リクとの関係を親に打ち明けた時、母親と祖母は体裁を気にして大反対した。しかし、本音では知っていたのだ。ゼンジの家系から、時折、同性愛者が出ている事を。
独身を貫いた叔父が亡くなった時に、遺品整理をゼンジの家で行った。遺品は美しい薔薇模様が刻まれたティーカップや、刺繍などで埋め尽くされていた。そして叔父の死を受けて、崩れ落ちるような勢いで嘆き悲しんだのは、叔父のマンションを管理していた壮年の男性だった。
あ……察し。とあの時は、全員がなったものだ。それに、歳の離れた弟妹は置いてきて正解だったとも思った。妹は何故か「薔薇の叔父さん」と生前から呼んでいたが。
「手に職をつけろ。それまでの金なら出す」
ゼンジの父親は、そう言ったのみだった。
手に職……そういやアラタって、歯科医を目指すって言ってたな。予備校にも通い始めてる。家が歯科医なら、諸々詳しいだろうし。
非常に安直な発想で今の進路に飛びついた事を、ゼンジはリクに言えないでいた。
上の空な様子のゼンジに、リクがムッとした表情で呼びかける。
「ゼンジ!」
「――……ああ、ごめん。いや、歯科医を選んだ話してなかったって……」
「何言ってんだよ、今更……アラタの後くっついってったんだろ?同じ大学行ってりゃ、気づくだろ。しっかしさあ……」
マグカップを持ったリクが、キッチンカウンターの方へ身体を捻る。カウンター脇のコルクボードには、アラタと弥生の結婚式招待状が貼ってあった。
「学生結婚にはビビった。実家が太いとやる事、違うよね」
「弥生、お腹の中に子供いるからな」
「……チェッ、いいな。俺も、迎えに来てほしかった。ゼンジが動かな過ぎなんだよ。俺ばっかりガッツイてるみたいで、恥ずかしかった」
プッっと頬を膨らませて、横を向いたまま足組を始めたリク。そんな彼が愛おしくてたまらなくなったゼンジがキスをする。顔が真っ赤にしたリクは、照れ隠しにコーヒーを飲み干した。
リクは、あれから半年間入院した。最初の数ヶ月は精神が全く安定せず、希死念慮も強かった。出来るだけ毎日、ゼンジは病院へ顔を出した。にこやかな日もあれば、顔を見るなり「帰れ!」と物を投げつけられる日もあった。
瀬能ゴウと飯山ハルキも見舞いには行っていたが、中々安定しない。転機が訪れたのは、入院から三ヶ月が経とうとした頃の話だった。オーナーが見舞いに訪れて、1時間以上は二人で話していただろうか。
リクは、急にやる気を見せるようになった。診察にも協力的な態度を示すようになり、院内での態度も真面目になった。あまりの変わりように驚かない者が居なかったほどだ。
「あれは頭がいい。時には、愛よりも金の方が有効な場合もある」
オーナーと直接話す機会のあったゼンジが深々と礼をすると、年季の入った笑い顔でそう言っただけだった。
退院してから、蓮波綾に関する一連の事情聴取を受けた。罪に問われる事はないにしても『自分が全ての発端だった。』と認めたリクは、一時期的に不安定さが目立った。
出会い系アプリでコソコソしてはゼンジと喧嘩になる。しかし、オーナーからの魔法の呪文『投資』を唱えられる度に、何とか持ち直してきた。
通信制高校を卒業し大学に入学してからのリクは早かった。元々、破滅的な方向であれだけの行動力をみせていただけの事はある。あっという間に司法試験に合格し、弁護士として去年から働き始めている。
オーナーの企業を担当する弁護士事務所に就職したその足で、ゼンジを迎えに行った。ダメ押しでネットワークを通じて、既にマンションは仮契約を済ませた状態。
あのゴウですら、感嘆せざるを得なかった。
なんつう行動力。
なるほど。オーナーが手放したがらないワケだわ。
「そんなに愛よりも金って大事ですかね……そら、俺の愛だけじゃどうにもならなかったですけど」
「時にはってだけだよ……半井君。てか、望月の行動力はよく知ってるじゃないの」
リク就職祝いの席。お迎えされた側のゼンジは、スーツケースを恨めしそうに見ながら愚痴っていた。酔っ払ってギャーギャー騒ぐリクとゴウの横で、肩を落とすゼンジを慰めるのはもっぱらハルキの役目だった。
――カチャカチャ……ザーーー……
キッチンを心地よい沈黙が流れる。洗い物をするリクと、食器を拭いて片付けるゼンジ。濡れた手をゼンジのTシャツで拭いたリクは、苦い顔をしたゼンジをしっかり確認してから、シャワーを浴びに行ってしまった。
