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第三章:明日を落としても

第十四話:罪悪感

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 終業式

 空調が効いているとは言え、体育館の中は生徒で溢れかえっていて、どうにも暑さは拭えない。しかも夏休みを前に生徒は皆、浮足立っている。校長の挨拶が始まった頃には、あちこちから退屈そうにスマホを弄る音が聞こえ始めていた。

 半井なからいゼンジも欠伸あくびみ殺しながら、空調のルーバーが動く様をぼんやりと眺めていた。

 にわかに生徒のざわめきに不穏が入り混じり始める。教師の何名かが急ぎ足で、体育館を出入りしていた。

 不穏は急速度で伝播でんぱして、あっという間に体育館を覆い尽くして行った。

「嘘でしょ」
「えっえっ……」

 殆ど言葉にならない声が所々から聞こえる。学年主任が校長になにやら耳打ちをした所で、ゼンジは様子のおかしさに気づいた。見渡すとスマホを見ていた生徒のほぼ全員が、凍りついたように固まっている。校長の声が大きくなってマイクがキィーンという音を立てた。

「全校生徒は、速やかに担任の指示に従い教室へ戻るように。既に知っている者もいるかと思うが、慌てず、担任からの説明があるまで待機をして欲しい」

 何が起きた?
 
 トントンと肩を叩かれて振り返ると、最後尾にいたはずのアラタが顔面蒼白そうはくでスマホを差し出していた。

(東京都……市のマンションで、都内の高校に通う蓮波はすなみあやさん16歳が刃物で刺され死亡。「娘を殺した」と通報の母親、蓮波はすなみ由紀恵ゆきえ容疑者42歳を殺人容疑で逮捕。)

 ……何だこれ。
 酷く、喉が乾く。

「キャア!!」

 ガタンッという音と共に、女生徒の悲鳴が聞こえる。白昼夢でも見ているような、スローモーションの世界。全ての感覚が遠くて、ビニールにでも包まれているような息苦しさを感じる。なんなんだ、この感覚は。ぼんやりと音のする方へ目をやると、佐伯さえきはるかが気を失って倒れていた。




 教室に戻ってから、担任が来て事件の詳細を説明するまで、誰一人として口を開く者はいなかった。事件の詳細と言っても、ニュースと変わらない程度の概要しか分からない。警察関係者が校舎を出入りする様子が、教室の窓から聞こえてきていた。


 蓮波はすなみあやが、母親に殺された。


「……詳しい事情などは、まだ不明なんだがな。蓮波はすなみと交流のあった生徒に、警察の方が話を聞きたいそうだ」

 担任もまさかの出来事で余裕がないのだろう。ずっと、ゼンジの顔を見ながら話している。他の生徒たちはうつむいたまま、この世の終わりのような顔をして押し黙っていた。
 
 つい昨日まで面白半分に噂していた人物が、ある日突然、この世から居なくなる。
 皆、言い訳探しに必死で担任の話などそっちのけの様子だった。

半井なからい

 名前を呼び終わらないうちに立ち上がったゼンジは、かばんを抱えると「先に職員室へ行ってます」それだけ言って、教室を後にした。

 シン……と静まり返った廊下を、蝉の声だけがジーワジーワとしがみつくようにして鳴き喚いていた。




 ◆




 職員室に顔を出すと、学年主任から生活指導室で待っていて欲しいと伝えられた。警察関係者は佐伯さえきはるかと一緒に話を聞きたいそうだ、と言われる。

 佐伯さえきって倒れていたけど……話出来るのか。

 半井なからいゼンジは、相変わらず白昼夢を見ているような奇妙な感覚の中で、ぼんやりとズレた事を考えていた。

「おい大丈夫か、半井なからい。気分悪いんじゃないのか。顔、真っ青だぞ」

 という学年主任の声は、一つもゼンジの耳に届いていなかった。

 生活指導室のドアが、酷く重たく感じる。
 蓮波はすなみあやが殺されたのは、昨日の夜。という話だった。

 

 全身から血が抜けるような眩暈めまいを覚えて、生まれてから一番重いドアを開く。中に入ると奥の席でぼーっと一点を見つめたまま、瞬きすらしようとしないはるかの姿が目に入った。

 喉の奥にどうしようもない罪悪感がへばりついて、言葉が出ない。何を言っても言い訳にしかならない。俺は、取り返しのつかない事をしてしまった。俺は、とんでもない過ちを犯した。

