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第三章:明日を落としても

第十三話:一学期の終わりに

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 望月もちづきリクが退学届を、郵送で送って来た。蓮波はすなみあやは、一昨日から学校に来ていない。自分の知らない所で何かが起きているんだろうか?半井なからいゼンジは釈然しゃくぜんとしない気持ちのまま、職員室を後にした。

 あやと二人で、飯山いいやまハルキの元へ行った日の事を思い出す。お互いに飯山いいやまと連絡先交換はしたけれども、あやとは交換をしていなかった。学校があるから。それはリクとあやの関係でも同じだった。自分たちでも説明できぬまま瓦解がかいしてしまった奇妙な三角関係。

 運命の糸が解けてしまった瞬間だった。

 退学届の郵送元である新橋へ、すぐにでも向かいたい気持ちがゼンジの頭をもたげる。もう二度と会えないという現実を受け入れたつもりだった。けれども、そんなに簡単に割り切れる話じゃなかった。誰かを好きになるのは、思った以上に複雑だった。苦しくても希望があるならすがりたい。

 もう一度、望月もちづきに会いたい。
 
 飯山いいやまの勤め先まで調べて、その姿をおそらく幾度となく見に行っていた望月もちづき。その気持ちを、俺はようやく身をもって知った気がする。

 どうしたら良いんだろう……と、職員室の前で呆然と立ち尽くすゼンジの背後から声がする。

半井なからい君。突然、ごめんなさい。私、蓮波はすなみさんの友人なんです」

 声の主は、職員室にいた女生徒。佐伯さえきはるかだった。どこかで見かけた事があると思ったのは、蓮波はすなみと一緒にいたからか……と、ゼンジはリクに心奪われたまま考えていた。必死な様子のはるかが続ける。

蓮波はすなみさんから聞いて、望月もちづき君の事もある程度は知ってます」

「……そうなんだ。蓮波はすなみって望月もちづきと連絡取ってた?」
 
「彼女は聞けないでいると言ってました。半井なからい君は知らないですか?望月もちづき君の連絡先」
 
「ごめん、それは俺も知りたいんだ。望月もちづき、番号変えたらしいんだよ。先生も携帯繋がらないって言ってた」

 もどかしい会話が続く中で、徐々に二人の瞳が失望の色に変わっていった。

「昨日から彼女と連絡取れなくて心配なんです。望月もちづき君から、何か蓮波はすなみさんの事を聞いてないかなって思ったんですけど」
 
「悪い。何にも聞いてない……蓮波はすなみの家は知ってる?」

「知ってます。知ってるんですけど、一人で行くのが……ちょっと……」

 はるかはゼンジから視線を落とすと急に押し黙ってしまった。
 
 一人であやちゃんの家に行くのが怖いって、言えない。
 怖いから半井なからい君と一緒に行って欲しいなんて、もっと言えない。

 こんな事なら、福祉担当者の連絡先ぐらい聞いておくんだった。

 はるかは、抱えている怖れを上手く伝えられない自分を嘆いた。家族の中に、精神の不安定な者がいる独特の怖れ。会話の成立しない悲しさや、不安定さが振り切った時の嵐のような様。予定調和をことごとく破壊される恐怖。

 精神科への入退院を繰り返す姉を通して、はるかはよく理解していた。そしてそういった立場にいるのは、ごく少数の者である事も十分に理解していた。

 直感で分かる。半井なからい君は、を知らないで来た人間だ。
 だからこそ話せない……上手く伝わる気がしない。

 ゼンジは先程からリクの居場所に心奪われたままだ。あやの事も気がかりではあるのだが、彼は決定的な事実を知らされていない。知っているのは、蓮波はすなみあやが虐待を受けていたという大枠の事実だけ。二人の間を微妙にすれ違った沈黙が流れた。

 ガラッっという音と共に職員室の扉が開いて、クーラーの冷気が二人の合間を抜けていった。二人が同時に我に返って扉の方を見る。立っていたのはゼンジのクラスの担任だった。困ったように頭をポリポリと掻きながらため息をついている。

「今、望月もちづきの家から連絡があってな。学校にある私物を処理してくれだと。家族引取が規則なのに……ったく、一方的に言われて電話切られちゃったよ。丁度良かった半井なからい望月もちづきの私物、分かるか?」