ゼンジは、その姿を見送ると歯を磨き始めた。
これが、今の俺たちの日常。
母親による娘殺しと教団事件。メディアがセンセーショナルに報道して、人々がそれに食いついた期間は、三ヶ月もなかった。人の死ですら、他人にとっては消費対象だ。
当事者達にとって、覚えているのは自分達だけで良かった。
スーツに着替えた二人は、玄関で軽くキスを交わすとマンションを後にした。
◆
「今日、いいの?行かなくて」
「――……うん。もう七年経つし。その度に有給もらうのも、もういい加減いいかなって」
佐伯遥は、夜勤明けでシパシパする目を擦りながら言った。冷えたビールのプルタブに手をかけると、一気に半分ほど飲み干した。
「あー!夜勤明けのビール、染みるー!」
遥は、看護師になっていた。最初は姉のため、失った蓮波綾のために精神科の看護師になりたいと、頑張っていた。しかし罪悪感を埋める事が主目的になってしまうと、あっという間に息切れを起こす。大学へ行けなくなってしまった遥を癒やしてくれたのは、他の誰でもない、姉だった。
姉はとっくに退院していたが、部屋にこもりきりで直接会話をすることはなかった。
近くに姉を感じながらも、話すことが出来ない。いっその事、家を出ようかな……そう思いながらも、大学へすら行けずにSNSを眺めるだけの日々。趣味を通じて仲良くなったアカウントに愚痴っている時だけが、本来の自分でいられた。
その趣味だって……全然やる気になれない。
(編み物、全然やってない。)
十分程でリプがつく。
(私も。眺めてるのは好きなんだけど。)
(前はよく、ユダワヤの……店に行ってたんですよね。)
(分かる。あそこ、毛糸豊富だよね。)
(知ってるんですか?そうなんです。見てるだけでワクワクしちゃって。)
(だよね!)
(私、姉がいるんです。とても毛糸に詳しい人で。一緒に行くのが好きだったんですよ。帰りは必ずオムライスを食べるんです。……屋ってお店の。)
(へえ、お姉さん。)
ん?どういう意味だろう。身内の話、地雷だったのかな。それっきり更新されないアカウントを眺めながら、遥は焦っていた。かれこれ一時間は、そうやって過ごしていただろうか。
「――……遥。編み物、やんない?」
ドアの向こうから、姉の声がする。
え?まさか
え?
ずっと愚痴ってたこのアカウント……お姉ちゃんだったの?!
驚きを隠しきれずに扉を開けると、姉がぎこちない笑顔で立っていた。
「……まさか、隣にいるとか思わないじゃん」
「――……そだね……すっごい驚いた」
二人は最初、編み物を通じてコミュニケーションをはかるのみだった。相変わらず、姉は食事の問題を抱えていて、同じ食卓を囲まない。それでも、SNSでの関係は続いた。姉もSNSなら話しやすいようだった。
姉は、蓮波綾の事件を知っていた。
大学を休学し、姉と編み物をするようになって一ヶ月が過ぎた頃だった。姉が突然、遥に語りかけた。
「……もういいんじゃない。自分を許しても」
「――……え?」
「……遥が思ってるほど、私、今の自分を嫌ってないよ。それに、綾ちゃんって子」
「――……」
「知らないで言うのもアレだけど。彼女も、自分を肯定したかったんじゃないの……そういうのって、他人からされてもダメな時があるんだよ」
遥は、自分の目から大粒の涙が溢れて、止まらなくなっている自覚すらなかった。ただ、ようやく苦しみしかない泥水から光が見えたような。そんな気持ちに包まれていた。
――……綾ちゃん。お姉ちゃんの名前、歩って言うの。
「えっ、ちょっと。そんなに泣かないで、遥」
慌てる歩に抱きつきながら、安寧の涙を流し続けた遥は、その三日後に復学した。
遥は現在、看護師としてICUに所属している。戦場のように忙しい現場だったが、それだけにチーム内の結束は硬い。仕事はとても充実していた。それについ最近、同僚の麻酔科医から結婚を前提に告白されたばかりだった。
姉の歩はネットを中心に、手芸作家として成功し始めている。
「私もビールのもっかな」
歩が、キッチンへ向かって歩いてゆく。その後姿に遥は快活に話しかけた。
「お姉ちゃん、冷蔵庫にハムあるから持ってきてー!」
「それだけでいいの?チーズあるよ」
「あ、じゃあそれも」
姉の手には、おつまみと共に白ワインが持たれている。歩の摂食障害はまだ波があるものの、大分落ち着きを見せていた。今では、食卓も一緒に囲んでいる。