 いつまでも入り口で突っ立ったまま動かないゼンジに気づいたはるかが、力のない眼差しを向けた。血の気のない唇をかすかに動かしながら、かすれた声で伝える。

半井なからい君のせいじゃない……」

「――……ごめん」

「……私一人でも、行けば良かった……」

「……行けないだろ。男の俺が一緒じゃなきゃ……あんなの、行ける訳が……」

 はるかの顔が悲しみで歪んで、その頬を涙が伝う。ゼンジも、心臓が押し潰されるような感覚に、自分がもう何を言っているのかさえ分からなくなっていた。遠くで聞こえる嗚咽が自分のものだと気づくのでさえやっとだ。
 
 そのうちはるかの様子がおかしくなってきた。口を開いてもヒューッと音を立てるばかりで、呼吸が上手に出来ていないようだった。苦しそうに顔を歪めている。

「……ちゃん……」
「ちょっと、先生呼んでくる」

「……あやちゃん。最後まで……望月もちづき君の事、気にしてた」
「――……うん」

「……家族って言ってた……望月もちづき君の事――……私、平気なフリして、バカみたいに……嫉妬…嫉妬なんかしたから、あんな事に……」

 ヒューッっという呼吸音が大きくなる。入った時から血の気のなかったはるかの顔色が、青いを通り越してあっという間に白くなる。ゼンジはたまらず近づくと、その冷え切った手を握りしめた。

「大丈夫、大丈夫だから」

「ごめっごめんね!あやちゃん……うぅ……あやちゃあん」

 警察関係者がやってくるまで、はるかはゼンジの腕にすがりついて号泣していた。ゼンジも声を殺しながら静かに泣き続けていた。



 結局、はるかの事情聴取は後日という事になった。家族が迎えに来て、これから病院へ行くと言う。連絡先の交換をして、ゼンジだけが残って聴取を受けた。直近の、はるかとのやり取りを中心に話す。
 
 途中、何度も聞き返されるが、その度にゼンジは「え?」という表情をしていた。聞いていなかったり、同じ話を繰り返していたり、質問とはかけ離れた話を始めたり。同席していた担任が刑事と顔を見合わせ、彼も後日に……と相談し始めていた。

 部屋に入ってきた時のはるかと一緒だった。一点を見つめたまま瞬きすらしようとしないゼンジは、思い詰めた表情で何度目になるか分からない同じ台詞を繰り返していた。

「――……俺が佐伯さえきさんの言う通り、一緒に蓮波はすなみの家に行っていれば、助けられたんです」

 刑事が、やるせないといった表情で精一杯の言葉をかける。

「君のせいじゃないよ。昨日の夜、福祉関係者も電話をかけてたんだ。繋がらなかったそうだ。今日の午前中に、緊急で訪問する予定だったと言っていたよ」

 制服のズボンに、止まる事なく涙がこぼれ落ちてゆく。
 
 何を言っても、今は納得出来ないだろうな。
 そう思いながら刑事は、申し訳無さそうな顔をして続けた。

「逮捕された母親がね。望月もちづきって生徒の名前を出してるんだよ……あやさんの日記が、見つかってね。その中にも出てくるんだ。君の名前と一緒に」
 
「――……望月もちづきの家には行ったんですか」

「ここへ来る前に、連絡はしたよ。家の人は出ていったから関係ないの、一点張りでね。退学届も、本人が書いて提出したものと確認されてるし……望月もちづき君の事は、その……君が詳しいとしか言わないんだよ」

「……でしょうね」

 ゼンジは、視線を動かして再び瞬きを始めるとポツリポツリと話しだした。
 あやにタオルを渡した、あの日からの出来事を。




 ◆




 港区にある、とある総合病院の個室。

 頭を包帯でぐるぐる巻きにされ、右目に眼帯をした望月もちづきリクがスースーと寝息を立てていた。出勤途中にオーナーから呼び出された瀬能せのうゴウは、猛烈に酷い二日酔いのような気分で、眠っているリクの姿を見つめていた。

 最近のリクは笑うようになった、とスタッフから聞いた矢先の事件だった。

 別に神様を信じてるワケじゃないけど、とゴウは思う。
 あまりにもむごいんじゃないの。
 
 蓮波はすなみあやが亡くなった事は、出勤途中の電車内で知った。

 受け止めきれる訳ないじゃない。
 大人にだって、無理なのに。

 店長の話では、本当に一瞬の出来事だったらしい。悲鳴を上げて気を失ったリクに驚いて、救急車を呼ぼうと目を離した、ほんの数分の間にそれは起きた。

 リクは何を思ったのか、デスクの引き出しにあったドライバーで、右目を突いてしまった。

 救急車が来るまでうわ言のように、蓮波はすなみあやの名前を呼び続け、頭が痛いと訴えていたと言う。

 集中治療室に入ったのが、10時前。幸い失明は免れたものの……予後よごに関する担当医師の見解は、厳しいものだった。精神病院の紹介状を書くのでなるべく早い入院を、と勧められる。