 ゼンジは電話の主を察して顔が一気に強張っていた。

「電話の声って若い男でしたか?」
 
「はえ?まあ……そうだな。年寄りではなかったけど。どうなってんだアイツの家」

「……佐伯さえきさん、だっけ?」

 教師とのやり取りを見ていたはるかは、肩を落としていた。
 
 もうこれ以上、あやちゃんの話は出来ない。次に言われる事も分かってる。勇気がないから半井なからい君に助けを求めたのに。

 素直に助けてほしいって言えば良かった。
 
 私一人じゃ怖いから、一緒にあやちゃんの家に行ってほしいって。
 

「俺、今から望月もちづきの家に行く。佐伯さえきさんは蓮波はすなみの家に行ってくれないか」

 言い終わるや否やきびすを返し、急ぎ足で職員室を立ち去るゼンジ。はるかの手が、その逞しい背中を追って虚しく空を切った。

「――……一人で行くなんて、無理だよ……」

 あやを想う悲痛な願いは、鬱陶しいほど大きい蝉の声にかき消されてしまっていた。





 ◆




望月もちづき君。酒屋への注文って、してもらった?」
 
「あ、はい。溜まってた伝票って、入力しちゃっていいんですよね」

「あー、頼むわ。適当に休憩してね。ウチ、そういうのちゃんとしてないから」

 新橋ゲイバー二階の詰め所。掃除の行き届いた部屋で、ノートPCを操作する望月もちづきリクの姿があった。オーナーは日本人ではない。華僑かきょうであり、飲食店以外にも幅広く事業を手掛けていた。

 結局あの日、リクは本当に金で買われた。300万。彼を連れてきた瀬能せのうゴウは「僕も同じ金額だった」と言っていた。慈善事業で救われた訳ではなかったのだ。

 信誠会しんせいかいとオーナーの所属する華僑かきょうグループは、犬猿の仲だった。信誠会しんせいかいのやりたい放題は、東南アジアでは有名な話だとスタッフが愚痴っていた。例のハプバーについても、華僑かきょうグループに濡れ衣をかぶせようとした前科がある。

 そこまで合理的な理由なら、と逆にリクは提案を受け入れた。下手な温情よりも遥かに気が楽だ。衣食住がついて小遣い程度は貰える。投資価値があると判断してもらえれば進学も可能、という話だった。事実、ゴウはここから高校を卒業して専門学校に通い、美容師となっている。

 PCをスリープモードにして立ち上がり、伸びをしながら冷蔵庫のオレンジジュースを取り出す。ソファーで休憩を始めたリクは、タバコをくわえながらここに初めて来た日の事を思い出していた。




「僕をだまして売ったの、実の父親だよ。無理やりヤられちゃってたの。小学生の時からずっとね。よく聞くでしょ、そういう話」

 ゴウはあの日、余りにもあっさりと自身の性的虐待をリクに打ち明けた。最初、リクは嘘をついているのだと思った。それぐらい淡々とした告白だった。
 
 驚きが先行き過ぎて急に冷静になってしまったからか、頭が再びズキズキと痛みだす。目の奥を焼かれているような痛みを噛み殺しながら、リクは口を開いた。

「実の父親とヤッてて、売り飛ばされたって……よくそんな話、平気な顔して出来るね」
 
「誰にでも話してる訳じゃないけど。それに僕、あんまり頭良くないんだよね。だからじゃないの」

「頭が良いとか悪いの問題じゃないだろ」

 そお?という表情を浮かべたゴウがリクを見つめる。その目を直視出来なかったリクは、思わずうつむいてしまっていた。

 何を普通に喋ってるんだ、俺は。
 どうしてだろう、上手く取り繕えない。
 演技が出来ない。

 リクにとって、ゴウは今まで会ったのことのない類の人間だった。ゴウはビールの缶に視線を戻すとしばらく黙っていたが、覚悟を決めたのか迷わず本音を打ち明けた。よく通る高音が部屋に響き渡る。


「だってさ、それしか知らないんだよ。父親から愛情を貰う方法。だったら仕方なくない?」


 瞬間、リクは喉の奥に小石が詰まったような感覚を覚えた。鼻がツンとしきて、視界がぼやける。

 ずっと、誰かから言ってもらいたかった言葉。
 それをこんなタイミングで、先生の恋人から言われるなんて。

 リクは、あふれて止まらない涙を必死に手の甲で拭っていた。キッチンへ向かったゴウは何も言わず、新しいタオルを投げてよこした。床は、リクがぶちけたコーラでビシャビシャだ。

