窓際を眺める君に差しのべる手は

加賀宮カヲ

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第三章:明日を落としても

第十二話:それぞれの明日

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 望月もちづきリクが、学校に来なくなって数日が経った。

 蓮波はすなみあやは席で一人、気怠げにスマホを立てては倒すを繰り返していた。

 半井なからい君は、あれから望月もちづき君と話が出来たんだろうか。

 あやの元へもあの日、飯山いいやまハルキから連絡が来ていた。リクがこの学校から去る前日。少し前の彼女なら何も自分で決められず、混乱の果てに硬直してしまうのが関の山だったろう。

 どうするのが正解だったのかは、分からない。けれども、あや飯山いいやまにハッキリと伝えてしまっていた。

望月もちづき君を止めるのは……半井なからい君だと思います」

 スマホの画面に映る自分の顔を見たあやは、ため息をついてそのまま机に突っ伏した。
 
 本当は、私だけじゃないって言いたかった。先生だけも、違うって。半井なからい君が全部やらなきゃいけない、みたいな言い方は間違ってる。皆の力が必要って言いたかった……

 梅雨が空け、太陽が容赦なく校庭のアスファルトを照らしている。今までどこで眠っていたのか。生まれ落ちたばかりの蝉の鳴く声が、校舎のそこかしこに響いていた。

 クラスメイトのヒソヒソ話が、聞こえてくる。

「隣のクラスの望月もちづき。学校来てないみたいよ」
半井なからい君と揉めたって聞いたけど。あの二人、ゲイってマジ?」
「カルト教団事件絡みなんじゃね」
「いくらなんでも、話飛びすぎだろ。なんだそれ」
「それがそうでもなくてさあ……」

 机に突っ伏して堂々巡りを繰り返すあやを、フワッとした良い匂いが包んだ。大好きな花の香り。顔を上げると、佐伯さえきはるかが少し照れた様子で立っていた。
 
 はるかとは、リクが保健室前で暴言を吐いてから話をしていなかった。

「お昼、一緒に食べない?」
 
「あ……うん」

「お弁当……あやちゃんの分も作って来ちゃって。迷惑じゃなければ、なんだけど。その……」

「――……ありがとう」

 あやは吹っ切ったように立ち上がると、はるかに笑顔を向けた。ノイズ音のような噂話の真ん中を通り抜けてゆくと、二人で教室を後にした。




 あやにとってお気に入りの場所だった、屋上の変電室。そこにはるかと二人でいるのは、なんだかくすぐったくなるような心地よさがあった。年中日陰になっているので、真夏でもひんやりとしていて過ごしやすい。
 
 はるかが照れながら見せてくれたお弁当の中身は、オムライスだった。

「食べられなかったら、残して。勝手に作ってきちゃったの、私だし」

 あやは優しくかぶりを振ると、弁当箱を受け取った。

 母親と家庭内で疎遠になってしまってからの食事は、福祉の宅配食で済ませていた。材料を買ってきては腐らせてしまう母親。忘れた頃にこっそり食材を処分するのは、もはやあやの日常となっていた。

 元から食にそれほど興味がなかったのもあって、そんな生活でも特に困ったと感じたことはなかった。しかしこうやって自分のために作ってくれたと言うのは、やはり嬉しい。

 食べる前に言わなきゃいけない事がある。
 そう感じたあやはるかの目を見つめると、頭を下げた。

「この間の、望月もちづき君の言葉……酷くて、ごめんなさい」
 
「……謝るのは、あやちゃんじゃないよ」

「……でも……」

「私、知ってたの」

 生暖かい風がビュッと吹いて、二人のスカートがパタパタとはためいた。遠くから、蝉の鳴く声と生徒の笑い声が聞こえてくる。うつむいたはるかが、スカートを押さえながら話を続けた。

あやちゃんと望月もちづき君って、同じ中学だよね。親戚のおばさんちが近くにあって、それで……あの。この間、おばさんちに行ってきて。大体の事は聞いてきた」

「あ、そうだったんだ」

「ごめんね、勝手に嗅ぎ回るような事しちゃって」
 
 望月もちづき君に言われた時は、恥ずかしさとみじめさで打ちのめされそうになったのに。どうしてだろう私、平気だ。

 はるかに言われてすんなり受け入れてしまっている自分に、あやは若干困惑していた。
 
 メディアは教団の異常性ばかりを取り上げていたので、事の発端であるあやの件を忘れ去っている人が殆どだった。人は、よりセンセーショナルな話題に食いつきたがる。それでも、にされてきた事を隠し通すのは難しいと覚悟していたはずだった。