「これが自由業の良いところよ。今日は、お休みにしちゃお」
「お、いいねえ。お姉ちゃん、女子会しよ」
忘却を選ぶのも、また一つの選択肢。
七年という歳月は、それぞれが選択をするのに、丁度いい時間なのかもしれない。
たわいない会話を楽しむ姉妹の鈴のような声が、いつまでもリビングに鳴り響いていた。
◆
引っ越しを控え、既に荷物が運び出されてしまった部屋に、瀬能ゴウと飯山ハルキは佇んでいた。約八年、一緒に暮らした部屋だ。ハルキが感慨深げに、空っぽになった部屋を見渡す。ゴウは、チケットとパスポートの確認をしていた。
「なんか、あっという間だったな」
「そだね……二人っきりなら、もう少し違った感じだったんだろうけど」
「ゴウちゃんも、同じこと考えてる?」
「うん、まさかさ。あんなでっかいガキの面倒見ることになるとは、思わなかったじゃん?」
ゴウの勤め先である美容院が、シンガポールへ出店することになったのがきっかけだった。そこの店長に指名されたゴウは、店を辞めて独立することも考えたが、良い潮時だなと思い引き受ける事にした。
ハルキは、会社を辞めた。元よりIT業なので、英語さえ出来ればシンガポールにいくらでも働き口はあった。そして、ハルキは元々英語教師だった。
ベランダの窓にもたれかかったゴウが、懐かしそうに目を細める。
「覚えてる?リク君が、ナカライ君と喧嘩してウチに来た時の事」
「……いつのだよ。あの二人、喧嘩ばっかしてたじゃん……」
「最初の頃。まだ不安定だった時の話よ」
ゴウの腕が、ハルキの腰に絡まる。キスが出来そうな位に顔を近づけた所で、ゴウがムッとした声を出した。
「こんな風に顔近づけて、ハルキに迫ってたよねえ。あんのガキ……僕が帰ってこなかったら、どうしてたの、アレ」
ハルキはそのままゴウの唇を啄むと「断るに決まってるだろ」と言いつつキスの続きをしようとした。ゴウの手がビーンと伸びて、顔ごと身体を遠ざける。
「絶対に嘘だね。ハルキ、誘惑に弱いじゃん」
「……弱いよ。また、あの斜視がな。妙に色っぽいっていうか……イタッ!」
脇腹を思い切りつねられ、ハルキは身を捩った。こんな風に感情を顕わにするゴウは珍しい。嫉妬してたのか……八年も一緒に暮らしていると、恋人感覚はどうしても薄れてくる。現実主義でドライなゴウといると尚更だった。俺たちって、単なる相棒なのでは?と悩んだ事もある。
ただ、八年。一緒に過ごしていくうちに、リクを通してゴウもまた、似たような生い立ちなのだと窺い知ることが出来た。愛情表現が下手なのだ。一見、酸いも甘いも噛み分けて、世渡りが上手く出来ているように見えてしまっている分、余計にその不器用っぷりは目立った。
ゴウの愛情表現は、とにかく小さい。だから、付き合いが浅いと簡単に見逃してしまう。本人にとってはそれが最大限だし、精一杯なのだが。いかんせん、伝わらない。長いこと付き合わなければ、分からない事だらけ。それが瀬能ゴウという男だった。
だからこそ俺は、ずっと側にいたいんだよなあ……
「……ゴウちゃん」
「――……何?」
「二人で爺さんになるまで一緒にいない?」
嬉しさと困惑の入り混じった表情のゴウが、ハルキを見上げる。心なしか、耳が赤くなっているように見えた。
「お互いにもう三十超えてんだよ。てか、アラフォーだよ。アラフォー。あっという間に、ジジイになるでしょ」
「……ふん、好き」
照れ隠しする様に愛おしさを感じたハルキは、嫌がるゴウを抱き寄せると顔中にキスの雨を降らせた。
「やだやだやだ!やめってって、ハルキ!」
「やめないよ、ゴウちゃんの事好きだもん。第二の人生に乾杯しようよー」
「えぇ……」
まんざらでもない表情に変わったゴウは、ハルキにキスを返すと「第二の人生か」と独りごちた。
またね。リク君、ナカライ君。
その日の夜、二人を乗せた飛行機がシンガポールへと旅立っていった。
◆
梅雨が明け、生まれたばかりの夏の日差し。陽炎が揺らめき、蝉の声が大きくなる中を歩く、半井ゼンジと望月リクの姿があった。リクの手には、花束が抱えられている。
霊園の入り口で、リクが線香を買っている間に、ゼンジが浄水を用意した。二人で、砂利道を奥へと進んでゆく。
今日は、蓮波綾の命日だ。
「久しぶりだな。蓮波」