「素人で、どうにか出来るレベルではないと思います。もっと強い希死念慮きしねんりょがこれから出てくる可能性が高いですね」
 
「すみません、希死念慮きしねんりょってなんですか?元々強い頭痛持ちだったと、本人は言っていたようなんですが」

瀬能せのうさん。望月もちづきさんの脳に異常は見当たりませんでした。精神的なものと見ています。自殺未遂ですよ、彼がしたのは。専門家によるケアが必要です」

 医師との面談を終えたゴウは、休憩室でオーナーに連絡を取った。そういう子は今までにもいた。入院が必要なら、させたら良いじゃないか。と、えらくアッサリした返事が返ってきた。
 
 ゴウは、保険証ってどうなってんだろ……と思った。しかし、その手の事を聞いてしまうと不機嫌になる人でもある。「ありがとうございます」感謝の意を述べるにとどめて電話を切った。

 時計を見ると14時を回っていた。自販機でお茶を買ったゴウは、飯山いいやまハルキが到着するのを病室で待った。




 飯山いいやまハルキが汗を拭きながら、病室に姿を現したのは15時前だった。リクの姿を見て、いたたまれない表情を見せる。当然、あやが亡くなった事は知っていた。

 ゴウとリクが繋がっていたのは、知らなかったが。

 怪我の経緯けいいをゴウから聞いたハルキは、眠っているリクの手を握ると自分の額に当てて呟いた。

桐生きりゅう。置き去りにして……本当に、ごめんな」

 疲れ切ってよどんだ空気が、病室内をただよう。元気なのは、外の天気くらいのものだった。憎たらしいほどに晴れている。ハルキは、冷えたミネラルウォーターを一気に飲み干すとゴウに尋ねた。

「――……桐生きりゅうとは、いつから繋がりがあったの?」

「家で餃子やった日」

「急にレジ締め云々言い出して出てったの。あれ、そうだったんだ」

「そう、ごめん」

 大きなため息をつきながら、ゴウがパイプ椅子に腰掛ける。髪をかきあげたその横顔には、後悔と疲労の色が強く滲み出ていた。ハルキも疲れた顔はしていたが、ゴウの肩へ優しく手を置いた。

「ハルキに相談してからにすれば良かったって、後悔してる」
 
「俺に相談しても、変わらなかったよ」

「ナカライ君との繋がりを……僕たちだけでも持っておくべきだったよね。それは、ハルキの役割だったじゃん?僕が何も言わなかったからさ、連絡とか取ってないでしょ」

「まあそうだけど……何が正解とか分からないよ、こればっかりは。だから自分を責めたらダメだよ、ゴウちゃん」

 鎮痛剤がよく効いているのかス――ッと寝息を立てるリクの肩が、大きく動く。

「――……リク君にとっての蓮波はすなみさんって、どんな存在だったんだろうね」

 ゴウが、窓から遠くを眺めながら呟いた。ハルキはどこかぼんやりとしながらも、かつてきちんと生徒と向き合う努力をしていた頃の教師の面持ちで答えた。

桐生きりゅう蓮波はすなみは、双子みたいな関係だったんじゃないかな。何となくだけどさ。今思えばだけどまとってるものが、とてもよく似てた」

「ハルキは悲しい?」

「――……さっきから、ずっと実感が湧かないんだよね。何回もニュース見てんのに。こういうのって、後から来るんだよな」

 ゴウはハルキの手をギュッと握ると切ない表情はそのままに、頬杖をついた。

「僕がずっと一緒にいるから。だから大丈夫だよ。あのさ、リク君から止められてたんだけど……彼にも必要だと思う。一緒にいる人」

 分かってる、というようにハルキがゴウの手を握り返した。

蓮波はすなみが俺に言った最後の言葉ってさ。『望月もちづき君を止めるのは、半井なからい君。』だったんだよ」

 これ以上、たらればを話していても仕方がない。リクはよく眠っていて起きる気配がなかった。二人は顔を見合わせると立ち上がり、ゼンジと連絡を取るために病室から離れて外にある喫煙所へと向かって行った。


 眠っていたリクの左目が開いたのは、二人が出ていった直後だった。




 ◆




 洗いたてのシーツの匂いに包まれながら、半井なからいゼンジは目を覚ました。

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて、混乱する。生活指導室で蓮波はすなみあや望月もちづきリクについて、刑事に話をしていたはずなのに。途中で気分が悪くなり、担任から保健室に連れて来られた事をゼンジは忘れてしまっていた。