 そっか
 望月もちづき君がはるかちゃんに言った。その事に、私は傷ついていたんだ。

「……お弁当、食べよ」

 あやはるかに微笑みかけると、オムライスに口をつけた。バターの風味がほんのりと甘く、美味しい。半分ほど食べ終わった所で、オレンジジュースに口をつけたあやは口を開いた。

「私……もうずっとお母さんと話、してなくて。本当は、離れた方がいいって。福祉の人も言ってるんだけど」
 
「うん」

「お母さん。こうな事になっちゃったのは、私のせいだって思ってる。私さえ、我慢していれば事件にならなかった。お母さんも、本当の事を知らないでいられたから」

 はるかの表情が、悲しげに曇った。すぐに否定が出来ず、押し黙る以外の方法を見つけられない。それははるかとその姉にも、少なからず似たような愛憎があったからだ。生まれつきスラッとした体型のはるかの存在が、姉の拒食症に拍車をかけてしまったのは事実だった。
 
 どうにも出来ない無力感を埋めたくて、あやへ気をかけるようになった。

蓮波はすなみはさ、優しくされるとすぐに勘違いしちゃうんだ。だから、女の事だって平気で好きになるよ。知らなかった?節操ないんだ。おばさんの再婚相手とだって、やりまくってたんだから」

 リクの言葉が脳裏を過って、何度目かも分からない傷をはるかに刻んでゆく。

 あの日、私が泣いたのは。まるで自分の事を言われているようで、消えてしまいたくなったから。無力感を埋めるために節操なく誰かを求めた。それがあやちゃんだってこと、望月もちづき君は最初から知っているような口ぶりだった。

 はるかは、友情とは違う何かをあやに対して抱いていた。
 姉との関係のやり直し。それが一番、近いのかもしれない。

はるかちゃんみたいなお姉ちゃん、いたら嬉しかったけど」

 小さな口をモグモグさせながら話すあやの声で我に返ったはるかは、スプーンを弁当箱へ置いた。遠くでらめく陽炎かげろうを見つめながら、その心地よい声に耳を傾ける。不思議と、見透みすかされたような恥ずかしさは感じなかった。

「けど、私にいるのはお母さん一人だから。お母さんと話しないと」
 
「――……声、届くといいね」

「うん。じゃないと、望月もちづき君の居場所になれないから」

 はるかにはずっと気になっていることがあった。リクとあやの関係だ。二人が同じ中学だった事は先日知った。しかし、リクが独占欲をしにしてくるほどの関係だったという話は、一切聞こえてこなかった。

 はるかはリクの事を殆ど知らない。何故かは知らないが、女子人気の高いゼンジと揉めた。同じ日にあやとも何かあった。三人の中で何かがあった。それを示すのは手首の包帯くらいしかなかった。

 はるかはリクに対して感じている嫉妬めいた感情を、上手く自覚が出来なかった。それは、ゼンジが登場人物の一人として突然登場してしまったせいもある。三角関係と呼んで良いのかも分からない関係性に加えて、自身の嫉妬。

 17歳の少女には、そこまで複雑な関係性を噛み砕いて落とし込むだけの人生経験がない。ただなんかモヤっとする、という思いだけであやに質問してしまった。

「一つ聞いていい?望月もちづき君とは、どういう関係なの?」

 オムライスを飲み込んだあやは子供のように足を投げ出して、しばし空を見つめていた。しばらく言葉を選んでいたが、見つかったのかあやは笑顔ではるかに耳打ちした。

「そっか。そうなんだ」

 二人は目を合わすと、どちらともなくクスッと笑った。そうしてチャイムが鳴るまで、とりとめのない話をしながら、二人でずっと笑い合っていた。

 空には真っ白で大きな入道雲が浮かんでいる。はるかは、夏休みもこうして二人で過ごせたら良いなとおぼろげに考えていた。

 このままずっと二人で。
 
 リクに再び現れないで欲しいという自分勝手な欲望は、都合よく無意識下へと追いやってしまっていた。




 ◆




「やらないんなら、帰っていい?」
 
「ダメ。幾ら払ったと思ってんの」

 耳をボディピアスだらけにした望月もちづきリク。そしてその耳をクィッと引っ張る、瀬能せのうゴウの姿があった。

「イテッ!痛いって!!」
 
「こんな程度で痛いとか言って。よくあんだけ痛くしてくださいって、おねだり出来たもんだわね」

 場所は、新橋にあるゲイバーの二階。埃臭い、従業員の控室。いきなりこんな場所に連れて来られたリクは、あからさまに不機嫌になっていた。

 結局行くあてのなかったリクは、新宿に戻るしかなかった。長野ながのセツナに連れられるまま、地下賭博とばくの奥にあるハプバーで商品になった。それを何の因果かお買い上げをしたのがゴウだったのだ。