 そのままタバコに火をつけたゴウは、嗚咽おえつするリクの姿から黙って目を逸した。重苦しく棘まみれだった空気が、徐々に本来の悲しさで満ちあふれてゆく。

 『本当は悲しかった。傷ついてた。』言葉に出来ない想いを代弁する涙には、不思議な癒やしと自浄作用があった。
 
 どのくらいそうしていたか。ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したリクは、鼻をかむと掠れた声でゴウに尋ねた。怯えて駄々を捏ねるしかなかった子供が、顔色を伺いながらも一歩前へ歩き出すように。

「――……俺、ここにいてもいいの?」
 
「いいよ。汚くて悪いけど。僕もしばらくここで生活してたから」

「……この事、先生には絶対に言わないで」

「本当に話しなくていいの?その覚悟はしてきたんだけど」

 持っていたタオルで顔をぬぐったリクは立ち上がると、床に転がっていたペットボトルを拾ってテーブルへ置いた。そして振り返り恥ずかしそうにゴウの目をみると、ぶっきらぼうに呟いた。

「だって悪いだろ。上手く行ってんじゃないの、先生と。その間を割って入ろうとするほど俺、ガキじゃないよ」

 素直になることに対してまだ抵抗だらけのリクは、顔をそむけるとすぐさま雑巾を探す仕草を始めた。テキパキと掃除道具がまとめて置いてある部屋の隅へと歩いて行く。鼻をすすりながら、雑然と積まれた雑巾を床へ放り投げた。

 ゴウは意外、という表情で掃除を始めたリクを見ていた。

「ふうん、優しいじゃん」
 
「……瀬能せのうさんってさ、一言余計だよ。言われない?そうやって」

「えぇ……酷い。そんな事言われたの、僕初めてなんだけど。リク君だって拗れきってんじゃん。面倒くさいとか言われない?」

「うるさいな。早く先生の所へ帰れよ」

 顔を真っ赤にしたリクが、床にぶちけられたコーラを拭きながら答える。その声に、今にも暴発しそうな危うさはもうなかった。ゴウは、優しい視線をリクへ送ると安心した様子で帰る準備を始めた。

「んじゃ僕、そろそろ行くから。ビール、ごめんね。ぶっかけちゃって。ここシャワーないんだよね。台所のお湯で何とかしてくんない?」

「マジで?服どうすんだよ、ベタベタなんだけど」

「僕ので良ければ、そこの紙袋に着替え入ってる。スタッフは知ってるからさ。今日から住み込む事。明日にはオーナーも来るから、詳しいことはそこで聞いて。そんじゃね」

 リクはモップを手に取ると、小さな背を向けたまま手を振った。ゴウは立ち去りつつも、その小さな背中から目を離すことが出来ず密かに気を揉んでいた。

 最後にこれだけは聞いておかなきゃ。僕、本当は人の恋愛に首突っ込むの好きじゃないんだけど……ここで知らん顔は出来ないよねえ。世話焼きババアみたい。

 どこかぎこちない口調になってしまったゴウは、おずおずとリクにたずねた。

「ハルキに言わないって事は、ナカライ君にも伝わらないって事になるんだけど……それは分かってるよね?」

 小さい後ろ姿がピクッと反応する。モップを持つ手にギュッと力がこもり、薄い筋肉が浮かび上がった。リクは首を振りながら、半井なからいゼンジの傷痕きずあと、熱い唇、自分の中に入ってきた甘い感触かんしょく残穢ざんえに今すぐにでも触れたくなる想いを振り払った。
 
「いい。半井《なからい》はゲイじゃないんだ。俺が……その、振り回して一方的に巻き込んだだけだから。元の生活に戻って、普通に女の子と付き合ったりとか。そういう事をして欲しい。普通でいてほしいんだ。だから……いい」

 これが今言える、精一杯の強がり。
 リクは足で濡れた雑巾をまとめると、力強くモップがけを始めた。
 
「――……それって純愛じゃん」
 
 階段を降りながらゴウが呟いた事に、リクは気が付かなかった。




 ◆




 半井なからいゼンジは険しい表情で『桐生きりゅう』の表札を見つめていた。

 空は真っ暗で、今にも夕立が来そうな勢いだ。遠かった雷鳴らいめいが、徐々に近づいて来ているのが分かる。ここへ来る時はいつも雨だな……とゼンジは思った。違うのは、蝉の鳴き声くらいか。