リクが墓石に向かって声を掛ける。二人で手を合わせると、軽く掃除をしはじめた。と言っても、寺へは管理費が支払われているので墓石やその周りはキレイに保たれている。リクが就職するまでは、飯山ハルキが費用を負担していた。
「何も出来なかった自分に、これくらいはやらせてほしい」
ハルキのその言葉を、断れる者はいなかった。納骨の日、リクも外泊許可を貰って全員が揃った。
望月リク
半井ゼンジ
佐伯遥
飯山ハルキ
瀬能ゴウ
あの時は、こんな日が訪れるとは夢にも思わなかった。ゼンジと遥もまだカウンセリング中で、事務的な事は全てハルキとゴウへ任せる形になってしまった。骨壷に収められた綾を、まるで映画のワンシーンのようにしか見ることが出来なかった。
線香に火をつけたゼンジが、墓石に向かって語りかけた。
「結局、蓮波の好きな食い物、誰も知らないまんまだよ。天国で幸せにしてるか」
「本当の父親は好きだったと思うから。一緒に入れて、幸せなんじゃないかな」
リクがゼンジに肩を寄せながら、話を繋いだ。清められた墓石が、太陽の光を浴びてキラキラと反射していた。青みがかった紫を基調とした花を、花立てに添える。リクが花を見ながら、生前の綾に語りかけるような口調で、墓石へ話しかけた。
「蓮波は、青っぽい紫ってイメージなんだ。外れてないと思うんだけどな」
そうして二人で静かに、墓前へ手を合わせた。こうしてお墓参りに来ても、罪悪感で悩んだり、失った悲しみに暮れることもめっきり減ってしまった。ただ、年に数回。蓮波と話をしに来る。
俺たちの毎日は、目まぐるしく動いていく。
心の奥に小さな痛みを大事にしまったままでも、人は笑えるもんなんだな。
俺たちは生きていく。
出来るだけ丁寧に、出来るだけ人を傷つけないように。
そうやって、現実を積み重ねてく。
思い出の中にいる彼女だけが、いつまで経っても歳を取らず、制服姿のままだった。
ありがとうな、蓮波。
「――……ニャァ」
猫の泣き声が聞こえたような……立ち上がって二人で目を合わせた所で、今度は確実に子猫のか細い声が聞こえてきた。
よく見ると、霊園の隅っこにある雑草がモゾモゾと動いているように見えた。耳を澄ませると、やっぱり猫の泣き声がしている。
ゼンジとリクは再び目を合わせると、雑草をかき分けて声の在り処を探し始めた。
「ゼンジ、いた。うわー、お前ちっちゃいなー」
リクの声の方向を振り返ると、生まれて数週間かそこらの黒い子猫が、その生命いっぱいに鳴いていた。母猫に捨てられたのか、やせ細って目やにだらけだった。
「すぐ病院つれてかないと。猫風邪引いてる」
「詳しいね。歯科医って、そういう事も詳しいの?」
「――……歯医者は関係ないだろ。実家に猫がいたからだよ」
ゼンジは鞄からタオルを取り出すと、丁寧に猫をくるんだ。その様子をじっと見つめるリクの左目は、どこか懐かしいものを辿っているようだった。
「管理所でダンボールもらおう」
「――……蓮」
「え?」
「名前だよ、この猫の。連れて帰るだろ。だってウチ、ペット可……」
そう言いかけたリクが固まった。深々と頭を下げる女性の姿を見つめている。白髪が目立つようになった女性の手には桃が持たれていた。抱えている花束は、青っぽい紫を基調としている。
リクは軽く会釈をすると、女性を訝しげに見るゼンジを催促して歩き出した。
そっか、蓮波って桃が好きだったのか。
「一番近くの動物病院、ここから450mだって。まだやってる」
「急ごう、リク」
蓮と名付けた黒い子猫を段ボール箱に入れた二人は、そのまま青葉繁る霊園を後にした。入道雲が広い空へと立ち昇り、太陽が朱夏の訪れを祝っていた。
-END-
先に目を覚ましたのは、半井ゼンジの方だった。望月リクは、いつものようにゼンジの胸元に頭をくっつけ、猫のように身体を丸めて穏やかな寝息を立てている。
「リク。おはよう」
ゼンジが囁いてリクの頭にキスをする。うーんと伸びをしながらTシャツに手を伸ばしたリクが、顔を埋めてゼンジの匂いを嗅いだ。安心しきった表情で再び眠りに落ちてゆく。
これが、俺たちの日常。
二人で暮らし始めて、二年目になる。
「――……今日……まあいいや。メシ作ってくる」
ゼンジは、ベッドから立ち上がると、Tシャツを脱いでボクサー一枚になった。ベッドへ落ちたTシャツに、リクの細い腕が伸びる。そうしてシャツを抱きかかえると「すぐ起きる……」と寝ぼけた口調で、ゼンジに向かって甘えた声を出した。