 引きずり込まれるようにして、すぐに眠ってしまったらしい。家の人には連絡しておくから、と担任が言っていたのは夢ではなかったのか。
 
 スマホを見ると家族から、メッセージが入ってる。

(無理そうだったら、車で迎えに行く。)

 ゼンジは(大丈夫)と返すと、まだ靄がかかっている頭を目覚めさせるように、こめかみを揉んだ。起き上がって靴を履く。

「冷たい水、飲む?」

 声をかけてきたのは、保健師の下田しもだだった。泣きはらしたのか目が赤い。ゼンジはうなずいたが、さっきスマホで確認した時間は15時を回っていた。事件の事があって、全校生徒はとっくに帰宅させられている。

「ありがとうございます。先生、帰らなくて大丈夫なんですか。もし俺のせいだったら、すいません」

 その長身ちょうしんをカーテンから覗かせたゼンジが頭を下げる。下田しもだは悲しげに笑うと首を振った。そして小さい冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出すと、ゼンジに渡した。

「このまま、蓮波はすなみさんのお通夜に行くから」

 お通夜……もう本当に蓮波はすなみはこの世にいないんだな、という実感がこみ上げてくる。冷たいミネラルウォーターを口につけながらゼンジは、現実に戻ってきた感覚を味わっていた。

 白昼夢みたいな変な感覚は消えたけれど……実感は湧いても、感情が麻痺してこれっぽっちもともなってくれない。

 何だか疲れたな。すごく疲れた。

「……蓮波はすなみさん、そこのベッドの常連さんでね」

 下田しもだの声で我に返る。彼女は、ゼンジの寝ていた隣のベッドへ目をやっていた。その目は虚ろで涙が浮かんでいた。

「私、何も分かってなかった。無責任にカウンセリング行けとか。そんな話しかしなくて。彼女がお母さんとの間に何を抱えてたのか、聞こうともしなかった」

蓮波はすなみは、望月もちづきの居場所を作りたいと言ってました。そのために、やらなきゃいけない事があるって。それが母親との対話……だったのかな」

「福祉関係者の人と話をしたの。お母さんね。全部、蓮波はすなみさんが悪いと思い込んでたフシがあったって。こんな事になってから、あれもそうだった、これもそうだったって……思い当たることしかないの。もう、本当に自分が嫌になる……」

 下田しもだの目から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。ゼンジはふらつく身体を何とか保ってうつむいたまま、誰へともなく呟いた。

蓮波はすなみってヤツを知っていて、を感じない人なんているんですかね。俺、いないと思いますよ」

 下田しもだの小さい嗚咽おえつを聞きながら立ち上がる。ベッドに置かれていたスマホが動いているのに気づいたゼンジは、通話ボタンを押して耳に当てた。声の主は飯山いいやまハルキだった。蓮波はすなみのお通夜の事だろうか。

「はい」
 
「今、望月もちづき君が入院してる病院にいるんだけどね」
 
「……入院?具合悪いんですか、アイツ」

 ゼンジの顔がサッと曇った。当然、望月もちづきだって蓮波はすなみの件は知っているだろうと思うけど。でも俺は今、アイツがどんな生活を送ってるのか知らない。本当に病気か事故で入院している可能性だって十分にある。

 雑音と共に電話の声が、賑やかな感じの声色こわいろに変わった。

「あ、ナカライ君?僕、瀬能せのうって言います。飯山いいやまのパートナーで」
 
「――……はあ」

「いきなりだから、ワケ分からないよね。あのね、僕の知り合いの所で預かってたの。リク君。新橋のお店だったんだけど」

 。退学届にあった消印の場所。

 案外、近い場所にいたんだなとゼンジは驚きを隠せずにいた。夏休みを使って、しらみつぶしに調べるしかないと思っていたのに。知り合いに聞けば辿りつける場所にいた。

 切れていた糸が、再び繋がったような気がする。
 ぬか喜びがれ出てしまったのだろうか。瀬能せのうが気まずそうに続けた。

蓮波はすなみさんの件を知った、リク君ね。ドライバーで目を突いちゃって」
 
「えっ?!」

「失明はギリしなくて済んだんだけど……発作的に死のうとしたみたいで。入院を勧められたの。手続きとかお金は、気にしなくていいんだけど。一緒にいてくれる人が必要だなって、ハルキと話して」

