親指エレジー  

コブシ

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<人間不振> <3>

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「へ~札下げるみたいやな~。花番なれるかもしれんのにな~。」

 笑いながら、隣の女性スタッフに話し掛ける女。

 『札下げる』

 途中で帰る事。

 『花番』

 客につくのは、出勤してきた順。

その順番が一番上の事。

つまり、すぐに客につける。

 普通は、出勤してきた順番なんだけど、指名客についている間は、順番をそのままにできる。

だから、うまくいけば、指名客が終わった時点で、次、すぐに客につける。

(これ、俺の事言うてんの?)

休憩室からボードを見る事ができる。

 明らかに私の事を言っていた。

 「そうそう、あの膝で背中するんあるやん。あれ、女やったら嫌やんな~。」

 頭の後ろで手を組んでもらい、後ろからその手を掴み、膝で背中の胸椎を矯正する技術。

その技術は私しかしない。

ただし、普通のお客様にはしない。

 指名してくれるお客様だけに使っている。

しかし、私もバカじゃないから、お客様との信頼関係を考慮して、使い分けている。

だから、指名1回目でする時もあれば、2、3回目の時もある。

 特に女性の場合は慎重にしている。

 「Tなら喜ぶやろうけどな~。」

 『T』とは、いつも女性二人組で、私とKを指名して来店される夜の世界で働いているお客様。

そのTさんが少し変わっていて、Tさん自体はKを指名して来るんだけど、施術の間、ずっとと言っていいくらい私を見てくる。

 正確に言うと、私の腕なんだけど・・・。

 「見て、姉さん、あの血管!」

 「姉さん!あの筋肉たまらんわ~!」

 「え~私見えないじゃん!」

 姉さんといわれる人が、私を指名してくれる。

このやり取りをちょこちょこされる。

 好みの女性なら、悪い気はしないけど、残念ながら二人とも私の好みではない。

やりにくくて仕方ない。

そんな事もKにとっては、鬱陶しかったのかもしれない。

そのTさんだったら、喜ぶんじゃない?という嫌味を女は言っていた。

 気が付くと、私の手は震えていた。

 私は、ボクサー時代、試合直前になると、必ず手が震えた。

 怖いからなのか、武者震いなのかわからない。

とにかく手が震えた。

 「何やそれ!俺の事言うてんのか!」

 本当は、そう言ってやりたかった。

こんなあからさまに悪口を言われて、喉元まで出かかった。

しかし、私の指名客のお客様が、後10分足らずで来店される。

 私がこの店で施術するであろう最後のお客様。

 感謝の意を込めて施術したい。

だから、直前に気持ちを穏やかにしたかった。

グッとこらえた時に、Nさんが来店された。

「いらっしゃいませ!」

 Nさんが来店された。

 Nさん。

 確か、来店されてから1年半くらいだろうか。

 男性の方で、年齢は私より少し上くらい。

 美容師をされていて、いかにも出来る美容師というオーラを感じる。

 仕事柄、マッサージは結構行くらしく、施術する人間があまりに下手すぎると非常に腹が立つんだそうだ。

やはり、自分もお客様からお金を頂いて、それに見合う仕事をしている。

そういうプライドがあるからこそ、許せないんだと思う。

そんなNさんに指名される事は、非常に光栄だった。

 「Nさん、突然なんですけど、私、今日で店辞める事になったんです・・・。」

 「えっ・・・そうなんですか。」

 Nさんは驚いた顔をされた。

 「それで、ポイントがだいぶ貯まっているんですけど、どうされますか?今日、使われます?」

 店には利用に応じてポイントが貯まるシステムになっていた。

そのポイントに応じて、割引になる。

 Nさんは、頓着がないのか一度もポイントを使った事がなかった。

 「ポイントなんかどうだっていいんです。僕はどうすればいいですか?これから先、コブシさんにやってもらうには、どうすればいいですか?」

 本当に有り難かった・・・。

 Nさんを始め、私を指名してくれるお客様たち。

この人たちがいてくれたから、4年前の「あの出来事」を乗り切る事ができた・・・。

 「Nさんさえ、よろしければ、私の治療院に来ていただいたら大丈夫です。」

 「あ~よかった~。」

そう言って、笑顔になったNさん。

 私は、いつもと同じように、感謝の気持ちを込めて
90分施術した。

 「それでは、また、ご連絡お待ちしております!」

 感謝の意を込めて、深々とお辞儀をしてNさんを見送った。

 現実に引き戻される・・・。

あの、クソみたいな状況・・・。

 一応、最後のケジメとして、皆に挨拶をしなければと思っていた。

「飛ぶ鳥跡を濁さず」

 店から、全ての私物を私の思い出と共に回収した。

そして、最後の挨拶。

ます゛、施術中のK。

あんなに仲良く、朝方まで酒飲みながら喋っていたのに・・・。

 腰痛持ちのKが、仕事中ぎっくり腰になり、身動きすらできない状態。

でも、指名客が入っているから休めない。

 絶体絶命。

 「コブシさん!何とかして!」

 「しゃ~ないなー。そんかわり、高いで~!」

 応急処置をして、動けるようにしてあげたのに・・・。

 勿論、実際にお金なんかはとっていない。

 施術技術なんかも、Kから聞かれたら、喜んで教えてあげたりしたのに・・・。

・・・のに。

・・・のに。

 私の信条。

してあげた事は、水に流せ。

してもらった事は、石に刻め。

・・・のに。

・・・のに。

 分かってるけど、中々これができない。

ダメだな・・・俺も、まだまだ甘ぇ~な・・・。

 「今までいろいろと迷惑かけました。今日で退店します。」

 最後のケジメ。

 Kは、無表情で答えた。

 「お疲れしたー。」

 人間という奴は、ここまで薄情になれるのか・・・。

 「えーーっ!コブシさん、やめないでーーっ!」

 Kの事を弟みたいに思っていた私。

こんな言葉を期待していた・・・。

 人間て奴はわからない・・・。

 46年生きてきて、何度思い知らされたんだろう・・・。

ただ、ただ、悲しかった・・・。

 Kの女にも挨拶に行った。

ホワイトボードの前で、他のスタッフたちといた。

そう、コイツが裏で糸を引いて、スタッフたちを追い込んで辞めさせていた。

 結局、イビリ倒して、あまりに辞めなかったら、「嘆願書」で辞めさす。

 今日、辞めると決めて良かった。

 嘆願書なんか書かれて、辞めさせられるなんて、プライドが許さない。

 自分で腹を切れて良かった。

 「今までいろいろと迷惑かけました。今日で退店します。」

 「え~、コブシさん、今日で辞めるん!」

 笑いながら、回りのスタッフたちの顔を見ていた。

どこまでクソなんだろう、この女は・・・。

 人が手を出さないの分かってて・・・。

 鼻血止まらへんくらい、どついたろか・・・。

 本気で思った。

やらないけど・・・。

 一刻も早く立ち去りたかった。

 「あ、そうそう、受けたご恩は一生忘れませんので!」

 去り際、私のせめてもの女に対する反撃の嫌味を言って、店を出た。

こんな形で辞めるなんて、夢にも思わなかった・・・。

ただ、ただ、悲しかった・・・。
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