 ----- 二時間前 -----



 地下賭博とばくの一番奥にある重たい扉を開けると、すぐに耳をつんざくようなEDMが流れてくる。ブラックライト越しで顔のよく見えない従業員が、会員証をチェックしていた。
 
 従業員は陰気臭い声で、この場所での売春・薬物行為は禁止だとおざなりに説明した。ドリンクチケットを一枚、投げるようにしてよこす。

「いつになったら、客とそうじゃないやつの区別がつくようになるんだよ!」
 
 従業員に向かってと怒鳴るセツナを尻目に、リクはどんどん店の奥へと進んでいった。

 目の奥に鋭い痛みが走って、こめかみを押さえる。

 店内には、SMに使う道具が壁に飾ってあって、ショーブースの横には分娩台と医療機器が置いてあった。ペンチのような……人体の穴を広げる器具を持ったリクは、無表情のままグニグニと動かしていた。全身ピアスと入れ墨だらけのスキンヘッド男が語りかけてくる。

「今日から働くって、君?」

 リクは器具をグニグニとさせながら、うなずいてみせた。男はリクのあごをつまむと、顔を品定めしたりTシャツの上から身体を触ったり、めくって肌を見たりしていた。ショーの担当者だろうか。どういう状態で売りに出されるのか、全く分からない。リクは無表情のまま、男をじっと見ていた。

「ふーん」

 男が心底物珍しいものを見た、という顔をしてセツナを呼ぶ。従業員を怒鳴っていたセツナは声に気がつくと、すぐに男の元へ小走りでやってきた。

「ピアスも何にもないんだね。君、本当に高校生?流石に、中学生はウチじゃ無理だよ」

 ピアスは……と言いかけたリクは、飯山いいやまハルキとの舌ピアスをめぐる言い争いを思い出して、そのまま黙ってしまった。あんな約束、どうして真面目に守っていたんだろう。

 

 再び声が聞こえてきて、頭がズキズキと脈打ち始める。リクは痛みを我慢しているのを悟られないよう、そこら辺にあるビールへ口を付けた。
 
 さっきから、ずっとこんな調子だ。
 その前から予兆はあったけれど。半井なからいゼンジとのセックスが、全てのきっかけになってしまった。
 
 最悪のきっかけだ。

 早く全ては過去のことでした、で済ませてしまいたい。腐って野垂れ死にしたい。リクは男を見やると事務口調で答えた。

「ピアス、今日してください」
 
「あそ。じゃあ、ショーはそれにしよっか。この子は当面、クスリはダメね。客も変なのつけないで」

「え、なんで?」

 リクの問いかけに、スキンヘッドの男は呆れた顔を隠そうともせずに言った。

「いくら後ろにヤクザがいるからってね。滅茶苦茶やったら、ガサが入るに決まってるでしょーが。一番早い、23時のショーに出てもらうから」

 時計は既に22時を大幅に回っていた。店内に人はまばらで、こんなんで本当に好きなだけ殴ってくれる客など付くんだろうか。様子のおかしさに疑問を感じたリクは、セツナをにらみつけた。

「話が違うよ。ナニコレ」
 
「まあ……初日だし、仕方ないだろ。平日だとこんなもんだよ。今日の所は慣らしって事でさ。控室行こうぜ」

 普段からそう丸め込んでいるであろう口調で、馴れ馴れしく肩を抱いてくるセツナが気に入らなかったリクは、思いっきり手を振り払うとそのまま控室へと歩いていった。
 
 控室には商品が他に数名、既に待機していた。
 
 スーツを着ている者、ラバースーツを着ている者、ガチムチ体型でスクール水着を着ている者。どいつもこいつも、目がイッてる。そんな連中にジロジロと見られ、居心地の悪さを感じたリクは控室の隅っこに座った。