「――……望月もちづきに、俺には言うなって言われてたんじゃないですか?」

「まあね。でもさ、男の強がりみたいなのってあるじゃん。本音では、ずっとナカライ君に会いたかったと思うよ。港区の総合病院なんだけどさ。僕らまだいるから、今から来てほしいんだ。彼を一人にしたくないんだよね」

 声が飯山いいやまに変わる。

蓮波はすなみと最後に話した時ね。彼女、言ってたんだよ。『望月もちづき君を止めるのは、半井なからい君。』って」

「……すぐ行きます。

 気がつくと、ゼンジは駅に向かって走りだしていた。




 ◆





 望月もちづきリクは誰もいなくなった病室で、苦い表情を浮かべながらこめかみを押さえていた。
 
 目の奥が焼かれているように痛む。鎮痛剤、全然効いてないじゃないか。別に目を潰そうとか死のうなんて意図はなかった。ただ、目の奥が痛くてたまらなかった。我慢出来ないほどに痛かったから、ドライバーで目を突いた。

 そうすれば、頭痛が止まると思ったから。

 それを精神病院へ入院とか、大袈裟にもほどがある。そんな事になったら、兄貴が絶対に嗅ぎつけてきて……嗅ぎつけてきて、俺に何をするんだ?

 

 止んでいた声が再び脳内をこだまして、耐え難い痛みが襲いかかる。リクは、うるさい!と怒鳴りつけたくなる気持ちを必死で押さえた。目立つ頭の包帯を外してパジャマを脱ぐと、簡易クローゼットの中をあさった。

 瀬能せのうゴウが来てたって事は……ビンゴ。着替えやら下着が置いてある。病院に来る途中で買ったのか。どれも新品で、まだタグがついていた。なんか、こういうのは気にする人なんだよな……雑な性格してるクセして。

 リクはゴウの妙な所を評価しながら、素早く着替えるとこっそり病室を後にした。

 こんな時、自分の小柄さは得だと思う。隣の四人部屋に入ると散歩用なのだろう、帽子が掛けてあるのが目に入った。他の患者にばれないよう仕切りカーテンの隙間から入って拝借すると、目深まぶかに被った。老人はベッドでぐっすりと寝息を立てている。ついでにブルゾンの膨らみを確認して、ポケットに入っていた財布も拝借する。

 そうして病室を出たリクは、ナースステーションの前を堂々と通り過ぎていった。エレベーターで一階のロビーまで降りてゆく。

 気配を消すのが得意なのは、皮肉にも虐待の賜物たまものであった。

 人の波をどんどんくぐり抜け、病院から遠ざかる。人気のない通りまで来て、周囲に人がいないのを確認するとそのまま走りだした。

 けれども、声が追いかけてくる。

 

 うるさい、うるさい!

 リクは自分の中で執拗に鳴り響く、不快な声の主がようやく誰だか理解した。
 
 これは、俺の声じゃない。
 兄貴……桐生きりゅうカイの声だ。

 

 

 

 もう止めてくれ!!
 
 鋭い痛みが、目の奥を貫いてゆく。発作的に悲鳴をあげそうになる口で、指を思い切り噛んだ。み傷が深すぎて血が垂れ始めている。何をやってるんだ、俺は。リクは指をギュッと握りしめると、そのまま走り続けた。

 兄の声から逃れるように。




 ◆




「――……え?」

 乗車するはずだった特別快速が発車してしまった。半井なからいゼンジは、電話の奥の瀬能せのうゴウの声を酷く遠くに感じながら、立ち尽くしていた。

「本当にごめん。目を離した隙にリク君、病院から抜け出しちゃったんだよ。まさか動ける状態だったとは思わなくて。ああもう!こんなの言い訳にしかならないよね。知り合いにも探してもらうよう頼んである。だけど……」

「だけど、なんなんですか?」

 ゴウは、華僑かきょうグループが慈善事業をやっている訳では無い事を、誰よりも知っている。望月もちづきリクが信誠会しんせいかいに戻れば、もう後がない。オーナーは、リクを二度と許さないだろうし、信誠会しんせいかいはすぐにでも、リクを海外へと売り飛ばしてしまうだろう。

「もう二度と戻ってこない可能性もあるの。それだけは覚悟してほしい」

 反対車線から特急が通り過ぎて、突風が吹き付けてゆく。プァーー!という叫びのような音に、思わず耳をふさいでしまった。スマホがホームへ無様に転がり落ちてゆく。

 夏の遅い夕焼け。その焼け付くようなまぶしさに、ゼンジは目を開けている事も出来なかった。

 また糸が切れてしまう……もう二度と繋がらないかもしれない。
 助けてくれ、蓮波はすなみ
 
 ゼンジは無意識のうちに祈っていた。

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