 門をくぐり、相変わらず人気のない母屋の横を通り過ぎる。前回来た時に、チャイムは鳴らした。おそらく俺が、望月もちづきリクと同じ制服を着ているからだろう。カメラは反応するのに、マイクは無反応なままだった。極力、関わりを持ちたくないんだろう。だから今回は、そのまま離れに向かった。

 歩いてるそばから、ポツッポツッと大粒の雨が降り出す。すぐさま、ザーッという土砂降りの雨に変わった。

 鍵のかかっていないリクの離れの扉を開けると、ゼンジはすぐに人の気配があることに気づいた。けれどもそれは、彼が探している人物のものではない。

「すみません、どなたかいますか?」

 玄関から呼びかけるゼンジの声に、リクの寝室から姿を現したのは、と呼ばれていた人物だった。

 お互いに見つめ合うような形となってしまった、二人。ゼンジはその姿から視線を逸らす事が出来ないでいた。見れば見るほど、改めてリクとよく似ている。

 カイは背が高かった。並ぶとゼンジとさほど差がないように思える。リクから、女性的な雰囲気を全部抜いたようなち。それがカイという人物の外見だった。見るからに値段の張りそうな細身のスーツを着ているので、余計に男性的な部分が目立って見える。

「ああ……学校の方ですか。私物の件でしょうか」

 全く抑揚のない声で、カイが笑ってみせた。薄い唇が、既視感しかない機械人形のような動きをしている。その様を見ていたゼンジは、何故か不快感を覚えずにはいられなかった。感情の欠片もないような瞳が、ゼンジの目元にくすぶりだした負の感情に反応する。

「二度と学校ではやるなと言ったのに。性処理くらい、外で済ませられないのか」

 カイは相変わらず抑揚のない、しかし毒を持った棘を感じさせる声でそれだけ言うと、部屋の中へ入って行ってしまった。
 
 靴を脱いだゼンジがその姿を追いかけて、部屋へ入る。
 
 部屋の中は酷い有様だった。まるで空き巣にでも入られたかのような乱雑らんざつぶり。ゼンジは、思わず唖然あぜんとしてしまっていた。引き出しという引き出しは全て開けられて、リクの私物がゴミのように散らばっている。

「ちょっと、何をしてるんですか」

 強い口調で詰問しようとするゼンジを、カイが視線で威圧した。

「良いんです。週末には業者が来て、離れごと解体するので。これも全部……」

 足でリクの制服を踏みつけ、蹴飛ばす。

「処分してもらいますから」

 ずっと一人ぼっちだったリクの小さな背中が、急にゼンジの脳裏をよぎっていった。身体が怒りで熱くなる。ゼンジは気がつくと、カイの胸ぐらにつかみかかってしまっていた。近づいた顔はリクとそっくりなのに、おおよそ正反対の冷徹な目が嬉しそうに歪む。

「思い出の品がありましたら、持って帰って頂いて結構ですよ。貴方、弟の愛人でしょう?私が血縁上の兄であることを、知っていらっしゃるようだ」

「――……どうしたら、実の弟にそこまで酷く出来るんだ」

「どうしたら?それでは、逆にお伺いしたいんですが。どうして弟は、男しか好きになれないんですか」

 どうして、と問われてゼンジは答えることが出来なかった。答えることが出来ないのにカイの胸ぐらに掴みかかっている。最初から、暴力を誘うつもりだったのだろう。ゼンジが手を離すと、カイは浮かべていた薄笑いを消してスーツの襟元を正した。

 挑発に乗った恥ずかしさでうつむいてしまったゼンジの視界に、カイの革靴が飛び込んできた。部屋を荒らすだけじゃなく、土足で上がってきたのか……打ちのめされるような悲しみと再び湧き上がる怒り。ゼンジは制服のズボンを握りしめて、押し黙る事しか出来なかった。
 
 お前に使っている時間はない。そう言いたげなカイがあからさまに外の雨を気にしだしてようやく、ゼンジはその重く閉ざした口を開いた。

「……弟さんはずっと、お兄さんの真似をしてたんですね。貴方は、出会った頃の望月もちづきとそっくりです。顔も見たくないほど嫌いな家族の真似をするのは、常識的に見て考えにくいですが」