 直ぐに呼ばれて出ていったセツナの代わりに、先程のスキンヘッド男が入ってくる。

「ショーは俺がやるから。君、名前どうする?」
 
「――……で」

「カイ、ね。いいよ。じゃあ、これに着替えてくれる?」

 せわしなく言いながら、首輪と詰めえりの学生服を投げると出ていってしまった。
 
 散々、中学生は無理って言っておいて。ショタ狙いの学生服かよ、なんじゃそりゃ。
 
 ブツクサ言いながら着替えを済ませたリクは、簡易ロッカーに自分の荷物を放り込むとビールのプルタブを引いた。ふざけんなよ。頭痛が酷いから今日にでもクスリをやりたかったのに。タバコを吸おうとして火を探している所で、スクール水着を着たガチムチが話しかけてきた。嫌でも勃ってる乳首に目が行く。

「君、かわいいねー。何歳?」
 
「もうじき、17だけど」

「ふうん、じゃあVIPだ」

 ガチムチはジョイントに火をつけるついでに、リクのタバコにも火をつけた。深く吸い込んで吐き出したジョイントの煙が臭い。顔をしかめたリクを無視して、ガチムチは一方的に話を続けた。イってる目はトロンとしていた。

VIPはすぐに上客がついて、ここじゃない所に連れてってもらえるよ。ここは、売れ残りしかいないから」
 
「どういうこと?」

 
「日本じゃない所でお仕事すんの。帰ってきたやつ、見たことないけど」



 セツナ……まさか本気で俺を売り飛ばす気?

 タバコの灰が落ちそうになった所で、スキンヘッドの男が呼びに来た。学生服をきちんと着るバカがどこにいるんだと怒られながら、本当に見捨てられたんだとリクは感じていた。

 

 また声が聞こえる。リクは、顔を歪めてこめかみを押さえた。

 10人程の客の前で、詰めえりの前をはだけさせた首輪少年のショーが始まったのは、23時を少し回ってからだった。女性客が数名、混じっている。「その可能性があったのを忘れてた……」と独りごちたリクは、絶望的な気分でショーに挑んだ。

 おそらく商品が、現役の高校生だからだろう。MCが殆どない。スポットライトがやたらと顔にばかり当たったかと思うと、スキンヘッドの男が慣れた手付きでリクを縛り上げていった。SM専用の縄で、こすれてもさほど痛みは感じない。

 こんなんでどうやって興奮しろって言うんだ……セツナに嫌味のこももった視線を投げかけようにも、スポットライトがまぶしすぎて何も分からない。

 スキンヘッドの男が近寄ってきて客に何かを見せたかと思うと、直ぐ耳に鋭い痛みが走った。予期せぬ痛みにリクは思わず「ヒッ!」と叫んでしまった。

 途端に股間が熱くなってくる。勃起しているのが分かるように、そこだけ強調して縛ってあった。勃てば勃つほど、縛りがきつくなる。リクは身をよじって、湧き上がる快楽にすがりついた。すぐに、2回目の痛みが耳を貫通してゆく。まばらな観客もにわかに興奮し始めたようだった。

 一瞬だけスポットライトが顔から外れて、観客が見えた。女性客は、三人つるんで激しいキスの真っ最中だった。そっちだったのか……とリクは安堵を覚えずにはいられなかった。更に奥では、男が大っぴらに下半身を丸出しにして男性器をしごいているのが見える。
 
 すぐにまた顔にライトを当てられ、3回目、4回目のニードルが耳を貫通していった。リクが血を流して身悶えするのと呼応するようして、音楽が激しくなってくる。観客も盛り上がりを見せ始めていた。

 Tバックとピンヒールのオーバーニーブーツだけしか身に付けていない、女性のポールダンサーが登場してくる。ダンサーが乳首のピアスを揺らしながらショーのクライマックスを盛り上げる為に、隣のブースで妖艶に踊りだしていた。

 30分ほどでリクのデビューは終わった。

「おつかれさん。すぐに着替えてきて。お客さん、もうついてるから」

 心なしかスキンヘッドの男は嬉しそうに言うと、リクを縛ってあった紐を解いて控室に送った。耳がものすごく熱い。鏡を見ると、右に5箇所、左に3箇所ピアスが開いていた。消毒液を投げられて、一ヶ月は外すなと言われる。

 ずっと守ってきた約束を破っても、なんの感慨かんがいもない。
 俺の中にいた先生っていうかせは、もう意味を持たないんだな。

 着替えを済ませて荷物を持ったリクは、そのまま入ってきた方向とは逆の方向に案内された。真っ暗な階段を昇ってびたドアを開けると、ビルの外に出た。何処に出てきたのか分からず、リクはついキョロキョロとしてしまっていた。