一緒に暮らし始めた頃は、このTシャツ一枚でも揉めた。生地がチクチクして嫌だ、と脱ぎだがるゼンジと匂いに拘るリク。これで喧嘩になり、オーガニックコットンのTシャツを買ってきたリクが「これなら文句ないだろ!」とゴリ押しで勝利した。
シャワーを浴びて、新しいTシャツを着たゼンジがキッチンに立つ。慣れた手付きでハムエッグを作りながら、トースターレンジに食パンをセットした。
リビングと部屋を隔てるドアから、ゴンッと小さな物音が聞こえる。
リクの右目は、あれから視力が著しく低下して弱視になってしまっていた。七年経つので、左目だけの生活にも慣れてはいた。しかし寝ぼけたり酔っ払ったりすると、未だに距離感を誤ってしまう。
火を止めて、ドアを開けてやったゼンジに向けたリクの右目は、軽い外斜視になっていた。手術すれば、外斜視は治ると言う。しかし、リクは拒否し続けた。
それはそれで妙な色気のある目元なので、ゼンジは好きだったが。他の男も同じなんじゃないかと思うと、落ち着かなかった。もっとも、リク本人は「ゼンジが思ってるほど俺はゲイ受けしない」とそっけない態度であったが。
「……おはよ。コーヒー入れる」
いつものようにゼンジのTシャツを捲りあげて、背中の傷痕に小鳥が啄むようなキスをしたリクは、欠伸をしながらコーヒーメーカーの方へ向かっていった。
慌ただしい生活を送る二人にとって、一緒に朝食を食べる瞬間が、何よりも穏やかで幸せな一時だった。
「いただきます」
二人の声が重なる。トーストの上に目玉焼きを乗せ、黄身を潰したリクが口を開いた。
「国試、通りそう?勉強してんの?」
「――……一発で通らなかったら、申し訳ないだろ。お前に」
「てかさ。俺と早く一緒になりたいとか言うなら、歯科医なんか目指すなよ。最短距離とか合理性って言葉、頭にないわけ?」
それは……と言いかけたゼンジは、窓へ目をやると気まずそうにコーヒーへ口をつけた。
まだ高校生だったゼンジが、リクとの関係を親に打ち明けた時、母親と祖母は体裁を気にして大反対した。しかし、本音では知っていたのだ。ゼンジの家系から、時折、同性愛者が出ている事を。
独身を貫いた叔父が亡くなった時に、遺品整理をゼンジの家で行った。遺品は美しい薔薇模様が刻まれたティーカップや、刺繍などで埋め尽くされていた。そして叔父の死を受けて、崩れ落ちるような勢いで嘆き悲しんだのは、叔父のマンションを管理していた壮年の男性だった。
あ……察し。とあの時は、全員がなったものだ。それに、歳の離れた弟妹は置いてきて正解だったとも思った。妹は何故か「薔薇の叔父さん」と生前から呼んでいたが。
「手に職をつけろ。それまでの金なら出す」
ゼンジの父親は、そう言ったのみだった。
手に職……そういやアラタって、歯科医を目指すって言ってたな。予備校にも通い始めてる。家が歯科医なら、諸々詳しいだろうし。
非常に安直な発想で今の進路に飛びついた事を、ゼンジはリクに言えないでいた。
上の空な様子のゼンジに、リクがムッとした表情で呼びかける。
「ゼンジ!」
「――……ああ、ごめん。いや、歯科医を選んだ話してなかったって……」
「何言ってんだよ、今更……アラタの後くっついってったんだろ?同じ大学行ってりゃ、気づくだろ。しっかしさあ……」
マグカップを持ったリクが、キッチンカウンターの方へ身体を捻る。カウンター脇のコルクボードには、アラタと弥生の結婚式招待状が貼ってあった。
「学生結婚にはビビった。実家が太いとやる事、違うよね」
「弥生、お腹の中に子供いるからな」
「……チェッ、いいな。俺も、迎えに来てほしかった。ゼンジが動かな過ぎなんだよ。俺ばっかりガッツイてるみたいで、恥ずかしかった」
プッっと頬を膨らませて、横を向いたまま足組を始めたリク。そんな彼が愛おしくてたまらなくなったゼンジがキスをする。顔が真っ赤にしたリクは、照れ隠しにコーヒーを飲み干した。
リクは、あれから半年間入院した。最初の数ヶ月は精神が全く安定せず、希死念慮も強かった。出来るだけ毎日、ゼンジは病院へ顔を出した。にこやかな日もあれば、顔を見るなり「帰れ!」と物を投げつけられる日もあった。
瀬能ゴウと飯山ハルキも見舞いには行っていたが、中々安定しない。転機が訪れたのは、入院から三ヶ月が経とうとした頃の話だった。オーナーが見舞いに訪れて、1時間以上は二人で話していただろうか。