 カイの醒めきった眼差しが、一瞬で鬼の目に変わった。

 ザ――――ッという激しい雨の音だけが、二人の間を濁流のように流れてゆく。

「私はね、本当は妹を望んでいたんです。妹をたかった。それを両親が失敗したんですよ。代償は、今も母が払っていますが。父には、家を出てもらいました」

「……一体なんの話ですか?」

 ピカッ!っと窓が光ったかと思うと、近くで雷の落ちる激しい音がした。

桐生きりゅう家の話です。弟は失敗作でした。男なのに、まるで妹みたいな接し方をしてくる。弟に欲情される身にもなっていただきたい……ああ、貴方は男性とセックス出来るんでしたね。言っても分からないか」

「ちょっと待ってください。話が全然見えない……」

 再び窓が光る。落雷を受けた鬼の目がおぞましい光を帯びたように見えて、ゼンジは本能的に受け付けないものを感じた。

「男でなければ、アレを私のモノにしてやれたという話です」

 ……!

 必死に抑えてた怒りが外の大雨の如く流れだす。再び手が出てしまうのを、ゼンジは最早止めることが出来なかった。カイのスーツの襟元えりもとを両手で思い切りつかむ。なんなら首を締めてやりたかった。
 
 ゼンジにも歳の離れた妹と弟がいる。この鬼が言ってる事は、今までの自分の経験や感覚と余りにもかけ離れていて理解が全く出来ない。嫌悪感を通り越して憎悪すら感じる。リクが右目に怪我をした時の事がフラッシュバックしていった。

半井なからいって、こういうの慣れてるんだね。長男?」
「どうして、みんな俺を一人にするんだよ!」

 望月もちづきが兄に欲情していたとしても、決してそれだけじゃなかったはずだ。根本にあったのは、どうしようもない寂しさだ。妹に生まれたら良かった?どっちに生まれたってこの男の下にいる限り、人としての尊厳を徹底的に踏みにじられるだけじゃないか!

「暴力に出れば満足ですか?流石は弟の愛人だ。理性に欠けてる」

 ゼンジはこれ以上、リクをみじめにしたくなかった。今ここで殴ってしまったら、リクが本当にみじめになってしまう。悔しさで涙が浮かんでくるのを、震える身体でじっとこらえた。

 薄い唇の口角が上がって、こうなる事を予め見透かしたかのように、カイがゼンジの耳元でささやく。

「弟は、私のを欲しがってうるさかった……少し弄ってやると、それはもう悦びましてね。愛されてるって言うんです。愚鈍な父にそっくりでしたよ。厄介払いが出来て清々してます」

 言葉を失ったゼンジは、カイを突き放すとそのまま大雨の中を飛び出していった。土砂降りで道を歩く人もいない。雨の音がかき消してくれるのを良いことに、ゼンジは子供のように声を上げて泣きじゃくった。

 悔しくて悔しくて、いつまで経っても涙が止まらなかった。




 ◆




 翌朝

 佐伯さえきはるかは結局、蓮波はすなみあやの家に行けなかった事を悔いながら登校した。

 今日は、終業式だ。一学期が終わる。集会を前に生徒たちがクラスで各々、雑談に花を咲かせていた。

 やっぱり今日も、あやは登校していない。
 浮かない面持ちで席についたはるかに、友人が声をかけた。

「大丈夫だよ。蓮波はすなみさんとこって、福祉の人が来てるんでしょ」
「……うん」

「それよりさ!昨日、半井なからい君と話してたでしょ!アイドルと話せるなんて、裏山すぎじゃない」

 そう言えば話してた事に今更気づいたはるかは、顔を赤らめて口をふさいでしまった。ニヤニヤと笑いながら友人が近寄ってくる。他にも話を聞きつけた女子が数人やってきて、はるかの席を囲みながら女子トークで盛り上がり始めた。

望月もちづき君ネタはビビったよね、流石に」
「リアルBLとか、生きてる間は見られないとか思うじゃん」
「なにそれ。でも、結局は噂だったんでしょ」
半井なからい君、好きな人いないのかな……ねえ、はるかちゃん?」