「どうも」

 痩せ型の、背の高い女みたいな顔した男が車の前で待っていた。どこか面影が兄貴と重なる男。つまりは、自分と似ている男。コイツが俺を買ったのか。リクは頭痛を通り越して悪夢でも見せられているような気分になっていた。
 
「アンタが俺を買った人?」

 声をかけたリクに男は、しばらく顔をじっと見ていたかと思うと、吸っていた煙草を地面に落として足でもみ消した。

「車に乗って」

 それだけいうと男は運転席に乗り込んでしまった。今更、どこにも行けないリクに選択肢などない。そのまま大人しく車に乗り込んだ。車はどこのホテルに行くこともなく、高速に乗るとそのまま銀座方面へと向かっていった。



 ----- そして、現在に戻る -----



 瀬能せのうゴウは、部屋の冷蔵庫からコーラのペットボトルを取り出すと、望月もちづきリクに向かって投げた。自分はビールを取り出してプルタブを引く。どうしたもんかね……とゴウは考えていた。

 確かに、話で聞いたまんまだわ。一筋縄ではどうにもならないレベルのひねくれっぷり。さとした所で、ああ言えばこういうの平行線にしかならないだろうね。
 
 ゴウは、いっそ正直に話してしまおうと思った。

「君、リク君でしょ。桐生きりゅうリク」

 リクは一瞬動くのを止めたかと思うと、コーラのペットボトルを思い切り壁に向かって投げつけた。ドンッという音を立てて壁にぶつかったペットボトルは、キャップがゆるんでシュワーッと派手な音を立てていた。

「何で旧姓を知ってんだよ……先生に言われて来たのか」
 
「残念でした。僕の独断。ハルキは何も知らないよ」

「お前、先生の何?」

「お前はないでしょ。僕の名前は瀬能せのう瀬能せのうゴウ。ハルキの同居人」

 飯山いいやまハルキの同居人とかいう、余計な誤魔化しは火に油だと思ったが手遅れだった。可哀想なペットボトルが、今度は蹴り上げられている。ぶちけられたコーラで、壁から床までビショ濡れになっていた。

「同居人?恋人って言えよ。で、その恋人が何?わざわざ俺の顔見るためだけに、金払うとは思えないんだけど」
 
「……僕、前にあそこで働いてたんだよね」

「ハァ?だったらなんだよ。説教するために買ったわけ?」

 ゴウはビールを口に含むと、ブーッとリクの顔に吹きかけた。見る見るうちに、リクの顔が真っ赤になる。怒ってんなあ、クソガキ……と思いながらゴウは続けた。

「あそこでVIPって言葉聞かなかった?まあ、聞いてなくてもいいや。何か変だと思わなかった?自分みたいな若い子、もっといると思ってたでしょ」

 途端にリクが押し黙る。都合が悪くなるとプイッと顔をそむけるさまは、まだまだ子供のそれだ。野良猫を拾ってきてしまった気分になりながら、ゴウは更に話を続けた。

「売れる子は……海外行き。帰ってこれないよ。100%死んじゃうから」
 
「それで良かったのに、なんで邪魔したんだよ!」

 ゴウは口にビールを含むともう一度、リクの顔に吹きかけた。

「アンタさ。指一本ずつ切り落とされて、指がなくなったら次は腕とか。そういう死に方したいわけ?信誠会しんせいかいが売ってるのは、。日本じゃやれないから、海外に連れ出してやってんの」

 リクの顔色がサッと変わって、徐々に強張こわばり始める。だから言ったでしょうが、と言いたい気持ちを抑えたゴウは、冷蔵庫からコーラをもう一本取り出してリクに渡した。ついでにキッチンへ寄って、タオルも投げてよこす。床が濡れていて他に座る場所のないリクは、ゴウの隣に嫌そうな顔をして座るとコーラに口をつけた。

 リクが嫌がる様子など気にするまでもない、といった口調でゴウが続ける。

「僕、ロクな育ちしてなくてさ。男に騙されちゃって。君くらいの時に、あの店に売り飛ばされちゃったワケよ。で、助けてくれたのがこの店のオーナー」
 
「でも……俺ほど、酷いわけじゃないだろ」

「育ちの話?さあね。リク君がどんな育ちをしたかは分かんないけど……僕と似たりよったりだったんじゃないの。ロクでもなさがにじみ出てるもん」

 リクは、ソファの上に足を乗せるとギュッと膝を抱えて顔を埋めた。その様が益々拾ってきた野良猫とよく似ていて、ハルキが好きになったのも分かるような気がするわ、とゴウは思っていた。不貞腐れた表情でリクが口を開く。