リクは、急にやる気を見せるようになった。診察にも協力的な態度を示すようになり、院内での態度も真面目になった。あまりの変わりように驚かない者が居なかったほどだ。
「あれは頭がいい。時には、愛よりも金の方が有効な場合もある」
オーナーと直接話す機会のあったゼンジが深々と礼をすると、年季の入った笑い顔でそう言っただけだった。
退院してから、蓮波綾に関する一連の事情聴取を受けた。罪に問われる事はないにしても『自分が全ての発端だった。』と認めたリクは、一時期的に不安定さが目立った。
出会い系アプリでコソコソしてはゼンジと喧嘩になる。しかし、オーナーからの魔法の呪文『投資』を唱えられる度に、何とか持ち直してきた。
通信制高校を卒業し大学に入学してからのリクは早かった。元々、破滅的な方向であれだけの行動力をみせていただけの事はある。あっという間に司法試験に合格し、弁護士として去年から働き始めている。
オーナーの企業を担当する弁護士事務所に就職したその足で、ゼンジを迎えに行った。ダメ押しでネットワークを通じて、既にマンションは仮契約を済ませた状態。
あのゴウですら、感嘆せざるを得なかった。
なんつう行動力。
なるほど。オーナーが手放したがらないワケだわ。
「そんなに愛よりも金って大事ですかね……そら、俺の愛だけじゃどうにもならなかったですけど」
「時にはってだけだよ……半井君。てか、望月の行動力はよく知ってるじゃないの」
リク就職祝いの席。お迎えされた側のゼンジは、スーツケースを恨めしそうに見ながら愚痴っていた。酔っ払ってギャーギャー騒ぐリクとゴウの横で、肩を落とすゼンジを慰めるのはもっぱらハルキの役目だった。
――カチャカチャ……ザーーー……
キッチンを心地よい沈黙が流れる。洗い物をするリクと、食器を拭いて片付けるゼンジ。濡れた手をゼンジのTシャツで拭いたリクは、苦い顔をしたゼンジをしっかり確認してから、シャワーを浴びに行ってしまった。
ゼンジは、その姿を見送ると歯を磨き始めた。
これが、今の俺たちの日常。
母親による娘殺しと教団事件。メディアがセンセーショナルに報道して、人々がそれに食いついた期間は、三ヶ月もなかった。人の死ですら、他人にとっては消費対象だ。
当事者達にとって、覚えているのは自分達だけで良かった。
スーツに着替えた二人は、玄関で軽くキスを交わすとマンションを後にした。
◆
「今日、いいの?行かなくて」
「――……うん。もう七年経つし。その度に有給もらうのも、もういい加減いいかなって」
佐伯遥は、夜勤明けでシパシパする目を擦りながら言った。冷えたビールのプルタブに手をかけると、一気に半分ほど飲み干した。
「あー!夜勤明けのビール、染みるー!」
遥は、看護師になっていた。最初は姉のため、失った蓮波綾のために精神科の看護師になりたいと、頑張っていた。しかし罪悪感を埋める事が主目的になってしまうと、あっという間に息切れを起こす。大学へ行けなくなってしまった遥を癒やしてくれたのは、他の誰でもない、姉だった。
姉はとっくに退院していたが、部屋にこもりきりで直接会話をすることはなかった。
近くに姉を感じながらも、話すことが出来ない。いっその事、家を出ようかな……そう思いながらも、大学へすら行けずにSNSを眺めるだけの日々。趣味を通じて仲良くなったアカウントに愚痴っている時だけが、本来の自分でいられた。
その趣味だって……全然やる気になれない。
(編み物、全然やってない。)
十分程でリプがつく。
(私も。眺めてるのは好きなんだけど。)
(前はよく、ユダワヤの……店に行ってたんですよね。)
(分かる。あそこ、毛糸豊富だよね。)
(知ってるんですか?そうなんです。見てるだけでワクワクしちゃって。)
(だよね!)
(私、姉がいるんです。とても毛糸に詳しい人で。一緒に行くのが好きだったんですよ。帰りは必ずオムライスを食べるんです。……屋ってお店の。)
(へえ、お姉さん。)
ん?どういう意味だろう。身内の話、地雷だったのかな。それっきり更新されないアカウントを眺めながら、遥は焦っていた。かれこれ一時間は、そうやって過ごしていただろうか。
「――……遥。編み物、やんない?」
ドアの向こうから、姉の声がする。
え?まさか
え?
ずっと愚痴ってたこのアカウント……お姉ちゃんだったの?!