「あっ……うん。そだね」

 ニコニコと笑いながら話を合わせていたはるかは、空っぽなままのあやの座席に目をやっていた。祈らずにはいられない。

 どうか今日は登校してきますように。




「……昨日、早退して悪かったな。アラタ、夏期講習ってどうなった?」
「あれ?俺も忘れてた。弥生やよいも忘れてんじゃね」

「まあ、そんな程度の進学校だよな。俺らん学校って」

 暑い暑い言いながらも、くだらない話で思わず笑いがこぼれてしまう。アラタと半井なからいゼンジは下駄箱から、教室に向かう階段を二人で昇っている最中だった。

 昨日の土砂降りが嘘のように、今日は朝から真夏の太陽が容赦なく照りつけていた。少し歩くだけで、汗が吹き出してくる。夏らしい活気が校内を包んでいた。

 廊下まで歩いて来た所で、はるかの姿が目に入った。彼女のスラッとした体型と背丈は目立つ。ゼンジはあやの件をすっかり忘れてしまった自分を、情けなく感じていた。

 望月もちづきの兄貴から煽られるだけ煽られて、チョロいくらいに乗っかって。
 
 あんな思いをするくらいなら、佐伯さえきと一緒に蓮波はすなみの家へ行けば良かった。
 
 結局、新橋の消印の話も中途半端なまま。あの家に望月もちづきを留めておくのは、あまりにも酷な話だった。むしろよく今まで保った、とすら思う。行かないでくれと言ってしまった自分の無神経さにも腹が立つ。だから今更、退学を止めようという気にはならない。

 ただ、また会いたい。

 蓮波はすなみだったら何て言うだろうか。
 一緒に望月もちづきを探そうって言ってくれるんじゃないかな。
 
 ……そう言えば蓮波はすなみって、今日は登校してるんだろうか。

 教室に入ると、終業式前の浮かれた雰囲気でクラス中がざわめき立っていた。皆、夏休みに頭がいっぱいでヒソヒソ話に精を出す者もいない。
 
 雑談の中に紛れ込んだゼンジは、昨日の嫌な出来事を頭から振り払うかのように、珍しくよくしゃべった。

 クラス中が休み前で浮かれていたので、誰もその事には気づかなかった。




「ごめんね、朝早く。店閉めんの、こんな時間になっちゃった」
「あ……大丈夫です」

 望月もちづきリクは、ソファーから身体を起こすとスマホを見て時間を確認した。8時45分。普段なら学校へ行ってる時間だ。

 今のリクは未成年なので、ゲイバーの方へ出るのはオーナーから禁止されている。その代わり、昨日は遅い時間まで雑貨店の棚卸しを手伝っていた。帰ってきて眠りについたのは、3時をとうに回った頃だった。

 キッチンのお湯で身体を拭いていたリクは、店長と雑談していた。客層的に平均年齢が高く、サラリーマンの多い店。なので、店長も落ち着いた雰囲気の中年男性だった。常連さんが殆どで、店構えもパッと見ゲイバーとは分からない。頻度は多くないが、たまに普通のお客さんも入ってくるとの事だった。

「こんな時間まで店開けてたって随分、盛り上がったんですね」
 
「古い友人が来てね、それで。朝飯まで一緒に食べちゃったよ」

「元彼とかです?」

「いやーん、そういうんじゃないよー」

 店長が照れ笑いをしながら、TVをつける。シャイな所がある店長は、照れると誤魔化すためにTVをつける癖があった。やっぱり元彼か……と思いながら笑顔を浮かべたリクは、新しいTシャツに首を通した。

 ここ最近、セックス以外で身体を動かしているからか、不思議と頭痛がない。最も、セックスする気自体がなかった。してしまえば最後、どうしたって半井なからいが頭から離れなくなる。

 ふと蓮波はすなみの姿が頭を過って、引き裂くような胸の痛みを感じた。
 俺はアイツを置き去りにしてきてしまって、本当に良かったんだろうか。


「――……者は蓮波はすなみ……」


 店長が食い入るように、TVのワイドショーを見ている。
 ……蓮波はすなみって、聞こえたような気がしたけれど。



「先程、入りましたニュースです。東京都……署は、娘のあやさん、16歳を殺害したとして、母親で東京都……市のアルバイト従業員、蓮波はすなみ由紀恵ゆきえ容疑者(42)を殺人容疑で逮捕しました。供述によりますと、容疑を認めているという事です。詳しい動機などにつきましては……」


蓮波はすなみ?」

 リクの口から、無意識に声がれていた。店長の声が酷く遠くに聞こえる。

「酷いねえ。自分の娘を殺すなんて……」

「……蓮波はすなみ……嘘だ……」

 目の奥を、アイスピックで刺されたような激痛が走る。リクは両目を押さえて甲高い悲鳴を上げると、そのまま気を失った。

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