「……すごく嫌なヤツが家族にいて。酷い目にしか遭わされてないのに、そいつとセックスしたかったって思うのは異常でしょ」

「別に。僕と一緒じゃん」

「――……え?」

「僕をだまして売ったの、実の父親だよ。無理やりヤられちゃってたの。小学生の時からずっとね。よく聞くでしょ、そういう話」

 あっけにとられた表情でゴウを見つめるリク。
 コーラのペットボトルが再び落ちて派手な音を立てながら、床を転げ回っていた。




 ◆




 学校では、既に期末テストも残りわずかとなっていた。

 あれから、ずっと望月もちづきリクは学校に来ていない。最初の何日かは、学年中がその噂で持ち切りだった。けれどその大半の理由が半井なからいゼンジが渦中かちゅうの人だったから、という事実を当の本人は知らない。心ここにあらずで、なんなら噂話そのものにさえ気づいていないようだった。

 ただひたすらに、リクの事ばかりを考える日々。テストの出来も散々だった。

 クラスメイトのヒソヒソ話は、いつからか矛先が変わっていた。

「いや、だからさ。カルト教団事件の最初のやつ」
「えー?最初ってなんだった?」
「話がデカくなりすぎて、忘れちゃったよ」
「教団の幹部が未成年に淫行してたっての。あの被害者A子さんてさ、実は隣のクラスの……」

 トントンと肩を叩かれて我に返る。アラタと弥生やよいが心配そうな顔をして立っていた。

望月もちづきなら大丈夫だよ」
 
 いきなり言い出した弥生やよいの肩をつかんで、アラタが笑った。

「夏期講習、一緒に受けね?弥生やよいも。な?」
 
「ああ……うん」

「え。でも私、一応文系志望だから日程違うくない?」
 
「どうだろ。クラス的には理系コースにいるから、一緒じゃね」

「科目を組み合わせるんだったっけ?……プリント、プリント……」

 椅子に座ってかばんあさり始めた弥生やよいを横目に、アラタが再びゼンジの肩を叩く。

「今、悩んでても仕方ないだろ。連絡つかないんだから」
 
「それはそうなんだけどさ……俺、髪の毛切ろうかな」

「やだ、半井なからい。昭和の女子じゃん」

 かばんに顔を突っ込んだまま言う弥生やよいに、そんなつもりじゃ……と顔を真っ赤にして言いかけたゼンジを担任が呼びに来た。クラスの視線が集中する。無言で立ち上がったゼンジは、ムワッとした夏の空気と生徒の声が飛び交う廊下へと出ていった。



「退学届?望月もちづきが、ですか?」
 
「そうなんだよなあ……郵送で送ってこられちゃって。家の人も本人に任せてます、しか言わないんだよ」

 職員室で担任はうーんと伸びをすると、肩をトントンと叩きながらため息をついた。机の上に置いてある、退学届とおぼしき郵便物の消印にはと記されている。昨日、届いたものらしい。

半井なからい、何か聞いてないか。新橋から送られて来てるんだけど」

 今は新橋にいるって事なんだろうか。
 生きてるんだ、よかった……
 
 ゼンジは担任の言葉もそこそこに、ホッとして力が抜けそうになっていた。

 けれども家出の話を、担任にしていいものか分からない。退学届に関しては、何となく心当たりがないでもないけれど。

 あの家にいた、鬼のような目をした男と虐待というワード。
 
 机を挟んだ1つ向かい側でも、隣のクラスの女子がやはり担任と何か話こんでいた。どこかで見たことがあるような……

 ふと、隣のクラスで思い出した。蓮波はすなみあやなら、何か知っているんじゃないか。

「俺よりも、隣のクラスの蓮波はすなみの方が知ってるかもしれません」

 女子の視線がゼンジの方を向く。

「それがなあ。蓮波はすなみも、一昨日から学校休んでるんだよ」

 蓮波はすなみも来てない?どういう事だ?

 育ちすぎた入道雲が太陽を隠し、遠くで雷鳴らいめいとどろいている。
 今にも一雨来そうな重い気配の中を、蝉の声だけがいつまでも鬱陶しく鳴り響いていた。
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