驚きを隠しきれずに扉を開けると、姉がぎこちない笑顔で立っていた。
「……まさか、隣にいるとか思わないじゃん」
「――……そだね……すっごい驚いた」
二人は最初、編み物を通じてコミュニケーションをはかるのみだった。相変わらず、姉は食事の問題を抱えていて、同じ食卓を囲まない。それでも、SNSでの関係は続いた。姉もSNSなら話しやすいようだった。
姉は、蓮波綾の事件を知っていた。
大学を休学し、姉と編み物をするようになって一ヶ月が過ぎた頃だった。姉が突然、遥に語りかけた。
「……もういいんじゃない。自分を許しても」
「――……え?」
「……遥が思ってるほど、私、今の自分を嫌ってないよ。それに、綾ちゃんって子」
「――……」
「知らないで言うのもアレだけど。彼女も、自分を肯定したかったんじゃないの……そういうのって、他人からされてもダメな時があるんだよ」
遥は、自分の目から大粒の涙が溢れて、止まらなくなっている自覚すらなかった。ただ、ようやく苦しみしかない泥水から光が見えたような。そんな気持ちに包まれていた。
――……綾ちゃん。お姉ちゃんの名前、歩って言うの。
「えっ、ちょっと。そんなに泣かないで、遥」
慌てる歩に抱きつきながら、安寧の涙を流し続けた遥は、その三日後に復学した。
遥は現在、看護師としてICUに所属している。戦場のように忙しい現場だったが、それだけにチーム内の結束は硬い。仕事はとても充実していた。それについ最近、同僚の麻酔科医から結婚を前提に告白されたばかりだった。
姉の歩はネットを中心に、手芸作家として成功し始めている。
「私もビールのもっかな」
歩が、キッチンへ向かって歩いてゆく。その後姿に遥は快活に話しかけた。
「お姉ちゃん、冷蔵庫にハムあるから持ってきてー!」
「それだけでいいの?チーズあるよ」
「あ、じゃあそれも」
姉の手には、おつまみと共に白ワインが持たれている。歩の摂食障害はまだ波があるものの、大分落ち着きを見せていた。今では、食卓も一緒に囲んでいる。
「これが自由業の良いところよ。今日は、お休みにしちゃお」
「お、いいねえ。お姉ちゃん、女子会しよ」
忘却を選ぶのも、また一つの選択肢。
七年という歳月は、それぞれが選択をするのに、丁度いい時間なのかもしれない。
たわいない会話を楽しむ姉妹の鈴のような声が、いつまでもリビングに鳴り響いていた。
◆
引っ越しを控え、既に荷物が運び出されてしまった部屋に、瀬能ゴウと飯山ハルキは佇んでいた。約八年、一緒に暮らした部屋だ。ハルキが感慨深げに、空っぽになった部屋を見渡す。ゴウは、チケットとパスポートの確認をしていた。
「なんか、あっという間だったな」
「そだね……二人っきりなら、もう少し違った感じだったんだろうけど」
「ゴウちゃんも、同じこと考えてる?」
「うん、まさかさ。あんなでっかいガキの面倒見ることになるとは、思わなかったじゃん?」
ゴウの勤め先である美容院が、シンガポールへ出店することになったのがきっかけだった。そこの店長に指名されたゴウは、店を辞めて独立することも考えたが、良い潮時だなと思い引き受ける事にした。
ハルキは、会社を辞めた。元よりIT業なので、英語さえ出来ればシンガポールにいくらでも働き口はあった。そして、ハルキは元々英語教師だった。
ベランダの窓にもたれかかったゴウが、懐かしそうに目を細める。
「覚えてる?リク君が、ナカライ君と喧嘩してウチに来た時の事」
「……いつのだよ。あの二人、喧嘩ばっかしてたじゃん……」
「最初の頃。まだ不安定だった時の話よ」
ゴウの腕が、ハルキの腰に絡まる。キスが出来そうな位に顔を近づけた所で、ゴウがムッとした声を出した。
「こんな風に顔近づけて、ハルキに迫ってたよねえ。あんのガキ……僕が帰ってこなかったら、どうしてたの、アレ」
ハルキはそのままゴウの唇を啄むと「断るに決まってるだろ」と言いつつキスの続きをしようとした。ゴウの手がビーンと伸びて、顔ごと身体を遠ざける。
「絶対に嘘だね。ハルキ、誘惑に弱いじゃん」
「……弱いよ。また、あの斜視がな。妙に色っぽいっていうか……イタッ!」
脇腹を思い切りつねられ、ハルキは身を捩った。こんな風に感情を顕わにするゴウは珍しい。嫉妬してたのか……八年も一緒に暮らしていると、恋人感覚はどうしても薄れてくる。現実主義でドライなゴウといると尚更だった。俺たちって、単なる相棒なのでは?と悩んだ事もある。
ただ、八年。一緒に過ごしていくうちに、リクを通してゴウもまた、似たような生い立ちなのだと窺い知ることが出来た。愛情表現が下手なのだ。一見、酸いも甘いも噛み分けて、世渡りが上手く出来ているように見えてしまっている分、余計にその不器用っぷりは目立った。
ゴウの愛情表現は、とにかく小さい。だから、付き合いが浅いと簡単に見逃してしまう。本人にとってはそれが最大限だし、精一杯なのだが。いかんせん、伝わらない。長いこと付き合わなければ、分からない事だらけ。それが瀬能ゴウという男だった。
だからこそ俺は、ずっと側にいたいんだよなあ……
「……ゴウちゃん」
「――……何?」
「二人で爺さんになるまで一緒にいない?」
嬉しさと困惑の入り混じった表情のゴウが、ハルキを見上げる。心なしか、耳が赤くなっているように見えた。
「お互いにもう三十超えてんだよ。てか、アラフォーだよ。アラフォー。あっという間に、ジジイになるでしょ」
「……ふん、好き」
照れ隠しする様に愛おしさを感じたハルキは、嫌がるゴウを抱き寄せると顔中にキスの雨を降らせた。
「やだやだやだ!やめってって、ハルキ!」
「やめないよ、ゴウちゃんの事好きだもん。第二の人生に乾杯しようよー」
「えぇ……」
まんざらでもない表情に変わったゴウは、ハルキにキスを返すと「第二の人生か」と独りごちた。
またね。リク君、ナカライ君。
その日の夜、二人を乗せた飛行機がシンガポールへと旅立っていった。
◆
梅雨が明け、生まれたばかりの夏の日差し。陽炎が揺らめき、蝉の声が大きくなる中を歩く、半井ゼンジと望月リクの姿があった。リクの手には、花束が抱えられている。
霊園の入り口で、リクが線香を買っている間に、ゼンジが浄水を用意した。二人で、砂利道を奥へと進んでゆく。
今日は、蓮波綾の命日だ。
「久しぶりだな。蓮波」
リクが墓石に向かって声を掛ける。二人で手を合わせると、軽く掃除をしはじめた。と言っても、寺へは管理費が支払われているので墓石やその周りはキレイに保たれている。リクが就職するまでは、飯山ハルキが費用を負担していた。
「何も出来なかった自分に、これくらいはやらせてほしい」
ハルキのその言葉を、断れる者はいなかった。納骨の日、リクも外泊許可を貰って全員が揃った。
望月リク
半井ゼンジ
佐伯遥
飯山ハルキ
瀬能ゴウ
あの時は、こんな日が訪れるとは夢にも思わなかった。ゼンジと遥もまだカウンセリング中で、事務的な事は全てハルキとゴウへ任せる形になってしまった。骨壷に収められた綾を、まるで映画のワンシーンのようにしか見ることが出来なかった。
線香に火をつけたゼンジが、墓石に向かって語りかけた。
「結局、蓮波の好きな食い物、誰も知らないまんまだよ。天国で幸せにしてるか」
「本当の父親は好きだったと思うから。一緒に入れて、幸せなんじゃないかな」
リクがゼンジに肩を寄せながら、話を繋いだ。清められた墓石が、太陽の光を浴びてキラキラと反射していた。青みがかった紫を基調とした花を、花立てに添える。リクが花を見ながら、生前の綾に語りかけるような口調で、墓石へ話しかけた。
「蓮波は、青っぽい紫ってイメージなんだ。外れてないと思うんだけどな」
そうして二人で静かに、墓前へ手を合わせた。こうしてお墓参りに来ても、罪悪感で悩んだり、失った悲しみに暮れることもめっきり減ってしまった。ただ、年に数回。蓮波と話をしに来る。
俺たちの毎日は、目まぐるしく動いていく。
心の奥に小さな痛みを大事にしまったままでも、人は笑えるもんなんだな。
俺たちは生きていく。
出来るだけ丁寧に、出来るだけ人を傷つけないように。
そうやって、現実を積み重ねてく。
思い出の中にいる彼女だけが、いつまで経っても歳を取らず、制服姿のままだった。
ありがとうな、蓮波。
「――……ニャァ」
猫の泣き声が聞こえたような……立ち上がって二人で目を合わせた所で、今度は確実に子猫のか細い声が聞こえてきた。
よく見ると、霊園の隅っこにある雑草がモゾモゾと動いているように見えた。耳を澄ませると、やっぱり猫の泣き声がしている。
ゼンジとリクは再び目を合わせると、雑草をかき分けて声の在り処を探し始めた。
「ゼンジ、いた。うわー、お前ちっちゃいなー」
リクの声の方向を振り返ると、生まれて数週間かそこらの黒い子猫が、その生命いっぱいに鳴いていた。母猫に捨てられたのか、やせ細って目やにだらけだった。
「すぐ病院つれてかないと。猫風邪引いてる」
「詳しいね。歯科医って、そういう事も詳しいの?」
「――……歯医者は関係ないだろ。実家に猫がいたからだよ」
ゼンジは鞄からタオルを取り出すと、丁寧に猫をくるんだ。その様子をじっと見つめるリクの左目は、どこか懐かしいものを辿っているようだった。
「管理所でダンボールもらおう」
「――……蓮」
「え?」
「名前だよ、この猫の。連れて帰るだろ。だってウチ、ペット可……」
そう言いかけたリクが固まった。深々と頭を下げる女性の姿を見つめている。白髪が目立つようになった女性の手には桃が持たれていた。抱えている花束は、青っぽい紫を基調としている。
リクは軽く会釈をすると、女性を訝しげに見るゼンジを催促して歩き出した。
そっか、蓮波って桃が好きだったのか。
「一番近くの動物病院、ここから450mだって。まだやってる」
「急ごう、リク」
蓮と名付けた黒い子猫を段ボール箱に入れた二人は、そのまま青葉繁る霊園を後にした。入道雲が広い空へと立ち昇り、太陽が朱夏の訪れを祝っていた。
-END-
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